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二章 麟美の偽者
9、胡玲の荷物
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「毒かぁ。綺麗に見える花も、その辺の草も、どこにでもあるから厄介なんだよね」
侍女の陳燕が持っていた紙に、秋明菊の草汁が塗られていたことに、翠鈴は思い悩んでいた。
翠鈴は自室の寝台の上で本を開いた。
同室の由由はもう眠っている。邪魔にならぬ程度に蝋燭を灯し、実家から持ってきた本をパラパラとめくる。『植物の種と種子』という題名だ。
種は種類のこと。種子はそのまま「たね」だ。
秋も深まったこの時期は、とくに種子に気をつけなければならない。
「杏や桃、枇杷だって種子には毒が含まれるもの」
薬師として働いているわけではないけれど。桃莉公主に、蝮草の毒が盛られたこともある。
知識は常に仕入れていなければならない。
ここは後宮なのだから。
◇◇◇
十日ほど経った午前のことだった。光柳から呼び出しがあったのは。
翠鈴は「面倒だなぁ」と肩を落としながら、未央宮を出て、書令史の部屋へ向かった。
「翠鈴姐。いいところで会いました」
道で胡玲が声をかけてきた。手には布でできた袋を抱えている。大きいが、中は軽そうだ。
医局勤めの医官である胡玲は、翠鈴と同郷だ。姉の明玉を殺した宦官の仇を討ったことを、胡玲は知っているが。あえて触れずにいてくれる。
「羨ましいです。翠鈴姐」
「なにが?」
医官である胡玲に羨ましがられるようなことが、あっただろうか。
翠鈴は何度か医局を訪れたが。胡玲は医官たちの中でも、医師の信頼が厚いようだ。
対して翠鈴は司燈に過ぎない。身分も給金も下だというのに。
「だって髪がサラサラじゃないですか。私は髪をまとめているから目立たないんですけど。髪が傷んじゃってるんです」
「そこ?」
翠鈴は声が裏返ってしまった。
「そこって。大事なとこですよ」
確かに背後から陽射しに照らされているが。胡玲の髪には艶がない。
「故郷の村とは水質が違うのかもしれないわね。椿の種からとれる油が、髪にはいいわよ」
「椿油は、べたつきませんか」
すでに胡玲は椿油を試したようだ。
「ちょっと見せてね」
翠鈴は胡玲の手を取って、肌の状態を確認した。皿洗いや洗濯をするわけでもないのに、手の甲の皮膚が荒れている。
「べたつくのは、椿油を使いすぎているからね。少し足りないと感じるくらいが適量よ。それと、顔や手にも椿油を塗ってごらんなさい。髪も肌も艶やかになるわ」
「そうなんですか」
胡玲の表情が、ぱあっと明るくなる。
やはり髪だけではなく、肌荒れにも悩んでいたようだ。
「医官たちの間で、そういう話はしないの? 皆、詳しいでしょ?」
「しませんね。椿となると葉と甘草を煎じて、筋違えの薬になりますから」
なるほど。医官たちは真面目らしい。
椿油で保湿となると、薬ではなく美容になるのだろう。
「翠鈴姐とお話しするのは楽しいです。後宮では、美しさを競うのは妃嬪ですし。侍女ならともかく、我々のような女官や宮女は美よりも仕事をしろという感じですから」
「それは光栄だわ」
軽く微笑む翠鈴を、胡玲はじっと見つめてくる。
もの言いたげな瞳だ。
「翠鈴姐は、医局で働かないんですか?」
よく勧誘されるなぁ、と翠鈴は思った。
けれど、胡玲にとっても幼い頃からなじんでいる翠鈴が側にいた方が安心なのだろう。
翠鈴は手を伸ばして、胡玲の頭をそっと撫でた。
自称十五歳だけれど、実際は数えで二十二歳の翠鈴。そして二十歳の胡玲。
大人同士が何やってるの、と思わないでもないけれど。十五歳と言い張っているのに、医官相手に何してるの、と感じないでもないけれど。
やはり翠鈴にとって、胡玲はがんばっている女の子なのだ。子供の頃、故郷でそうであったように。
大人になってから、頭を撫でられることなんてまずない。
胡玲は、へにゃっと力の抜けた笑いを浮かべた。
「やっぱり翠鈴姐には、医局に来てほしいです。でも、しつこくすると嫌われてしまうので」
「これを」と、胡玲は粗く織られた布の袋を翠鈴に手渡した。
見れば、刻んで乾かした葉が詰めてある。
乾いた青い匂いが、ふわっと立ちのぼった。
侍女の陳燕が持っていた紙に、秋明菊の草汁が塗られていたことに、翠鈴は思い悩んでいた。
翠鈴は自室の寝台の上で本を開いた。
同室の由由はもう眠っている。邪魔にならぬ程度に蝋燭を灯し、実家から持ってきた本をパラパラとめくる。『植物の種と種子』という題名だ。
種は種類のこと。種子はそのまま「たね」だ。
秋も深まったこの時期は、とくに種子に気をつけなければならない。
「杏や桃、枇杷だって種子には毒が含まれるもの」
薬師として働いているわけではないけれど。桃莉公主に、蝮草の毒が盛られたこともある。
知識は常に仕入れていなければならない。
ここは後宮なのだから。
◇◇◇
十日ほど経った午前のことだった。光柳から呼び出しがあったのは。
翠鈴は「面倒だなぁ」と肩を落としながら、未央宮を出て、書令史の部屋へ向かった。
「翠鈴姐。いいところで会いました」
道で胡玲が声をかけてきた。手には布でできた袋を抱えている。大きいが、中は軽そうだ。
医局勤めの医官である胡玲は、翠鈴と同郷だ。姉の明玉を殺した宦官の仇を討ったことを、胡玲は知っているが。あえて触れずにいてくれる。
「羨ましいです。翠鈴姐」
「なにが?」
医官である胡玲に羨ましがられるようなことが、あっただろうか。
翠鈴は何度か医局を訪れたが。胡玲は医官たちの中でも、医師の信頼が厚いようだ。
対して翠鈴は司燈に過ぎない。身分も給金も下だというのに。
「だって髪がサラサラじゃないですか。私は髪をまとめているから目立たないんですけど。髪が傷んじゃってるんです」
「そこ?」
翠鈴は声が裏返ってしまった。
「そこって。大事なとこですよ」
確かに背後から陽射しに照らされているが。胡玲の髪には艶がない。
「故郷の村とは水質が違うのかもしれないわね。椿の種からとれる油が、髪にはいいわよ」
「椿油は、べたつきませんか」
すでに胡玲は椿油を試したようだ。
「ちょっと見せてね」
翠鈴は胡玲の手を取って、肌の状態を確認した。皿洗いや洗濯をするわけでもないのに、手の甲の皮膚が荒れている。
「べたつくのは、椿油を使いすぎているからね。少し足りないと感じるくらいが適量よ。それと、顔や手にも椿油を塗ってごらんなさい。髪も肌も艶やかになるわ」
「そうなんですか」
胡玲の表情が、ぱあっと明るくなる。
やはり髪だけではなく、肌荒れにも悩んでいたようだ。
「医官たちの間で、そういう話はしないの? 皆、詳しいでしょ?」
「しませんね。椿となると葉と甘草を煎じて、筋違えの薬になりますから」
なるほど。医官たちは真面目らしい。
椿油で保湿となると、薬ではなく美容になるのだろう。
「翠鈴姐とお話しするのは楽しいです。後宮では、美しさを競うのは妃嬪ですし。侍女ならともかく、我々のような女官や宮女は美よりも仕事をしろという感じですから」
「それは光栄だわ」
軽く微笑む翠鈴を、胡玲はじっと見つめてくる。
もの言いたげな瞳だ。
「翠鈴姐は、医局で働かないんですか?」
よく勧誘されるなぁ、と翠鈴は思った。
けれど、胡玲にとっても幼い頃からなじんでいる翠鈴が側にいた方が安心なのだろう。
翠鈴は手を伸ばして、胡玲の頭をそっと撫でた。
自称十五歳だけれど、実際は数えで二十二歳の翠鈴。そして二十歳の胡玲。
大人同士が何やってるの、と思わないでもないけれど。十五歳と言い張っているのに、医官相手に何してるの、と感じないでもないけれど。
やはり翠鈴にとって、胡玲はがんばっている女の子なのだ。子供の頃、故郷でそうであったように。
大人になってから、頭を撫でられることなんてまずない。
胡玲は、へにゃっと力の抜けた笑いを浮かべた。
「やっぱり翠鈴姐には、医局に来てほしいです。でも、しつこくすると嫌われてしまうので」
「これを」と、胡玲は粗く織られた布の袋を翠鈴に手渡した。
見れば、刻んで乾かした葉が詰めてある。
乾いた青い匂いが、ふわっと立ちのぼった。
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