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一章 姉の仇

10、応急処置

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「桃莉さま。何か変わったものを口になさいましたか?」
「いたい……よぉ」

 翠鈴は桃莉に問いかけた。
 ぼろぼろと涙を流しながら、桃莉が手を伸ばす。
 横たわった寝台の布団は、すでに涙と唾液で湿っていた。

「お口が、痛いんですね?」
「した、はり、みたい」

 要領を得ない言葉だ。しかも腫れた唇から発しているので、ちゃんと聞き取れない。

「桃莉。お願い、ちゃんとお話して」

 翠鈴の横に並んでしゃがみこんだ蘭淑妃が、娘に声をかける。だが桃莉は苦しげに首をふるばかり。顔には脂汗が滲んでいる。

 桃莉は蛇がいると主張していた。それに唇の腫れと激しい痛み。菓子は不揃いの山査子さんざしだった。

(もしかして)

 翠鈴は立ち上がった。

「牛乳を用意してもらってもいいですか?」
「牛乳? あれを飲むのか? 薬ではなく?」

 答えたのは光柳クアンリュウだった。困惑したように、眉を寄せている。

 仕方あるまい。指示を出しているのは、司燈しとうの宮女なのだから。
 しかも牛乳を飲む習慣など、新杷国しんはこくにはない。

「牛乳で痛みが減るのなら、原因が分かります。小さなお体に無駄に負担をかけるような薬を効くまで試し続けるよりは、有効かと存じます」
「分かった。すぐに用意させよう」

 光柳の返事を受けて、侍女たちが厨房へと走ろうとした。

「待ってください。後宮では牛乳は手に入らないと思います」
「では、どうすれば」

 おろおろと立ちどまる侍女たちが、不安そうに翠鈴を見つめてくる。

「後宮ではなく、内廷の厨房にあるかと」
「内廷ならば、私が向かおう」

 光柳は、すぐに部屋を出た。

 杷京はきょうの宮城では、内廷のさらに奥に後宮がある。後宮は女性と宦官のみが暮らしているが。
 内廷のさらに奥に、後宮があるが。皇帝の生活の場である内廷ならば、牛乳が手に入るかもしれない。

 光柳が戻る間も、桃莉は右に左にと体を動かしながら呻いている。
 ほんのすこしでも唇が枕に触れれば激痛が走るのだろう。声を上げれば、口が痛むのだろう。

 翠鈴は「失礼いたします」と声をかけて、桃莉の手を取った。
 小さな手がびくりとこわばる。冷えきった手だ。
 翠鈴は両手で桃莉の右手を包み込んだ。刺激にならぬ程度に、軽くさする。 

 翠鈴の読みは当たった。
 しばらくして、松光柳が壺を手に戻ってきたのだ。

「分けてもらったぞ。牛乳だ」
「ありがとうございます」

 翠鈴は内廷の宮がどのような配置になっているのかは知らない。後宮暮らしの下女では知る術もない。
 壺を渡してくれた光柳は息は上がっているが、汗ばんではいない。髪も乱れてはいない。

「誰かに頼んでくださいましたか?」
「あ、ああ。雲嵐ユィンランに頼んだ。体力馬鹿の彼が走った方が、私よりも速いからな」

 見た目の柔和さに反して、意外と言葉がきつい。
 まぁ、どうでもいいことだけど。翠鈴は聞き流した。

 壺を嗅いでみれば、確かに牛乳だ。新鮮なのだろう、嫌な臭いもしない。

「失礼いたします」と、翠鈴はてのひらに牛乳を少し出した。白い牛乳の中に、小さな脂肪の塊がある。
 それを翠鈴は口に含んだ。
 問題はなさそうだ。侍女から杯をもらい、牛乳を注ぐ。

「桃莉さま。この牛乳で、痛みが楽になるはずです」

 翠鈴の言葉に、桃莉はうつろな目で見つめてきた。泣きすぎたのだろう、目の周囲が赤く腫れてしまっている。

「こわい」
「何も問題はございませんよ。わたしが悪いものが入っていないか、確かめましたから」
「あかいの、ない?」
「ございません。これを飲んでくだされば、治りますよ」

 断言する翠鈴の背後で、蘭淑妃と光柳が顔を見あわせている。
 信じきってはもらえないのは分かる。けれど、大人が不安な様子を見せていては、患者である子供の不信感は募るばかりだ。

「牛乳が、桃莉さまの痛い原因を包み込んで、防いでくれるのです」
「わか、た」

 侍女に背中を支えられて、かろうじて桃莉は上体を傾けて起こした。
 熱を持って腫れた唇に、冷たい器と牛乳は心地よいのだろう。こくこくと喉が動くのが分かる。

「もっとお飲みください。桃莉さまなら、頑張れますね?」
「お小さい桃莉さまに、そんなに飲ませて大丈夫なの?」

 侍女が不安そうな声を上げる。

「大丈夫です。陸翠鈴ルーツイリンの言うとおりになさってください」

 凛とした女性の声が聞こえた。
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