26 / 32
三章
6、お茶にしましょう【1】
しおりを挟む
夏の盛りの王宮のキッチンは、甘く爽やかな香りに包まれています。
マーマレードを煮た香りがまだ残っているのです。
クリスティアンさまに嫁いで数年。王太子妃という立場に、ようやく慣れてきた気もします。
広いテーブルの上には、煮沸した瓶に熱いマーマレードを詰めて、それを逆さにした物が並んでいます。逆さにして置いておくと空気が抜けるんです。
「んー、とどかない」
「あら、だめよ。マルティナ。まだ熱いから火傷をしますよ」
「うーんうーん」
蜂蜜色の髪に結んだ水色のリボンを揺らしながら、四歳になる娘のマルティナが瓶に手を伸ばしています。
まったく困った子ですね。
抱き上げようとしたのですが、さすがに四歳にもなるとすぐには抱っこできません。しかも整然と並んだ瓶がきらきらと光って楽しいのか、マルティナはなかなかテーブルから離れてくれません。
「お、重い……」
「マルティナ、おもくないもん」
「悪口ではないのよ。大きくなったわね、という意味なの」
本当に三歳の頃までは、かろうじて抱っこもできていたというのに。子どもの成長は早いです。
「こら、マルティナ。ちゃんとお母さまの言うことを聞かないと、手が痛くなるぞ」
「あ、お父さまー」
ぱっとテーブルから手を離すと、マルティナはキッチンに入っていらしたクリスティアンさまに飛びつきました。
勢いよく飛びつかれても、もちろんクリスティアンさまはびくともなさいません。
「あのね、お茶にするのよ」
「それはお誘いかな?」
「ええ。どうぞ なかにわにいらして…いらっしゃる? いらっしゃるくださいな、お父さま」
「うん『いらしてくださいな』だな。では、お招きにあずかろう」
マルティナを軽々と抱き上げて、クリスティアンさまはやはりマーマレードの瓶に視線を向けます。
「この量では冬まで持たないかな?」
「そうですね。王族の皆さまにさしあげると、秋の終わりにはなくなりそうですね」
宮殿では使用人の方々も手伝ってくれるのですが。わたしも王太子妃という身。キッチンにこもりっきりというわけには参りません。
朝食には王太子妃のベリーのジャムとマーマレードがあると、とても嬉しいと仰ってくださる方が多いので。つい頑張って作るのですが、なかなか数はこなせません。
「ジャム作りにあなたを奪われるのは、正直寂しいものだ」
「殿下……」
言葉を洩らしたわたしの唇を、マルティナを抱っこしたままのクリスティアンさまが指で押さえます。
困りました。これでは喋ることができません。
「ん? んん?」
「まぁ、人がいるから仕方がないか」
クリスティアンさまの言葉の意味を察して、わたしは頬を赤らめてしまいました。
言えるようにはなったんですよ。「あなた」と。
でもやはり、二人きりの時だけの呼び名ですから。照れてしまうんです。
「ねぇねぇ、お庭におかしをはこぶの。このきれいなおさら、つかってもいーい?」
身軽にクリスティアンさまの腕から飛び降りたマルティナは(この辺りは、運動が苦手なわたしではなく、クリスティアンさまに似たのだと思います)使用人の元へと向かいました。
ぱたぱたと軽い足音。白地に淡い水色の縞模様のワンピースの裾を、ふわりと翻しながら。
「姫さま。朝食ではなく、お茶の時間ですのに。ジャムは必要ですか?」
「いるのー」
キッチンに用意されているのは、さっくりと焼いたメレンゲと生クリームをあわせ、ベリーを載せたお菓子。ビスケット。それにマフィン。
ヴァーリン王国ではスコーンをあまり食べないので、ジャムは主に朝食用なんです。
「しょうがありませんねぇ、姫さまはお母さまのジャムがお好きですものね。ビスケットにつけますか? それとも平パンを温めましょうか?」
「どっちもー。マルティナ、たくさん食べられるよ。ビンに入ってるのぜんぶでもへいき」
それは多すぎますねぇ。虫歯になってしまいますよ、と口々に使用人は苦笑しています。
「……私もマルガレータのジャムは好きだし。その気になれば私だって一瓶はいける」
ぽつりと呟いたクリスティアンさまの言葉は、使用人には届かなかったようです。
あの、そこは張り合うところですか?
マーマレードを煮た香りがまだ残っているのです。
クリスティアンさまに嫁いで数年。王太子妃という立場に、ようやく慣れてきた気もします。
広いテーブルの上には、煮沸した瓶に熱いマーマレードを詰めて、それを逆さにした物が並んでいます。逆さにして置いておくと空気が抜けるんです。
「んー、とどかない」
「あら、だめよ。マルティナ。まだ熱いから火傷をしますよ」
「うーんうーん」
蜂蜜色の髪に結んだ水色のリボンを揺らしながら、四歳になる娘のマルティナが瓶に手を伸ばしています。
まったく困った子ですね。
抱き上げようとしたのですが、さすがに四歳にもなるとすぐには抱っこできません。しかも整然と並んだ瓶がきらきらと光って楽しいのか、マルティナはなかなかテーブルから離れてくれません。
「お、重い……」
「マルティナ、おもくないもん」
「悪口ではないのよ。大きくなったわね、という意味なの」
本当に三歳の頃までは、かろうじて抱っこもできていたというのに。子どもの成長は早いです。
「こら、マルティナ。ちゃんとお母さまの言うことを聞かないと、手が痛くなるぞ」
「あ、お父さまー」
ぱっとテーブルから手を離すと、マルティナはキッチンに入っていらしたクリスティアンさまに飛びつきました。
勢いよく飛びつかれても、もちろんクリスティアンさまはびくともなさいません。
「あのね、お茶にするのよ」
「それはお誘いかな?」
「ええ。どうぞ なかにわにいらして…いらっしゃる? いらっしゃるくださいな、お父さま」
「うん『いらしてくださいな』だな。では、お招きにあずかろう」
マルティナを軽々と抱き上げて、クリスティアンさまはやはりマーマレードの瓶に視線を向けます。
「この量では冬まで持たないかな?」
「そうですね。王族の皆さまにさしあげると、秋の終わりにはなくなりそうですね」
宮殿では使用人の方々も手伝ってくれるのですが。わたしも王太子妃という身。キッチンにこもりっきりというわけには参りません。
朝食には王太子妃のベリーのジャムとマーマレードがあると、とても嬉しいと仰ってくださる方が多いので。つい頑張って作るのですが、なかなか数はこなせません。
「ジャム作りにあなたを奪われるのは、正直寂しいものだ」
「殿下……」
言葉を洩らしたわたしの唇を、マルティナを抱っこしたままのクリスティアンさまが指で押さえます。
困りました。これでは喋ることができません。
「ん? んん?」
「まぁ、人がいるから仕方がないか」
クリスティアンさまの言葉の意味を察して、わたしは頬を赤らめてしまいました。
言えるようにはなったんですよ。「あなた」と。
でもやはり、二人きりの時だけの呼び名ですから。照れてしまうんです。
「ねぇねぇ、お庭におかしをはこぶの。このきれいなおさら、つかってもいーい?」
身軽にクリスティアンさまの腕から飛び降りたマルティナは(この辺りは、運動が苦手なわたしではなく、クリスティアンさまに似たのだと思います)使用人の元へと向かいました。
ぱたぱたと軽い足音。白地に淡い水色の縞模様のワンピースの裾を、ふわりと翻しながら。
「姫さま。朝食ではなく、お茶の時間ですのに。ジャムは必要ですか?」
「いるのー」
キッチンに用意されているのは、さっくりと焼いたメレンゲと生クリームをあわせ、ベリーを載せたお菓子。ビスケット。それにマフィン。
ヴァーリン王国ではスコーンをあまり食べないので、ジャムは主に朝食用なんです。
「しょうがありませんねぇ、姫さまはお母さまのジャムがお好きですものね。ビスケットにつけますか? それとも平パンを温めましょうか?」
「どっちもー。マルティナ、たくさん食べられるよ。ビンに入ってるのぜんぶでもへいき」
それは多すぎますねぇ。虫歯になってしまいますよ、と口々に使用人は苦笑しています。
「……私もマルガレータのジャムは好きだし。その気になれば私だって一瓶はいける」
ぽつりと呟いたクリスティアンさまの言葉は、使用人には届かなかったようです。
あの、そこは張り合うところですか?
28
お気に入りに追加
5,362
あなたにおすすめの小説
【完結】妊娠中のお姉様の夫に迫られて、濡れ衣を着せられた
かのん
恋愛
年の近いショーンは、姉のロザリーか妹のライカ、どちらかの婚約者になるだろうと言われていた。
ライカはそんなショーンのことが好きだったけれど、ショーンが好きだったのはロザリーであり自分の恋心を封印して二人を応援するようになる。そして、二人が婚約、その後妊娠が発覚して結婚。
二人を祝福し、自分も前に進もうと思っていたのに、ショーンに迫られその現場を姉に発見されてしまう。
ライカは無実を訴えたが、姉の夫を誘惑したとして濡れ衣を着せられ男爵家へと送られてしまうのだった。
完結済の全21話です。毎日更新していきます。最後まで読んでいただけたら幸いです。 作者かのん
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。
【完結】妹のせいで貧乏くじを引いてますが、幸せになります
禅
恋愛
妹が関わるとロクなことがないアリーシャ。そのため、学校生活も後ろ指をさされる生活。
せめて普通に許嫁と結婚を……と思っていたら、父の失態で祖父より年上の男爵と結婚させられることに。そして、許嫁はふわカワな妹を選ぶ始末。
普通に幸せになりたかっただけなのに、どうしてこんなことに……
唯一の味方は学友のシーナのみ。
アリーシャは幸せをつかめるのか。
※小説家になろうにも投稿中
美形揃いの王族の中で珍しく不細工なわたしを、王子がその顔で本当に王族なのかと皮肉ってきたと思っていましたが、実は違ったようです。
ふまさ
恋愛
「──お前はその顔で、本当に王族なのか?」
そう問いかけてきたのは、この国の第一王子──サイラスだった。
真剣な顔で問いかけられたセシリーは、固まった。からかいや嫌味などではない、心からの疑問。いくら慣れたこととはいえ、流石のセシリーも、カチンときた。
「…………ぷっ」
姉のカミラが口元を押さえながら、吹き出す。それにつられて、広間にいる者たちは一斉に笑い出した。
当然、サイラスがセシリーを皮肉っていると思ったからだ。
だが、真実は違っていて──。
姉妹同然に育った幼馴染に裏切られて悪役令嬢にされた私、地方領主の嫁からやり直します
しろいるか
恋愛
第一王子との婚約が決まり、王室で暮らしていた私。でも、幼馴染で姉妹同然に育ってきた使用人に裏切られ、私は王子から婚約解消を叩きつけられ、王室からも追い出されてしまった。
失意のうち、私は遠い縁戚の地方領主に引き取られる。
そこで知らされたのは、裏切った使用人についての真実だった……!
悪役令嬢にされた少女が挑む、やり直しストーリー。
【完結】両親が亡くなったら、婚約破棄されて追放されました。他国に亡命します。
西東友一
恋愛
両親が亡くなった途端、私の家の資産を奪った挙句、婚約破棄をしたエドワード王子。
路頭に迷う中、以前から懇意にしていた隣国のリチャード王子に拾われた私。
実はリチャード王子は私のことが好きだったらしく―――
※※
皆様に助けられ、応援され、読んでいただき、令和3年7月17日に完結することができました。
本当にありがとうございました。
村八分にしておいて、私が公爵令嬢だったからと手の平を返すなんて許せません。
木山楽斗
恋愛
父親がいないことによって、エルーシャは村の人達から迫害を受けていた。
彼らは、エルーシャが取ってきた食べ物を奪ったり、村で起こった事件の犯人を彼女だと決めつけてくる。そんな彼らに、エルーシャは辟易としていた。
ある日いつものように責められていた彼女は、村にやって来た一人の人間に助けられた。
その人物とは、公爵令息であるアルディス・アルカルドである。彼はエルーシャの状態から彼女が迫害されていることに気付き、手を差し伸べてくれたのだ。
そんなアルディスは、とある目的のために村にやって来ていた。
彼は亡き父の隠し子を探しに来ていたのである。
紆余曲折あって、その隠し子はエルーシャであることが判明した。
すると村の人達は、その態度を一変させた。エルーシャに、媚を売るような態度になったのである。
しかし、今更手の平を返されても遅かった。様々な迫害を受けてきたエルーシャにとって、既に村の人達は許せない存在になっていたのだ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる