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二章 麟美の偽者
7、紙の毒
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「毒?」
陳燕は、翠鈴の言葉をすぐには理解できなかったのだろう。瞬きをくり返した。
数瞬後。悲鳴が響きわたった。
何事かと、宮女たちが井戸の辺りに集まってくる。よほどうるさかったのだろう。中には未央宮以外の女官や宮女もいた。
「なんで毒なの? わたくし、殺されるの?」
「そんなわけないでしょ。何か重大な秘密を握っているなら、知らないけど」
貴族出身の妃嬪ならばともかく、商家の生まれである侍女を暗殺する理由は思い当たらない。
翠鈴は、桶に入った水を陳燕の両手にかけた。
陳燕が顔をゆがめているのは、水の冷たさなのか。ようやく指の痛みを自覚したからなのか。
これで水ぶくれが治るわけではないが。それでも皮膚への刺激は止めることができる。
足音が近づいた。
「陳燕。未央宮で何をしているんだ」
「甘露宮で姿が見えないと思ったら。こんなところにいたのですか」
慌てて駆けつけてきたのだろう。現れたのは宦官と馬貴妃に仕える女官だった。宦官はまだ若く。女官は四十代後半に見える。
「蘭淑妃さまのご迷惑になりますよ。あなたの言動ひとつひとつが、馬貴妃さまの評判につながるんですからね」
陳燕は、へたり込んだ状態で肩を落とした。「はい」と答える声は力がない。
「甘露宮の侍女がご迷惑をおかけしました。わたくしは宋雨桐と申します」
雨桐は、翠鈴に深々と頭を下げた。
「さぁ、あなたも謝りなさい」と陳燕に指示を出している。
侍女頭よりも長く勤めているからだろうか。どうやら若い侍女の教育係のようだ。
風邪をひいているのか、それとも喉を痛めているのか。雨桐は小さく咳をした。
「事情を説明してくださいますか?」
自分より身分が下の翠鈴にまで、雨桐は丁寧に接している。
(なるほど。まず自身が礼儀を示して見せるのね。でも、陳燕に伝わるかなぁ)
翠鈴は、ちらっと陳燕に目を向ける。思った通り、陳燕はふてくされた表情を浮かべていた。
「彼女が持っていた紙に毒が染みていたのです。指がかぶれていたので、洗い流しました」
「毒が?」
雨桐の顔が青ざめる。隣に立つ宦官は「まぁそういうこともあるかもしれませんね」と、慣れた風だ。
外の世界より、後宮の中の方が毒が用いられることが多いのだから。いちいち驚いてもいられないのだろう。
「あなたは確か、書令史の松光柳と親しい方でしたね」
雨桐が問うた。
「親しいほどの仲ではありませんが」
「そうなのか?」
丁宇軒と名乗った宦官は、翠鈴の顔を覗きこんだ。
着ているものが宦官の服でなければ、女性と言っても通じそうに見える。
光柳も細身だが、均整のとれた体つきをしている。宇軒は光柳とは違い、なよやかな雰囲気だ。
「素手で紙に触れるのは、よした方がいいですね。箸で挟んで持って帰りますか?」
「いや。毒は恐ろしい」
麟美の詩は、地面に落ちたままだ。
(手をつなぎたい、隣にいたい、けれどただ貴方の後ろを歩くだけ 我が見し光景は常に貴方の背中 どうか振り向いて、どうか微笑んで)
翠鈴は紙にしたためられた詩を黙読した。
(本当の麟美さまにしても、光柳さまにしても、こんな重い感情は詠まないよね)
麟美が好むのは、切なさや儚さだ。なのに、この偽物の詩は感情をぶつけているだけ。
やはり麟美という銘が独り歩きしているだけで、実際の詩とかけ離れていても、気づかないのだろう。
結局、陳燕はふたりに連れられて帰った。
騒ぎの件を耳にしたのだろう。その夜、光柳と雲嵐が未央宮にやって来た。
けっきょく陳燕は、偽の詩を持って帰らなかった。
翠鈴が箸で持ちあげて、麻の紙を机に置く。
「出来は悪いな」
光柳が眉をひそめる。
「そうですね」
「詩の内容もだが。筆跡も麟美に似ても似つかない」
こくりと翠鈴はうなずいた。
よくまぁ、これを本物と信じて金子をつぎ込むものだ。
「光柳さまは、詩には総合的な美しさを求めておいでですからね」
「それは、まぁ」
なぜか光柳が照れた。うっすらと頬を染めて。
甘美な恋の詩を苦手だと言っていたのに。美に対するこだわりは強いんだな、この人。
「光柳さま。帰りは私の側を離れないでください」
雲嵐が、そっと光柳に耳打ちする。
「どうかしたんですか?」と尋ねる翠鈴に、雲嵐はうなずいた。
「未央宮の近くから、後をつけてきた者がいた。光柳さまが狙われる理由もないが。用心に越したことはないのでな」
なるほど。一人で出歩くことに慣れている翠鈴は、光柳とは比べ物にならないほどに身軽なのだろう。
陳燕は、翠鈴の言葉をすぐには理解できなかったのだろう。瞬きをくり返した。
数瞬後。悲鳴が響きわたった。
何事かと、宮女たちが井戸の辺りに集まってくる。よほどうるさかったのだろう。中には未央宮以外の女官や宮女もいた。
「なんで毒なの? わたくし、殺されるの?」
「そんなわけないでしょ。何か重大な秘密を握っているなら、知らないけど」
貴族出身の妃嬪ならばともかく、商家の生まれである侍女を暗殺する理由は思い当たらない。
翠鈴は、桶に入った水を陳燕の両手にかけた。
陳燕が顔をゆがめているのは、水の冷たさなのか。ようやく指の痛みを自覚したからなのか。
これで水ぶくれが治るわけではないが。それでも皮膚への刺激は止めることができる。
足音が近づいた。
「陳燕。未央宮で何をしているんだ」
「甘露宮で姿が見えないと思ったら。こんなところにいたのですか」
慌てて駆けつけてきたのだろう。現れたのは宦官と馬貴妃に仕える女官だった。宦官はまだ若く。女官は四十代後半に見える。
「蘭淑妃さまのご迷惑になりますよ。あなたの言動ひとつひとつが、馬貴妃さまの評判につながるんですからね」
陳燕は、へたり込んだ状態で肩を落とした。「はい」と答える声は力がない。
「甘露宮の侍女がご迷惑をおかけしました。わたくしは宋雨桐と申します」
雨桐は、翠鈴に深々と頭を下げた。
「さぁ、あなたも謝りなさい」と陳燕に指示を出している。
侍女頭よりも長く勤めているからだろうか。どうやら若い侍女の教育係のようだ。
風邪をひいているのか、それとも喉を痛めているのか。雨桐は小さく咳をした。
「事情を説明してくださいますか?」
自分より身分が下の翠鈴にまで、雨桐は丁寧に接している。
(なるほど。まず自身が礼儀を示して見せるのね。でも、陳燕に伝わるかなぁ)
翠鈴は、ちらっと陳燕に目を向ける。思った通り、陳燕はふてくされた表情を浮かべていた。
「彼女が持っていた紙に毒が染みていたのです。指がかぶれていたので、洗い流しました」
「毒が?」
雨桐の顔が青ざめる。隣に立つ宦官は「まぁそういうこともあるかもしれませんね」と、慣れた風だ。
外の世界より、後宮の中の方が毒が用いられることが多いのだから。いちいち驚いてもいられないのだろう。
「あなたは確か、書令史の松光柳と親しい方でしたね」
雨桐が問うた。
「親しいほどの仲ではありませんが」
「そうなのか?」
丁宇軒と名乗った宦官は、翠鈴の顔を覗きこんだ。
着ているものが宦官の服でなければ、女性と言っても通じそうに見える。
光柳も細身だが、均整のとれた体つきをしている。宇軒は光柳とは違い、なよやかな雰囲気だ。
「素手で紙に触れるのは、よした方がいいですね。箸で挟んで持って帰りますか?」
「いや。毒は恐ろしい」
麟美の詩は、地面に落ちたままだ。
(手をつなぎたい、隣にいたい、けれどただ貴方の後ろを歩くだけ 我が見し光景は常に貴方の背中 どうか振り向いて、どうか微笑んで)
翠鈴は紙にしたためられた詩を黙読した。
(本当の麟美さまにしても、光柳さまにしても、こんな重い感情は詠まないよね)
麟美が好むのは、切なさや儚さだ。なのに、この偽物の詩は感情をぶつけているだけ。
やはり麟美という銘が独り歩きしているだけで、実際の詩とかけ離れていても、気づかないのだろう。
結局、陳燕はふたりに連れられて帰った。
騒ぎの件を耳にしたのだろう。その夜、光柳と雲嵐が未央宮にやって来た。
けっきょく陳燕は、偽の詩を持って帰らなかった。
翠鈴が箸で持ちあげて、麻の紙を机に置く。
「出来は悪いな」
光柳が眉をひそめる。
「そうですね」
「詩の内容もだが。筆跡も麟美に似ても似つかない」
こくりと翠鈴はうなずいた。
よくまぁ、これを本物と信じて金子をつぎ込むものだ。
「光柳さまは、詩には総合的な美しさを求めておいでですからね」
「それは、まぁ」
なぜか光柳が照れた。うっすらと頬を染めて。
甘美な恋の詩を苦手だと言っていたのに。美に対するこだわりは強いんだな、この人。
「光柳さま。帰りは私の側を離れないでください」
雲嵐が、そっと光柳に耳打ちする。
「どうかしたんですか?」と尋ねる翠鈴に、雲嵐はうなずいた。
「未央宮の近くから、後をつけてきた者がいた。光柳さまが狙われる理由もないが。用心に越したことはないのでな」
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