上 下
37 / 38

第20章 花落つる

しおりを挟む
 
 あれは儂じゃ──

 夢の中に、己の姿を見た。

 既に元服し姿形が変わり雰囲気が大人びているが、どうやら今より数年先の自分なのだと分かった。

 隣で微笑んでいるのは紛れもなく信長である。

 腕に抱いている赤子は──儂の子か?

 数年後の自分はどうやら父になっているようで、愛しそうに我が子をあやし、傍らで信長が優しい眼差しでそれを見詰めている。

 それが夢と分かっていながら考えた。

『子がいるという事は妻がいる筈じゃが──』

 そんな現実的な事を気にしてみたところで信長と自分しかおらず、夢なのだから仕方がない。

 御幸せそうな様子でおられる──
 
 信長の慈愛に満ちた表情を見詰める彼の胸も幸福感で満たされていく。
 
 途端に平和な夢から覚めた。

 陽はまだ昇りきっていなかったが、表御堂にいる小姓達は何人かが起き始めていた。

 少し蒸し暑かったので外の井戸の水を浴びて汗を流しさっぱりした後、顔を洗って房楊子で歯を磨く。

 髪を整え、単の白い小袖に着替えた。

 「寝ている者を起こして参れ!」

 弟の坊丸に命じ、信長の寝所に向かおうと立ち上がった時、外がやけに騒がしいと感じた。

 「中間共が喧嘩でもしているのでございましょう。」

 「様子を見て参れ!」

 その場にいた菅屋長頼の息子の角蔵と、乱法師の与力格である美濃の久々利頼興の息子久々利亀千代、小河愛平、弟の力丸も厩の方に走って行く。


 本能寺は凡そ東西一町(約100m)、南北二町(約200m)の広大な敷地であったと云う。

 周囲は石垣に水堀も備え、信長の別荘に相応しく武家様の御殿に渡り廊下で連なる敷地内の主な建物からは、本能寺に出入りする門までは距離がある。

 その上、塀際に植えられた松の木や竹林に視界が遮られ、中からも外からも様子を窺う事は困難であった。

 乱法師は胸騒ぎがして御殿にいる信長の様子が気になったが、物見に行った小姓達が、そのうちに駆け戻ってきた。

 「──敵襲ーー敵襲ーー明智日向守──謀反にござるーー」

 日頃は呑気な力丸を始めとして、小姓達は皆血相が変わっていた。

 「間違いないか!?」

 「水色桔梗の旗印じゃ!間違いない。」

 力丸は力強く答えた。

 「──力!坊丸や邸中の者達に知らせよ!他の者達は上様の元へ!」

 一刻も早く上様にお知らせせねば──

 信長の指示を仰ぎ、ともかく守りを固めるのが先決である。

 表御堂から渡り廊下を走り御殿に向かいながら、必死に信長を逃がす策が頭を駆け巡った。

『明智の軍勢は一万余!囲いを突破し妙覚寺に知らせなければ!手勢が少な過ぎる。到底──』

 本能寺にいる者は、侍女を含めても百人にも満たない。

 敷地内に完全武装の兵が入り込み、少なくとも数千の軍勢に周囲を取り囲まれている。

 絶望感に押し潰されそうになるが、必死に気持ちを奮い起たせる。

『──上様だけは──上様だけは─何としても──』

 唇を強く噛み締めたせいで血が滲み、口の中に鉄の味が広がる。

 この時点で、乱法師は死を覚悟した。

─────

 本能寺に侵入した明智の兵達は、先ず厩番衆と激しい戦闘になった。

 厩と厩近くの建物に詰めていたのは、馬術家の矢代勝介、相撲の強さで侍に取り立てられた伴正林と村田吉五という若者に、中間衆の大半、森兄弟の義兄青木次郎左衛門、そして黒人侍の弥助等の二十数名だった。

 黒光りする甲冑に身を包み槍を手にした数十人の兵達の突然の出現に、厩番衆は叫び声を上げる暇すら与えられなかった。

 中間衆の虎若の息子で、まだ十二歳の小虎若が刀を抜こうとしたところを槍で貫かれ、無惨にも絶命した。

 伴正林と村田吉五は槍で応戦し、義兄の青木次郎左衛門も奮闘する。

 具足も身に付けていない生身の小袖姿で中間衆も勇敢に立ち向かうが、次々と倒されていく。

 「──殿──殿ーーー」

 危機を知らせようと槍を振り回して敵を一瞬退けた青木次郎左衛門の悲痛な叫びは、表御堂にいる若い主君、乱法師には到底届かない。

 駆け出そうとしたところ、後ろから槍で突かれ血を吐きながら倒れ様、脳裏には妻子の顔と妙向尼の言葉が浮かんだ。

『次郎左、皆の事宜しくお願いします。』

 「…う……と…の…殿……」

 伸ばした手は、ぱたりと虚しく地面に落ちた。

 中間衆達に交じり、槍で戦う元相撲取りの伴正林、村田吉五の体格と強さは敵を圧倒するも、剥き出しの肌は既に血塗れで、荒い息を付き限界間近と見えた。

 そして弥助も戦っていた。

 身の丈六尺の黒檀のような肌、筋肉に覆われた見事な体躯で槍を振り回す姿は、間近で対峙する明智の兵達には、不動明王か地獄の悪鬼のように見えたのかも知れない。

 「ウォーウオーウォーー」

 雄叫びを上げ、槍を振り回しているだけの弥助に誰も近付けない。

『……ウエサマ…ウエサマに…ハヤク…しらせなくっチャア……』

 弥助がそう思った時──

 「上様の居所を汚す謀反人共が──許さぬ!!下郎!!」

 顔馴染みの二人が、叫びなからその場に走り込んできた。

 兵達の注意が逸れた隙に、弥助は凄い勢いで信長のいる御殿に向かって走った。

────

 本能寺と妙覚寺からも然程離れていない町屋に、馬廻り衆の湯浅甚助と小姓衆の小倉松寿は宿泊していた。

 払暁目覚め、二人が朝の支度を済ませて本能寺に向かおうとしていた時、外の人々の声の異様さに違和感を覚えた。

 ちょうど人々が起き始める時刻で、都には人が多いからとはいえ、通常の騒ぎとは思えず松寿は外に出た。

 「──凄い─勢──囲んで-らしい-本能寺─」

 「何故──明智──本能寺から鉄砲の音が──逃げた方が──」 

 騒ぎの中、民衆が話す言葉が切れ切れに耳に入り、一人を掴まえ慌てて問い質す。

 「──あっ!凄い数の軍勢が本能寺を取り囲んでおると─確か安土の上様がいてはる筈や。鉄砲の音が聞こえてきよったて!皆大騒ぎや!逃げなあかん言うて──」

 それを聞くやいなや松寿は湯浅甚助に知らせ、槍を手に二人は本能寺にひた走った。

 近付くにつれ町人の数は増え、南蛮寺の宣教師達の背の高い姿も混じって見える。

 本能寺の周りで風に揺れる数え切れない程の水色桔梗の旗に驚愕した。

 「──明智!謀反じゃ!妙覚寺に──」

 二人はとっさに妙覚寺に知らせに行く事を考えたが、既に包囲されている可能性はかなり高いと見て諦め、群衆に紛れて近付き手薄なところを見付け、本能寺の敷地に入る事に成功した。

 周囲を囲む軍勢の数は凄いが、中に入ると嘘のように兵の姿が見当たらない。

 随分と静かに思えたが、厩の方で明らかに戦闘中とおぼしき雄叫びが聞こえてきた。

 駆け付けて先ず目に入ったのは殆んどの中間衆が血塗れで倒れ、生き残っている者達が満身創痍で戦う姿だった。

 仲間の遺体が憐れに転がっている様子に松寿は槍の柄を強く握り直し、激昂して叫んだ。
 「下郎め!許さぬ!」

 明智の兵達に囲まれ、槍を振り回す無傷の弥助と目が合った。

 戦慣れした壮年の馬廻り衆湯浅甚助だけでなく、まだ十六歳の松寿は実戦は未経験だったが躊躇いはなかった。

 槍を突き出し手傷を負いながら一人を倒し、数人に傷を負わせたが、敵の数が多過ぎて、やがて囲まれ華奢な身体に無数の槍が突き刺さる。

 真っ赤な血潮を噴き出し、この世の光を失う寸前、久しぶりの青空が目に入り、松寿の脳裏に思わず浮かんだのは乱法師の笑顔だった。

 厩番衆を全て倒した兵達は、信長を討つべく御殿の方角に向かった。

─────

 同朋衆の一雲斎針阿弥が用意した角盥に汲んだ手水で、信長は朝の洗顔を済ませていた。

 濡れた手を拭う為の手拭きを針阿弥が差し出したところで、外の騒がしさが気になった。

 「喧嘩でもしておるのか。様子を見に行き、蘭に騒ぎを静めて参れと申せ!」

 一雲斎針阿弥が同朋衆らしく、衣の裾が広がらぬように小走りで駆けて行く。

 金の真鍮擬宝珠ぎぼしと朱塗りの華やかな欄干の渡り廊下に足を掛けた時、乱法師に率いられた小姓衆がこちらに向かって来るのが見えた。

 皆が手に捧げ持つ槍に針阿弥の顔色が青褪める。

 「お、お乱殿!一体何が──」 

 「───上様は御無事か!!」 
 
 針阿弥の言葉には答えず逆に信長の安否を問い質した時、明らかに数丁の鉄砲が続けて撃ちならされる音がした。


 パンッ パンッ  パンッパンッ

 銃声は御殿からは遠かったが、本能寺にいた全ての者達が瞬時に凶変を悟った。

 予期せぬ鉄砲の音に信長の側にいた侍女達が慌てふためく。

 白い寝衣の儘すっくと立ち上がった信長は、部屋の欄間の下に掛けてあった薙刀を手に取り、部屋の外に出て叫んだ。

 「──蘭!──蘭!」

 御殿の廊下を走る乱法師はその声を耳にし、急いで駆け付け片膝を付く。

 「御前に!」

 「これは謀反か。如何なる者の企てじゃ!」

 「明智が手の者と見えまする。」

 信長は少しだけ首を傾げ、納得したとも諦めたとも付かぬ顔付きで、腹から絞り出すように言った。

 「是非に及ばず──」

 
 そこに弥助が走り込んで来た。

 「──はあ──ウ─ウえさま─ハア──ミンナ─きられた──ころされた──うまやのヒトたち─みんな──」

 乱法師は鎌十字の槍を握り締め、また唇を痛い程噛み締め信長を見上げる。

  「弥助!妙覚寺に走れ!城之助(信忠)に知らせよ!」

 弥助は凄い勢いで再び走り出した。

 妙覚寺へ──

─────

 本城惣右衛門は幾つもある建物のうちの何れかの玄関から普通に入った。

 警戒しつつ進むと、鎧武者の一群が向かって来るのに一瞬ぎょっとしたが、北側から侵入した明智秀満の手勢と分かり安堵する。

 「首は打ち捨てろ!」

 秀満の下知に従い、後で拾えば良いと本城惣右衛門は獲った一つの首を建物の下に放り込んだ。

 戦場とは思えぬ程の静けさで、人っ子一人見当たらないのに拍子抜けする。

 正直、雑兵でしかない本城惣右衛門にとって、こんな訳の分からぬ戦で死にたくはなかった。

 いや、訳の分かる戦でも死にたくないから要領良く立ち回り、少し戦働きをして首を獲ったら、早々に引き揚げたいというのが本音だった。

 秀満の手勢と分かれて部屋に敵が潜んでいないか捜索する。

『広過ぎて迷ってしまう……もしかして、家康様には逃げられてしまったのかのう。戦う相手がいませんでしたと言って戻りたい。もう、首一つ獲ったし……』
 
 広間と思われる部屋に虫除けの為の蚊帳が吊ってあった。

 先程まで確かに此処で人が寝ていたという証拠だ 。
 
 その時、蚊帳の向こう側を白い影が横切り、槍を固く握り締めさっと身構える。

 「…どうか…どうか…お助けを…上様は……白いお着物を……お召しでいらっしゃいます…どうか……」

 長い黒髪を背中に垂らし、修善寺紙で一つに纏めた若い女だった。

 「──上様?」

 女と分かり気が抜けたが、家康を討つとばかり思い込んでいる本城惣右衛門には言っている意味が理解出来ず首を捻る。

 取り合えず戦闘の邪魔になるので、女は斎藤利三に引き渡した。

 そこに織田の家臣、二、三人が駆け込んで来たので、咄嗟に蚊帳の後ろに隠れる。

 直後に明智勢が多数部屋に入って来て織田方が動じた隙に、蚊帳の後ろから飛び出し一人を討ち取った。

 此処までが、本城惣右衛門の本能寺での戦いの全容である。

────

 本能寺の真向かいに邸を構える京都所司代の村井貞勝は、朝飯の最中だったが鉄砲音に思わず箸を取り落とした。

 何が起きているかを家臣に探ってくるよう命じ、報告を聞いた瞬間目の前が真っ暗になった。

 信じられず自身の目で確かめに行くが、凄い軍勢が本能寺の周りを確かに囲んでいるではないか。

 黒煙が既に上がっていた。
 
 銃声を聞いてから然程時は経っていないのに、もう落ちたというのか。

『無理もない。明智軍を二手に分けても五千はいる。本能寺で戦える者は、多くとも数十名。戦ではない!これは虐殺じゃ!くそっ!明智め!』

 昨夜の信長の笑顔を思い出し、貞勝の頬を涙が伝い落ちた。

 「父上!早く妙覚寺に!上様は最早──中将様(信忠)だけなら何とか御逃がし申し上げる事も出来るやも知れませぬ。此処にいても我等とて犬死にするだけ──!」

 本能寺から妙覚寺までは十里(約1km)の距離もない。

 妙覚寺の手勢は本能寺程手薄ではない。
 都中から掻き集めれば、千人くらいにはなるやもしれぬと考えた。

 村井貞勝の嫡男、貞成と次男清次の言に従い、群衆に紛れ三人は妙覚寺に馬を走らせた。

────

 弥助の脚力は素晴らしかった。

 走る為に生まれてきたような、しなやかな筋肉を、ここぞとばかりに発揮した。

 明智軍の囲みを突破出来たのは、彼が黒人だったからというのも理由の一つだろう。

 黒人を間近で見た事が無く、命じられるが儘の兵達は、中から走り出て来た大男に驚き思わず道を開けてしまった。

 約1km にも満たぬ距離など弥助にとっては何程の事もない。

 本能寺を抜け出して僅か三分くらいで妙覚寺に辿り着いた。

 光秀は軍勢を二手に分けたのだが、妙覚寺を攻撃する筈の明智秀満の軍勢に遅れが生じ、幸いこちらはまだ包囲されていなかったのだ。

 弥助が着いた頃には、本能寺の比較的近くに分宿していた馬廻り衆達が凶変を知り集結していた。

 丁度事態を探らせようとしていたところだった信忠は、弥助の報せに直ちに兵を率いて本能寺の救援に向かう事を決断した。

 ところが、少し遅れて駆け込んできた村井貞勝父子が、それを必死に押し留めた。

 「──もう本能寺は──落ちたと思われまする!火の手が上がり煙が立ち込め、あれだけの手勢では……今から参られても……最早……」

 目を真っ赤にして訴える村井貞勝の形相に、最悪の事態を察した信忠は上を向いて悔し涙を流した。

 「──これ程近くにいながら父上を御救いする事も出来ぬとは──情けない──斯くなる上は、残った兵達で明智の軍勢相手に弔い合戦してくれようぞ!」

 「諦めてはなりませぬ。我等が時を稼ぐ間に、どうか安土に御逃げ下されませ!」

 馬廻り衆の団平八や毛利新介、菅屋長頼、猪子兵介等は信忠の決意を変えさせようと説得する。

 菅屋長頼の側には次男の勝次郎が、本能寺には小姓として嫡男の角蔵がいた。

 村井貞勝も二人の息子と共に信忠の盾になろうとしているのだ。

 皆、死ぬ覚悟だった。
 だが信忠は静かな面持ちでそれを退けた。

 「……そなた達の気持ちは嬉しい。なれど、これ程大それた事を企てるからには、粟田口も丹波口も、都に入る道には兵達を悉く配置しているであろう……妙覚寺が未だに囲まれていないのは、その為に違いない。おめおめと逃げ出した故に、雑兵に討たれたとあっては父上に合わせる顔がない。」

 確かに一万人以上の兵力を百人にも満たない寡勢の本能寺に全て集結させるとは考えにくい。

 進軍が遅れていると考える者はおらず、信忠の覚悟を尊重するしかなかった。

 「ならば、此処よりは堅固な二条の御所に移った方が良いかと存じまする。」

 信忠の元に集結した五百人以上の兵達は、妙覚寺の道を挟んだ向かい側に位置する二条御所を目指した。

────

 二条御所から見てすぐ右隣の邸に住む近衛前久父子は、家人を遣わし信長に起きた凶事を耳にしていた。
 
 前久も信基も公卿の立場を越えて信長に親しみを感じていたが、五千人を越える軍勢が都に入り、目と鼻の先で戦闘が繰り広げられている状況では人の心配をしている場合ではなかった。

 十年以上も前に、あらぬ嫌疑を掛けられ都を追われた父子を、信長が呼び戻し厚遇してくれた事から却って他の公卿達の妬みを買い、明智の天下になってしまったら、自分達父子がどのように遇されるか不安になった。

 幸いにも本能寺からは離れている為、戦闘に巻き込まれる心配はないと思っていたのに、信忠の軍勢が二条の御所に立て籠ったと聞き、父子は震え上がった。

 「……父上……此処にいたら戦に巻き込まれてしまいまする。何処かに逃げた方が!」
 
 「そんな事言うても、今更何処に逃げるのじゃ……すぐに二条御所に明智軍が押し寄せてくる……下手に外に出たら危険じゃ!この邸で身を潜めているしか無い……」

 公家社会での立ち回りが余程下手なのか、後に前久は光秀の謀反に荷担したと疑われ、息子の信基は別件で、父子別々に都を追われる事になる。

 公家の癖にあまり都に縁の無い公家であった。

─────
 
 信長を守るべく、本能寺の御殿には小姓衆や馬廻り衆が固まっていた。

 しかし御殿に続く入り口の一つである台所口から侵入しようとする敵を食い止めようと、孤軍奮闘する馬廻り衆がいた。

 彼の名は高橋虎松。

 今は側近として政務に携わる事が多いが元来は武芸に優れ、今も巧みな槍捌きと狭い入り口という地の利を生かし、明智の兵を阻んでいた。

 手傷を負ってはいても、朱に染まる小袖はほとんどが敵の返り血だ。

 非常に頼もしい男だが、本能寺で生きて戦える者は既に五十名を切っている。

 彼の比類無い強さも無駄な足掻きと言わざるを得ない状況だったが、それでも信長の周りに敵が押し寄せるのを僅かでも遅らせる盾にはなったに違いない。

 流石の虎松も敵を二十人近くも倒した頃には息も上がり、ざんばら髪にこびりついた血には己の血も大分混ざり始めてきていた。

 足元には血溜まりが出来、握った槍は手の内で滑る。

 最後の力を振り絞り槍を構えた時、明智方の鉄砲が火を吹いた。

 数丁の鉄砲で撃ち抜かれた虎松の亡骸を乗り越え、明智の兵達が御殿に雪崩れ込んだ。

────

 博多の商人島井宗室も御殿にいた。

 朝、目覚めた直後に明智光秀の謀反と聞き、動転して腰を抜かしたのは言うまでもない。

 彼は武士ではなく損得勘定で動く商人である。

 先ず真っ先に考えたのは『逃げる』であり、信長に献上する予定だった楢柴肩衝を持って出るのを忘れる訳がなかった。

 時として名物茶器は、己の命を守る大事な武器となるのだ。

 今日、本能寺で信長の命運は尽きたのだと即座に気持ちを切り替えた。

 彼が欲していたのは信長の権力であり、敗者の信長と心中する気は全くなかった。

『それにしても運の悪い事よ!遠い博多から出向いて、此処に泊まったせいでこんな事変に遭遇するとは、運が無いにも程がある──待てよ──』

 転んでもただでは起きないのが商人であり、自分が持ち込んだ楢柴肩衝以外にも大変高価な宝物が本能寺に持ち込まれている事を思い出した。

 だが、三十八種の茶器は此処から遠い納戸に納められている。

 ならば──と茶会で使用する予定だった部屋に急いで向かう。

 狙いは二曲一双の屏風、弘法大師真蹟千字文。
 千文字が一双、つまり二つに分かれているので、それぞれの屏風に五百文字ずつ書かれている。

 二つ持って出るのは無理と諦め、五百字分の屏風を抱えて逃げ出した。
 
────
 
 「女は苦しからず!急ぎ罷り出でよ!」

 信長が己の周囲で震える侍女達に叫ぶと、女達は慌てて転《まろ》び出た。

 御殿を巡る廊下にも、庭から入り込んだ敵兵が階段を登り姿を表し始め、信長を守る乱法師達に槍を構え迫って来る。

 小姓衆や僅かな馬廻り衆の中に同朋衆の針阿弥がただ一人異色であったが、逃げようと思えば逃げられるのに、その素振りがないのは中々見上げた根性だった。

 甲賀五十三家の一つ、伴家の頭領太郎左衛門の姿もあった。

 信長を討ち取ろうと槍を突き出してきた明智の兵と小姓衆の間でとうとう戦闘が始まった。

 薙刀を持ち部屋の外に出た信長だったが、小姓衆が自分を守るように戦い始めると、それを援護するように弓を手に取り矢をつがえ、明智兵を次々と射倒していく。

 坊丸や力丸も必死の形相で槍を突き出す。

 敵兵が信長に近付こうとする度に兄に贈られた鎌十字の槍を振るいながら乱法師は思った。

『……此処でどんなに必死に戦い……敵を倒したところで…こちらが力尽きるのは時間の問題……弥助は妙覚寺に辿り着けたのか──』

 最早己が生き残る道は一欠片も残されていないと悟っている。

 明智の軍勢にまともに立ち向かい勝てる見込みはないとはいえ、妙覚寺と都中に散っている織田の兵が集まれば千人くらいにはなるだろう。

 その千人の兵が盾となり、信長が逃げる為の突破口を開けないかと、一縷《いちる》の望みを捨てきれない。

 その僅かな望みだけが、絶望に押し潰されそうな彼の闘志を支えていた。

 本能寺で生き残っているのは、信長の周りを固める五十名にも満たない若い小姓衆と僅かな馬廻り衆のみ。

 まだ十代の小姓達は実戦経験がない者ばかりだった。

 勇敢に立ち向かうが、具足も身に付けていない剥き出しの身体は槍がかすっただけで傷付き血が流れ出る。

 防戦虚しく一人二人と倒されていく。

 信長が幾度目かの矢をつがえた時、結弦が切れた。

 即座に薙刀に持ち代え自ら戦う姿は勇壮だったが、主を逃がす術の無い乱法師の目から涙が溢れた。

 明智の鉄砲隊が引き金を引き、一発の弾丸が信長の肘を掠めた。

 信長がよろめき肘から血が滴り落ちた。

 「──上様あぁーーー!」

 乱法師の血が怒りで逆流し、目の前で真っ赤な何かが弾けた。

 鉄砲隊が再び火を吹く前に、鎌十字で敵兵を一気に薙ぎ払う。

  生半可な防具など無効化する槍の威力は凄まじく、まともに一撃を食らった兵は臓物を飛び散らせ血達磨と化した。

 完全武装の優越感が薄れた雑兵達は、思わずたじろぎ後退る。

 「──早く!上様!あちらへ──皆、退け!上様を御守り致せ!此処は儂が食い止める!太郎左、上様を頼んだぞ!」

 乱法師は叫んだ。

 忍びの伴太郎左衛門に信長を託すしかない。
 生き残った家臣達の数をこれ以上減らす訳にはいかなかった。

 頼むと言ったところで何を頼むというのか。

 今、自分が此処で踏み留まったところで逃がす為の確たる手立てはない。

 信長は乱法師の気持ちを受け止め、僅かな家臣達に守られながら、静かに御殿の奥へと入って行った。

 これ以上信長の身体を誰にも傷付けさせない。

 「──ゥおおぉおおおーーー」

 乱法師は鎌十字の槍を振り回し、兵の一群に突進した。

─────

 「何処じゃ!何処にいる。右府(元右大臣信長)は何処じゃ!くっそ!討ち取ったのは中間と年端もいかぬ小姓一人。」

 真っ黒な具足に鬼の角を象った兜の前立てが如何にも恐ろしげな武者であった。

 捧げ持つ槍からは血が滴り、歩く床に点々と跡を付けていく。

 兜の前立ては見かけ倒しではなく、その下にある顔も獰猛な獣のようだった。

 男の名は安田作兵衛。

 数々の戦で武功を立て、明智三羽烏として名を馳せる猛将だ。

 因みに三羽烏の他の二人は古川九兵衛、箕浦大蔵丞と言う。

 作兵衛は数人の兵を率い本能寺の塀重門《へいじゅうもん》から侵入した。

 本城惣右衛門の如き雑兵とは異なり、明智光秀と斎藤利三から直々に、信長を討ち取り首級を絶対に上げろと特別な使命を帯びて討ち入った。

『他の首には目もくれるな。狙うは信長の首只一つか──しかし広い、広過ぎる。敷地だけでなく部屋数が多い──』

 当初、多くとも百名程しかいない、大半が小姓と中間ばかりの本能寺の兵力を侮り、信長は直ぐに討ち取れると高を括っていた。

 しかし僅かな守備兵に対して敷地が広過ぎて殆ど無人状態に見えてしまう事が、却って油断出来ない点であると気付いた。

 少数の敵が物陰や納戸に身を潜めている危険性もあるが、それが信長であった場合見過ごせば、着物を替え、兵達に紛れ逃亡を許してしまう可能性とてあるのだ。

 部屋を捜索しながら進まねばならないのが意外と厄介だった。

 信長を討つだけでなく首級を都に晒し、天下の主が光秀に代わった事を国中に知らしめなければならない。

 それを持って此度の企てが成功と言えるのだ。

 もし、信長父子の首級を手に入れられなければ──

 信長が生きているという噂が畿内で流れれば、諸大名が光秀に従う訳がなく、謀反人を討ち果たすべく、挙《こぞ》って牙を剥いてくるに違いない。

 安田作兵衛本人の功名だけでなく、明智軍の命運が掛かった重要な使命を果たすべく、部屋の捜索は配下に任せ、彼は庭に降り、中央の最短の道を単独で突き進む事にした。

────

 乱法師の純白の小袖には、椿か梅の花びらのような朱の血痕が数多散っていた。

 明智の兵達は、主な武将に率いられ何組かで様々な門から入り込み、違う経路を辿り御殿に向かっている。

 この場に只一人残った時、先ず始めに向かってきた兵を鎌十字の槍で突き上げ引き裂いた後、他の兵達は取り囲むばかりで明らかに腰が引けている事に気付いた。

 乱法師は明智軍の細かい事情を知らない。

 半数の兵力の進軍が遅れ妙覚寺が未だ囲まれていない事も、本城惣右衛門のような下っ端は誰を討つかも知らされていない事も。

 目の前で血飛沫を上げて倒れた組頭の死に様に、命令に従っているだけの雑兵達は怖じ気付いていた。

 己の命を犠牲にしてまで戦いたくないと思うのは無理もなかった。

 雑兵達は乱法師も信長の顔も知らない。

 二人の顔をある程度近くで見た事があるのは、精々五人の家老達だけだ。

 その下の階級の安田作兵衛でさえ、馬揃えと武田討伐の時に遠くから顔を拝めたくらいであった。

 身分が高そうな若い武士が誰かも知らず、恐ろしい切れ味の鎌十字は、自分達の粗末な鎧を易々と引き裂くだろう。

 「……う、ゥォおおーおォぉー」

 雄叫びを上げるだけで向かってこない雑兵に苛立ち、乱法師は槍を軽々と一閃するや、たちどころに一人を串刺しにした。

 「──ひゃ!ぎゃあーうゥーーワアー」

 命賭けで戦う気概に欠けた雑兵達は、組頭が死んだのを良い事に、脱兎の如く逃げ出した。

────

 「──火を放て──」

 「……ははっ……」

 最早これまで──

 落城の時は皆同じだ。

 城に火を放ち、敵の侵入を防ぐ。

 それは信長の自害を意味していた。

 十数人に数が減ってしまった小姓達は信長の言葉に嗚咽した。

 坊丸や力丸を含めた小姓達が火薬を撒き、火を放とうとしているところへ乱法師が走り込んで来た。

 「あ…兄者……無事であったか……上様が……上様がぁーーゥゥうっーー」

 「─────」

 坊丸と力丸の真っ赤に泣き腫らした目を見て、何も聞かず乱法師は信長がいる筈の納戸へと急いだ。


─────


 側には忍びの頭領伴太郎左衛門だけが控えていた。

『そういえば朝、手や顔を洗っている最中に討ち入ってきたのであったな。』

 と、早朝と同じく手や顔を清めながら信長は呑気に敦盛を口ずさんだ。

 「人間ーー五十年ー下天のうちをーーくらぶればーー夢幻の如くなりーひとたび生を得てーー滅せぬ者のーあるべきかーー」

 真に死を覚悟したのは二十代の時、桶狭間の戦いに挑む時だったかもしれない。

 あの時はもう駄目だと思ったが、その後二十年も命を永らえる事が出来たのかと思うと可笑しくなった。

 「──夢幻か──」
 
 一体己にとって何が現《うつつ》で何が夢だったのか。

 ずっと戦場で散る運命と思って生きてきたから、腹を切ろうとしている、この時こそが生々しい現であり、安土に移り住んでからの華やかな日々は一瞬の夢だったのではないかとさえ思えた。

 信長の心は静かであったが、渇いてもいた。

 今まで死線を潜り抜けて来れたのが、生命への執着が人一倍強かったからだとは思えない。

 敵を倒し人の血を浴びれば浴びる程、そして天下に近付けば近付く程心は渇いていった。

 生きたいという情熱が強く戦う為の糧となったのではなく、戦場に身を置く事そのものが、死を恐れるという生物としての当たり前の本能を奮い起こさせてくれていたに過ぎないのかもしれない。

 膝の前に置いた粟田口吉光《あわたぐちよしみつ》作の愛刀、薬研藤四郎《やげんとうしろう》を両手で握る。

 「──上様!─上様ぁーー上様ーーーー」

 乱法師の声に、手が止まった。

 髪を振り乱し血だらけの姿で、縋るような目をした彼は入り口に立ち尽くしていた。

 「……蘭……」

 親しい者の死と裏切りに馴れ、信じる事にも生きる事にも疲れたと感じる時もあった。

 だが今、己を見詰める直向きな瞳から溢れる涙で信長の渇いた心に潤いが広がり、後悔の念と死への躊躇いが生じた。
 
 慈しみ、片時も側から離さなかったが故に、兄弟共々死出の供をさせる事になってしまうとは──

 「最期まで御供つかまつる事、これに勝る幸せはございませぬ。」

 信長の瞳に一瞬浮かんだ懺悔の色を見逃さず、力強く乱法師が言い放つ。

 同じ時、同じ場所で、生涯でただ一人愛した者と共に死ねる。

 乱法師の言葉に嘘偽りはなかった。

 「ただ今……御殿に火を放ちましてございまする。」

 坊丸と力丸が終わりの時が近い事を告げた。

 
 「蘭──そなたがやれ──!」

 信長が自分の首の後ろを片手で斬り落とす仕草で意思を伝えた。

 「───ぐ……う、あーーいやじゃーーいやじゃ!あぁーーー」
 
 主から最期に与えられた、余りにも残酷な命令に気が動転し頭をかきむしり絶叫する。
 
 「そなたにしか出来ぬ!」

 動じる乱法師を冷静な声で励ますと、白い寝衣の前をくつろげ、薬研藤四郎を握り目の高さに掲げる。
 
 だが目の前の成り行きに冷静になるどころか、乱法師は益々狂ったように絶叫した。
 
 「───あぁぁぁーーうぅ……いやと言ったら嫌じゃぁーーーー」

 必死の形相で信長の背後から縋り付くと、振り向いた顔を無理矢理両手で挟み込み、別れの時を少しでも遅らせようと唇を重ね、荒々しく舌を絡めて貪った。

 二人の弟達のうち力丸は、目の前で繰り広げられる激しい交わりを口をぽかんと開け、ただ呆然と見詰める。

 坊丸は一瞬驚いたが冷静になると、こんな場面なのについ思わずにはいられなかった。

『力は知らなかったのか?つくづく鈍いな。』
 
 外で銃声が鳴り響き、無情にも敵が近くに迫ってきている事を悟らせた。
 
 まだ乱法師は唇に吸い付いて離れない上に、信長も抗う様子がない。

 とめどなく溢れる乱法師の涙が信長の頬にぽたぽたと伝い落ち、信長まで泣いているかのように見えた。

 この儘では──
 
 坊丸は立ち上がり、兄を無理矢理引き離そうとした。
 が、凄い力で離せない。

 「くっそーー!力っ!力ぃーーお前もぼけっとしてないではやく手伝えーー!」

 我に返った力丸に太郎左衛門まで加わり、三人がかりで乱法師を引き剥がす。

 半狂乱で暴れる兄を自害の邪魔にならぬようにと、泣きながら二人がかりで押さえつけた。

 「──おおおぉ─ぅぅうおおぉォーーあぁーーぁあぁーあぁぁっくっうッウぅうォおおー」

 兄の悲痛な嘆きの声と苦しみ悶える姿に、坊丸も力丸も耳を塞ぎたくなった。

 「蘭!そなたが良いのじゃ!そなたでなければ逝けぬ。他の者では断じてならぬ。」

 弟達に押さえ付けられ、無様に泣き叫ぶ乱法師の頬を両手で包み込み、幼子に言い聞かせるように信長は優しく諭した。

 主の最期の望み───

 命を救う事が出来ぬのならば──

 明智の指一本たりとも触れさせはしない。

 もう誰にも傷付けさせない。

 苦しむ姿は見たくない。

 そして絶対に光秀に首級は渡さない──

 信頼とは、決して裏切らない相手と信じる事ではなく、殺されても構わないと思える相手に、己の命を預ける事なのかもしれない。

 
 乱法師はよろよろと立ち上がると不動行光の柄を握った。

 伴太郎左衛門は敵の動向を気にしながらも、乱法師が斬り損じた時の為に刀を抜いておく。

 乱法師の身体は震え、涙で霞む目の先に見える信長の姿が幻であってくれれば良いと尚も願った。

 坊丸や力丸も顔を伏せ、嗚咽した。

 薬研藤四郎の鞘を抜き、信長は日頃話し掛ける時のように優しい声で彼の名を呼んだ。
 
 「蘭丸長定──」

 はっと目を見開いた瞬間、信長は腹に短刀を突き立て横に引いた。

  「ふ!──う……ん──ぐぅ」

 戦闘の音にかき消され、呻き声は良く聞こえない。
 
 乱法師は目を塞ぎ耳を塞ぎたかったが、不動行光で信長を守ると心に誓った事を思い出した。

 そして愛する者を永遠に守る為に、不動行光を振り下ろした──

 
 畳に強く立てられた爪からは血が滲み、顔を伏せ、すすり泣く。

 「若様方!お早く!」

 伴太郎左衛門が叫んだ。

 まるで森家の家臣であるかのように『若様』と三兄弟の事を呼ぶ。

 泣いている暇などないと急かしたのは、信長が死んだ以上三人が自害するならば、全ての後始末を自分が引き受けようと考えたからだ。

 「……兄者……」

 畳に突っ伏し嗚咽する乱法師の肩に力丸が手を置いた。

 「───ぉのれーー光秀ぇーー」
 
 顔を上げた乱法師の顔は鬼のように変貌し、身内から沸き起こる怒りで目は爛々と燃えていた。

 「……かえ……」

 その口から絞り出された言葉が良く聞き取れず、顔面蒼白の坊丸が兄の側に寄る。

 「──戦え!!自害などせぬ!!」

 「……なれど……最早……上様は……」

 兄の叫びに、現実を受け止められず狂ったのかと弟達は思った。

 「──自害などして何の役に立つ!儂等が自害せずば上様は生きておられると敵は思うであろう!この身から血が一滴残らず流れ出るまで、上様の御為に戦って見せる!光秀如きに易々と天下は取らせぬ!!」

 伴太郎左衛門が信長の亡骸を包み、畳を剥がした下に入れ火薬を撒いた。

 乱法師、坊丸、力丸は納戸の扉を固く閉じ外に出た。

 中から凄まじい爆発音が聞こえたが、涙は溢れなかった。

 最早そこに信長はおらず、己の心の中に、その存在を強く感じていたからだ。

 兄弟が廊下に出ると、御殿に炎が燃え広がり始めたせいか、煙の臭いが充満し熱い熱を感じた。

 敵の姿を求め廊下を進むごとに、小姓達の骸が花びらを散らしたように横たわっていた。

 焼け死ぬのを恐れ、敵は既に退いたのではないかと坊丸が思い始めた時、視線の先に鉄砲隊も含めた十数名の兵達が現れた。

 「まだ、此処に生き残りがおるぞ!右府(元右大臣信長の事)はどこじゃ!」

 「無礼者!!それはこちらの言う事じゃ!!下郎共め!此処から先には行かせぬ!まとめて貴様等、地獄に道連れにしてくれるわ!」

 明智兵の無礼に激怒した乱法師の槍が一閃すると、言葉通り一人の兵が血を噴き出して倒れた。

 明らかに年若い小姓姿の乱法師の偉そうな態度だけでなく、一振りで鎧武者を倒した槍の凄まじさに兵士達は動じた。


 此処にいるのは乱法師の顔を見知る者より、一段二段は格下の者達ばかりである。

 『ただの小姓には見えぬ。』

 明らかに自分達を『下郎』と見下す自信満々な言動に安田作兵衛は思った。

 こんな偉そうな態度の小姓は他にはいない。

 『森の御乱に間違いない!』

 やっと大将首に出会えた喜びで作兵衛の身体に闘志がみなぎってきた。

『絶対に御乱を討ち取り、右府の首級も儂が上げてみせる!』

  パンッ パンッ 

 乱法師の槍に動じた敵が、鉄砲を放った。

 「──うっ──」

 坊丸は声のした方を見た。

 力丸の脇腹が赤く染まっていた。

 「力ぃーーーー」

 兄達の方に視線を向けた力丸の顔が一瞬微笑んだように見えた。

 残された力を振り絞り、力丸は鉄砲を構える兵達にまっしぐらに突っ込んだ。

 二人を槍で突き殺したが、背後から刺され、弟を助けようとした坊丸の腕の中に倒れ込む。

 その時、天井から何かが降ってきた。

 兄弟と明智兵の間に火の粉がぱっと舞う。

 壁や天井に吊るされていた大量の槍が、支える木組みが炎で焼け落ち上から降ってきたのだった。

 木と紙で作られた日本の家屋は、一旦火が点けば、あっという間に燃え広がる。


 「……力……」

 坊丸の腕に抱かれ乱法師に見つめられながら、力丸は最期の言葉を発した。

 「……さ…きに…い…て……まつ…」

 
 御殿が少しずつ崩れ始め、明智勢に動揺が走る。

 「──もう駄目じゃ──早く逃げねば焼け死ぬぞ!」

 そう叫ぶや、明智の兵達の殆どが外へと退き始めた。

 その場に残ったのは、ほんの数名のみ。

 「犬畜生にも劣る下郎共よ!貴様等も尻尾を巻いて逃げ出さずとも良いのか?それとも、此処で裁きの炎に焼かれたいか!!」

 乱法師は罵り嘲笑った。

 「そこにおられるのは、森御乱殿と御見受け致す!某の名は明智三羽烏の一人安田作兵衛。右府様は何処に行かれたか?尻尾を巻いて逃げ出されたか?」

 安田作兵衛は乱法師に挑発され苛立ち言い返した。

 他の兵達は目の前にいるのが乱法師と知り色めき立つ。

 最後の砦に漸く辿り着いたのだ、と。

 「──っは!貴様等のような下衆共に名乗る名は無い!貴様の名にも興味は無い!無論、上様は此処を抜け出され、安土に向かっておられるであろう。薄汚い明智の犬共!上様が成敗されるまでもなく、儂が貴様等に引導を渡してくれるわ!」

 散々に罵倒され、短気な作兵衛の怒りに火が点いた。

 「くっそーー絶対に倒す!」

 そこに残った兵達は、いずれも闘志に燃える猛者ばかりだ。

 炎の中で死闘が始まった。

 坊丸も巧みな槍捌きで必死に戦うが、誰を討つかも分かっておらず、気概など無い雑兵共とは格が違う。

 鋭い突きを繰り出しても、致命傷を負わせるに至らず、防ぐ術の無い坊丸の身体に傷が重ねられていく。

 乱法師とて同じで、槍が掠っただけで肌は裂け、避けきれずに槍で突かれた耳朶からは酷い出血をしていた。

 具足を身に付けていないだけでなく、敵は強く兄弟の数より多いのだ。

 それでも二人倒し、残った敵は三人になった。

 戦いによる疲労だけでなく、炎の熱によって全員の息が上がっていた。

 安田作兵衛は焦った。

 女子のような美形だからと侮るつもりはなかったが、思った以上に手強いと感じた。

 野戦での戦いならば負ける気はしないが、乱法師と心中する気は毛頭ない。
 燃え盛る炎の中では分が悪過ぎる。

『早く倒さねば──右府の首級どころか儂が焼け死ぬ──』

 「どうした!下郎!口程にも無い!貴様の槍捌きでは虫も止まりそうじゃのう。儂を倒すと申したは口先だけか!早う倒さねば焼け死ぬぞ!」

 作兵衛の心の内の焦燥を見抜き、挑発しながら槍を突き出す。

 乱法師の髪は血と汗で濡れ、元が純白だったとは思えぬ程、小袖は血で真っ赤に染まっていた。

 片肌脱いで剥き出しの肌は傷付き血が流れ、炎で赤く照らされた顔は殺気立ち、さながら阿修羅のようであった。

 凄まじく速い突きを避けても、今度は鎌十字の横刃が横凪ぎに襲ってくる。

 ただの雑兵ならば怯んで逃げ出しただろうが、作兵衛は明智三羽烏の一人、死に物狂いで向かってくる敵を今まで何度も倒してきたのだ。
 
 必死に避けながらも頭は冷静で、後ろに徐々に下がり、燃える御殿の奥から乱法師を引摺り出そうと図る。

 数々の戦場で自然に身に付いた冷静な判断。

 頭に血が昇った乱法師には姑息に逃げ回っているようにしか見えず、苛立ち声を荒げ、作兵衛の策に嵌まっている事に気付いていなかった。

 しかし巧く御殿の外に誘い出したと思ったら、作兵衛は直ぐ背後に庭に降りる為の階段がある事を失念していて、後ろ向きに地面に転げ落ちてしまった。

 『──しまったーーー!』

 作兵衛は完全に殺られると思った。

 喉も胸も腹も無防備の仰向けである。

 態勢など立て直す暇はない。

 乱法師の槍先が光り、駄目だと思った瞬間──


 「──ぐおおーーうがあっくうーあうぅぐーはぁーーー」

 思わぬ所に激痛が走った。

 満身創痍の乱法師の全身からは血が止めどなく流れ、視界は霞み、疲労と出血で立っているのもやっとだった。

 己の血と敵の返り血で滑る槍は喉元を狙ったつもりが大きく逸れ、作兵衛の男根を貫いていた。

 急所には違いないが、急所違いであった。

 作兵衛は男の大事な印を貫かれ、痛みで意識朦朧とし掛けたが、此処で失神したら失うのは男根だけでは済まぬと何とか堪える。

 乱法師が急所を外した事に気付き、槍を手元に戻そうとするのを、そうはさせまいと作兵衛が掴んで離さない。

 欄干に足をかけ力任せに引き抜こうとした乱法師の脛を、思いきり刀で横に払った。


 「──うァあああーーぅうァーーー」

 今度は乱法師が崩折れ、脛を深く斬られた痛みで絶叫する。


 作兵衛が刀を杖がわりにして何とか立ち上がろうとした時、坊丸を討ち取り向こうから走り寄ってきた鎧武者が、刀を振り上げ乱法師の背中を袈裟懸けに斬った。

 

 瞬間、世界が反転し、最期に乱法師の目に映ったのは燃える炎。

 金山城で信長と過ごした夜の、篝火の暖かい灯りとなり、彼を優しく包み込んだ。

 命の灯火《ともしび》が消えようとする直前、握り締めていた不動行光の柄巻の感触が、彼の最期の記憶となった──

 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

織田信長 -尾州払暁-

藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。 守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。 織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。 そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。 毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。 スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。 (2022.04.04) ※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。 ※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。

【完結】風天の虎 ――車丹波、北の関ヶ原

糸冬
歴史・時代
車丹波守斯忠。「猛虎」の諱で知られる戦国武将である。 慶長五年(一六〇〇年)二月、徳川家康が上杉征伐に向けて策動する中、斯忠は反徳川派の急先鋒として、主君・佐竹義宣から追放の憂き目に遭う。 しかし一念発起した斯忠は、異母弟にして養子の車善七郎と共に数百の手勢を集めて会津に乗り込み、上杉家の筆頭家老・直江兼続が指揮する「組外衆」に加わり働くことになる。 目指すは徳川家康の首級ただ一つ。 しかし、その思いとは裏腹に、最初に与えられた役目は神指城の普請場での土運びであった……。 その名と生き様から、「国民的映画の主人公のモデル」とも噂される男が身を投じた、「もう一つの関ヶ原」の物語。

忠義の方法

春想亭 桜木春緒
歴史・時代
冬木丈次郎は二十歳。うらなりと評判の頼りないひよっこ与力。ある日、旗本の屋敷で娘が死んだが、屋敷のほうで理由も言わないから調べてくれという訴えがあった。短編。完結済。

東洲斎写楽の懊悩

橋本洋一
歴史・時代
時は寛政五年。長崎奉行に呼ばれ出島までやってきた江戸の版元、蔦屋重三郎は囚われの身の異国人、シャーロック・カーライルと出会う。奉行からシャーロックを江戸で世話をするように脅されて、渋々従う重三郎。その道中、シャーロックは非凡な絵の才能を明らかにしていく。そして江戸の手前、箱根の関所で詮議を受けることになった彼ら。シャーロックの名を訊ねられ、咄嗟に出たのは『写楽』という名だった――江戸を熱狂した写楽の絵。描かれた理由とは? そして金髪碧眼の写楽が江戸にやってきた目的とは?

帰る旅

七瀬京
歴史・時代
宣教師に「見世物」として飼われていた私は、この国の人たちにとって珍奇な姿をして居る。 それを織田信長という男が気に入り、私は、信長の側で飼われることになった・・・。 荘厳な安土城から世界を見下ろす信長は、その傲岸な態度とは裏腹に、深い孤独を抱えた人物だった・・。 『本能寺』へ至るまでの信長の孤独を、側に仕えた『私』の視点で浮き彫りにする。

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

戦国の華と徒花

三田村優希(または南雲天音)
歴史・時代
武田信玄の命令によって、織田信長の妹であるお市の侍女として潜入した忍びの於小夜(おさよ)。 付き従う内にお市に心酔し、武田家を裏切る形となってしまう。 そんな彼女は人並みに恋をし、同じ武田の忍びである小十郎と夫婦になる。 二人を裏切り者と見做し、刺客が送られてくる。小十郎も柴田勝家の足軽頭となっており、刺客に怯えつつも何とか女児を出産し於奈津(おなつ)と命名する。 しかし頭領であり於小夜の叔父でもある新井庄助の命令で、於奈津は母親から引き離され忍びとしての英才教育を受けるために真田家へと送られてしまう。 悲嘆に暮れる於小夜だが、お市と共に悲運へと呑まれていく。 ※拙作「異郷の残菊」と繋がりがありますが、単独で読んでも問題がございません 【他サイト掲載:NOVEL DAYS】

【架空戦記】蒲生の忠

糸冬
歴史・時代
天正十年六月二日、本能寺にて織田信長、死す――。 明智光秀は、腹心の明智秀満の進言を受けて決起当初の腹案を変更し、ごく少勢による奇襲により信長の命を狙う策を敢行する。 その結果、本能寺の信長、そして妙覚寺の織田信忠は、抵抗の暇もなく首級を挙げられる。 両名の首級を四条河原にさらした光秀は、織田政権の崩壊を満天下に明らかとし、畿内にて急速に地歩を固めていく。 一方、近江国日野の所領にいた蒲生賦秀(のちの氏郷)は、信長の悲報を知るや、亡き信長の家族を伊勢国松ヶ島城の織田信雄の元に送り届けるべく安土城に迎えに走る。 だが、瀬田の唐橋を無傷で確保した明智秀満の軍勢が安土城に急速に迫ったため、女子供を連れての逃避行は不可能となる。 かくなる上は、戦うより他に道はなし。 信長の遺した安土城を舞台に、若き闘将・蒲生賦秀の活躍が始まる。

処理中です...