21 / 173
一章 姉の仇
21、三十年を経た贈り物
しおりを挟む
光柳の母である麟美は、後宮の女官だったという。
詩の才を認められて、先帝の寵愛を受けた。
嬪に召し上げようという話も出たが。麟美は頑なに断ったという。
後ろ盾もない庶民の出である麟美が、嬪になっても幸せになれるはずもないからだ。
だが、先帝も后も麟美の詩を好んだ。妃である四夫人や九嬪でさえも、麟美の詩に夢中になったという。
女官でありつづけた麟美と先帝との間の子供。それが光柳だった。
光柳は幼い時に、毒を盛られたという。
大事には至らなかったが。我が子が狙われることに麟美は胸を痛め、後宮を出ることを決意した。
「皇帝の血を引く皇子は、東宮以外は別の宮に移るか封地へと移る。私も南の離宮で母と共に暮らしていた。後宮にいた頃は女官に遊んでもらったり、絵を描いてもらったりして可愛がられていたから。離宮での母との暮らしはひっそりとして寂しいものだった。私が少年の頃に母が亡くなり、後宮に呼び戻されたのだ」
光柳は天井を見上げて、息をついた。
「妃たちが、麟美の新しい詩が読めぬことで気鬱になったらしい。一人ならばまだしも、妃嬪に侍女に女官、何人もだ。無論、私は断った」
「でも、ここにいらっしゃるということは、陛下のご意向に背くことは、できなかったのですね」
それが皇帝の御子であっても、平民の子であっても。子供がどう生きるかなど、自分では選べない。
「さすがに切除は命じられなかった。異例ではあるが、当然だろう。宮刑と同じ処置をされてまで、後宮に戻るはずがない。陛下はこう提案なさった。『お前には詩作の才がある。母の跡を継げばよい。これからは女流詩人、麟美を学び、麟美として生きよ』と」
母と顔が似ていたことも災いした。母が、ほとんど表には出ない女官であったことも。
光柳が少年である間に、後宮で女性の好む詩を学び。大人になれば外廷で文官として暮らしながら、詩を詠めばいいと。
「だが……それを認めない者がいるものだ。先帝の弟君、いや『君』などつけるのも虫唾が走るが。後宮に戻った、まだ少年だった私は……」
その先の言葉を、光柳は飲み込んだ。瞼を閉じて、息を吸ってから寂しく笑った。
「この後宮から出たくて仕方がない。だが、後宮でしか生きていけない体だ。陛下は激怒なさり、その弟は身分を剥奪されて辺境へ追放されたよ」
結局、光柳は書令史という、目立たぬ職を選んだ。人を意のままに操ろうとする権力に、関わりあいたくはない。
一度断りはしたが。それでも、麟美の新作を心待ちにする人たちを見捨てることもできない。
「きついですね」
重要な話を、宮女である自分が聞いていいのだろうか、と翠鈴は思った。
けれど。きっと光柳は聞いてほしかったのだろう。
本当の自分を隠し、女流詩人のふりもしなければならない。
二重に周囲を欺いて。それでも欺くことで褒めそやされる。
それは、なかなかに大変だ。
「あなたが逃げることを選ばなかったのは、後宮の皆を救いたかったのではないですか? 麟美さまの詩があることで、癒しとなる妃嬪がいらっしゃる。いっとき、つらい日々を忘れることのできる宮女もいる。光柳さまは、言葉はきついことがありますが。きっとお優しいんですよ」
「そう……だろうか」
光柳はぽつりと呟いた。
今にも泣きそうな笑顔を浮かべて。
彼は後宮で生まれ、後宮に戻った。戻らされてしまった。
ここから出ていけぬ人たちのために、彼は詩を詠む。本当の麟美なら、何を詠んだか。どう感じたか。どのような技巧を凝らしたか。
「不思議なものでな。麟美の詩は、長い空白期間があったというのに。三十年前と作風が変わらぬままだ。なのに、誰も気づかない。いや、気づかぬふりをしてくれているのかもしれない」
「変わらぬものが存在するのは、後宮暮らしでの心の拠り所になると思います」
翠鈴は口もとをほころばせた。
「そうか……拠り所か」
瞼を閉じて、光柳は静かに言った。不思議と彼の声が軽やかに聞こえた。
光柳のしなやかな指が、筆をとる。
「そう考えると、責任重大だな」
詩の才を認められて、先帝の寵愛を受けた。
嬪に召し上げようという話も出たが。麟美は頑なに断ったという。
後ろ盾もない庶民の出である麟美が、嬪になっても幸せになれるはずもないからだ。
だが、先帝も后も麟美の詩を好んだ。妃である四夫人や九嬪でさえも、麟美の詩に夢中になったという。
女官でありつづけた麟美と先帝との間の子供。それが光柳だった。
光柳は幼い時に、毒を盛られたという。
大事には至らなかったが。我が子が狙われることに麟美は胸を痛め、後宮を出ることを決意した。
「皇帝の血を引く皇子は、東宮以外は別の宮に移るか封地へと移る。私も南の離宮で母と共に暮らしていた。後宮にいた頃は女官に遊んでもらったり、絵を描いてもらったりして可愛がられていたから。離宮での母との暮らしはひっそりとして寂しいものだった。私が少年の頃に母が亡くなり、後宮に呼び戻されたのだ」
光柳は天井を見上げて、息をついた。
「妃たちが、麟美の新しい詩が読めぬことで気鬱になったらしい。一人ならばまだしも、妃嬪に侍女に女官、何人もだ。無論、私は断った」
「でも、ここにいらっしゃるということは、陛下のご意向に背くことは、できなかったのですね」
それが皇帝の御子であっても、平民の子であっても。子供がどう生きるかなど、自分では選べない。
「さすがに切除は命じられなかった。異例ではあるが、当然だろう。宮刑と同じ処置をされてまで、後宮に戻るはずがない。陛下はこう提案なさった。『お前には詩作の才がある。母の跡を継げばよい。これからは女流詩人、麟美を学び、麟美として生きよ』と」
母と顔が似ていたことも災いした。母が、ほとんど表には出ない女官であったことも。
光柳が少年である間に、後宮で女性の好む詩を学び。大人になれば外廷で文官として暮らしながら、詩を詠めばいいと。
「だが……それを認めない者がいるものだ。先帝の弟君、いや『君』などつけるのも虫唾が走るが。後宮に戻った、まだ少年だった私は……」
その先の言葉を、光柳は飲み込んだ。瞼を閉じて、息を吸ってから寂しく笑った。
「この後宮から出たくて仕方がない。だが、後宮でしか生きていけない体だ。陛下は激怒なさり、その弟は身分を剥奪されて辺境へ追放されたよ」
結局、光柳は書令史という、目立たぬ職を選んだ。人を意のままに操ろうとする権力に、関わりあいたくはない。
一度断りはしたが。それでも、麟美の新作を心待ちにする人たちを見捨てることもできない。
「きついですね」
重要な話を、宮女である自分が聞いていいのだろうか、と翠鈴は思った。
けれど。きっと光柳は聞いてほしかったのだろう。
本当の自分を隠し、女流詩人のふりもしなければならない。
二重に周囲を欺いて。それでも欺くことで褒めそやされる。
それは、なかなかに大変だ。
「あなたが逃げることを選ばなかったのは、後宮の皆を救いたかったのではないですか? 麟美さまの詩があることで、癒しとなる妃嬪がいらっしゃる。いっとき、つらい日々を忘れることのできる宮女もいる。光柳さまは、言葉はきついことがありますが。きっとお優しいんですよ」
「そう……だろうか」
光柳はぽつりと呟いた。
今にも泣きそうな笑顔を浮かべて。
彼は後宮で生まれ、後宮に戻った。戻らされてしまった。
ここから出ていけぬ人たちのために、彼は詩を詠む。本当の麟美なら、何を詠んだか。どう感じたか。どのような技巧を凝らしたか。
「不思議なものでな。麟美の詩は、長い空白期間があったというのに。三十年前と作風が変わらぬままだ。なのに、誰も気づかない。いや、気づかぬふりをしてくれているのかもしれない」
「変わらぬものが存在するのは、後宮暮らしでの心の拠り所になると思います」
翠鈴は口もとをほころばせた。
「そうか……拠り所か」
瞼を閉じて、光柳は静かに言った。不思議と彼の声が軽やかに聞こえた。
光柳のしなやかな指が、筆をとる。
「そう考えると、責任重大だな」
53
お気に入りに追加
704
あなたにおすすめの小説
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
お腹の子と一緒に逃げたところ、結局お腹の子の父親に捕まりました。
下菊みこと
恋愛
逃げたけど逃げ切れなかったお話。
またはチャラ男だと思ってたらヤンデレだったお話。
あるいは今度こそ幸せ家族になるお話。
ご都合主義の多分ハッピーエンド?
小説家になろう様でも投稿しています。
あなたの子ですが、内緒で育てます
椿蛍
恋愛
「本当にあなたの子ですか?」
突然現れた浮気相手、私の夫である国王陛下の子を身籠っているという。
夫、王妃の座、全て奪われ冷遇される日々――王宮から、追われた私のお腹には陛下の子が宿っていた。
私は強くなることを決意する。
「この子は私が育てます!」
お腹にいる子供は王の子。
王の子だけが不思議な力を持つ。
私は育った子供を連れて王宮へ戻る。
――そして、私を追い出したことを後悔してください。
※夫の後悔、浮気相手と虐げられからのざまあ
※他サイト様でも掲載しております。
※hotランキング1位&エールありがとうございます!
転生先が意地悪な王妃でした。うちの子が可愛いので今日から優しいママになります! ~陛下、もしかして一緒に遊びたいのですか?
朱音ゆうひ
恋愛
転生したら、我が子に冷たくする酷い王妃になってしまった!
「お母様、謝るわ。お母様、今日から変わる。あなたを一生懸命愛して、優しくして、幸せにするからね……っ」
王子を抱きしめて誓った私は、その日から愛情をたっぷりと注ぐ。
不仲だった夫(国王)は、そんな私と息子にそわそわと近づいてくる。
もしかして一緒に遊びたいのですか、あなた?
他サイトにも掲載しています( https://ncode.syosetu.com/n5296ig/)
婚約者に消えろと言われたので湖に飛び込んだら、気づけば三年が経っていました。
束原ミヤコ
恋愛
公爵令嬢シャロンは、王太子オリバーの婚約者に選ばれてから、厳しい王妃教育に耐えていた。
だが、十六歳になり貴族学園に入学すると、オリバーはすでに子爵令嬢エミリアと浮気をしていた。
そしてある冬のこと。オリバーに「私の為に消えろ」というような意味のことを告げられる。
全てを諦めたシャロンは、精霊の湖と呼ばれている学園の裏庭にある湖に飛び込んだ。
気づくと、見知らぬ場所に寝かされていた。
そこにはかつて、病弱で体の小さかった辺境伯家の息子アダムがいた。
すっかり立派になったアダムは「あれから三年、君は目覚めなかった」と言った――。
離婚する両親のどちらと暮らすか……娘が選んだのは夫の方だった。
しゃーりん
恋愛
夫の愛人に子供ができた。夫は私と離婚して愛人と再婚したいという。
私たち夫婦には娘が1人。
愛人との再婚に娘は邪魔になるかもしれないと思い、自分と一緒に連れ出すつもりだった。
だけど娘が選んだのは夫の方だった。
失意のまま実家に戻り、再婚した私が数年後に耳にしたのは、娘が冷遇されているのではないかという話。
事実ならば娘を引き取りたいと思い、元夫の家を訪れた。
再び娘が選ぶのは父か母か?というお話です。
【完結】もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
王女の中身は元自衛官だったので、継母に追放されたけど思い通りになりません
きぬがやあきら
恋愛
「妻はお妃様一人とお約束されたそうですが、今でもまだ同じことが言えますか?」
「正直なところ、不安を感じている」
久方ぶりに招かれた故郷、セレンティア城の月光満ちる庭園で、アシュレイは信じ難い光景を目撃するーー
激闘の末、王座に就いたアルダシールと結ばれた、元セレンティア王国の王女アシュレイ。
アラウァリア国では、新政権を勝ち取ったアシュレイを国母と崇めてくれる国民も多い。だが、結婚から2年、未だ後継ぎに恵まれないアルダシールに側室を推す声も上がり始める。そんな頃、弟シュナイゼルから結婚式の招待が舞い込んだ。
第2幕、連載開始しました!
お気に入り登録してくださった皆様、ありがとうございます! 心より御礼申し上げます。
以下、1章のあらすじです。
アシュレイは前世の記憶を持つ、セレンティア王国の皇女だった。後ろ盾もなく、継母である王妃に体よく追い出されてしまう。
表向きは外交の駒として、アラウァリア王国へ嫁ぐ形だが、国王は御年50歳で既に18人もの妃を持っている。
常に不遇の扱いを受けて、我慢の限界だったアシュレイは、大胆な計画を企てた。
それは輿入れの道中を、自ら雇った盗賊に襲撃させるもの。
サバイバルの知識もあるし、宝飾品を処分して生き抜けば、残りの人生を自由に謳歌できると踏んでいた。
しかし、輿入れ当日アシュレイを攫い出したのは、アラウァリアの第一王子・アルダシール。
盗賊団と共謀し、晴れて自由の身を望んでいたのに、アルダシールはアシュレイを手放してはくれず……。
アシュレイは自由と幸福を手に入れられるのか?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる