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一章 姉の仇

1、翠鈴の旅立ち

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 新杷国しんはこくの都から離れた山のふもと。そこには薬師の里がある。
 わずか七歳の陸翠鈴ルーツイリンは誓った。
 姉を殺した男を、決して許さないと。

 あの日の光景は、十五年経った今でも決して忘れない。翠鈴の目の前にあったのは、姉の足。
 夕暮れ時の薬草小屋で、姉である明玉メイユィの素足がゆらりと揺れていた。

「ねえさん?」

 翠鈴ツイリンは、何を見ているのか分からなかった。

 けれど共に小屋に薬草を取りに来ていた母の絶叫が響いて。
 耳をつんざくくらいに声が大きくて。
 ねぐらの木に帰っていた鳥が、一斉に暮れていく空に飛び立っていった。

 嗅ぎなれた薬草と、鬱金うこんに似た花の匂いに重なるのは、血と饐えた臭い。姉の足を伝って、ぽたりぽたりと雫が床に落ちている。

「ねぇ。ねえさん。遊んでるの?」

 翠鈴は、こわばった笑みを浮かべた。
 梁からぶらさがって遊んでいることにしないと、おかしくなるから。何もかもが崩れるから。認めなくちゃいけなくなるから。

「ねえさん。返事してよ」

 お願いだから。
「びっくりした? ちょっとふざけちゃったわ」って、いつもみたいに笑ってよ。

 姉の足はあまりにも白かった。雫を垂らし続けながらも。

「翠鈴。明玉は自殺したんだ」

 父は、絞り出すような声で床に下された明玉を見つめていた。母は肩を震わせて、ただ泣いていた。

(うそだ)

 なのに、翠鈴は涙を流すことができなかった。
 ただ圧倒的な暴力を受けたかのように。胸倉をつかまれて、力任せにみぞおちを殴られたかのように。苦しくて、息ができない。

 呼吸をすれば、嫌な臭いを吸ってしまうから。

 また、床にぽたりと雫が落ちる。
 こんなの、ねえさんの匂いじゃない。

明玉メイユィには、結婚を約束した男がいたんだ。王宮の官吏試験に通ったらしい。明玉はとても喜んで、杷京はきょうで共に暮らすと話していたのに」
「あの子は捨てられたのよ。どだい無理だったのよ。こんな田舎の娘が、官吏の妻になるだなんて」

 両親の言葉は、まるで雨だれのように明玉の体に落ちていった。村の者は、小屋の外で遠巻きに手を合わせるばかり。

 だめだ。こんなのちがう。ねえさんは、幸せになるはずだったんだ。

「起きてよ。みんなが見てるよ」

 翠鈴がどんなに姉の体を揺すっても、姉は瞼を開いてはくれない。床に散乱した鬱金香うっこんこうの赤い花びらが禍々しい。
 先の尖った鬱金香の花弁は、まるで血が散ったかのように思えた。

 見れば、明玉の指は赤くかぶれ、湿疹ができていた。さらに、どこかを掻きむしったのだろう。爪の間が血で染まっている。

「父さん。その男が、ねえさんをころしたの?」

 翠鈴の声は、七歳の女児とは思えぬほどに低い。

――翠鈴は物覚えがいいのね。あたしと違って賢いから。きっと父さんみたいに立派な薬師になれるわ。

 山で薬草を摘みながら、明玉は翠鈴を褒めてくれた。だから薬草も覚えた。難しい文字だって読めるように、書けるように頑張った。

――わたしね。ねえさんといっしょに、お薬をつくるの。
――そうね。苦しんでいる人を助けましょうね。

 薬研で薬を挽きながら、明玉は微笑んでくれた。約束された未来は、当たり前に来るものと信じて疑わなかったのに。
 翠鈴が六歳の時。村の近くで倒れた男を明玉が救ったことが、姉の運命を変えた。

「ねぇ、その男が、ねえさんを殺したんでしょ?」

 父の返事はない。それが答えだった。

 村の周囲に自生する鬱金香うっこんこうの花が満開の春。赤に黄色に、白の可憐で小さな花に囲まれて、明玉は埋められた。
 牡丹百合とも呼ばれる、姉の好きだった花。

 一年を経て、二年、三年。ずっと花は咲き続けた。
 そして十四年後の春。

「行ってくるよ。姉さん」

 墓前に告げて、翠鈴は村を出た。
 東から吹く風に、鬱金香の花が手を振るように一斉に揺れた。

 頭上からは、うすくれないの花海棠はなかいどうが散っている。はらはらと、名残の雪のように。
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