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一章 姉の仇
22、売ってはいけないと言われてしまった
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「なんだろう。おみやげをもらってしまった」
未央宮に戻った翠鈴は、光柳から手渡された紙を開いた。
淡い黄緑色の、美しい竹紙だ。葉が生えようとする、若竹から作られる。
乾いたばかりの墨の文字が、午後の光に黒々と見える。
五文字が八句。五言律詩だ。
光柳は、この詩を翠鈴に渡すときに「売るなよ」と念を押していたけれど。
「ちょ、ちょっと待って。なに、それ、どうしたの?」
「え。どういうこと? 本物よね。筆跡も同じだし、麟美さまのお名前も入っているし」
回廊を歩いていた翠鈴だったが。背後から蘭淑妃の侍女ふたりに覗きこまれていた。
「どうして翠鈴が、麟美さまの詩を持ってるの? 新作が出たの? いつ?」
前のめりに侍女がまくし立てる。
侍女はふたりとも菓子と器を手にしていた。
(質問が多いなぁ)
なるほど。麟美の詩が人気というのは本当だったんだな、と翠鈴は納得したが。侍女たちはそうはいかない。
「淑妃さまですら、麟美さまの詩を入手するのに半年はお待ちになったのよ」
「高値で転売されているけど。とても手が出ないのよ」
(だから、売るなって念を押されたのね)
翠鈴にしてみれば、詩が書いてあるだけの紙だが。他の人からすれば、喉から手が出るほど欲しい物なのだろう。
すごく高く売れそうだけど。人として、それはやめておく。
というかこれは、家宝になるのでは?
「どんな伝手で買ったの?」
「麟美さまって、どんな方だった? 嬪になるのをお断りした上級女官だって聞くけど。繊細でたおやかな美人だった?」
あー。と、翠鈴は目を泳がせた。
「美人、ですよ。繊細でたおやかですね」
「他には? ねぇ、もっと教えて」
侍女のひとりが、ぐいっと身を乗り出す。近いって、と翠鈴は一歩下がった。
「月下美人のような方でした。重なる花弁は鋭くて。ひっそりと夜に咲くのに、白い花弁はあでやかですね」
嘘は言っていない。
麟美本人の顔は知らないが。きっと光柳によく似ているのだろう。
本当の麟美のことは、誰も知らない。
それでも彼女の繊細で美しい感性と情緒は、時を越えて愛されている。
偽の麟美と明かせない光柳もまた、愛されているのだろう。
「私の中に月夜がある。まぶたの裏に群青が透ける。散る、花が散る。水晶の月光をまといながら、花は愛しい人を覆う。この思いもどうか、かの人に降りそそぎますように」
翠鈴が開いた紙を、侍女が覗きこむ。そして詩を読みあげた。
「もう逢えない人を偲んで詠んだ詩ね」
「切ないわね」
さっきまではしゃいでいた侍女たちは、しんみりと話した。
それぞれに大事な人を思いだしたのだろうか。
(光柳さまは、わたしの姉さんに対する気持ちを詠んでくれたんだ)
これまで復讐のためだけに生きてきた。
姉さんも、そのために石真に印を刻んだ。そう信じていた。
(でも、姉さんはわたしに人生をかけて復讐を望むような人じゃない)
もしかして。
翠鈴ははっとして、繊細な文字の並ぶ詩を見つめた。
(わたしが、姉さんを殺された怒りと憎しみを、どこへぶつけたらいいのか分からなかったら。きっと一生平穏など望めないから。だから姉さんは、仇が分かるように印をつけたんだ)
憎悪を抱えて、ひとりで生きているのだと思っていた。
でも、姉さんはわたしの先を見据えていた。
(クズ男に夢中になって、馬鹿みたいな殺され方をしたと信じていたのに)
自分の心は姉に守られていた。そして光柳にも守られている。
胸の奥が、ほわっと温かくなる。
日は陰り、冷たい風が回廊を吹き抜けたというのに。
りり、りりり。瓦屋根の先端に下げられた風鐸が、澄んだ音を立てた。
未央宮に戻った翠鈴は、光柳から手渡された紙を開いた。
淡い黄緑色の、美しい竹紙だ。葉が生えようとする、若竹から作られる。
乾いたばかりの墨の文字が、午後の光に黒々と見える。
五文字が八句。五言律詩だ。
光柳は、この詩を翠鈴に渡すときに「売るなよ」と念を押していたけれど。
「ちょ、ちょっと待って。なに、それ、どうしたの?」
「え。どういうこと? 本物よね。筆跡も同じだし、麟美さまのお名前も入っているし」
回廊を歩いていた翠鈴だったが。背後から蘭淑妃の侍女ふたりに覗きこまれていた。
「どうして翠鈴が、麟美さまの詩を持ってるの? 新作が出たの? いつ?」
前のめりに侍女がまくし立てる。
侍女はふたりとも菓子と器を手にしていた。
(質問が多いなぁ)
なるほど。麟美の詩が人気というのは本当だったんだな、と翠鈴は納得したが。侍女たちはそうはいかない。
「淑妃さまですら、麟美さまの詩を入手するのに半年はお待ちになったのよ」
「高値で転売されているけど。とても手が出ないのよ」
(だから、売るなって念を押されたのね)
翠鈴にしてみれば、詩が書いてあるだけの紙だが。他の人からすれば、喉から手が出るほど欲しい物なのだろう。
すごく高く売れそうだけど。人として、それはやめておく。
というかこれは、家宝になるのでは?
「どんな伝手で買ったの?」
「麟美さまって、どんな方だった? 嬪になるのをお断りした上級女官だって聞くけど。繊細でたおやかな美人だった?」
あー。と、翠鈴は目を泳がせた。
「美人、ですよ。繊細でたおやかですね」
「他には? ねぇ、もっと教えて」
侍女のひとりが、ぐいっと身を乗り出す。近いって、と翠鈴は一歩下がった。
「月下美人のような方でした。重なる花弁は鋭くて。ひっそりと夜に咲くのに、白い花弁はあでやかですね」
嘘は言っていない。
麟美本人の顔は知らないが。きっと光柳によく似ているのだろう。
本当の麟美のことは、誰も知らない。
それでも彼女の繊細で美しい感性と情緒は、時を越えて愛されている。
偽の麟美と明かせない光柳もまた、愛されているのだろう。
「私の中に月夜がある。まぶたの裏に群青が透ける。散る、花が散る。水晶の月光をまといながら、花は愛しい人を覆う。この思いもどうか、かの人に降りそそぎますように」
翠鈴が開いた紙を、侍女が覗きこむ。そして詩を読みあげた。
「もう逢えない人を偲んで詠んだ詩ね」
「切ないわね」
さっきまではしゃいでいた侍女たちは、しんみりと話した。
それぞれに大事な人を思いだしたのだろうか。
(光柳さまは、わたしの姉さんに対する気持ちを詠んでくれたんだ)
これまで復讐のためだけに生きてきた。
姉さんも、そのために石真に印を刻んだ。そう信じていた。
(でも、姉さんはわたしに人生をかけて復讐を望むような人じゃない)
もしかして。
翠鈴ははっとして、繊細な文字の並ぶ詩を見つめた。
(わたしが、姉さんを殺された怒りと憎しみを、どこへぶつけたらいいのか分からなかったら。きっと一生平穏など望めないから。だから姉さんは、仇が分かるように印をつけたんだ)
憎悪を抱えて、ひとりで生きているのだと思っていた。
でも、姉さんはわたしの先を見据えていた。
(クズ男に夢中になって、馬鹿みたいな殺され方をしたと信じていたのに)
自分の心は姉に守られていた。そして光柳にも守られている。
胸の奥が、ほわっと温かくなる。
日は陰り、冷たい風が回廊を吹き抜けたというのに。
りり、りりり。瓦屋根の先端に下げられた風鐸が、澄んだ音を立てた。
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