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一章 姉の仇
11、快復
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「翠鈴姐の指示は正しいです」
淑妃の部屋に、黒髪をひっつめた女性が入って来た。
翠鈴と同じ村の胡玲だ。医局から未央宮まで走ってきたのだろう。ひたいには汗が浮かんでいる。
翠鈴はうなずいた。
司燈である翠鈴よりも、医官である胡玲の方が、後宮での信頼は厚い。
それでも胡玲は、翠鈴に任せてくれる。翠鈴の知識と判断力を信頼してくれているのだ。
「牛乳は胃壁を保護して、毒の働きを弱めます。おそらく桃莉さまは、すぐに毒物を吐きだされたでしょうが。それでも喉や胃に入りこんでいる可能性もあります」
翠鈴は、蘭淑妃に対して説明を続けた。
さっき、桃莉公主は「赤い実」と確かに言った。それにこの唇の腫れと「した、はり、みたい」と。おそらくは「舌が針に刺されたようだ」と訴えたいのだろう。
「翠鈴姐。毒なら吐かせた方がよろしいですか」
胡玲が尋ねる。
「いや、公主はまだ幼くていらっしゃる。意識も清明ではない。口に指を突っ込んでも、脅えて噛んでしまう可能性があるよ」
翠鈴よりも、胡玲の方が実際は二歳下だ。
胡玲は翠鈴が、七歳も年を偽っていることを知らない。
「とにかく牛乳や水で、毒性を薄めて体外に排出するしかない。薬はその後になるわ」
「わかりました」
医官である胡玲が、下働きの翠鈴の言うとおりに動いていることに誰も気づく余裕はない。
ただ一人。美貌の宦官を除いては。
「タオリィ、ぎゅうにゅう、のめる、よ」
「桃莉。お母さまがついているわ」
か細い声を絞り出す公主に、蘭淑妃がしゃがみこんで寄り添う。
美しく結いあげてあった髪は、見るも無残に解けて乱れている。短い上衣の肩はずり落ち、腰高な裙子の紐は今にもほどけそうだ。
しばらくすると、桃莉は痛みを訴えなくなった。
苦痛に耐えたことに、ひたすらに疲れたのだろう。そのまま眠ってしまったのだ。翠鈴の手を握りしめたまま。
「おなか……すいた」
夜半になって、ようやく翠鈴は自室へ戻った。
とうに食堂は閉まっている。由由も食べ損ねたので、ふたりとも空腹だ。
「お昼から何も食べていないもん。空腹すぎて眠れないよ」
由由が寝台に座り、情けない声を出す。
ふと、扉を叩く音が聞こえた。
こんな夜中に誰が、と訝しみながら翠鈴は戸を開ける。立っていたのは松光柳だった。
未央宮は夜でも灯りがともっているが。宮女の暮らす宿舎自体は暗い。
中天の月明りに照らされた光柳は、銀の光が降りかかっているように見えた。光柳の隣には雲嵐がいる。以前、侍女たちが、雲嵐は杜という姓だと話していた。
「今日は助かった。蘭淑妃も後日、礼をすると話しておられたが。さしあたっては、夕食を取り損ねたのではないかと思って」
「これを」と光柳が差しだしたのは、布の包みだった。
礼を言いながら、翠鈴が包みを開く。立ち話もどうかと思うが。夜中でもあるし、いくら宦官とはいえ宮女の部屋の通すわけにもいかない。
布の中には、饅頭と干し肉、それに干した葡萄と棗が入っていた。葡萄は西の地域で採れる緑のものだ。
「ありがとうございます。わざわざ気を利かせてくださったんですか?」
「誰も君たちが食事をとっていないことに、気づいていないようだったからな」
光柳の言葉に、由由が歓声を上げる。
さっきまで疲れ果てて、目の下に隈ができていたのに。今の由由は瞳をきらきらと輝かせているのだ。
こういうこまめなところが、女官や宮女に人気があるのだろう。
翠鈴は礼を告げた。
(目つきのことを言わないんだ。ちょっとは反省したのかな)
「今日はもう遅い。明日になったら、私の所へ来てもらおう。公主の件で話が聞きたい」
(そうくるよね)
面倒だなぁと思いながら、翠鈴は「はぁ」と気の乗らない返事をした。
「優しいね、光柳さま」
冷めてしまってはいるが、饅頭はまだ柔らかかった。由由はそのままぱくりと饅頭をほおばる。
「言葉さえ控えめなら、もてるね。どうして宦官になったのか分からないけど、男性だった頃も女性からは引く手あまただったんじゃないかな」
翠鈴は干し葡萄を口に入れた。紫の葡萄よりも、緑の葡萄は甘さがきつくない。干してからからになっても、爽やかさを感じる。
「ねぇ、翠鈴。光柳さまって、陛下のお言葉を書いたり管理するんでしょ」
「書令史ね」
「役職とか、難しくて覚えられないよ」
由由は、干し肉をかじった。
「あれ、この干し肉。柔らかいよ。これまで食べたことないかも」
「わざわざ新人の宮女ごときに、質のいい肉を差し入れてくれるとか。変わった人だわ」
「光柳さまは優しいのよ。他の宦官なんて、横暴なだけの奴がいるのにね」
「ああ。わたしもこの間、わざとぶつかられた上に、舌打ちされたよ」
翠鈴の言葉は、冴えた月明りに冷たく溶けていった。
淑妃の部屋に、黒髪をひっつめた女性が入って来た。
翠鈴と同じ村の胡玲だ。医局から未央宮まで走ってきたのだろう。ひたいには汗が浮かんでいる。
翠鈴はうなずいた。
司燈である翠鈴よりも、医官である胡玲の方が、後宮での信頼は厚い。
それでも胡玲は、翠鈴に任せてくれる。翠鈴の知識と判断力を信頼してくれているのだ。
「牛乳は胃壁を保護して、毒の働きを弱めます。おそらく桃莉さまは、すぐに毒物を吐きだされたでしょうが。それでも喉や胃に入りこんでいる可能性もあります」
翠鈴は、蘭淑妃に対して説明を続けた。
さっき、桃莉公主は「赤い実」と確かに言った。それにこの唇の腫れと「した、はり、みたい」と。おそらくは「舌が針に刺されたようだ」と訴えたいのだろう。
「翠鈴姐。毒なら吐かせた方がよろしいですか」
胡玲が尋ねる。
「いや、公主はまだ幼くていらっしゃる。意識も清明ではない。口に指を突っ込んでも、脅えて噛んでしまう可能性があるよ」
翠鈴よりも、胡玲の方が実際は二歳下だ。
胡玲は翠鈴が、七歳も年を偽っていることを知らない。
「とにかく牛乳や水で、毒性を薄めて体外に排出するしかない。薬はその後になるわ」
「わかりました」
医官である胡玲が、下働きの翠鈴の言うとおりに動いていることに誰も気づく余裕はない。
ただ一人。美貌の宦官を除いては。
「タオリィ、ぎゅうにゅう、のめる、よ」
「桃莉。お母さまがついているわ」
か細い声を絞り出す公主に、蘭淑妃がしゃがみこんで寄り添う。
美しく結いあげてあった髪は、見るも無残に解けて乱れている。短い上衣の肩はずり落ち、腰高な裙子の紐は今にもほどけそうだ。
しばらくすると、桃莉は痛みを訴えなくなった。
苦痛に耐えたことに、ひたすらに疲れたのだろう。そのまま眠ってしまったのだ。翠鈴の手を握りしめたまま。
「おなか……すいた」
夜半になって、ようやく翠鈴は自室へ戻った。
とうに食堂は閉まっている。由由も食べ損ねたので、ふたりとも空腹だ。
「お昼から何も食べていないもん。空腹すぎて眠れないよ」
由由が寝台に座り、情けない声を出す。
ふと、扉を叩く音が聞こえた。
こんな夜中に誰が、と訝しみながら翠鈴は戸を開ける。立っていたのは松光柳だった。
未央宮は夜でも灯りがともっているが。宮女の暮らす宿舎自体は暗い。
中天の月明りに照らされた光柳は、銀の光が降りかかっているように見えた。光柳の隣には雲嵐がいる。以前、侍女たちが、雲嵐は杜という姓だと話していた。
「今日は助かった。蘭淑妃も後日、礼をすると話しておられたが。さしあたっては、夕食を取り損ねたのではないかと思って」
「これを」と光柳が差しだしたのは、布の包みだった。
礼を言いながら、翠鈴が包みを開く。立ち話もどうかと思うが。夜中でもあるし、いくら宦官とはいえ宮女の部屋の通すわけにもいかない。
布の中には、饅頭と干し肉、それに干した葡萄と棗が入っていた。葡萄は西の地域で採れる緑のものだ。
「ありがとうございます。わざわざ気を利かせてくださったんですか?」
「誰も君たちが食事をとっていないことに、気づいていないようだったからな」
光柳の言葉に、由由が歓声を上げる。
さっきまで疲れ果てて、目の下に隈ができていたのに。今の由由は瞳をきらきらと輝かせているのだ。
こういうこまめなところが、女官や宮女に人気があるのだろう。
翠鈴は礼を告げた。
(目つきのことを言わないんだ。ちょっとは反省したのかな)
「今日はもう遅い。明日になったら、私の所へ来てもらおう。公主の件で話が聞きたい」
(そうくるよね)
面倒だなぁと思いながら、翠鈴は「はぁ」と気の乗らない返事をした。
「優しいね、光柳さま」
冷めてしまってはいるが、饅頭はまだ柔らかかった。由由はそのままぱくりと饅頭をほおばる。
「言葉さえ控えめなら、もてるね。どうして宦官になったのか分からないけど、男性だった頃も女性からは引く手あまただったんじゃないかな」
翠鈴は干し葡萄を口に入れた。紫の葡萄よりも、緑の葡萄は甘さがきつくない。干してからからになっても、爽やかさを感じる。
「ねぇ、翠鈴。光柳さまって、陛下のお言葉を書いたり管理するんでしょ」
「書令史ね」
「役職とか、難しくて覚えられないよ」
由由は、干し肉をかじった。
「あれ、この干し肉。柔らかいよ。これまで食べたことないかも」
「わざわざ新人の宮女ごときに、質のいい肉を差し入れてくれるとか。変わった人だわ」
「光柳さまは優しいのよ。他の宦官なんて、横暴なだけの奴がいるのにね」
「ああ。わたしもこの間、わざとぶつかられた上に、舌打ちされたよ」
翠鈴の言葉は、冴えた月明りに冷たく溶けていった。
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