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一章 姉の仇

20、美貌の詩人

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「お疲れさま、だな」

 光柳の柔らかな声に、気が抜けたのだろうか。翠鈴はふらついて壁に背をもたれかけさせた。
 そのまま、へなへなと床に座りこんでしまう。

 石真はすでに連行されて、書令史の部屋にはいない。暗殺や毒を盛られることなど、後宮では珍しくないのだろう。光柳も雲嵐も冷静だ。

「光柳さま。石真は官吏であった時に、盗みを働いたそうです。本来はひたいに入れ墨を刺す墨刑になるところを、宮刑を自ら望んだとのことです」
「おおかた宦官となって、成り上がる機会を狙っていたのだろうな」

 どこまでも卑怯な奴だ、と光柳は苦い表情を浮かべた。

「立てるか? 手を貸そう」

 光柳が、翠鈴に手を差し伸べてくる。
 翠鈴の手を掴み、引き上げる光柳の力は強い。たおやかな見た目とは大違いだ。
 きっと彼の身分も、実際の書令史に反しているのだろう。

「翠鈴。桃莉公主を救ってくれて感謝する。ありがとう」
「お仕えしている主も同然ですから」

 翠鈴を椅子に座らせて、光柳は頭を下げた。
 光柳は立ったままで、じっと翠鈴を見つめている。

 光柳の様子から何かを察したのだろう。雲嵐が部屋の扉を閉めた。

「公主の命の恩人である君に、隠し事を続けたくはない」
「いえ。結構です」

 翠鈴はきっぱりと断った。

 きっと知らない方がいい。知ってしまえば、翠鈴はただの司燈でいられなくなる。

 だが、翠鈴は立ち上がることができなかった。
 見つめてくる光柳の琥珀の瞳が、あまりにも真摯だったから。

「司燈は続けたい、か。まぁ、医局勤めになれば桃莉公主とも離れることになるからな。人見知りの姫と、女の群れにつるまない君。ちょうどいい関係だな」

 まどから陽が射して、床に格子模様の影を落とす。
 光柳は、深呼吸をした。まるで気持ちを整えるかのように。

「私の母は、詩人だった。麟美リンメイという名だ」

 詩人の麟美。聞いたことがある。
 翠鈴は記憶をたどった。

(そうだ。侍女たちが、淑妃さまに書き写してもらったと喜んでいた甘美で切ない詩だ)

「その様子なら、麟美のことを知っているようだな」
「一度、耳にしただけですが。確か『颯々と秋雨が降り、我はあなたに手を伸ばす。指に触れるは銀のしずく。あなたはいない。夢と知っていたならば、ずっと眠っていたものを』という詩でした」

 記憶力には自信がある。翠鈴はすらすらとそらんじた。

 だが、光柳は意外な反応を示した。
 手で口もとを抑えて、瞼を閉じている。逆光になって分かりづらいが、それでも頬が赤く染まって見える。

「恋の詩は苦手でいらっしゃいますか?」
「苦手でいらっしゃいますよ」

 口調までおかしい。
 鋭いカミソリのような、辛辣な言葉を吐くとは思えぬほどの純情さだ。

「だが、たとえ苦手であっても。望まれているのは麟美の恋の詩だ。決して酒や人生、友に自然などの題材ではないのだ」
「はぁ」

 恋の詩が苦手なら、わざわざ麟美の詩を目にする必要もないんじゃないかな? この人、そんなにも初心うぶなのかな。

「酒の詩でも自然の雄大さを詠んだ詩でも、お読みになればいいじゃないですか」
「それができれば苦労はせん」

 盛大にため息をつきながら、光柳は肩を落として椅子に座った。そして机に上体を伏せる。
 宮女相手に見せる姿ではない。

 もしかして、と翠鈴は小首をかしげる。

「需要と供給ですか。詩を詠むのに忙しければ、好きな詩を読む時間は取りづらいですよね」

 翠鈴の言葉に、机に突っ伏した光柳が視線を向ける。

「君の勘の鋭さは、時に毒となるな」

 まったく失礼な人だ。翠鈴は小さくため息をついた。

「お察しの通り。母が詩人の麟美であり、私もまた麟美だ」

 まるで「お可哀想に」とでも言いたげに、光柳の側に立つ雲嵐が首をふる。

「どうして分かった?」
「お母さまの麟美さまが『詩人だった』と、過去のこととしてお話になったじゃないですか。でも、今も麟美さまの新作は出まわっている。ただそれだけです」

「……詩作以外でも、言葉には気をつけるとしよう」

 光柳の声に、力はなかった。
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