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一章 姉の仇

8、異変

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 翌日の夕刻。
 未央宮の軒に吊るされた下げ灯籠に、翠鈴はひとつずつ明かりをともしていた。

 秋の終わりの夜は早い。西の空はまだほのかに夕暮れの名残があるのに、未央宮はすでに影に沈んでいる。

 藍色の空にたなびく雲は、沈んでしまった太陽を恋うるかのように、薔薇色に染まっている。

 翠鈴は火種のついた棒を、上に伸ばした。灯籠の油に差した灯芯に、火種を近づけて点火する。
 ぽわっと火がともると、回廊がほんのりと暖かな色に照らされた。

 宵の群青に、並んだ灯籠の橙色の光。幽玄の世界へ誘われるかのようだ。

 背の高い翠鈴には向いた仕事だが。背の低い由由は夜の点灯も朝の消灯も苦労している。

「由由は室内の方がいいんじゃない? 外はわたしがやっておくから」
「いつもありがとう。助かるわ」

 室内の灯りは天井から吊るされているわけではないから、仕事が楽だ。回廊は下げ灯籠がずらりと並んでいるし、常に上を向いていないといけないから大変なのだが。

(まぁ、わたしの方が年上だし、背も高いし)

 ふっと息をついた翠鈴は庭を見遣った。
 菊や秋海棠の花の向こうは、草が刈り取られている。刈り忘れだろうか、大きな葉の間から茎がすっと伸びている。その先端についていた赤い実は、すべて無くなっていた。

「じゃあ、中をやってくるね」

 由由がそう言った時だった。蘭淑妃の部屋から悲鳴が聞こえたのは。

「早くお医者さまを呼んでちょうだい」
「すぐに遣いを出します」

 扉が勢いよく開いたと思うと、宮女が飛び出してきた。

「誰かが倒れたみたいね」

 翠鈴は横目で、駆けていく宮女を見遣った。ここは医者もいない田舎ではない。薬師である自分が、宮女という立場もわきまえずに関わるべきではない。とっさに、そう判断した。

「行こう。由由」

 立ち去ろうとした時。部屋から走り出てきた人が、翠鈴の袖をつかんだ。カタン、と明かりをともす棒が床に落ちる。すぐに翠鈴は足で火種を消した。

「あの子を、桃莉タオリィを助けて」

 足元までを隠す長裙ちょうくんにつまずきながら、部屋から走り出てきた女性が翠鈴にすがりついた。蘭淑妃その人だった。

「お願い。あなた、翠鈴でしょう?」

 淑妃の髪を飾る歩瑶ほようも簪も今にも外れそうだ。しがみつく淑妃の指は震えている。

 蘭淑妃が慌てて走ったことも。同僚の翠鈴が高貴な主に名前を憶えられていることも。どちらもが、由由を驚かせたようだ。
 頭を下げるのも忘れて、由由は翠鈴を見上げている。

「公主さまが、毒蛇にでも噛まれましたか?」

 翠鈴は、静かな声で問いかけた。
 もし蛇に噛まれたなら、すぐに傷口よりも心臓に近い部分を、布で縛らないといけない。なによりも毒が全身に回るのを防ぐのが先決だ。

「分からないわ。桃莉は蛇が出るって、ずっと怖がっていて。それで、蛇が潜めないように草を刈って、蛇の嫌いなものを置いてもらったのに」

 壁の側の樟脳は、淑妃が依頼したものだったのか。翠鈴は納得した。

 厄介ごとはごめんだ。目立つことはしたくない。
 自分は、姉を殺した男に敵討ちをしないといけないのだから。

 無名であれば、少々変わった動きをしても、誰にも覚えられない。

(けれど、桃莉公主が危険な目に遭っているとなれば、放ってなどおけるはずがない)

 翠鈴は目つきを鋭くして、まだ明かりのともっていない部屋を見据えた。
 回廊にまで、部屋の中の饐えた臭いが届いた。

(桃莉さまが、嘔吐なさったのか)

 毒蛇に噛まれれば、嘔吐することもある。意識は朦朧とし、尿に血が混じって、腎がやられてしまう。最悪の場合は死に至る。

「医者が来るまでの間だけ、公主の様子を見せてください」
「ありがとう。翠鈴」

 蘭淑妃は涙目だった。
 これまで会話をしたこともない淑妃が、司燈しとうである宮女の名前など知るはずもない。

(それでも、淑妃はわたしのことをご存じだ。きっと桃莉さまが、わたしのことをお話しになったのだろう)

 人見知りの公主が、たったひとり懐いた宮女。それが自分であるのなら。必ずや公主をお助けする。
 翠鈴はうなずいて、淑妃の部屋に入った。
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