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第15章 帰郷
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「上様!御出馬にございます!!」
大きな先触れの声に留守居の家臣達、妻妾、子供達、女房衆が居並び見送る中、満を持して信長が出陣した。
南蛮銅具足と呼ばれる西洋の甲冑を模した、全身銀色の極めて異色な造りの具足を身に付け、大黒なる名馬に跨る。
柔らかな曲線の兜には金の木瓜紋の前立て。
兜と胴は鉄製で、鉄砲でも撃ち抜けぬ程頑強な作りだ。
宣教師から献上された表地は黒、裏地は赤というビロードのマントを上から羽織った。
付き従う足軽に金の唐笠の馬印を持たせ、黄色地に永楽銭の軍旗が風にはためく。
都の公家衆も信長を見送る為に安土を訪れ、その中には勧修寺晴豊の姿もあった。
近衛前久は従軍を許された唯一人の公卿として、兵士達と共に馬を歩ませる。
信長の勇姿を一目見ようと街道には大勢の人々が集まり、後列の者達は押し合い必死に首を伸ばす。
明智光秀、筒井順慶、摂津の高山右近を始めとして、堀秀政、長谷川秀一などの側近衆も軍勢を引き連れ、細川忠興は父の藤孝の代わりに出陣の共に加わった。
乱法師はというと、無論信長の側にいた。
母直筆の南無阿弥陀仏の前立ての兜に、背中には信長直筆『吉野竜田花紅葉更級越路乃月雪』と書かれた旗指物を背負い、腰には信長拝領の刀不動行光という出で立ちである。
不動行光で信長を守ると誓いながら、まるで己の守り刀であるかのように肌身離さず身に付けていた。
彼が携えた武具から、母の愛は無論の事、信長の愛を一身に受ける存在である事は一目瞭然だった。
軍勢は粛々と進む。
中仙道を通り信州を目指して。
吉田兼和は、この日の明智光秀の軍勢は一際大勢で綺麗だったと一族の吉田浄勝から知らされ日記に記している。
片や勧修寺晴豊は、明智の軍勢は「ちりちり」と出立し、兵士達は「しほしほ」とした様子だったと記した。
「ちりちり」は散り散りでまとまりがなく、「しほしほ」は元気がなくしょんぼりとしていたと伝えたかったのかもしれない。
畿内から信州までは、当時遠い道のりであった。
騎馬兵ならともかく、足軽が「しほしほ」となるのは無理もない。
乱法師は漸く信長が出陣してくれて色々な意味で安堵し嬉しくて仕方がなかった。
道々民衆がにこやかに手を振り軍勢に声援を送る。
晴天に恵まれた暖かな陽気に蝶が舞い、満開の桜、道に咲く黄色の菜の花につくし、春爛漫の長閑な景色に乱法師は心浮き立ち信長に声を掛けた。
「上様、真に良い御天気でございますね。本日は柏原の上菩提院に泊まられるという事で宜しいのですか?」
信長が何度か宿として利用した柏原の上菩提院は近江国内にある。
「初日から雨では叶わぬからのぅ。そなたはもっと早く進みたいのか?っぷは。」
言いながら振り返り、乱法師の顔の辺りを見て信長が吹き出す。
乱法師の兜の前立てに紋白蝶が止まっていた。
なぜ笑われたか分からず首を傾げると蝶はひらひらと翔んでいった。
「あっつ……」
「どうした?」
項の辺りに微かに刺すような痛みを感じて手で押さえる。
「大事ございませぬ。虫にでも刺されたのかと。」
僅かな痛みであったので気にせず馬を進める。
痛みの正体は、妬みに燃える視線であった。
『お乱め!何じゃ、あの指物は!武功も立てておらぬ身で!御直筆など畏れ多い物を背負いおって──何故、あやつばかりが──許せぬ!』
細川忠興は信長と楽しげに話す乱法師に対する妬心を抑えきれなかった。
馬に乗っていなければ、その場で地団駄踏んで悔しがっていただろう。
燃える視線は忠興だけではなく、更にもう一人──
『あやつ──当然のように上様の御側に侍りおって。第一の近習気取りじゃな。良い気になっておられるのも今のうちじゃ!』
長谷川秀一は暗い炎をちろちろと瞳に宿らせ、その視線が蛇のように乱法師の全身を這い回った。
幸か不幸か自分に向けられる妬みや色事に関しては乱法師はとかく鈍かったので、二人の視線には全く気付ずに済んだのだった。
それはさておき、出馬さえしてしまえば、そんなに急ぐ必要はないので軍勢はのんびりと進んで行く。
出陣と気張ったところで、内実は戦の後始末に行くのが目的と割り切っていた。
安土を未明に発った軍勢は、本日の宿所である上菩提寺に到着した。
此処で具足の紐を解き、小袖に着替え寛いでいたところに、高遠城が陥落したという報せが届けられた。
「もう高遠城が落ちたのか!先日の報せでは飯島にすら進んでおらなんだのにか。城之助(信忠)め!中々やりおる。」
先日、これ以上の進軍は無用と書き送ったばかりなのに、進軍どころか難攻不落の高遠城を落とした息子に対して、複雑ながら驚嘆と称賛の情を示したのも無理はない。
「高遠城は二日未明に攻撃を開始し、一日で落ちましてございます。敵将、仁科盛信の首級は運んでいる途上にて、明日には御目にかけられるかと。まずは早馬にて落城を報せに馳せ参じましてございます。」
「相分かった!明日は岐阜に向かう故、その途上で実検するとしよう。城之助に良くやったと伝えよ!大義であった!」
信長はそう言うと使者を下がらせた。
─────
「ここまで早く落ちるとはのぅ。四郎(勝頼)が首も信州に着く前に届いてしまいそうじゃ。」
湯殿で己の背を流す乱法師に話し掛ける。
本来であれば小姓がすべき仕事をさせてしまうのは、信長の彼に対する甘えでもある。
二人の間に垣根はなく、良くも悪くも公私共に結びついているのだ。
「先日進軍は一切無用との文を書いておいででしたから、上様の御到着を待っておられるのではないでしょうか。」
後ろを向き乱法師の額に軽く唇で触れ、可笑しそうに笑う。
「真はそう思っておらぬのであろう?武蔵守や平八が大人しくしておるものか。儂の書状など見ぬ振りで先に進んでおるであろうな。咎められたら言い訳まで考えてあるやもしれぬ。」
「申し訳ございませぬ。真に……」
兄の無茶な行動について言われると消え入りそうになってしまう。
「はは、武蔵守のやり様にはもう慣れておる。此度も獅子奮迅の働きをしたらしいからな!それよりも明日は岐阜じゃ。安土に移って六年は経っておるが住み慣れた城じゃ!此処よりはゆっくり出来るし兵達も休ませてやれる。」
翌日未明に柏原を出立し中仙道を進むと、道を横断するように流れる呂久川(揖斐川)に行き当たった。
岐阜に行くにはこの川を渡るのだが、その為の渡船場が信忠によって造られ呂久の渡しと呼ばれていた。
到着すると既に仁科盛信の首級は運ばれてきていた。
休憩がてら、この呂久の渡しで首級の実検を行う。
首桶を開けると美しく死に化粧の施された、まだ若々しい盛信の首がそこにあった。
首となって対面すれば、不思議とどのような敵に対しても特別な感情は湧いてこない。
多くの敵は戦っている時には顔も知らず、対面する時にはどちらかが首になっている為、生前を知らないからだ。
ただ、その死に顔は穏やかに見えた。
死に様は、首級を運んだ使者より語られた。
織田勢の猛攻、攻防の成り行き、高遠城兵の決死の防戦、諏訪勝右衛門の妻の奮戦や若武者の健闘、仁科盛信の武田武士としての誇りある最期の様子について。
余程無様で卑劣な死に様でない限り、敵とはいえ辱しめるような事は言わないものだ。
やや感傷的な使者の語り口調とはいえ、何としてでも滅び行く名門武田の意地と誇りを最期まで貫き通したかったという思いは充分に伝わり、乱法師は少し切なくなった。
この時代の習いとして首級が長良川の河原に晒される事になったのは哀れとはいえ、写真の無かった時代の天下に勝利を知らしめる方法であったのだから仕方がない。
信長と乱法師等供回りは呂久の渡しに用意されていた御座舟で川を渡った。
街道には様々な持て成しの用意がされており、軍勢が不自由を感じずに済むようにとの配慮は、織田家の領土が拡大し、威光が遍く行き渡っている事を物語っていた。
さて、信長と乱法師他、小姓達は御座舟で渡河したが、他の数多の兵士達は舟橋を渡り中仙道を横断し岐阜を目指した。
この日も終日天気は良く、無事に岐阜城に到着した。
信長にとっては懐かしい古巣に戻ってきたというところだ。
乱法師は岐阜城の山頂と山麓に二つの『てんしゅ』があるのを先月、目で見てきたばかりだ。
その時、どうやら現在の主信忠は、山麓の天主を日々の生活場所として使用しているようだと感じた。
ところが信長は岐阜城にいた頃、山頂の天守を居住空間として使用していたらしい。
天守には緒大名から預かった人質も住まわせていたが、これは山頂ならば簡単に逃げられず救い出せないという考えあっての事なのだろう。
大手道を通り、信長は山頂を目指してすいすい登って行く。
先月訪れた時には山麓の御殿で信忠と対面し泊まって帰ったが、山頂まで行くのは初めてである。
城ごとで仕掛けに特色がある為、好奇心が騒いだ。
信長は嬉々とした様子で、安土に移ってから仕え始めた新参の家臣達に道案内しながら曲がりくねった道を登って行く。
標高が上がるにつれ空気は冷たく澄み渡り、草木がたまにさわさわと揺れるので目を遣ると、愛らしい栗鼠がいた。
山鳩らしき鳴き声も聞こえてくる。
斜面は意外と緩やかだが、山頂で寝て朝起きると山麓の御殿に毎日降りて来ていたというのだから凄い健脚である。
半刻はかからず頂上に着くと身体は温まり、皆少し息が荒くなっていた。
少し休憩して後、天守の最上階に連れて行かれた。
「一番上からの眺めは凄いぞ!ここからの景色だけなら安土よりも絶景かもしれんな。」
確かに素晴らしい景色である。
「あ!あそこに見えるのは大垣城でございますね。あんなに遠くまで。」
東西南北どこを見渡しても違った景色が楽しめ、南側は濃尾平野が眼下に広がり壮大な眺めである。
沈む夕陽が平野を明々と照らし、木曽川の流れを追っていると、故郷から安土に出立した日の事が懐かしく思い出された。
『さすがに金山城までは見えぬか。』
そんな事を考えながら景色に見惚れていると、後ろからいきなり抱き締められた。
「乱、金山の事を考えておるのであろう?」
「はい、木曽川の流れの先に金山の城が見えないかと──舟で下り安土に参りましたのが昨日の事のようでございます。時が経つのは早いもの。あの日が懐かしゅう思い出されて……」
後ろに顔を向けた乱法師の顎を指で上向かせると、信長は愛しげに唇を軽く重ねた。
「岐阜の次は犬山城、その次は金山に泊まるつもりじゃ!嬉しいか?」
「──え!金山に──城に参られるのですか?上様が?」
信じられないという面持ちで信長を見詰めた。
金山城に信長が来てくれると思うだけで感激の余り瞳は潤み、嬉しさで胸がいっぱいになってしまう。
「そんなに故郷に帰りたかったのなら申せば休みぐらいやるものを。信州に行く途中に寄って行こうと思ってな。」
「違いまする!上様が金山の城に参られるなど夢のようで──兄の城である限り帰ろうと思えば帰れますが、上様が足を運ばれる事など、そう何度も……いえ、もう二度とない事かも。亡き父も兄も、どれ程喜びます事か……うっうぅ……」
「全くそなたは困った奴じゃ。真に、全く愛い奴じゃ……」
感極まり、はらはらと涙を溢す彼の単純で大袈裟な喜びように、ひとしお愛おしさを感じてしまう方もかなり単純だった。
互いの愛が頂点に達し、絡み合い縺れ合い、勢い余って床に倒れ込み、その場で事に及んでしまいそうな程に乱法師の気持ちも高まってしまったが、珍しく信長が押し留めた。
「待て、続きは閨で、じっくりと致そう。」
────
言葉通り、日暮れ前の続きは閨で激しく繰り広げられていた。
先程から乱法師は枕にしがみつき、絶え間なく声をあげていた。
激しい荒波と細波のような愛撫を同時に身に受け、息も絶え絶えの有様だった。
快楽の大波にすっかり理性は呑み込まれ、頭の中で火花が爆ぜ真っ白になる程の絶頂に全てを委ねる。
意識が身体を離れ桃源郷を浮遊し、暫し言葉を忘れた。
ぼうっと俯せで臥している彼の髪を撫でる手の感触で、漸く桃源郷から現の世界に戻ってこれた。
「明日、金山に向かい上様をお迎えする準備を整えたいと存じます。」
真っ先に口にしたのはその事であった。
信長は驚かせたくて言わなかったのだが、迎え入れるほうからすれば大変な騒ぎであろう。
各地で持て成しを受けるのには慣れているが、元来煩い事を言う質ではない。
豪華な持て成しを受ければ心遣いに報い感謝も褒美も存分に与えるが、親しい間柄の者から見れば、実にざっくばらんで気取らぬ人柄でもあった。
逆にされるよりもする方が意外と好きで、宣教師達にしてやったように、奇抜な趣向を考えるのが楽しいのだ。
特に乱法師のように年若い者であれば大袈裟な接待は不要と考えていたが、本人はやけに張り切っている。
「そんなに気張らずとも良い!明日は雨が降りそうじゃ。先に使いを出してそなたは後から参れば良いではないか。」
翌日は信長の言葉通り雨が降り、岐阜城に留まる事となってしまった。
乱法師は上様が参られるので諸事万端整えておくようにとの使いを出した。
────
裏切った家臣達の人質と共に新府城を焼き払い逃亡中の武田勝頼だが、重臣であった小山田信茂を頼りに勝沼の山中から駒飼《こがつこ》という山村まで落ち延びた。
先に進むごとに共の家臣達は逃げて減り続け、女子供ばかりの頼りない一行が、小山田を信じ足を血に染めて逃げて来たのを土壇場で裏切り、鉄砲まで撃ち追い返したというのだから、あまりの非情と言えよう。
その勝頼一行を追い、信忠は甲斐を目指して進んでいた。
───雨降りの為、岐阜城で二日を過ごした乱法師は、内部を嬉しそうに案内する信長のお陰ですっかり城に詳しくなった。
雨が止めば明日は犬山城に赴く事になっている。
犬山城は金山城と同じく木曽川沿いに位置する美しい城で、まるで兄弟城のようだった。
昨年まで信長の乳兄弟池田恒興の居城だったが、今は信長の五男で長く武田家の人質になっていた勝長改め信房が城主となっている。
金山城からだと木曽川を舟で行けばすぐの立地である事と、池田恒興の娘が長可に嫁いでから、犬山城と金山城では嘗て頻繁に行き来があった。
池田恒興は娘の婚儀と、その後は娘と孫に会いに行くという名目で金山城を訪れ、乱法師達は犬山城で池田家の兄弟と良く遊んだものだった。
池田家の嫡男元助は信忠の軍に父の代わりに加わっており、細川忠興といい、先陣を長可や平八に命じた事といい、若者に手柄を立てさせるという狙いが此度はあるのだろう。
これを世代交代と考えるならば、領地を継ぐ息子がいない者には悪い意味にも取れてしまう。
何はともあれ、すっかり物見遊山行軍に切り替わってしまった訳だが、権力者信長の命を狙う者が星の数程いるという現状だけは変わらない。
岐阜城は嫡男の城、次に泊まる犬山城は五男の城、その次は愛する乱法師が生まれ育った城なのだから、警戒心は和らぎ心身共に寛げるというものだ。
旨い食事と特産品、城からの景観を楽しめればそれで良かったのだが、乱法師は金山城を初めて訪れる信長の為に精一杯の持て成しをしたかったので城で出迎える許しを得た。
力丸を信長の側に置き、坊丸と家臣数名を伴い金山城まで再び木曽川を舟で下る事にした。
五年前にも通った道筋を改めて辿るのは懐かしくもあり新鮮でもあった。
まず犬山城が迫ってくると、真に故郷に帰って来たのだという実感が湧いてくる。
故郷の香り、故郷の色。
生まれ育った者にしか分からない微かな違いを五感で感じ、気持ちが逸る。
岐阜城からだと十里程の距離だから、昼頃には着けるだろうか。
川の水は淀みなく流れ、休む事なく始まりの場所に運んでくれる。
あの頃の自分とは違う自分を──
指先を少しだけ川に浸し冷たさを楽しむ。
生まれてから十二年間過ごした場所に五年振りに戻ってきたのだ。
舟は犬山城を横目に見ながら流れて行く。
ちょうど満開の桜の木々が天守閣に重なり、一幅の絵のような麗しさだ。
更に舟は漕ぎ進み、のんびりと思い出に耽りながら、あの時と同じ穏やかな風に吹かれていると、やがて懐かしい兼山湊に到着した。
舟から上がり、城主の弟である旨を告げると湊の番人は畏まり、すぐに城下に至る道に通された。
城下町の人々は自分を見ても分からない、或いは忘れているやもしれぬとふと考えた。
だがそれは、あっという間に杞憂に終わった。
「あっ!もしかして、乱法師様でねえか?」
「森の若様達じゃ!やれ、御立派になられて。久しぶりにお見掛けするのぅ。」
「安土の信長公にお仕えしてるって聞いたが、戻って来なさったんかのう。」
「相変わらず美男じゃ──」
「皆、下がれ!下がれ!無礼であるぞ!」
最後の声は森家家臣のものである。
「良い!重蔵久しいのぅ。皆、元気そうじゃ!あまり変わっておらぬな。」
顔馴染みの町人達に気さくに声を掛けた後、馬に乗り換え城に向かう。
「何じゃ!あまり変わっておらぬ。人も町も。」
乱法師は拍子抜けした。
「いえいえ変わっておりますぞ!城を見れば驚かれる事でしょう。」
「そういえば兄者が安土に行ってからじゃからのぅ。城の改築をしたのは。」
安土に出立した後、城を大規模に改築中と母からの文にもあった事を思い出した。
城の大手道から馬で進んで山を登って行くと、以前よりも曲輪の石垣が高く積まれ、石垣がなかった箇所にも頑強に補強がされている。
見る限り物見櫓の数も増えていた。
そういえば米蔵も綺麗に建て直されていたように見えた。
三の丸にあった厩はその儘で、馬を繋いでから徒歩で登って行くのは変わらずだ。
今この時、ほぼ家族全員が不在にしている事に思い至り歩きながら訊ねた。
「今、留守居をしている者は誰じゃ?」
「家老の細野左近にございます。」
森家に数名いる家老のうち、城の搦め手側に邸を構える老齢の重臣の事である。
話しながら進むと、あっという間に二の丸に辿り着き、門の処で出迎えの者達が居並ぶ姿が目に入った。
「お帰りなされませ。」
と、一斉に声を掛けられる。
先頭にいるのは長可の正妻で金山殿と呼ばれる義理の姉だ。
森家重臣の青木次郎左衛門に嫁いだ姉の姿や金山を発つ時に供をした小姓、武藤三郎の姿もあった。
親しい者達に再び会えた喜びで顔は綻び、まず義理の姉に挨拶をした後、実の姉から順に話し掛けていく途中で、ふと映像が巻き戻る。
「もしや、おこうか?」
義姉の隣に立つ幼女にはたと目を移した。
「申し訳ありませぬ。おこうが生まれたのは乱法師殿が安土に行かれた少し後の事。初めて御目にかかるのですからきちんとご挨拶せねば。さあ、おこう。」
「はい!乱叔父上、お初に御目にかかります、おこうと申しまする。お会い出来て嬉しう存じます。」
はきはきと挨拶をする態度は利発そのもので、まだ数えで六歳とは思えぬ程大人びた印象を与える。
見馴れぬ幼女はやはり長可の娘であった。
乱法師はおこうをそっと抱き上げた。
「おこう、儂も会えて嬉しいぞ!」
久しぶりに帰郷した叔父が、幼い姪を抱き上げる様子は傍目には微笑ましく、皆が温かな気持ちで見守った。
乱法師は抱き上げたおこうの顔をまじまじと見詰めながら、心の内で兄に似ずまともな娘に育っているようだと安堵していた。
何しろ以前兄に見せられた、赤子のおこうの顔で作られた拓本の印象が、余りにも強烈過ぎたからだ。
家族や親しい者達との感動の再会を一先ず終えると、二の丸を経て本丸御殿に通じる門を潜った。
天守閣は見事な変貌を遂げていた。
屋根瓦の焼き方や色、欄干に取り付けられた金細工など、安土城が建てられたのと同じ時期に改築されただけに、どこか趣が似ている。
以前使用していた部屋は、調度はその儘に綺麗に整頓されていた。
小姓勤めが嫌だとごねて、この部屋でよってたかって家臣達に説得された事を思い出す。
「十五歳で元服し、金山に戻って来る筈だったな。もう、それより三年も過ぎてしまったのか……」
生まれ育った場所は、例えるならば母の腕の中のようなものかもしれない。
だが小姓勤めを始めたばかりの頃のように、金山に戻りたくて堪らないかと言えばそうでもない。
人は生まれ、やがて巣立って行くように、乱法師の心は既に大人の形へと変化していたのだ。
思春期の始まりに抱く力強い大人への憧憬と、強くなろうと足掻きながらなりきれず、子供っぽい甘えとの間で揺らぐ苛立ちはやがて過ぎ、大人になってしまっていたと気付いた時、寂しさを感じるのは何故だろうか。
その理由を追及する事を怖れ、成長した自身を否定するかのように頭を振った。
「上様を御迎えする準備を致さねば。」
彼は金山城に来た第一の目的を果たすべく家臣達を大広間に集めた。
「先に書状で知らせた通り、上様がこの城に明日参られる。またとない名誉であるから出来うる限りの持て成しをしたいと考えておる。それぞれ役と頭を決めて事に当たり、滞らぬよう。家臣一同見苦しくないように致せ。」
小姓としての経験と選ばれた側近として侍る彼の立場が、信長の性格、趣味嗜好を良く知るが故に、こうした場面でこそ本領を発揮する。
信長の事を彼程深く知る人間はいない。
一緒にいて最も安らげる相手だからこそ、常に側に置いているのだから。
「持て成しと言えばやはり料理。」
と、言うわけで城下の商人達の協力で山海の珍味をかき集めた。
都や堺、各地の名品が木曽川を下り運ばれてくる為、豪華な本膳料理で持て成す事は充分出来そうだ。
細かく指図し、信長好みの料理ばかりを作らせる事にした。
舌に合うよう濃い目の味付けで、好物である美濃の名物堂上蜂谷柿も用意させた。
後は御殿内が綺麗に清掃されているか、城での警護役の家臣達の配置等。
信長の寝所とする部屋の調度品は、朱や金を使い派手にしつらえさせた。
手抜かりがないか城中を隈無く見て回ったらさすがに疲れた。
───
「上様が金山城に参られるなんて、歴史に残る一大事じゃな。」
疲れている癖にまだ満足出来ず、更に坊丸を部屋に呼んだ。
「その通りじゃ!こんな田舎に上様が参られるなど畏れ多い限りじゃ。二度は無いと思え!上様が喜ばれそうな事を色々と考えてみた。」
「何か面白い趣向があるのか?」
宴での出し物の内容を告げると坊丸も乗り気になった。
「ああ、色々な意味で上様はお喜びになられる筈じゃ!ちょうど三人おるしな。この、三人で行うというのが重要なのじゃ!」
明日は森家が用意した御座舟で木曽川を下り信長が来る手筈になっている。
「上様が明日いよいよ金山城に参られると思うと興奮して寝れそうにないな。」
などと考えているうちに、若い身体は正直なもので一日の疲れがどっと押し寄せ、あっという間に眠りに落ちてしまった。
翌朝、熟睡出来たお陰で体力は回復し、すっきりと目覚めた。
朝の食事と支度を済ませると、また懲りずに城内の見廻りを始め、段々そわそわと落ち着かなくなってきた。
ただ、これは家臣一同皆同じ心持ちで、あの信長を迎えるのだから失態を犯せば主の面目が潰れるばかりか、家臣数名は手討ちになるのではとひやひやしていた。
こんな時にこそ物見櫓が役に立つ。
家臣だけでなく自身も登り、犬山城の方角を監視した。
遮蔽物が少なく見晴らしの良い時代の事、街道の先、木曽川の先まで見通せる為、大軍勢が動けばすぐに察知出来る。
「犬山城から上様の軍勢がこちらに向かっております!」
物見櫓からの報告に家臣達の間に緊張が走る。
「各々、持ち場に付け!」
些か早いような気がするが、乱法師の指図で皆てきぱきと動き出す。
戦の予行演習には持ってこいだ。
出迎えに坊丸や武藤三郎等を引き連れ、兼山湊へ向かった。
兼山湊には町民達が信長の姿を見ようと続々と集まって来ていた。
「上様の御到着まで大分時間があるというのに、何故こんなに早くから大勢おるのじゃ。」
「出来るだけ最前列で御姿を拝見したいのであろう。」
乱法師がうんざりしたように言うと、坊丸が町民達の気持ちを的確に代弁した。
湊に集まった者達皆が今か今かと待ちに待った。
金山城の中でも物見櫓でも待っていた。
「上様が参られたぞ!」
立派な御座舟と何艘かの川舟が連なり向かってくるのが遠くに見えた。
「どれじゃ!どれが上様じゃ?」
「あの手を振っておるのが上様でねえか?」
「まっさかぁ、あんな軽々しいのが上様ってこたあねえさ。あれじゃあ、おめえ全然恐くねえ。」
町民達が興奮し、相当不敬な事を言い交わすのが嫌でも耳に入ってくる。
舟の先頭でにこやかに手を振っているのが当に信長であった。
安土城から出馬した時には銀色に輝く甲冑を身に纏い、大軍勢を引き連れ威厳に満ち溢れていた姿が今となっては遠い昔のようだ。
武田討伐には正直間に合わないとあっさり諦め、息子任せにして物見遊山をすると決めた時から、移動の時でも気楽な羽織袴で通している。
恐ろしい印象ばかりが強い信長の顔を知らぬ金山の人々には、にこやかに笑い手を振る男は、ただの気の良い親父にしか見えなかった。
舟が川岸に着くと乱法師がすかさず側に寄り手を貸す。
「上様、金山にようこそ御越し下されました。」
「乱!木曽川を下るのは中々心地良かったぞ!」
二人のやり取りを聞いた町民達が目を丸くする。
「ほおれ!やっぱり、あれが信長公でねえか。」
「信じらんねえ……にこにこ笑っておられる。良く見りゃ身なりがいいが、何だかのう。男前じゃが、あんまり畏れ多いっつう感じがしねえな。」
「そうじゃのう。あ、少し酒屋の平助に似てねえか?上様が酔っ払って、だらしねえ感じになったら平助に似るんでねえか?」
「上様、こちらに馬を用意してございます。城に御案内仕まつりまする。」
無礼な町民達のやり取りが出来る限り信長の耳に入らぬようにと急いで先を促す。
『此所で死人が出ては困る。』
乱法師の心配を余所に、いくらかは耳に入っている筈なのに笑顔で上機嫌の信長であった。
「そなたが申しておった可成寺はどこにあるのじゃ?城に入る前に先ず三左に挨拶して行こう。」
可成寺とは、乱法師の父の菩提を弔う為に長可が建立した寺である。
「可成寺は搦手側の山の斜面を登った途中にございますが、急で足場が余り良いとは申せませぬ。」
「構わぬ。儂を誰じゃと思うておる。岐阜にいた頃は山頂から朝、山麓の天主まで降りて、夕にはまた山頂まで登っておったのじゃぞ!滅多な事で根を上げる事はない。さあ、案内致せ!」
「かしこまりました。では途中に小関の清水が涌き出ている場所がございますので、先ず、喉を潤おして行かれるのが宜しいかと存じまする。」
「おお!名高い金山の名水であるか。さぞかし美味であろうな。」
そのようなやり取りの後、南東の方角に馬をのんびり歩ませて行くと、湊から目と鼻の先の道筋に水が涌き出ていた。
「これが小関の清水か!どれ──」
信長は上手そうにごくごくと飲んだ。
「美味い!ただの水がこんなに美味いものか!冷たくて甘味があるようじゃな。」
「不老長寿の水とも云われておりますれば沢山お飲み下さいませ。」
信長の満足気な様子に嬉しくて声が弾む。
「そんなに長生きしなくとも良いが、この水を飲んだら直ちに疲れが吹き飛んだようじゃ!良し!可成寺を目指すとするか。」
木曽川に面した側を表とするなら、可成寺は裏側に位置していた。
表側の大手道ならば馬で進めるが、可成寺は細い小道を分け入って登った先にある為、馬では行けない事を信長に伝える。
「構わぬ。歩いて行けば良い!」
構わぬと言われて、家臣達の中にはそろそろあまり嬉しくない者達が出始めてきたようだ。
信長の足取りはあくまでも軽い。
岐阜城で鍛えた健脚で軽く斜面を登って行く。
「もう少しで着きまする。」
汗が滲み始めた頃、漸く可成寺が見えてきた。
「詣でる前に一休憩じゃ!あそこに座ろう!」
大きな石がちょうど良い所にあったので、腰掛けて竹筒に汲ませた小関の清水をまたごくごく飲んだ。
「ふう──美味いのう。乱、約束を覚えておるか?」
力丸が差し出す手拭いで汗を拭いながら唐突に問いかける。
「約束、でございますか?」
信長の考えを瞬時に理解出来るのは己だと自他共に認めているが、約束というのが何なのか思い付かない。
「何じゃ!忘れたのか?そなたが安土に来て間もない頃、茶室に誘って話したであろう。小関の清水の事を。この水で茶を点てると美味いと申しておった。それ故、金山に参る事があれば、そなたの手前で茶を点て
るという約束じゃ!」
「あ……覚えて下さっていたのですね……私は、まさか真においでになるとは思わず……戯れ言を申されただけかと。その事ならば私も覚えておりまする。いつか御越し下されば良いと、夢が叶い嬉しゅうございます。真に……覚えておられるとは……」
以前に交わした戯れ言めいた約束を覚えていてくれた事と、本当に金山城に来てくれた事に感激のあまり涙ぐむ。
「忘れる訳がなかろう。あの日の事を──あの日のそなたの事を忘れる訳がない。」
気持ちの籠った熱い瞳で見つめられ、あの日を思い出し顔が火照る。
あの日、茶室で深く唇を重ね、その夜初めて信長に抱かれたのだ。
周りに人がいる事など忘れ、二人だけの甘い思い出が甦り、濃密な愛の世界に浸ってしまう。
坊丸は激しく居心地の悪さを感じたが、力丸は幸か不幸か乱法師に似て鈍いので、辺りに立ち籠めている甘い空気に気付いていないようだった。
「……兄者、そろそろ……」
時を忘れて見つめ合う二人に、申し訳なさそうに坊丸が声を掛けた。
「では、三左に挨拶しに参るとするか。」
山桜が綺麗に咲く境内は静謐そのもので、人の姿は見えず不思議と音も聞こえてこない。
無音の空間には、死者を悼むに相応しい清らかな気が流れていた。
力丸が信長の訪れを告げる為、境内の何処かにいるであろう僧侶を探す。
「無用である。」
それを信長は制した。
死者の前では身分や権威は意味を持たず、僧侶達に平伏されれば静けき空間で純粋に手を合わせ、心で語り合う時を邪魔されてしまう。
可成の墓石の前に座り、信長は静かに瞼を閉じ手を合わせた。
乱法師も坊丸も力丸も、同行している森家の家臣達皆、瞳は涙で濡れていた。
可成の愛息三人を家臣として伴い、わざわざ立ち寄ってくれたのだ。
長い間手を合わせていた。
「城に参ると致そうか。」
「大手道の方に行くには、一旦下った方が宜しいかと存じます。」
涙を拭いながら乱法師が言う。
「搦手からは登れぬのか?」
「ここから先は大堀切がございますので、搦手から登るのは大回りで道も悪うございます。」
「何?大堀切じゃと?それは見てみたい。」
信長は寧ろ目を輝かせた。
堀切とは敵の襲来に備えた仕掛けの一つで、山の斜面を横に抉るように分断し、敵が山を容易く登って来れないようにするものだ。
大堀切は南北長さ50m 巾4mから7m、高さ10mもあったと云う。
信長は大堀切を繁々と覗き込んだ。
「これは登れないであろう。それにしても大きいな。長さはどれくらいじゃ?」
「およそ三十間はあるかと。搦手口から本丸に入るには迂回しなければなりませぬ。やはり大手道から登った方が宜しいかと存じますが。」
尾根が巨大堀切で分断されている以上、山の斜面を直進する事は出来ない。
「いや、搦手から登ってみたくなった!」
「は、はあ……ですが二の丸三の丸と、大手からの方が見目良く道もなだらか──」
「ならば帰りは大手道から降りれば良かろう。さあ早く案内致せ!」
信長は止められれば止められる程立ち向かいたくなる質である。
止めようとする乱法師にもささやかな事情があった。
城中の者達皆、当然信長は大手道から登って来ると思っているからだ。
困った事に搦手側の櫓に家臣を一人も登らせていない上に、こちら側に注意を払う者などいよう筈がない。
義姉を始めとして家臣一同、小者に至るまで、大手門で居並び、信長が登って来るのを今か今かと待っている筈だ。
搦手門から信長が入れば一同尻を並べて迎える事になり、これ程滑稽な眺めもないだろう。
「はい──では、こちらへ。御足元に御気を付け下さいませ。」
乱法師の心知らずに、信長は楽しげに小唄まで口ずさみ始めた。
険しい山道に申し訳程度に作られた細い小道を進めば、木々の間に鹿を発見したり野猿にも遭遇したりする。
細野左近の邸を左に見ながら登って行くと、搦手側に築かれた東腰曲輪が近付いて来た。
やはり櫓には誰の姿も見えない。
「上様、実は城中の者達が上様を御出迎えする為に大手門側で待っておるのでございます。搦手側から参られる事を知らせに行かせたいのですが。」
「おお!そうであったか。はは!驚かせてやりたい気もするが、知らずに待たせるのは気の毒であるから行って参るが良い。」
乱法師は武藤三郎に命じ大手門まで向かわせた。
堅固な石垣で築かれた曲輪が重なるように本丸を防御する。
曲輪には城側の人間の為の出入口が設けられていて、それを虎口《こぐち》と呼ぶ。
虎口を入るとその次にも門があるのだが、奥の門を大手門とするならば、その正面に虎口は通常設けられない。
構造は様々だが、二つの門の位置は垂直で、左右どちらかに曲がらないと次の門に辿り着けない仕組みになっていたりする。
防御を考えて作られた出入口が、戦闘時に簡単に打ち破れる訳がない。
虎口から次の門に至るまでの四角い空間を枡形と呼び、虎口を突破し枡形に入り込んだ敵を、櫓や城壁の上や狭間から矢や鉄砲で三方向から狙い撃ちするのだ。
金山城の本丸に至る門は櫓門になっており、櫓であると同時に門でもあった。
信長は急な斜面を息を荒くしながら登り、搦手門に続く東腰曲輪の虎口に辿り着いた。
信長ですら息を荒くしているのだから、付き合わされる家臣達には全く苛酷な試練だった。
────
その頃、武藤三郎から信長が搦手から登って来ると知らされた城中の者達は蒼ざめた。
知ってしまった以上何としても出迎えねばなるまいと、搦手門に向かって走った。
長可の正室金山殿を始め、女達は皆一番上等な打ち掛けを召し、特に念入りに白粉を重ねて化粧を施していたが、黒髪を振り乱し打ち掛けの裾をからげて走りに走った。
信長は東腰曲輪の虎口を抜けようとした所、何か面白い物でも見つけたのか顔を近付けて熱心に門扉を眺めた。
何をそんなに眺めているのかと覗き込み、小さく声を上げた。
「あ、それは……」
それは落書きだった。
「これは誰が書いたのじゃ?」
明らかに幼児の手による家族の肖像画だった。
つい弟達のせいにしたいような気恥ずかしさを覚えたが、幼い時の落書きを今更隠すのも妙だと思い正直に白状した。
「私が……描いた物でございます。」
「ふうむ、中々良く描けておる。こちらが三左で──ん?こっちが伝兵衛(可隆:討ち死にした長兄)か。後、もう一人は──」
甲冑を身に着け馬に乗り、軍勢を従え出陣して行く父と兄の姿は、幼い乱法師の目には憧れと共に果てしなく雄壮に映った。
周りの大人達が教える儘に、父も兄も強いから必ず勝って戻って来る事と、戦とは勝てば戻って来れるものだと幼児故に単純に理解していた。
父と兄の姿を見送りながら、いつか大きくなったら己も甲冑に身を包み、馬を並べて出陣するのだと、そう思いながら描いた。
鎧兜の騎馬武者を三騎。
『ちちうえ』と『あにうえ』と『らん』と。
夢は残念ながら叶わなかったが、別の夢は今日叶ったのだ。
「さて、後一息で本丸か。さすがに汗をかいたぞ!」
今も消される事なく遺されていた落書きに信長は何かを感じ取り、そう言うと曲輪内に入って行く。
先に進むと搦手門は開け放たれ、一同が出迎えの為にずらりと居並び、信長の姿を目にした途端、一斉に頭を下げた。
「皆の者、出迎え大義じゃ!苦しうない、面を上げよ!」
「上様……よ、ようこそおいで下さいました。はぁ……斯様なつまらぬ所に恐悦至極に存じまする。家臣一同……出来得る限り、上様にお寛ぎ頂けるよう諸事……執り行いたく……何でも御申し付け下さいませ……はあ……はあ……」
金山殿は留守を預かる正室として何とか挨拶を述べたが、山を登って来た信長よりも汗をかき、息を乱している有り様だった。
池田家の姫として育てられ、打ち掛け姿でこんなに走ったのは多分生まれて初めての事であったろう。
化粧は斑に着衣は乱れ、黒髪は縺《もつ》れていたが、信長にとっては乳兄弟の娘。
「おお!久しぶりじゃな。堅苦しい挨拶は抜きじゃ!少し休憩してから皆とゆっくり話がしたい!」
笑顔で気さくに声を掛ける。
「かしこまりました。早速本丸御殿に御案内致しまする。」
本丸に沿うように築かれた帯曲輪を通る時、右手に小天守が見えた。
「ふむ、何故、穴蔵に出口が二つも設けてあるのじゃ?」
珍しい物が大好きな信長の目を惹いたのは、小天守の地上の地下である穴蔵の出口であった。
小天守の台となる部分は貯蔵目的の地下としての穴蔵であるが、帯曲輪に面する側の左右の隅に出口が設けられている。
天守に穴蔵があるのも出口があるのも珍しくはないが、二つもあるのは珍し いと感じたらしい。
因みに穴蔵から入れば、小天守を通って天守の北側に抜ける事が出来るようにもなっていた。
「攻守における格別な意味はございませぬ。強いて言うなれば二つあった方が便利であるから、でございましょうか。小天守から見て西の口は隅櫓に行くのに便利で、東の口は出入口として搦手門のすぐ近くでございますから穴蔵を通れば本丸に早く着きまする。もし宜しければ穴蔵から天守に行き、その後、本丸御殿に参られますか?」
「うむ。行ってみたい!」
案の定の答えであった。
穴蔵口から入り小天守の一階に上がり、天守と連結する渡り廊下を通り天守閣の二階に登った。
「そなたは、このような景色を見て育ったのじゃな。」
信長は感慨深げに天守からの景色を楽しんだ。
一階に下り、天守から出ると本丸御殿はすぐ目の前だった。
山頂の本丸には北側に二重二階層の天守閣、天守と小天守の複合式で東南で繋がっており、小天守の更に南西側に袖櫓という位置関係になっている。
後は南西隅に隅櫓と北東側にも櫓が設けられていて、天守から北西方面は断崖であった。
一同が向かったのは本丸中央に建てられた、城主やその家族の居住空間ともなる華麗な御殿である。
渡り廊下でいくつもの館が連結する御殿の、最も広い空間は大広間で、祝いの宴を催すのに主に使われている。
嘗てない賓客であるので、奥御殿の二階にある広い部屋に案内した。
信長は高い場所を好み、一階よりも二階の方が静かで落ち着くと考えたからだ。
「少し疲れた。四半刻(30分)程休む。皆下がって良い!待て、乱は残れ!」
部屋から出ようとするところを引き止められた。
「御休みになられるようでしたら枕を用意させまする。」
「では、そなたの分も持って参れ。」
こともなげに言うが、それでは休む事にはならないだろうと顔を赤くする。
今から行為に及ぶつもりかと呆れ、真に元気な方じゃと感心した。
枕を置くと横に寝かせるように抱き寄せられた。
「こうしているだけで良い。側にいよ。そなたも共に休め──」
そう言うと、すぐに目を閉じて眠ってしまった。
横になっていると階下から人声や足音、微かに話声が聴こえてくる。
信長の身体の温かさを感じ心が安らぎ、慣れ親しんだ畳の香りを嗅いでいると瞼が重くなってきた。
春眠暁を覚えずの言葉通り真に穏やかな春の昼下がりで、いつしか深い眠りに落ちたが直ぐに目覚め、時間にすると僅か四半刻程であったようだ。
信長も同時に目を開けると、気持ち良さそうに伸びをした。
「良くお休みになられましたか?」
「ああ、然程時は経っていないようじゃな。」
窓を開けて太陽の高さを見る。
他に寺の鐘、櫓の太鼓の音で大体の時刻を把握していたが、ずれは当然あった。
だが現代のように細かい時間に縛られていない分、ゆったりと過ごせていたのかもしれない。
「宴の仕度が整いますまで、茶室にて御約束を果たしとう存じます。」
「それは良い!そなたの点前というのも久しぶり故、楽しみじゃ。」
茶室は御殿の大広間からも眺められる庭園の、少し奥まった所に建てられていた。
御殿の中央に位置する庭園には能舞台が設けられ、夜になり篝火が焚かれ石燈籠に火が灯れば幽玄な世界に変貌する。
茶室の点前座に座り信長と向き合うと五年前のあの日が蘇った。
約束を守ると言ったからには、釜で沸かされているのは金山の名水小関の清水だ。
信長は最高の賓客であるので床の間の前の貴人畳に座っている。
掛け軸の禅語は、『一花開天下春《いっかひらいててんかはるなり》』。
茶室の掛け軸には禅語が書かれたものが多く用いられ、季節や題目に合わせて掛け変えられる。
一花開天下春《 いっかひらいててんかはるなり 》とは、一輪の花が開いて天下が春になるという言葉通りの意味だが、一人の英雄の出現で天下が平定されるという意味を込めて乱法師が掛けさせたものだ。
花入れは最も格の高い青磁鶴首に桜が一枝。
茶釜から湯気が立ち昇り始めた。
茶菓子は信長の好物、堂上蜂谷柿。
茶碗は美濃の窯で焼かれた、乱法師が良く好んで使用する志野焼きの白い器が春らしくもあり彼らしくもあった。
茶杓で抹茶を一匙掬い入れると、乳白色に緑色が鮮やかに映える。
柄杓で湯を取り注ぎ入れ、何とも優美な指使いで釜の上に柄杓を戻すと茶を点てていく。
信長は見惚れずにはいられなかった。
どのような挙措動作にも品があり常に優雅だが、茶を点てる姿は取り分け美しく、あの日、彼を己のものにしたいと強く望んだのは、この姿を見たからかもしれない。
点て終わると、茶碗の正面が信長の前にくるように回して置いた。
志野焼きの色合いを楽しみながら、作法通りに茶碗を二度回して口に含む。
全て飲み終わると、茶碗を膝前に置き満足気に言った。
「見事な点前である。今まで飲んだ茶の中で一番上手かった。」
「過分なる御褒めの御言葉を賜り、恐悦至極に存じまする。」
嘗て交わした約束を果たせた事と、例え世辞であっても『一番上手かった』などという言葉を信長の気性で容易く口にするのは有り得ないと思うと、また感激で胸が熱くなった。
信長に対する愛は否応なく高まり、高まり過ぎて、狭い茶室に二人きりという状況から、あの日のように──
と願ったが、生真面目で奥手で家臣という立場の己から愛の行為を求めるなど、はしたないと感じてしまう気性故に我慢して俯いた。
途端に強く胸に引き寄せられ唇を塞がれた。
元よりそれを望んでいた乱法師は身を委ねる。
今、床の間の掛け軸を付け変えるとしたら、遊戯三昧《ゆげざんまい》が相応しいのか。
何物にも囚われない仏の境地で思いの儘に振る舞う。
二人は茶室である事を忘れ時も忘れ、立場も忘れ、無我の境地で睦み合った。
「上様──」
昂る儘に互いの愛を確かめあっていたが、ここでも信長が乱法師を制し、宥めるように優しく髪と背中を撫でさする。
そうしているうちに二人の情欲、特に乱法の滾《たぎ》る若い熱が徐々に大人しくなっていった。
「ここでは、これ以上はまずかろう。」
禅語の掛け軸に睨まれているようで、こそばゆい。
「はい、はしたない真似を……」
当時の武将達にとって茶室は特別神聖な場所でもあった。
戦となれば、歴史ある大寺院さえ焼き討ちするのを躊躇しなかったのは信長だけではない。
そういう意味では武将には聖域などない筈なのだ。
だからこそ、俗世の様々なしがらみを持ち込まない、無になれる唯一の聖域として、茶道が武将に愛されたのかもしれない。
羞じらう様子にそそられ、禁欲的な場所にいる事で却って昂る劣情というものは非常に厄介で、神仏がもし真にいるのなら、人に試練を与えるのが余程好きなのだろうか。
早く外に出なければと乱法師を促した。
一瞬淫靡な空間と化した茶室も、外に出て眺めれば、いつもと変わらず侘びしく枯れた風情で、何事もなかったかのように庭園の奥まったところに静かに建っている。
苔むした岩と地面が、更に俗世から茶室を切り離し、時すら越えた不思議な異空間に見せていた。
外は陽が沈みかけ、茜空から紫混じりの群青色に変わろうとしていた。
そろそろ庭の石燈籠にも火が灯され、宴の準備も整い、本丸御殿の庭園の別の顔を楽しむ事が出来るだろう。
「私は台所に行き、宴の準備の様子を見て参りまする。湯殿で先ず汗を流され、部屋で御寛ぎ下さいませ。」
信長の世話を弟達に任せると、大広間の方に指示を出す為に足早に急いだ。
────
「宴の用意が整いましてございまする。」
信長が階下に降り、大広間に向かうと両脇から襖がさっと開けられ、森家の家臣達が武家の正装の直垂姿で一同平伏して迎えた。
金山殿や乱法師の姉等女子衆も、走り過ぎて乱れた打ち掛けを着替え、黒髪を入念に櫛けずり、桃色や金の華やかな平元結で着飾っている。
今度こそ塗りたくった白粉は一分の隙もなく肌に張り付き、唇の紅も艶やかに、燭台の灯りのみの室内では襤褸《ぼろ》が出る心配はなさそうだった。
乱法師と坊丸、力丸の三兄弟も、珍しく小袖ではなく長絹の直垂を召していた。
大広間の一番上段に信長の席を設え、心地よい春の宵の風が吹き込み、幻想的な趣を灯した庭園が見えるよう障子は開け放たれている。
畿内から共に出陣した武将達と軍勢は寺や民家に分宿し、下級武士は野営であるので、金山城に今いるのは信長の本隊として出陣した大和の筒井順慶の軍勢のみである。
筒井順慶と公家衆として同行した近衛前久の席も用意されていた。
先ずは式三献(正式な宴の酒宴の作法)からという事で、酒と大中小の杯と肴が運ばれてきた。
揃いの水色小袖の侍女達が忙しく動き回る。
「この度、上様におかれましては金山城に御立ち寄り下さり、家臣一同これに優る栄誉はございませぬ。斯様な田舎でございますれば、大した持て成しも出来ませぬが、出来うる限りの酒と肴を用意致しましたので、是非とも武田を討ち果たされるべく戦勝祈願も兼ね、酒宴をお楽しみ頂きとう存じまする。」
乱法師が森家を代表して挨拶を述べた。
「乱、それに森家の者達皆、大義である。斯様な持て成しは、戦場に向かう身なれば本来不要であるが、皆で儂を持て成そうと様々に工夫を凝らしてくれた事嬉しく思う。武田は最早討ち果たしたも同然じゃ。上手い酒と肴を今宵は存分に楽しみたい!」
信長が森家の労を労った。
式三献とは、三種類の肴に対して大中小の杯で三杯を一献とし、それを三回繰り返すのが作法である。
最初の肴は、信長の好物の焼き味噌だった。
大中小の杯は重ねられ、一巡目は形式通り力丸が酌をする。
一番小さな杯に酒を注ぐと、一巡目のみ乱法師が最初に飲み、次に信長が飲み干し、杯を近衛前久に渡す。
宴の主催者が飲むのは一巡目のみで、二巡目からは客のみで巡に回していく。
一つの杯で客全員が回し飲みをし、中大の杯でも飲み終わり一巡となる。
二巡目の酌は坊丸で、肴はすぐき菜の漬け物が置かれた。
最後の三巡目は乱法師の酌で進み、肴は煮た鮑である。
出陣前といえば、打ち鮑、勝ち栗、昆布だが、敵に打ち勝ち喜ぶ(よろ昆布)という日本流に言葉をこじつけて験を担ぎ食していたようだ。
打ち鮑は引き延ばし干したものなので煮た貝とは異なる。
式三献が滞りなく終わると、いよいよ本膳料理が運ばれ酒宴が始まった。
侍女や若侍が高足膳を運び、次々と客の前に据えていく。
本膳に載せられた汁物は味噌汁で、岐阜美濃地方で馴染みがある豆味噌を使用した。
関西では白味噌が主流なので、信長には懐かしい味である。
他には当時高級魚であった鯉の鱠《なます》や好物の鮭の塩焼き等。
滋養があるからと獣の肉も好んで食す信長の為に、猪肉や縁起の良い鶴の汁物まであった。
信長の前で歌舞音曲が披露され、当に宴もたけなわとなってきた頃合いを見計らい、乱法師が進み出た。
「上様、これより私と坊丸と力丸の三人で幸若舞を披露したいと存じまする。拙い芸でございますので御目汚しとは存じますが、どうか酒宴の余興としてお楽しみ頂ければと存じます。」
「ほお、そなた達三人でか。これは面白い!して、曲目は?」
信長が幸若舞を好み、敦盛を舞った事は良く知られている。
幸若舞の曲目は源平や曽我兄弟を題材にした物が多かったせいか、武士に特に愛好された。
太夫、シテ、ツレの三名と鼓だけが唯一の楽器で、舞というよりも謡が主である。
「十番切りと築島《つきしま》を演じまする。」
十番切りは曽我兄弟の仇討ちを題材にしており、十人を相手に斬り合う勇壮な物語だ。
一方の築島は平清盛が福原に遷都した時に、港の建設工事が失敗した為、陰陽師の占いに従い、三十人の人柱を沈めようとした時の逸話を元にした曲目。
この二つを選んだのは、十番切りは信長が好きな曲目であり、築島は幸若舞の中で数少ない平家を題材にしたものだからだ。
源平が交互に天下を治めると信じられていた当時、足利が源氏であった事から次は平家だと、一時期信長が平氏を名乗っていた時期もあった。
篝火も焚かれ、庭園の舞台を明るく照らす。
三兄弟が白い直垂姿に加えて烏帽子も頭に被り舞台に登場した。
三人共元服前なので直垂に烏帽子姿は馴染みが薄いが、中々凛々しく大人びて見え、信長は微酔い加減で脇息に肘を突き顎髭をさすりながら、興味津々の眼差しで見守った。
三人が前を向き、両袖を広げ乱法師を真ん中にして並び立つと鼓が打ち鳴らされ、庭園に音が響き渡る。
始めの曲目は十番切り。
『建久四年五月二十八日の~夜半ばかりの事なるに~曽我兄弟の人々は~親の仇祐経を~思いの儘に討すまし───』
良く通る若々しい声で乱法師が謡い始めた。
『祐成仰せけるようは~、如何にや五郎本望をやとげぬ───』
坊丸が、声変わりして間もない少年の声で兄の後に続く。
『時宗承り~御条尤もにて候う~さりながら頼朝は~我等が祖父伊藤の敵───』
やや裏返った声で力丸が謡った。
若さというのは真に良いもので、立つだけで場が華やぐ。
漆黒の闇に浮かぶ幻想的な舞台の上で、広げた白い直垂の袖は大輪の花を思わせた。
乱法師は拙い芸と言っていたが、素人芸としては中々見事な立ち居振舞いであった。
問題は声だ。
能も幸若舞の謡にしても成人した男性の低音が普通なので、どうしても重々しさに欠けてしまう。
ただ、その声が何とも微笑ましいのも確かだ。
近侍する可愛いい年子の三兄弟が、己を持て成す為に幸若舞を演じるなど、ついぞない珍しい見物には違いない。
謡が進み、仇討ちを聞き付けた十人の侍が曽我兄弟に斬りかかる。
九人まで斬り倒すが、十人目の侍に兄の十郎祐成が斬り殺されてしまう。
弟は源頼朝を討とうと御所に乗り込み生け捕られ、北条時政等の助命嘆願で頼朝は命を助けようとするのだが、傘下に入るのを潔しとせず斬首されるという悲しい物語。
『──祐成の首を引っ提げて~御前にかしこまる。あら無惨や時宗。唯今までは、強の目を見張ってちっともわろびれざりし気色も変わり涙を流しうつぶしになり~。』
生け捕られた弟が兄の首級を見せられて涙するという盛り上がる場面では、太夫の乱法師が金色の扇を開き、足を高く上げ舞台を荒々しく踏み鳴らして謡いながら回る。
兄弟愛の曲目を兄弟が演じる。
まだ十代の若々しい張りのある声が、曽我兄弟そのもののようで真に迫り、溌剌とした初々しい動作が、却って哀しい物語を引き立てていた。
『一つ処に起き伏し~少し見えさせたまわねば、とや有らん~かくや渡らせたまふらんと~心を尽くし申せしに~哀しきかなや今は───』
着飾り居並ぶ女子達は、父を殺された曽我兄弟が、幼い時から共に寝起きし互いを案じ助け合いながら成長した健気さを、森兄弟に重ね袖を濡らさずにはいられない。
たった一人の兄を斬られた弟の切ない心情の謡に涙を流して感じ入り、金山殿の白粉は涙にかきくれ、また斑になってしまった程だった。
『──いたわしや早くも変わりたまいたるや。とくして我もかく成て同じ道にと思いければ~つつめど零るる涙は庭の白砂に落ちにけり~。』
始めは若々しい声が愛らし過ぎて違和感も覚えたが、最後は拍手喝采で、次に演じた築島も見事な出来映えであると信長は満悦至極で兄弟を褒め称えた。
酒宴はその後も続き、男達だけでなく女達まで酒に酔い顔を紅くし、すっかり無礼講となった。
いつまでも続けば良いと思う程に、楽しい時が過ぎて行った。
次第に夜も更け、明日の早朝には金山を出立しなければならない信長を気遣い、皆、名残惜しみつつも御開きとなった。
信長には寝所に下がって貰い、乱法師は大広間の酒宴の取りちらかった片付けをする家臣達や侍女達の様子を見回りながら、庭にふと目を遣った。
篝火は大方燃え尽き、石燈籠の柔らかな灯りのみで照らされた舞台は寂しげに目に映る。
賑やかな酒宴の後の大広間で、仄かな灯りの中、黙々と静かに働く者達を見ていると、余計に切ない気持ちが込み上げてきた。
明日になれば再び故郷とはお別れだ。
だがそれよりも、故郷で信長と共に過ごしたこの時こそが、彼の生涯で二度とないであろうかけがえのない貴重な時間であると思うからこそ、より一層寂しさを覚えるのかもしれなかった。
楽しい時は篝火のように、すぐに燃え尽きてしまうのだ。
いや、若さも人の命もきっと──そうなのだ。
彼は信長のところに向かった。
「上様、乱法師にございます。」
部屋の前で声を掛け襖を開けると、信長は白い寝衣姿で褥の上に立っていた。
少し後ろ向きで灯りも暗く、表情までは良く見えない。
「楽しい宴であった──」
言葉は少ないが満足してくれた事は伝わってくる。
「上様に楽しんで頂けて嬉しゅうございまする。」
「明日は出立じゃ。そなたも早く休め。」
信長は乱法師に背を向けた儘、褥に身を横たえる。
「はい……かしこまりました……ごゆっくりお休み下されませ。」
乱法師は襖に手を掛け、ゆっくりと身体の向きを変えた。
襖が僅かな音を立て閉まると、すぐに信長は身を起こし、襖の方を振り返って息を軽く吐いた。
襖の外で遠ざかる足音が聞こえたので、安堵して再び身を横たえたが、少ししてから微かな気配を感じ襖の方を睨んだ。
すっと襖が少し開いた。
開ききる前に、それが誰であるか信長にはすぐに分かった。
足音、動作も含めて人には癖がある。
開ける時も閉める時も、乱法師は何段階も手順を踏む。
始めに引き戸に手を掛け少し開け、襖の親骨の下の方を綺麗に揃えた指で押し、もう少し開ける。
更に身体が入るように開いて、敷居の前で手を付き頭を下げ、滑らかな動作で身体を室内に入れると、閉める時も同じく三段階の手順で少しの隙間を残し、最後に音が聞こえるように閉め切るのだ。
小姓として出仕して間もない頃、襖の外で掛けられる声が彼のものだと分かる度に手を止め、その優雅な動作をじっくりと堪能したものだ。
だが、今は手順が一つ抜けていた。
言葉を掛けずに黙って少し開けたものの、それ以上開けられずに襖の前で俊巡しているのが伝わってきた。
様子がいつもと違う事は明らかだったので、信長から優しく声を掛ける。
「乱、どうした?黙っておらずに入って参れ。」
意を決し襖を開け、閉めた後、手を付く彼の姿に目を見張った。
夜目にも白い寝衣姿であったからだ。
「…………」
無言で手を付き顔を伏せた儘だ。
「乱、今宵は休めと申した筈じゃ。そなたも疲れておるであろう。ゆっくり──」
信長が宥めるように言うと、畳に手を付いた肩の辺りが小刻みに震えて見えた。
思わず近寄り、肩に触れて顔を上げさせると瞳が涙で潤んでいた。
一体いつから、こんなに好色になったのか。
呆れずにはいられない。
共寝を厭い追い払われたのだと、そう思い込んでいると解釈したからだ。
「何故……今宵は上様の御側にいてはいけないのですか?ただ御側にいるだけでも……私は、私は……」
「いい加減に致せ!今宵はもう休めと申したであろう。」
少し強目に言うと、また俯いてしまう。
「その……御側にいるだけでも駄目なのですか?」
共寝だけでもしたいという思いの純粋さが欲情を掻き立て、何もせずに朝を迎えるなど到底出来そうにはなかった。
ならば乱法師の思いを受け入れれば良さそうなものだが、信長なりの考えがあった。
「明日も明後日も共におるではないか!何もここで──そなたは、ここで儂に抱かれたいと申すのか?そなたの生まれ育った、大事な思いがある場所ではないのか──そんなに抱いて欲しくば明日まで我慢致せ!三左の墓参りしたばかりではないか。この好色者め!」
少し言い過ぎたかと思ったが、若い肉体は益々激しく愛欲を求めるようになっていて、己の事は棚に上げ、たまには嗜めなければなるまいと口を引き結んだ。
「……ううっう……」
案の定、泣き出してしまう。
やはり憐れに思い、肩に手を置き慰めようとすると、嗚咽しながら乱法師が言葉を絞り出した。
「上様は、私に何か欲しいものはないのか?望みのものはないのか?と良く仰せになられるではございませぬか。私の望むものは、上様の御心……」
「儂の心はそなたのものじゃ!今更言わずとも分かっておるであろう!」
その言葉を聞くと乱法師は静かに立ち上がった。
美濃和紙を巻いた灯明の温かな灯りが、俯く彼の泣き顔を仄かに照らした。
「私は今年で十八になりました。茶室で五年前の事を思い出し幸せな気持ちが甦り、時は流れ同じ時に戻る事は叶わずとも……その思い出だけは心に留める事が出来るのだと……」
その儘言葉を続けながら乱法師は立ち上がり、寝衣の腰紐に手を掛けほどいた。
「ここで上様の御寵愛を賜りますれば生涯……今宵を一生分の夜として、幸せな思い出を胸に刻み、これから生きる長い夜のよすがとし、決して、決して忘れない.…..私にとって大事な時を……大事な場所だからこそ忘れたくないのです。上様と共に過ごした……金山での夜の事を……」
白い寝衣をするりと肩から滑り落とすと、肌目細やかな裸身が、その儘信長の前に露になった。
彼が何を言っているのか、何を言いたいのかを信長は理解した。
以前から『その時』が来たら広い心で受け入れ許すつもりでいたのに、口から出たのは全く逆の言葉だった。
「──許さぬ──!」
腹から絞り出すような低い声音で命じ、乱法師を荒々しくかき抱いた。
「駄目じゃ──許さぬ──」
「上様、なれど──私は──」
「黙れ!!」
「上様……」
信長は彼の身体を褥の上に押し倒した。
「此処で良いのか?真に──」
「はい、大事な、大事な思い出がまた加わりまする。何よりも大事な思い出が……私にとって……今までよりも……金山の城がずっと大事な場所になりまする。」
信長は荒々しく乱法師の唇を奪った後、頬や耳朶、首筋、鎖骨にも優しく唇で触れていく。
「許さぬと言ったら許さぬ。」
己でも意識していなかった激情に駆られ、感情に支配されるが儘に乱法師の耳元で命じる。
こんな筈ではなかった。
乱法師は心身共に大人になり、巣立ちの時を迎えようとしている。
これ程強く結ばれ互いを思い合っていようとも、愛の形が変化していく事を止める事は出来ない。
いざ乱法師の口からそのような事を言われると、やはり離しがたく、少しでも長く彼を愛でていたいという本音を制御しきれなかった。
乱法師の気持ちも無論同じである。
年子の兄弟がいる以上、元服を引き延ばせるのも後一年、長くて二年。
せっかく芽生えた自立の心を摘み取りたくなかった。
だが今、明らかに巣立とうとする彼の覚悟を削ぎ、いつまでも腕の中に留めておこうとしてしまうのは、我儘以外の何ものでもなかった。
「上様、ああ!」
乱法師は愛撫を受け入れ、ただひたすら名を叫ぶ。
手を重ね指を絡め、互いが上になり下になり褥の上で激しく縺れ愛し合う。
身体の芯が熱を帯び、強い愛を示し合うかのように身体を逆さに重ね、互いの脚の間の昂りを、同時に口に咥えて慈しみ合った。
「ああ──ずっとこの儘繋がっていたい──この儘腕の中で、いっそ死ねたら──うぅ」
信長の膝の上に座り、迎い合わせに抱き合う。
しがみついて叫び、すすり泣いた。
繋がった儘、唇を重ね合わせ舌を絡ませると、互いの身体が真に一つに溶け合うような心地好さで恍惚となる。
時が経つのも忘れて交わり、何度目かで漸く離れて褥に伏した時には、空は白み始めていた。
ピーチッチチチチーーホーホー
メジロ、キジバト、ツグミ、鳥達の声が山城に朝を告げた。
一旦離れても、また抱き合い、交合の余韻に浸りながら、早朝の鳥達の囀ずりに共に耳を傾けた。
「上様、私は幸せにございます。この朝を私は生涯忘れませぬ。」
大好きな大きな手を頬に当て温もりを楽しみ、長い指を握り締め唇で触れ、咥え軽く歯を立てる。
「最後のような事を申すな。儂は許さぬと申した──最もそなたのような好色者を相手にしていたら、すぐに干からびて命が縮まりそうじゃがな。」
信長の往生際の悪い非道な言葉に目を見張る。
「ですがいずれ──ならば、いっそ今……私は辛いのです……待つことは...…いつ上様から言われるかと……」
指を握った手に力がこもる。
「ふう、そなたは。儂の気持ちも考えよ。突然言われれば心乱れる。」
乱法師は押し黙り、室内を照らし始めた朝の光から目を逸らした。
「最後でなくとも私は今まで生きてきた中で、今朝が一番幸せにございます。上様と私だけの秘め事でございますね。」
気持ちを切り替えるように朝陽に目を向けた乱法師の顔を見て、信長は目を丸くした。
「たわけか!全くそなたは!秘め事な訳がなかろう。筒抜けじゃ!この鈍ちんが!」
昨夜から朝まで縦横無尽に部屋中を転がり回り睦み合っていた事が、二人だけの秘め事な訳がなかった。
────
「上様、道中お気をつけて。必ずや武田を討ち滅ぼして下さいませ。また、是非金山においで頂きたく、いつでも御待ち申しておりまする。僅かな間で御別れするのが名残惜しゅうてなりませぬ。」
金山殿が城の者を代表して別れの挨拶を申し述べる。
信長と森兄弟を見送る為に大手門に城中の者達が居並んでいた。
「うむ、大層な持て成しであった。皆の者も達者でな!」
信長の目の下には隅が浮き、疲労が顔に滲み精細を欠いた様子であったが、それについて何か言う野暮な者は一人もいなかった。
「良し!出立じゃ!」
まだ武田の本拠地までは数日はかかる長い道のりである。
「本日は高野に陣を据えられるのでございますね。」
乱法師が信長に声を掛けた。
「乱、今宵こそ大人しくゆっくり休むぞ──良いな。」
「は、はい。」
瞼が張れぼったい乱法師にそう言うと、信長は馬上で一つ大欠伸をして、軍勢は信州を目指し進み始めた。
大きな先触れの声に留守居の家臣達、妻妾、子供達、女房衆が居並び見送る中、満を持して信長が出陣した。
南蛮銅具足と呼ばれる西洋の甲冑を模した、全身銀色の極めて異色な造りの具足を身に付け、大黒なる名馬に跨る。
柔らかな曲線の兜には金の木瓜紋の前立て。
兜と胴は鉄製で、鉄砲でも撃ち抜けぬ程頑強な作りだ。
宣教師から献上された表地は黒、裏地は赤というビロードのマントを上から羽織った。
付き従う足軽に金の唐笠の馬印を持たせ、黄色地に永楽銭の軍旗が風にはためく。
都の公家衆も信長を見送る為に安土を訪れ、その中には勧修寺晴豊の姿もあった。
近衛前久は従軍を許された唯一人の公卿として、兵士達と共に馬を歩ませる。
信長の勇姿を一目見ようと街道には大勢の人々が集まり、後列の者達は押し合い必死に首を伸ばす。
明智光秀、筒井順慶、摂津の高山右近を始めとして、堀秀政、長谷川秀一などの側近衆も軍勢を引き連れ、細川忠興は父の藤孝の代わりに出陣の共に加わった。
乱法師はというと、無論信長の側にいた。
母直筆の南無阿弥陀仏の前立ての兜に、背中には信長直筆『吉野竜田花紅葉更級越路乃月雪』と書かれた旗指物を背負い、腰には信長拝領の刀不動行光という出で立ちである。
不動行光で信長を守ると誓いながら、まるで己の守り刀であるかのように肌身離さず身に付けていた。
彼が携えた武具から、母の愛は無論の事、信長の愛を一身に受ける存在である事は一目瞭然だった。
軍勢は粛々と進む。
中仙道を通り信州を目指して。
吉田兼和は、この日の明智光秀の軍勢は一際大勢で綺麗だったと一族の吉田浄勝から知らされ日記に記している。
片や勧修寺晴豊は、明智の軍勢は「ちりちり」と出立し、兵士達は「しほしほ」とした様子だったと記した。
「ちりちり」は散り散りでまとまりがなく、「しほしほ」は元気がなくしょんぼりとしていたと伝えたかったのかもしれない。
畿内から信州までは、当時遠い道のりであった。
騎馬兵ならともかく、足軽が「しほしほ」となるのは無理もない。
乱法師は漸く信長が出陣してくれて色々な意味で安堵し嬉しくて仕方がなかった。
道々民衆がにこやかに手を振り軍勢に声援を送る。
晴天に恵まれた暖かな陽気に蝶が舞い、満開の桜、道に咲く黄色の菜の花につくし、春爛漫の長閑な景色に乱法師は心浮き立ち信長に声を掛けた。
「上様、真に良い御天気でございますね。本日は柏原の上菩提院に泊まられるという事で宜しいのですか?」
信長が何度か宿として利用した柏原の上菩提院は近江国内にある。
「初日から雨では叶わぬからのぅ。そなたはもっと早く進みたいのか?っぷは。」
言いながら振り返り、乱法師の顔の辺りを見て信長が吹き出す。
乱法師の兜の前立てに紋白蝶が止まっていた。
なぜ笑われたか分からず首を傾げると蝶はひらひらと翔んでいった。
「あっつ……」
「どうした?」
項の辺りに微かに刺すような痛みを感じて手で押さえる。
「大事ございませぬ。虫にでも刺されたのかと。」
僅かな痛みであったので気にせず馬を進める。
痛みの正体は、妬みに燃える視線であった。
『お乱め!何じゃ、あの指物は!武功も立てておらぬ身で!御直筆など畏れ多い物を背負いおって──何故、あやつばかりが──許せぬ!』
細川忠興は信長と楽しげに話す乱法師に対する妬心を抑えきれなかった。
馬に乗っていなければ、その場で地団駄踏んで悔しがっていただろう。
燃える視線は忠興だけではなく、更にもう一人──
『あやつ──当然のように上様の御側に侍りおって。第一の近習気取りじゃな。良い気になっておられるのも今のうちじゃ!』
長谷川秀一は暗い炎をちろちろと瞳に宿らせ、その視線が蛇のように乱法師の全身を這い回った。
幸か不幸か自分に向けられる妬みや色事に関しては乱法師はとかく鈍かったので、二人の視線には全く気付ずに済んだのだった。
それはさておき、出馬さえしてしまえば、そんなに急ぐ必要はないので軍勢はのんびりと進んで行く。
出陣と気張ったところで、内実は戦の後始末に行くのが目的と割り切っていた。
安土を未明に発った軍勢は、本日の宿所である上菩提寺に到着した。
此処で具足の紐を解き、小袖に着替え寛いでいたところに、高遠城が陥落したという報せが届けられた。
「もう高遠城が落ちたのか!先日の報せでは飯島にすら進んでおらなんだのにか。城之助(信忠)め!中々やりおる。」
先日、これ以上の進軍は無用と書き送ったばかりなのに、進軍どころか難攻不落の高遠城を落とした息子に対して、複雑ながら驚嘆と称賛の情を示したのも無理はない。
「高遠城は二日未明に攻撃を開始し、一日で落ちましてございます。敵将、仁科盛信の首級は運んでいる途上にて、明日には御目にかけられるかと。まずは早馬にて落城を報せに馳せ参じましてございます。」
「相分かった!明日は岐阜に向かう故、その途上で実検するとしよう。城之助に良くやったと伝えよ!大義であった!」
信長はそう言うと使者を下がらせた。
─────
「ここまで早く落ちるとはのぅ。四郎(勝頼)が首も信州に着く前に届いてしまいそうじゃ。」
湯殿で己の背を流す乱法師に話し掛ける。
本来であれば小姓がすべき仕事をさせてしまうのは、信長の彼に対する甘えでもある。
二人の間に垣根はなく、良くも悪くも公私共に結びついているのだ。
「先日進軍は一切無用との文を書いておいででしたから、上様の御到着を待っておられるのではないでしょうか。」
後ろを向き乱法師の額に軽く唇で触れ、可笑しそうに笑う。
「真はそう思っておらぬのであろう?武蔵守や平八が大人しくしておるものか。儂の書状など見ぬ振りで先に進んでおるであろうな。咎められたら言い訳まで考えてあるやもしれぬ。」
「申し訳ございませぬ。真に……」
兄の無茶な行動について言われると消え入りそうになってしまう。
「はは、武蔵守のやり様にはもう慣れておる。此度も獅子奮迅の働きをしたらしいからな!それよりも明日は岐阜じゃ。安土に移って六年は経っておるが住み慣れた城じゃ!此処よりはゆっくり出来るし兵達も休ませてやれる。」
翌日未明に柏原を出立し中仙道を進むと、道を横断するように流れる呂久川(揖斐川)に行き当たった。
岐阜に行くにはこの川を渡るのだが、その為の渡船場が信忠によって造られ呂久の渡しと呼ばれていた。
到着すると既に仁科盛信の首級は運ばれてきていた。
休憩がてら、この呂久の渡しで首級の実検を行う。
首桶を開けると美しく死に化粧の施された、まだ若々しい盛信の首がそこにあった。
首となって対面すれば、不思議とどのような敵に対しても特別な感情は湧いてこない。
多くの敵は戦っている時には顔も知らず、対面する時にはどちらかが首になっている為、生前を知らないからだ。
ただ、その死に顔は穏やかに見えた。
死に様は、首級を運んだ使者より語られた。
織田勢の猛攻、攻防の成り行き、高遠城兵の決死の防戦、諏訪勝右衛門の妻の奮戦や若武者の健闘、仁科盛信の武田武士としての誇りある最期の様子について。
余程無様で卑劣な死に様でない限り、敵とはいえ辱しめるような事は言わないものだ。
やや感傷的な使者の語り口調とはいえ、何としてでも滅び行く名門武田の意地と誇りを最期まで貫き通したかったという思いは充分に伝わり、乱法師は少し切なくなった。
この時代の習いとして首級が長良川の河原に晒される事になったのは哀れとはいえ、写真の無かった時代の天下に勝利を知らしめる方法であったのだから仕方がない。
信長と乱法師等供回りは呂久の渡しに用意されていた御座舟で川を渡った。
街道には様々な持て成しの用意がされており、軍勢が不自由を感じずに済むようにとの配慮は、織田家の領土が拡大し、威光が遍く行き渡っている事を物語っていた。
さて、信長と乱法師他、小姓達は御座舟で渡河したが、他の数多の兵士達は舟橋を渡り中仙道を横断し岐阜を目指した。
この日も終日天気は良く、無事に岐阜城に到着した。
信長にとっては懐かしい古巣に戻ってきたというところだ。
乱法師は岐阜城の山頂と山麓に二つの『てんしゅ』があるのを先月、目で見てきたばかりだ。
その時、どうやら現在の主信忠は、山麓の天主を日々の生活場所として使用しているようだと感じた。
ところが信長は岐阜城にいた頃、山頂の天守を居住空間として使用していたらしい。
天守には緒大名から預かった人質も住まわせていたが、これは山頂ならば簡単に逃げられず救い出せないという考えあっての事なのだろう。
大手道を通り、信長は山頂を目指してすいすい登って行く。
先月訪れた時には山麓の御殿で信忠と対面し泊まって帰ったが、山頂まで行くのは初めてである。
城ごとで仕掛けに特色がある為、好奇心が騒いだ。
信長は嬉々とした様子で、安土に移ってから仕え始めた新参の家臣達に道案内しながら曲がりくねった道を登って行く。
標高が上がるにつれ空気は冷たく澄み渡り、草木がたまにさわさわと揺れるので目を遣ると、愛らしい栗鼠がいた。
山鳩らしき鳴き声も聞こえてくる。
斜面は意外と緩やかだが、山頂で寝て朝起きると山麓の御殿に毎日降りて来ていたというのだから凄い健脚である。
半刻はかからず頂上に着くと身体は温まり、皆少し息が荒くなっていた。
少し休憩して後、天守の最上階に連れて行かれた。
「一番上からの眺めは凄いぞ!ここからの景色だけなら安土よりも絶景かもしれんな。」
確かに素晴らしい景色である。
「あ!あそこに見えるのは大垣城でございますね。あんなに遠くまで。」
東西南北どこを見渡しても違った景色が楽しめ、南側は濃尾平野が眼下に広がり壮大な眺めである。
沈む夕陽が平野を明々と照らし、木曽川の流れを追っていると、故郷から安土に出立した日の事が懐かしく思い出された。
『さすがに金山城までは見えぬか。』
そんな事を考えながら景色に見惚れていると、後ろからいきなり抱き締められた。
「乱、金山の事を考えておるのであろう?」
「はい、木曽川の流れの先に金山の城が見えないかと──舟で下り安土に参りましたのが昨日の事のようでございます。時が経つのは早いもの。あの日が懐かしゅう思い出されて……」
後ろに顔を向けた乱法師の顎を指で上向かせると、信長は愛しげに唇を軽く重ねた。
「岐阜の次は犬山城、その次は金山に泊まるつもりじゃ!嬉しいか?」
「──え!金山に──城に参られるのですか?上様が?」
信じられないという面持ちで信長を見詰めた。
金山城に信長が来てくれると思うだけで感激の余り瞳は潤み、嬉しさで胸がいっぱいになってしまう。
「そんなに故郷に帰りたかったのなら申せば休みぐらいやるものを。信州に行く途中に寄って行こうと思ってな。」
「違いまする!上様が金山の城に参られるなど夢のようで──兄の城である限り帰ろうと思えば帰れますが、上様が足を運ばれる事など、そう何度も……いえ、もう二度とない事かも。亡き父も兄も、どれ程喜びます事か……うっうぅ……」
「全くそなたは困った奴じゃ。真に、全く愛い奴じゃ……」
感極まり、はらはらと涙を溢す彼の単純で大袈裟な喜びように、ひとしお愛おしさを感じてしまう方もかなり単純だった。
互いの愛が頂点に達し、絡み合い縺れ合い、勢い余って床に倒れ込み、その場で事に及んでしまいそうな程に乱法師の気持ちも高まってしまったが、珍しく信長が押し留めた。
「待て、続きは閨で、じっくりと致そう。」
────
言葉通り、日暮れ前の続きは閨で激しく繰り広げられていた。
先程から乱法師は枕にしがみつき、絶え間なく声をあげていた。
激しい荒波と細波のような愛撫を同時に身に受け、息も絶え絶えの有様だった。
快楽の大波にすっかり理性は呑み込まれ、頭の中で火花が爆ぜ真っ白になる程の絶頂に全てを委ねる。
意識が身体を離れ桃源郷を浮遊し、暫し言葉を忘れた。
ぼうっと俯せで臥している彼の髪を撫でる手の感触で、漸く桃源郷から現の世界に戻ってこれた。
「明日、金山に向かい上様をお迎えする準備を整えたいと存じます。」
真っ先に口にしたのはその事であった。
信長は驚かせたくて言わなかったのだが、迎え入れるほうからすれば大変な騒ぎであろう。
各地で持て成しを受けるのには慣れているが、元来煩い事を言う質ではない。
豪華な持て成しを受ければ心遣いに報い感謝も褒美も存分に与えるが、親しい間柄の者から見れば、実にざっくばらんで気取らぬ人柄でもあった。
逆にされるよりもする方が意外と好きで、宣教師達にしてやったように、奇抜な趣向を考えるのが楽しいのだ。
特に乱法師のように年若い者であれば大袈裟な接待は不要と考えていたが、本人はやけに張り切っている。
「そんなに気張らずとも良い!明日は雨が降りそうじゃ。先に使いを出してそなたは後から参れば良いではないか。」
翌日は信長の言葉通り雨が降り、岐阜城に留まる事となってしまった。
乱法師は上様が参られるので諸事万端整えておくようにとの使いを出した。
────
裏切った家臣達の人質と共に新府城を焼き払い逃亡中の武田勝頼だが、重臣であった小山田信茂を頼りに勝沼の山中から駒飼《こがつこ》という山村まで落ち延びた。
先に進むごとに共の家臣達は逃げて減り続け、女子供ばかりの頼りない一行が、小山田を信じ足を血に染めて逃げて来たのを土壇場で裏切り、鉄砲まで撃ち追い返したというのだから、あまりの非情と言えよう。
その勝頼一行を追い、信忠は甲斐を目指して進んでいた。
───雨降りの為、岐阜城で二日を過ごした乱法師は、内部を嬉しそうに案内する信長のお陰ですっかり城に詳しくなった。
雨が止めば明日は犬山城に赴く事になっている。
犬山城は金山城と同じく木曽川沿いに位置する美しい城で、まるで兄弟城のようだった。
昨年まで信長の乳兄弟池田恒興の居城だったが、今は信長の五男で長く武田家の人質になっていた勝長改め信房が城主となっている。
金山城からだと木曽川を舟で行けばすぐの立地である事と、池田恒興の娘が長可に嫁いでから、犬山城と金山城では嘗て頻繁に行き来があった。
池田恒興は娘の婚儀と、その後は娘と孫に会いに行くという名目で金山城を訪れ、乱法師達は犬山城で池田家の兄弟と良く遊んだものだった。
池田家の嫡男元助は信忠の軍に父の代わりに加わっており、細川忠興といい、先陣を長可や平八に命じた事といい、若者に手柄を立てさせるという狙いが此度はあるのだろう。
これを世代交代と考えるならば、領地を継ぐ息子がいない者には悪い意味にも取れてしまう。
何はともあれ、すっかり物見遊山行軍に切り替わってしまった訳だが、権力者信長の命を狙う者が星の数程いるという現状だけは変わらない。
岐阜城は嫡男の城、次に泊まる犬山城は五男の城、その次は愛する乱法師が生まれ育った城なのだから、警戒心は和らぎ心身共に寛げるというものだ。
旨い食事と特産品、城からの景観を楽しめればそれで良かったのだが、乱法師は金山城を初めて訪れる信長の為に精一杯の持て成しをしたかったので城で出迎える許しを得た。
力丸を信長の側に置き、坊丸と家臣数名を伴い金山城まで再び木曽川を舟で下る事にした。
五年前にも通った道筋を改めて辿るのは懐かしくもあり新鮮でもあった。
まず犬山城が迫ってくると、真に故郷に帰って来たのだという実感が湧いてくる。
故郷の香り、故郷の色。
生まれ育った者にしか分からない微かな違いを五感で感じ、気持ちが逸る。
岐阜城からだと十里程の距離だから、昼頃には着けるだろうか。
川の水は淀みなく流れ、休む事なく始まりの場所に運んでくれる。
あの頃の自分とは違う自分を──
指先を少しだけ川に浸し冷たさを楽しむ。
生まれてから十二年間過ごした場所に五年振りに戻ってきたのだ。
舟は犬山城を横目に見ながら流れて行く。
ちょうど満開の桜の木々が天守閣に重なり、一幅の絵のような麗しさだ。
更に舟は漕ぎ進み、のんびりと思い出に耽りながら、あの時と同じ穏やかな風に吹かれていると、やがて懐かしい兼山湊に到着した。
舟から上がり、城主の弟である旨を告げると湊の番人は畏まり、すぐに城下に至る道に通された。
城下町の人々は自分を見ても分からない、或いは忘れているやもしれぬとふと考えた。
だがそれは、あっという間に杞憂に終わった。
「あっ!もしかして、乱法師様でねえか?」
「森の若様達じゃ!やれ、御立派になられて。久しぶりにお見掛けするのぅ。」
「安土の信長公にお仕えしてるって聞いたが、戻って来なさったんかのう。」
「相変わらず美男じゃ──」
「皆、下がれ!下がれ!無礼であるぞ!」
最後の声は森家家臣のものである。
「良い!重蔵久しいのぅ。皆、元気そうじゃ!あまり変わっておらぬな。」
顔馴染みの町人達に気さくに声を掛けた後、馬に乗り換え城に向かう。
「何じゃ!あまり変わっておらぬ。人も町も。」
乱法師は拍子抜けした。
「いえいえ変わっておりますぞ!城を見れば驚かれる事でしょう。」
「そういえば兄者が安土に行ってからじゃからのぅ。城の改築をしたのは。」
安土に出立した後、城を大規模に改築中と母からの文にもあった事を思い出した。
城の大手道から馬で進んで山を登って行くと、以前よりも曲輪の石垣が高く積まれ、石垣がなかった箇所にも頑強に補強がされている。
見る限り物見櫓の数も増えていた。
そういえば米蔵も綺麗に建て直されていたように見えた。
三の丸にあった厩はその儘で、馬を繋いでから徒歩で登って行くのは変わらずだ。
今この時、ほぼ家族全員が不在にしている事に思い至り歩きながら訊ねた。
「今、留守居をしている者は誰じゃ?」
「家老の細野左近にございます。」
森家に数名いる家老のうち、城の搦め手側に邸を構える老齢の重臣の事である。
話しながら進むと、あっという間に二の丸に辿り着き、門の処で出迎えの者達が居並ぶ姿が目に入った。
「お帰りなされませ。」
と、一斉に声を掛けられる。
先頭にいるのは長可の正妻で金山殿と呼ばれる義理の姉だ。
森家重臣の青木次郎左衛門に嫁いだ姉の姿や金山を発つ時に供をした小姓、武藤三郎の姿もあった。
親しい者達に再び会えた喜びで顔は綻び、まず義理の姉に挨拶をした後、実の姉から順に話し掛けていく途中で、ふと映像が巻き戻る。
「もしや、おこうか?」
義姉の隣に立つ幼女にはたと目を移した。
「申し訳ありませぬ。おこうが生まれたのは乱法師殿が安土に行かれた少し後の事。初めて御目にかかるのですからきちんとご挨拶せねば。さあ、おこう。」
「はい!乱叔父上、お初に御目にかかります、おこうと申しまする。お会い出来て嬉しう存じます。」
はきはきと挨拶をする態度は利発そのもので、まだ数えで六歳とは思えぬ程大人びた印象を与える。
見馴れぬ幼女はやはり長可の娘であった。
乱法師はおこうをそっと抱き上げた。
「おこう、儂も会えて嬉しいぞ!」
久しぶりに帰郷した叔父が、幼い姪を抱き上げる様子は傍目には微笑ましく、皆が温かな気持ちで見守った。
乱法師は抱き上げたおこうの顔をまじまじと見詰めながら、心の内で兄に似ずまともな娘に育っているようだと安堵していた。
何しろ以前兄に見せられた、赤子のおこうの顔で作られた拓本の印象が、余りにも強烈過ぎたからだ。
家族や親しい者達との感動の再会を一先ず終えると、二の丸を経て本丸御殿に通じる門を潜った。
天守閣は見事な変貌を遂げていた。
屋根瓦の焼き方や色、欄干に取り付けられた金細工など、安土城が建てられたのと同じ時期に改築されただけに、どこか趣が似ている。
以前使用していた部屋は、調度はその儘に綺麗に整頓されていた。
小姓勤めが嫌だとごねて、この部屋でよってたかって家臣達に説得された事を思い出す。
「十五歳で元服し、金山に戻って来る筈だったな。もう、それより三年も過ぎてしまったのか……」
生まれ育った場所は、例えるならば母の腕の中のようなものかもしれない。
だが小姓勤めを始めたばかりの頃のように、金山に戻りたくて堪らないかと言えばそうでもない。
人は生まれ、やがて巣立って行くように、乱法師の心は既に大人の形へと変化していたのだ。
思春期の始まりに抱く力強い大人への憧憬と、強くなろうと足掻きながらなりきれず、子供っぽい甘えとの間で揺らぐ苛立ちはやがて過ぎ、大人になってしまっていたと気付いた時、寂しさを感じるのは何故だろうか。
その理由を追及する事を怖れ、成長した自身を否定するかのように頭を振った。
「上様を御迎えする準備を致さねば。」
彼は金山城に来た第一の目的を果たすべく家臣達を大広間に集めた。
「先に書状で知らせた通り、上様がこの城に明日参られる。またとない名誉であるから出来うる限りの持て成しをしたいと考えておる。それぞれ役と頭を決めて事に当たり、滞らぬよう。家臣一同見苦しくないように致せ。」
小姓としての経験と選ばれた側近として侍る彼の立場が、信長の性格、趣味嗜好を良く知るが故に、こうした場面でこそ本領を発揮する。
信長の事を彼程深く知る人間はいない。
一緒にいて最も安らげる相手だからこそ、常に側に置いているのだから。
「持て成しと言えばやはり料理。」
と、言うわけで城下の商人達の協力で山海の珍味をかき集めた。
都や堺、各地の名品が木曽川を下り運ばれてくる為、豪華な本膳料理で持て成す事は充分出来そうだ。
細かく指図し、信長好みの料理ばかりを作らせる事にした。
舌に合うよう濃い目の味付けで、好物である美濃の名物堂上蜂谷柿も用意させた。
後は御殿内が綺麗に清掃されているか、城での警護役の家臣達の配置等。
信長の寝所とする部屋の調度品は、朱や金を使い派手にしつらえさせた。
手抜かりがないか城中を隈無く見て回ったらさすがに疲れた。
───
「上様が金山城に参られるなんて、歴史に残る一大事じゃな。」
疲れている癖にまだ満足出来ず、更に坊丸を部屋に呼んだ。
「その通りじゃ!こんな田舎に上様が参られるなど畏れ多い限りじゃ。二度は無いと思え!上様が喜ばれそうな事を色々と考えてみた。」
「何か面白い趣向があるのか?」
宴での出し物の内容を告げると坊丸も乗り気になった。
「ああ、色々な意味で上様はお喜びになられる筈じゃ!ちょうど三人おるしな。この、三人で行うというのが重要なのじゃ!」
明日は森家が用意した御座舟で木曽川を下り信長が来る手筈になっている。
「上様が明日いよいよ金山城に参られると思うと興奮して寝れそうにないな。」
などと考えているうちに、若い身体は正直なもので一日の疲れがどっと押し寄せ、あっという間に眠りに落ちてしまった。
翌朝、熟睡出来たお陰で体力は回復し、すっきりと目覚めた。
朝の食事と支度を済ませると、また懲りずに城内の見廻りを始め、段々そわそわと落ち着かなくなってきた。
ただ、これは家臣一同皆同じ心持ちで、あの信長を迎えるのだから失態を犯せば主の面目が潰れるばかりか、家臣数名は手討ちになるのではとひやひやしていた。
こんな時にこそ物見櫓が役に立つ。
家臣だけでなく自身も登り、犬山城の方角を監視した。
遮蔽物が少なく見晴らしの良い時代の事、街道の先、木曽川の先まで見通せる為、大軍勢が動けばすぐに察知出来る。
「犬山城から上様の軍勢がこちらに向かっております!」
物見櫓からの報告に家臣達の間に緊張が走る。
「各々、持ち場に付け!」
些か早いような気がするが、乱法師の指図で皆てきぱきと動き出す。
戦の予行演習には持ってこいだ。
出迎えに坊丸や武藤三郎等を引き連れ、兼山湊へ向かった。
兼山湊には町民達が信長の姿を見ようと続々と集まって来ていた。
「上様の御到着まで大分時間があるというのに、何故こんなに早くから大勢おるのじゃ。」
「出来るだけ最前列で御姿を拝見したいのであろう。」
乱法師がうんざりしたように言うと、坊丸が町民達の気持ちを的確に代弁した。
湊に集まった者達皆が今か今かと待ちに待った。
金山城の中でも物見櫓でも待っていた。
「上様が参られたぞ!」
立派な御座舟と何艘かの川舟が連なり向かってくるのが遠くに見えた。
「どれじゃ!どれが上様じゃ?」
「あの手を振っておるのが上様でねえか?」
「まっさかぁ、あんな軽々しいのが上様ってこたあねえさ。あれじゃあ、おめえ全然恐くねえ。」
町民達が興奮し、相当不敬な事を言い交わすのが嫌でも耳に入ってくる。
舟の先頭でにこやかに手を振っているのが当に信長であった。
安土城から出馬した時には銀色に輝く甲冑を身に纏い、大軍勢を引き連れ威厳に満ち溢れていた姿が今となっては遠い昔のようだ。
武田討伐には正直間に合わないとあっさり諦め、息子任せにして物見遊山をすると決めた時から、移動の時でも気楽な羽織袴で通している。
恐ろしい印象ばかりが強い信長の顔を知らぬ金山の人々には、にこやかに笑い手を振る男は、ただの気の良い親父にしか見えなかった。
舟が川岸に着くと乱法師がすかさず側に寄り手を貸す。
「上様、金山にようこそ御越し下されました。」
「乱!木曽川を下るのは中々心地良かったぞ!」
二人のやり取りを聞いた町民達が目を丸くする。
「ほおれ!やっぱり、あれが信長公でねえか。」
「信じらんねえ……にこにこ笑っておられる。良く見りゃ身なりがいいが、何だかのう。男前じゃが、あんまり畏れ多いっつう感じがしねえな。」
「そうじゃのう。あ、少し酒屋の平助に似てねえか?上様が酔っ払って、だらしねえ感じになったら平助に似るんでねえか?」
「上様、こちらに馬を用意してございます。城に御案内仕まつりまする。」
無礼な町民達のやり取りが出来る限り信長の耳に入らぬようにと急いで先を促す。
『此所で死人が出ては困る。』
乱法師の心配を余所に、いくらかは耳に入っている筈なのに笑顔で上機嫌の信長であった。
「そなたが申しておった可成寺はどこにあるのじゃ?城に入る前に先ず三左に挨拶して行こう。」
可成寺とは、乱法師の父の菩提を弔う為に長可が建立した寺である。
「可成寺は搦手側の山の斜面を登った途中にございますが、急で足場が余り良いとは申せませぬ。」
「構わぬ。儂を誰じゃと思うておる。岐阜にいた頃は山頂から朝、山麓の天主まで降りて、夕にはまた山頂まで登っておったのじゃぞ!滅多な事で根を上げる事はない。さあ、案内致せ!」
「かしこまりました。では途中に小関の清水が涌き出ている場所がございますので、先ず、喉を潤おして行かれるのが宜しいかと存じまする。」
「おお!名高い金山の名水であるか。さぞかし美味であろうな。」
そのようなやり取りの後、南東の方角に馬をのんびり歩ませて行くと、湊から目と鼻の先の道筋に水が涌き出ていた。
「これが小関の清水か!どれ──」
信長は上手そうにごくごくと飲んだ。
「美味い!ただの水がこんなに美味いものか!冷たくて甘味があるようじゃな。」
「不老長寿の水とも云われておりますれば沢山お飲み下さいませ。」
信長の満足気な様子に嬉しくて声が弾む。
「そんなに長生きしなくとも良いが、この水を飲んだら直ちに疲れが吹き飛んだようじゃ!良し!可成寺を目指すとするか。」
木曽川に面した側を表とするなら、可成寺は裏側に位置していた。
表側の大手道ならば馬で進めるが、可成寺は細い小道を分け入って登った先にある為、馬では行けない事を信長に伝える。
「構わぬ。歩いて行けば良い!」
構わぬと言われて、家臣達の中にはそろそろあまり嬉しくない者達が出始めてきたようだ。
信長の足取りはあくまでも軽い。
岐阜城で鍛えた健脚で軽く斜面を登って行く。
「もう少しで着きまする。」
汗が滲み始めた頃、漸く可成寺が見えてきた。
「詣でる前に一休憩じゃ!あそこに座ろう!」
大きな石がちょうど良い所にあったので、腰掛けて竹筒に汲ませた小関の清水をまたごくごく飲んだ。
「ふう──美味いのう。乱、約束を覚えておるか?」
力丸が差し出す手拭いで汗を拭いながら唐突に問いかける。
「約束、でございますか?」
信長の考えを瞬時に理解出来るのは己だと自他共に認めているが、約束というのが何なのか思い付かない。
「何じゃ!忘れたのか?そなたが安土に来て間もない頃、茶室に誘って話したであろう。小関の清水の事を。この水で茶を点てると美味いと申しておった。それ故、金山に参る事があれば、そなたの手前で茶を点て
るという約束じゃ!」
「あ……覚えて下さっていたのですね……私は、まさか真においでになるとは思わず……戯れ言を申されただけかと。その事ならば私も覚えておりまする。いつか御越し下されば良いと、夢が叶い嬉しゅうございます。真に……覚えておられるとは……」
以前に交わした戯れ言めいた約束を覚えていてくれた事と、本当に金山城に来てくれた事に感激のあまり涙ぐむ。
「忘れる訳がなかろう。あの日の事を──あの日のそなたの事を忘れる訳がない。」
気持ちの籠った熱い瞳で見つめられ、あの日を思い出し顔が火照る。
あの日、茶室で深く唇を重ね、その夜初めて信長に抱かれたのだ。
周りに人がいる事など忘れ、二人だけの甘い思い出が甦り、濃密な愛の世界に浸ってしまう。
坊丸は激しく居心地の悪さを感じたが、力丸は幸か不幸か乱法師に似て鈍いので、辺りに立ち籠めている甘い空気に気付いていないようだった。
「……兄者、そろそろ……」
時を忘れて見つめ合う二人に、申し訳なさそうに坊丸が声を掛けた。
「では、三左に挨拶しに参るとするか。」
山桜が綺麗に咲く境内は静謐そのもので、人の姿は見えず不思議と音も聞こえてこない。
無音の空間には、死者を悼むに相応しい清らかな気が流れていた。
力丸が信長の訪れを告げる為、境内の何処かにいるであろう僧侶を探す。
「無用である。」
それを信長は制した。
死者の前では身分や権威は意味を持たず、僧侶達に平伏されれば静けき空間で純粋に手を合わせ、心で語り合う時を邪魔されてしまう。
可成の墓石の前に座り、信長は静かに瞼を閉じ手を合わせた。
乱法師も坊丸も力丸も、同行している森家の家臣達皆、瞳は涙で濡れていた。
可成の愛息三人を家臣として伴い、わざわざ立ち寄ってくれたのだ。
長い間手を合わせていた。
「城に参ると致そうか。」
「大手道の方に行くには、一旦下った方が宜しいかと存じます。」
涙を拭いながら乱法師が言う。
「搦手からは登れぬのか?」
「ここから先は大堀切がございますので、搦手から登るのは大回りで道も悪うございます。」
「何?大堀切じゃと?それは見てみたい。」
信長は寧ろ目を輝かせた。
堀切とは敵の襲来に備えた仕掛けの一つで、山の斜面を横に抉るように分断し、敵が山を容易く登って来れないようにするものだ。
大堀切は南北長さ50m 巾4mから7m、高さ10mもあったと云う。
信長は大堀切を繁々と覗き込んだ。
「これは登れないであろう。それにしても大きいな。長さはどれくらいじゃ?」
「およそ三十間はあるかと。搦手口から本丸に入るには迂回しなければなりませぬ。やはり大手道から登った方が宜しいかと存じますが。」
尾根が巨大堀切で分断されている以上、山の斜面を直進する事は出来ない。
「いや、搦手から登ってみたくなった!」
「は、はあ……ですが二の丸三の丸と、大手からの方が見目良く道もなだらか──」
「ならば帰りは大手道から降りれば良かろう。さあ早く案内致せ!」
信長は止められれば止められる程立ち向かいたくなる質である。
止めようとする乱法師にもささやかな事情があった。
城中の者達皆、当然信長は大手道から登って来ると思っているからだ。
困った事に搦手側の櫓に家臣を一人も登らせていない上に、こちら側に注意を払う者などいよう筈がない。
義姉を始めとして家臣一同、小者に至るまで、大手門で居並び、信長が登って来るのを今か今かと待っている筈だ。
搦手門から信長が入れば一同尻を並べて迎える事になり、これ程滑稽な眺めもないだろう。
「はい──では、こちらへ。御足元に御気を付け下さいませ。」
乱法師の心知らずに、信長は楽しげに小唄まで口ずさみ始めた。
険しい山道に申し訳程度に作られた細い小道を進めば、木々の間に鹿を発見したり野猿にも遭遇したりする。
細野左近の邸を左に見ながら登って行くと、搦手側に築かれた東腰曲輪が近付いて来た。
やはり櫓には誰の姿も見えない。
「上様、実は城中の者達が上様を御出迎えする為に大手門側で待っておるのでございます。搦手側から参られる事を知らせに行かせたいのですが。」
「おお!そうであったか。はは!驚かせてやりたい気もするが、知らずに待たせるのは気の毒であるから行って参るが良い。」
乱法師は武藤三郎に命じ大手門まで向かわせた。
堅固な石垣で築かれた曲輪が重なるように本丸を防御する。
曲輪には城側の人間の為の出入口が設けられていて、それを虎口《こぐち》と呼ぶ。
虎口を入るとその次にも門があるのだが、奥の門を大手門とするならば、その正面に虎口は通常設けられない。
構造は様々だが、二つの門の位置は垂直で、左右どちらかに曲がらないと次の門に辿り着けない仕組みになっていたりする。
防御を考えて作られた出入口が、戦闘時に簡単に打ち破れる訳がない。
虎口から次の門に至るまでの四角い空間を枡形と呼び、虎口を突破し枡形に入り込んだ敵を、櫓や城壁の上や狭間から矢や鉄砲で三方向から狙い撃ちするのだ。
金山城の本丸に至る門は櫓門になっており、櫓であると同時に門でもあった。
信長は急な斜面を息を荒くしながら登り、搦手門に続く東腰曲輪の虎口に辿り着いた。
信長ですら息を荒くしているのだから、付き合わされる家臣達には全く苛酷な試練だった。
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その頃、武藤三郎から信長が搦手から登って来ると知らされた城中の者達は蒼ざめた。
知ってしまった以上何としても出迎えねばなるまいと、搦手門に向かって走った。
長可の正室金山殿を始め、女達は皆一番上等な打ち掛けを召し、特に念入りに白粉を重ねて化粧を施していたが、黒髪を振り乱し打ち掛けの裾をからげて走りに走った。
信長は東腰曲輪の虎口を抜けようとした所、何か面白い物でも見つけたのか顔を近付けて熱心に門扉を眺めた。
何をそんなに眺めているのかと覗き込み、小さく声を上げた。
「あ、それは……」
それは落書きだった。
「これは誰が書いたのじゃ?」
明らかに幼児の手による家族の肖像画だった。
つい弟達のせいにしたいような気恥ずかしさを覚えたが、幼い時の落書きを今更隠すのも妙だと思い正直に白状した。
「私が……描いた物でございます。」
「ふうむ、中々良く描けておる。こちらが三左で──ん?こっちが伝兵衛(可隆:討ち死にした長兄)か。後、もう一人は──」
甲冑を身に着け馬に乗り、軍勢を従え出陣して行く父と兄の姿は、幼い乱法師の目には憧れと共に果てしなく雄壮に映った。
周りの大人達が教える儘に、父も兄も強いから必ず勝って戻って来る事と、戦とは勝てば戻って来れるものだと幼児故に単純に理解していた。
父と兄の姿を見送りながら、いつか大きくなったら己も甲冑に身を包み、馬を並べて出陣するのだと、そう思いながら描いた。
鎧兜の騎馬武者を三騎。
『ちちうえ』と『あにうえ』と『らん』と。
夢は残念ながら叶わなかったが、別の夢は今日叶ったのだ。
「さて、後一息で本丸か。さすがに汗をかいたぞ!」
今も消される事なく遺されていた落書きに信長は何かを感じ取り、そう言うと曲輪内に入って行く。
先に進むと搦手門は開け放たれ、一同が出迎えの為にずらりと居並び、信長の姿を目にした途端、一斉に頭を下げた。
「皆の者、出迎え大義じゃ!苦しうない、面を上げよ!」
「上様……よ、ようこそおいで下さいました。はぁ……斯様なつまらぬ所に恐悦至極に存じまする。家臣一同……出来得る限り、上様にお寛ぎ頂けるよう諸事……執り行いたく……何でも御申し付け下さいませ……はあ……はあ……」
金山殿は留守を預かる正室として何とか挨拶を述べたが、山を登って来た信長よりも汗をかき、息を乱している有り様だった。
池田家の姫として育てられ、打ち掛け姿でこんなに走ったのは多分生まれて初めての事であったろう。
化粧は斑に着衣は乱れ、黒髪は縺《もつ》れていたが、信長にとっては乳兄弟の娘。
「おお!久しぶりじゃな。堅苦しい挨拶は抜きじゃ!少し休憩してから皆とゆっくり話がしたい!」
笑顔で気さくに声を掛ける。
「かしこまりました。早速本丸御殿に御案内致しまする。」
本丸に沿うように築かれた帯曲輪を通る時、右手に小天守が見えた。
「ふむ、何故、穴蔵に出口が二つも設けてあるのじゃ?」
珍しい物が大好きな信長の目を惹いたのは、小天守の地上の地下である穴蔵の出口であった。
小天守の台となる部分は貯蔵目的の地下としての穴蔵であるが、帯曲輪に面する側の左右の隅に出口が設けられている。
天守に穴蔵があるのも出口があるのも珍しくはないが、二つもあるのは珍し いと感じたらしい。
因みに穴蔵から入れば、小天守を通って天守の北側に抜ける事が出来るようにもなっていた。
「攻守における格別な意味はございませぬ。強いて言うなれば二つあった方が便利であるから、でございましょうか。小天守から見て西の口は隅櫓に行くのに便利で、東の口は出入口として搦手門のすぐ近くでございますから穴蔵を通れば本丸に早く着きまする。もし宜しければ穴蔵から天守に行き、その後、本丸御殿に参られますか?」
「うむ。行ってみたい!」
案の定の答えであった。
穴蔵口から入り小天守の一階に上がり、天守と連結する渡り廊下を通り天守閣の二階に登った。
「そなたは、このような景色を見て育ったのじゃな。」
信長は感慨深げに天守からの景色を楽しんだ。
一階に下り、天守から出ると本丸御殿はすぐ目の前だった。
山頂の本丸には北側に二重二階層の天守閣、天守と小天守の複合式で東南で繋がっており、小天守の更に南西側に袖櫓という位置関係になっている。
後は南西隅に隅櫓と北東側にも櫓が設けられていて、天守から北西方面は断崖であった。
一同が向かったのは本丸中央に建てられた、城主やその家族の居住空間ともなる華麗な御殿である。
渡り廊下でいくつもの館が連結する御殿の、最も広い空間は大広間で、祝いの宴を催すのに主に使われている。
嘗てない賓客であるので、奥御殿の二階にある広い部屋に案内した。
信長は高い場所を好み、一階よりも二階の方が静かで落ち着くと考えたからだ。
「少し疲れた。四半刻(30分)程休む。皆下がって良い!待て、乱は残れ!」
部屋から出ようとするところを引き止められた。
「御休みになられるようでしたら枕を用意させまする。」
「では、そなたの分も持って参れ。」
こともなげに言うが、それでは休む事にはならないだろうと顔を赤くする。
今から行為に及ぶつもりかと呆れ、真に元気な方じゃと感心した。
枕を置くと横に寝かせるように抱き寄せられた。
「こうしているだけで良い。側にいよ。そなたも共に休め──」
そう言うと、すぐに目を閉じて眠ってしまった。
横になっていると階下から人声や足音、微かに話声が聴こえてくる。
信長の身体の温かさを感じ心が安らぎ、慣れ親しんだ畳の香りを嗅いでいると瞼が重くなってきた。
春眠暁を覚えずの言葉通り真に穏やかな春の昼下がりで、いつしか深い眠りに落ちたが直ぐに目覚め、時間にすると僅か四半刻程であったようだ。
信長も同時に目を開けると、気持ち良さそうに伸びをした。
「良くお休みになられましたか?」
「ああ、然程時は経っていないようじゃな。」
窓を開けて太陽の高さを見る。
他に寺の鐘、櫓の太鼓の音で大体の時刻を把握していたが、ずれは当然あった。
だが現代のように細かい時間に縛られていない分、ゆったりと過ごせていたのかもしれない。
「宴の仕度が整いますまで、茶室にて御約束を果たしとう存じます。」
「それは良い!そなたの点前というのも久しぶり故、楽しみじゃ。」
茶室は御殿の大広間からも眺められる庭園の、少し奥まった所に建てられていた。
御殿の中央に位置する庭園には能舞台が設けられ、夜になり篝火が焚かれ石燈籠に火が灯れば幽玄な世界に変貌する。
茶室の点前座に座り信長と向き合うと五年前のあの日が蘇った。
約束を守ると言ったからには、釜で沸かされているのは金山の名水小関の清水だ。
信長は最高の賓客であるので床の間の前の貴人畳に座っている。
掛け軸の禅語は、『一花開天下春《いっかひらいててんかはるなり》』。
茶室の掛け軸には禅語が書かれたものが多く用いられ、季節や題目に合わせて掛け変えられる。
一花開天下春《 いっかひらいててんかはるなり 》とは、一輪の花が開いて天下が春になるという言葉通りの意味だが、一人の英雄の出現で天下が平定されるという意味を込めて乱法師が掛けさせたものだ。
花入れは最も格の高い青磁鶴首に桜が一枝。
茶釜から湯気が立ち昇り始めた。
茶菓子は信長の好物、堂上蜂谷柿。
茶碗は美濃の窯で焼かれた、乱法師が良く好んで使用する志野焼きの白い器が春らしくもあり彼らしくもあった。
茶杓で抹茶を一匙掬い入れると、乳白色に緑色が鮮やかに映える。
柄杓で湯を取り注ぎ入れ、何とも優美な指使いで釜の上に柄杓を戻すと茶を点てていく。
信長は見惚れずにはいられなかった。
どのような挙措動作にも品があり常に優雅だが、茶を点てる姿は取り分け美しく、あの日、彼を己のものにしたいと強く望んだのは、この姿を見たからかもしれない。
点て終わると、茶碗の正面が信長の前にくるように回して置いた。
志野焼きの色合いを楽しみながら、作法通りに茶碗を二度回して口に含む。
全て飲み終わると、茶碗を膝前に置き満足気に言った。
「見事な点前である。今まで飲んだ茶の中で一番上手かった。」
「過分なる御褒めの御言葉を賜り、恐悦至極に存じまする。」
嘗て交わした約束を果たせた事と、例え世辞であっても『一番上手かった』などという言葉を信長の気性で容易く口にするのは有り得ないと思うと、また感激で胸が熱くなった。
信長に対する愛は否応なく高まり、高まり過ぎて、狭い茶室に二人きりという状況から、あの日のように──
と願ったが、生真面目で奥手で家臣という立場の己から愛の行為を求めるなど、はしたないと感じてしまう気性故に我慢して俯いた。
途端に強く胸に引き寄せられ唇を塞がれた。
元よりそれを望んでいた乱法師は身を委ねる。
今、床の間の掛け軸を付け変えるとしたら、遊戯三昧《ゆげざんまい》が相応しいのか。
何物にも囚われない仏の境地で思いの儘に振る舞う。
二人は茶室である事を忘れ時も忘れ、立場も忘れ、無我の境地で睦み合った。
「上様──」
昂る儘に互いの愛を確かめあっていたが、ここでも信長が乱法師を制し、宥めるように優しく髪と背中を撫でさする。
そうしているうちに二人の情欲、特に乱法の滾《たぎ》る若い熱が徐々に大人しくなっていった。
「ここでは、これ以上はまずかろう。」
禅語の掛け軸に睨まれているようで、こそばゆい。
「はい、はしたない真似を……」
当時の武将達にとって茶室は特別神聖な場所でもあった。
戦となれば、歴史ある大寺院さえ焼き討ちするのを躊躇しなかったのは信長だけではない。
そういう意味では武将には聖域などない筈なのだ。
だからこそ、俗世の様々なしがらみを持ち込まない、無になれる唯一の聖域として、茶道が武将に愛されたのかもしれない。
羞じらう様子にそそられ、禁欲的な場所にいる事で却って昂る劣情というものは非常に厄介で、神仏がもし真にいるのなら、人に試練を与えるのが余程好きなのだろうか。
早く外に出なければと乱法師を促した。
一瞬淫靡な空間と化した茶室も、外に出て眺めれば、いつもと変わらず侘びしく枯れた風情で、何事もなかったかのように庭園の奥まったところに静かに建っている。
苔むした岩と地面が、更に俗世から茶室を切り離し、時すら越えた不思議な異空間に見せていた。
外は陽が沈みかけ、茜空から紫混じりの群青色に変わろうとしていた。
そろそろ庭の石燈籠にも火が灯され、宴の準備も整い、本丸御殿の庭園の別の顔を楽しむ事が出来るだろう。
「私は台所に行き、宴の準備の様子を見て参りまする。湯殿で先ず汗を流され、部屋で御寛ぎ下さいませ。」
信長の世話を弟達に任せると、大広間の方に指示を出す為に足早に急いだ。
────
「宴の用意が整いましてございまする。」
信長が階下に降り、大広間に向かうと両脇から襖がさっと開けられ、森家の家臣達が武家の正装の直垂姿で一同平伏して迎えた。
金山殿や乱法師の姉等女子衆も、走り過ぎて乱れた打ち掛けを着替え、黒髪を入念に櫛けずり、桃色や金の華やかな平元結で着飾っている。
今度こそ塗りたくった白粉は一分の隙もなく肌に張り付き、唇の紅も艶やかに、燭台の灯りのみの室内では襤褸《ぼろ》が出る心配はなさそうだった。
乱法師と坊丸、力丸の三兄弟も、珍しく小袖ではなく長絹の直垂を召していた。
大広間の一番上段に信長の席を設え、心地よい春の宵の風が吹き込み、幻想的な趣を灯した庭園が見えるよう障子は開け放たれている。
畿内から共に出陣した武将達と軍勢は寺や民家に分宿し、下級武士は野営であるので、金山城に今いるのは信長の本隊として出陣した大和の筒井順慶の軍勢のみである。
筒井順慶と公家衆として同行した近衛前久の席も用意されていた。
先ずは式三献(正式な宴の酒宴の作法)からという事で、酒と大中小の杯と肴が運ばれてきた。
揃いの水色小袖の侍女達が忙しく動き回る。
「この度、上様におかれましては金山城に御立ち寄り下さり、家臣一同これに優る栄誉はございませぬ。斯様な田舎でございますれば、大した持て成しも出来ませぬが、出来うる限りの酒と肴を用意致しましたので、是非とも武田を討ち果たされるべく戦勝祈願も兼ね、酒宴をお楽しみ頂きとう存じまする。」
乱法師が森家を代表して挨拶を述べた。
「乱、それに森家の者達皆、大義である。斯様な持て成しは、戦場に向かう身なれば本来不要であるが、皆で儂を持て成そうと様々に工夫を凝らしてくれた事嬉しく思う。武田は最早討ち果たしたも同然じゃ。上手い酒と肴を今宵は存分に楽しみたい!」
信長が森家の労を労った。
式三献とは、三種類の肴に対して大中小の杯で三杯を一献とし、それを三回繰り返すのが作法である。
最初の肴は、信長の好物の焼き味噌だった。
大中小の杯は重ねられ、一巡目は形式通り力丸が酌をする。
一番小さな杯に酒を注ぐと、一巡目のみ乱法師が最初に飲み、次に信長が飲み干し、杯を近衛前久に渡す。
宴の主催者が飲むのは一巡目のみで、二巡目からは客のみで巡に回していく。
一つの杯で客全員が回し飲みをし、中大の杯でも飲み終わり一巡となる。
二巡目の酌は坊丸で、肴はすぐき菜の漬け物が置かれた。
最後の三巡目は乱法師の酌で進み、肴は煮た鮑である。
出陣前といえば、打ち鮑、勝ち栗、昆布だが、敵に打ち勝ち喜ぶ(よろ昆布)という日本流に言葉をこじつけて験を担ぎ食していたようだ。
打ち鮑は引き延ばし干したものなので煮た貝とは異なる。
式三献が滞りなく終わると、いよいよ本膳料理が運ばれ酒宴が始まった。
侍女や若侍が高足膳を運び、次々と客の前に据えていく。
本膳に載せられた汁物は味噌汁で、岐阜美濃地方で馴染みがある豆味噌を使用した。
関西では白味噌が主流なので、信長には懐かしい味である。
他には当時高級魚であった鯉の鱠《なます》や好物の鮭の塩焼き等。
滋養があるからと獣の肉も好んで食す信長の為に、猪肉や縁起の良い鶴の汁物まであった。
信長の前で歌舞音曲が披露され、当に宴もたけなわとなってきた頃合いを見計らい、乱法師が進み出た。
「上様、これより私と坊丸と力丸の三人で幸若舞を披露したいと存じまする。拙い芸でございますので御目汚しとは存じますが、どうか酒宴の余興としてお楽しみ頂ければと存じます。」
「ほお、そなた達三人でか。これは面白い!して、曲目は?」
信長が幸若舞を好み、敦盛を舞った事は良く知られている。
幸若舞の曲目は源平や曽我兄弟を題材にした物が多かったせいか、武士に特に愛好された。
太夫、シテ、ツレの三名と鼓だけが唯一の楽器で、舞というよりも謡が主である。
「十番切りと築島《つきしま》を演じまする。」
十番切りは曽我兄弟の仇討ちを題材にしており、十人を相手に斬り合う勇壮な物語だ。
一方の築島は平清盛が福原に遷都した時に、港の建設工事が失敗した為、陰陽師の占いに従い、三十人の人柱を沈めようとした時の逸話を元にした曲目。
この二つを選んだのは、十番切りは信長が好きな曲目であり、築島は幸若舞の中で数少ない平家を題材にしたものだからだ。
源平が交互に天下を治めると信じられていた当時、足利が源氏であった事から次は平家だと、一時期信長が平氏を名乗っていた時期もあった。
篝火も焚かれ、庭園の舞台を明るく照らす。
三兄弟が白い直垂姿に加えて烏帽子も頭に被り舞台に登場した。
三人共元服前なので直垂に烏帽子姿は馴染みが薄いが、中々凛々しく大人びて見え、信長は微酔い加減で脇息に肘を突き顎髭をさすりながら、興味津々の眼差しで見守った。
三人が前を向き、両袖を広げ乱法師を真ん中にして並び立つと鼓が打ち鳴らされ、庭園に音が響き渡る。
始めの曲目は十番切り。
『建久四年五月二十八日の~夜半ばかりの事なるに~曽我兄弟の人々は~親の仇祐経を~思いの儘に討すまし───』
良く通る若々しい声で乱法師が謡い始めた。
『祐成仰せけるようは~、如何にや五郎本望をやとげぬ───』
坊丸が、声変わりして間もない少年の声で兄の後に続く。
『時宗承り~御条尤もにて候う~さりながら頼朝は~我等が祖父伊藤の敵───』
やや裏返った声で力丸が謡った。
若さというのは真に良いもので、立つだけで場が華やぐ。
漆黒の闇に浮かぶ幻想的な舞台の上で、広げた白い直垂の袖は大輪の花を思わせた。
乱法師は拙い芸と言っていたが、素人芸としては中々見事な立ち居振舞いであった。
問題は声だ。
能も幸若舞の謡にしても成人した男性の低音が普通なので、どうしても重々しさに欠けてしまう。
ただ、その声が何とも微笑ましいのも確かだ。
近侍する可愛いい年子の三兄弟が、己を持て成す為に幸若舞を演じるなど、ついぞない珍しい見物には違いない。
謡が進み、仇討ちを聞き付けた十人の侍が曽我兄弟に斬りかかる。
九人まで斬り倒すが、十人目の侍に兄の十郎祐成が斬り殺されてしまう。
弟は源頼朝を討とうと御所に乗り込み生け捕られ、北条時政等の助命嘆願で頼朝は命を助けようとするのだが、傘下に入るのを潔しとせず斬首されるという悲しい物語。
『──祐成の首を引っ提げて~御前にかしこまる。あら無惨や時宗。唯今までは、強の目を見張ってちっともわろびれざりし気色も変わり涙を流しうつぶしになり~。』
生け捕られた弟が兄の首級を見せられて涙するという盛り上がる場面では、太夫の乱法師が金色の扇を開き、足を高く上げ舞台を荒々しく踏み鳴らして謡いながら回る。
兄弟愛の曲目を兄弟が演じる。
まだ十代の若々しい張りのある声が、曽我兄弟そのもののようで真に迫り、溌剌とした初々しい動作が、却って哀しい物語を引き立てていた。
『一つ処に起き伏し~少し見えさせたまわねば、とや有らん~かくや渡らせたまふらんと~心を尽くし申せしに~哀しきかなや今は───』
着飾り居並ぶ女子達は、父を殺された曽我兄弟が、幼い時から共に寝起きし互いを案じ助け合いながら成長した健気さを、森兄弟に重ね袖を濡らさずにはいられない。
たった一人の兄を斬られた弟の切ない心情の謡に涙を流して感じ入り、金山殿の白粉は涙にかきくれ、また斑になってしまった程だった。
『──いたわしや早くも変わりたまいたるや。とくして我もかく成て同じ道にと思いければ~つつめど零るる涙は庭の白砂に落ちにけり~。』
始めは若々しい声が愛らし過ぎて違和感も覚えたが、最後は拍手喝采で、次に演じた築島も見事な出来映えであると信長は満悦至極で兄弟を褒め称えた。
酒宴はその後も続き、男達だけでなく女達まで酒に酔い顔を紅くし、すっかり無礼講となった。
いつまでも続けば良いと思う程に、楽しい時が過ぎて行った。
次第に夜も更け、明日の早朝には金山を出立しなければならない信長を気遣い、皆、名残惜しみつつも御開きとなった。
信長には寝所に下がって貰い、乱法師は大広間の酒宴の取りちらかった片付けをする家臣達や侍女達の様子を見回りながら、庭にふと目を遣った。
篝火は大方燃え尽き、石燈籠の柔らかな灯りのみで照らされた舞台は寂しげに目に映る。
賑やかな酒宴の後の大広間で、仄かな灯りの中、黙々と静かに働く者達を見ていると、余計に切ない気持ちが込み上げてきた。
明日になれば再び故郷とはお別れだ。
だがそれよりも、故郷で信長と共に過ごしたこの時こそが、彼の生涯で二度とないであろうかけがえのない貴重な時間であると思うからこそ、より一層寂しさを覚えるのかもしれなかった。
楽しい時は篝火のように、すぐに燃え尽きてしまうのだ。
いや、若さも人の命もきっと──そうなのだ。
彼は信長のところに向かった。
「上様、乱法師にございます。」
部屋の前で声を掛け襖を開けると、信長は白い寝衣姿で褥の上に立っていた。
少し後ろ向きで灯りも暗く、表情までは良く見えない。
「楽しい宴であった──」
言葉は少ないが満足してくれた事は伝わってくる。
「上様に楽しんで頂けて嬉しゅうございまする。」
「明日は出立じゃ。そなたも早く休め。」
信長は乱法師に背を向けた儘、褥に身を横たえる。
「はい……かしこまりました……ごゆっくりお休み下されませ。」
乱法師は襖に手を掛け、ゆっくりと身体の向きを変えた。
襖が僅かな音を立て閉まると、すぐに信長は身を起こし、襖の方を振り返って息を軽く吐いた。
襖の外で遠ざかる足音が聞こえたので、安堵して再び身を横たえたが、少ししてから微かな気配を感じ襖の方を睨んだ。
すっと襖が少し開いた。
開ききる前に、それが誰であるか信長にはすぐに分かった。
足音、動作も含めて人には癖がある。
開ける時も閉める時も、乱法師は何段階も手順を踏む。
始めに引き戸に手を掛け少し開け、襖の親骨の下の方を綺麗に揃えた指で押し、もう少し開ける。
更に身体が入るように開いて、敷居の前で手を付き頭を下げ、滑らかな動作で身体を室内に入れると、閉める時も同じく三段階の手順で少しの隙間を残し、最後に音が聞こえるように閉め切るのだ。
小姓として出仕して間もない頃、襖の外で掛けられる声が彼のものだと分かる度に手を止め、その優雅な動作をじっくりと堪能したものだ。
だが、今は手順が一つ抜けていた。
言葉を掛けずに黙って少し開けたものの、それ以上開けられずに襖の前で俊巡しているのが伝わってきた。
様子がいつもと違う事は明らかだったので、信長から優しく声を掛ける。
「乱、どうした?黙っておらずに入って参れ。」
意を決し襖を開け、閉めた後、手を付く彼の姿に目を見張った。
夜目にも白い寝衣姿であったからだ。
「…………」
無言で手を付き顔を伏せた儘だ。
「乱、今宵は休めと申した筈じゃ。そなたも疲れておるであろう。ゆっくり──」
信長が宥めるように言うと、畳に手を付いた肩の辺りが小刻みに震えて見えた。
思わず近寄り、肩に触れて顔を上げさせると瞳が涙で潤んでいた。
一体いつから、こんなに好色になったのか。
呆れずにはいられない。
共寝を厭い追い払われたのだと、そう思い込んでいると解釈したからだ。
「何故……今宵は上様の御側にいてはいけないのですか?ただ御側にいるだけでも……私は、私は……」
「いい加減に致せ!今宵はもう休めと申したであろう。」
少し強目に言うと、また俯いてしまう。
「その……御側にいるだけでも駄目なのですか?」
共寝だけでもしたいという思いの純粋さが欲情を掻き立て、何もせずに朝を迎えるなど到底出来そうにはなかった。
ならば乱法師の思いを受け入れれば良さそうなものだが、信長なりの考えがあった。
「明日も明後日も共におるではないか!何もここで──そなたは、ここで儂に抱かれたいと申すのか?そなたの生まれ育った、大事な思いがある場所ではないのか──そんなに抱いて欲しくば明日まで我慢致せ!三左の墓参りしたばかりではないか。この好色者め!」
少し言い過ぎたかと思ったが、若い肉体は益々激しく愛欲を求めるようになっていて、己の事は棚に上げ、たまには嗜めなければなるまいと口を引き結んだ。
「……ううっう……」
案の定、泣き出してしまう。
やはり憐れに思い、肩に手を置き慰めようとすると、嗚咽しながら乱法師が言葉を絞り出した。
「上様は、私に何か欲しいものはないのか?望みのものはないのか?と良く仰せになられるではございませぬか。私の望むものは、上様の御心……」
「儂の心はそなたのものじゃ!今更言わずとも分かっておるであろう!」
その言葉を聞くと乱法師は静かに立ち上がった。
美濃和紙を巻いた灯明の温かな灯りが、俯く彼の泣き顔を仄かに照らした。
「私は今年で十八になりました。茶室で五年前の事を思い出し幸せな気持ちが甦り、時は流れ同じ時に戻る事は叶わずとも……その思い出だけは心に留める事が出来るのだと……」
その儘言葉を続けながら乱法師は立ち上がり、寝衣の腰紐に手を掛けほどいた。
「ここで上様の御寵愛を賜りますれば生涯……今宵を一生分の夜として、幸せな思い出を胸に刻み、これから生きる長い夜のよすがとし、決して、決して忘れない.…..私にとって大事な時を……大事な場所だからこそ忘れたくないのです。上様と共に過ごした……金山での夜の事を……」
白い寝衣をするりと肩から滑り落とすと、肌目細やかな裸身が、その儘信長の前に露になった。
彼が何を言っているのか、何を言いたいのかを信長は理解した。
以前から『その時』が来たら広い心で受け入れ許すつもりでいたのに、口から出たのは全く逆の言葉だった。
「──許さぬ──!」
腹から絞り出すような低い声音で命じ、乱法師を荒々しくかき抱いた。
「駄目じゃ──許さぬ──」
「上様、なれど──私は──」
「黙れ!!」
「上様……」
信長は彼の身体を褥の上に押し倒した。
「此処で良いのか?真に──」
「はい、大事な、大事な思い出がまた加わりまする。何よりも大事な思い出が……私にとって……今までよりも……金山の城がずっと大事な場所になりまする。」
信長は荒々しく乱法師の唇を奪った後、頬や耳朶、首筋、鎖骨にも優しく唇で触れていく。
「許さぬと言ったら許さぬ。」
己でも意識していなかった激情に駆られ、感情に支配されるが儘に乱法師の耳元で命じる。
こんな筈ではなかった。
乱法師は心身共に大人になり、巣立ちの時を迎えようとしている。
これ程強く結ばれ互いを思い合っていようとも、愛の形が変化していく事を止める事は出来ない。
いざ乱法師の口からそのような事を言われると、やはり離しがたく、少しでも長く彼を愛でていたいという本音を制御しきれなかった。
乱法師の気持ちも無論同じである。
年子の兄弟がいる以上、元服を引き延ばせるのも後一年、長くて二年。
せっかく芽生えた自立の心を摘み取りたくなかった。
だが今、明らかに巣立とうとする彼の覚悟を削ぎ、いつまでも腕の中に留めておこうとしてしまうのは、我儘以外の何ものでもなかった。
「上様、ああ!」
乱法師は愛撫を受け入れ、ただひたすら名を叫ぶ。
手を重ね指を絡め、互いが上になり下になり褥の上で激しく縺れ愛し合う。
身体の芯が熱を帯び、強い愛を示し合うかのように身体を逆さに重ね、互いの脚の間の昂りを、同時に口に咥えて慈しみ合った。
「ああ──ずっとこの儘繋がっていたい──この儘腕の中で、いっそ死ねたら──うぅ」
信長の膝の上に座り、迎い合わせに抱き合う。
しがみついて叫び、すすり泣いた。
繋がった儘、唇を重ね合わせ舌を絡ませると、互いの身体が真に一つに溶け合うような心地好さで恍惚となる。
時が経つのも忘れて交わり、何度目かで漸く離れて褥に伏した時には、空は白み始めていた。
ピーチッチチチチーーホーホー
メジロ、キジバト、ツグミ、鳥達の声が山城に朝を告げた。
一旦離れても、また抱き合い、交合の余韻に浸りながら、早朝の鳥達の囀ずりに共に耳を傾けた。
「上様、私は幸せにございます。この朝を私は生涯忘れませぬ。」
大好きな大きな手を頬に当て温もりを楽しみ、長い指を握り締め唇で触れ、咥え軽く歯を立てる。
「最後のような事を申すな。儂は許さぬと申した──最もそなたのような好色者を相手にしていたら、すぐに干からびて命が縮まりそうじゃがな。」
信長の往生際の悪い非道な言葉に目を見張る。
「ですがいずれ──ならば、いっそ今……私は辛いのです……待つことは...…いつ上様から言われるかと……」
指を握った手に力がこもる。
「ふう、そなたは。儂の気持ちも考えよ。突然言われれば心乱れる。」
乱法師は押し黙り、室内を照らし始めた朝の光から目を逸らした。
「最後でなくとも私は今まで生きてきた中で、今朝が一番幸せにございます。上様と私だけの秘め事でございますね。」
気持ちを切り替えるように朝陽に目を向けた乱法師の顔を見て、信長は目を丸くした。
「たわけか!全くそなたは!秘め事な訳がなかろう。筒抜けじゃ!この鈍ちんが!」
昨夜から朝まで縦横無尽に部屋中を転がり回り睦み合っていた事が、二人だけの秘め事な訳がなかった。
────
「上様、道中お気をつけて。必ずや武田を討ち滅ぼして下さいませ。また、是非金山においで頂きたく、いつでも御待ち申しておりまする。僅かな間で御別れするのが名残惜しゅうてなりませぬ。」
金山殿が城の者を代表して別れの挨拶を申し述べる。
信長と森兄弟を見送る為に大手門に城中の者達が居並んでいた。
「うむ、大層な持て成しであった。皆の者も達者でな!」
信長の目の下には隅が浮き、疲労が顔に滲み精細を欠いた様子であったが、それについて何か言う野暮な者は一人もいなかった。
「良し!出立じゃ!」
まだ武田の本拠地までは数日はかかる長い道のりである。
「本日は高野に陣を据えられるのでございますね。」
乱法師が信長に声を掛けた。
「乱、今宵こそ大人しくゆっくり休むぞ──良いな。」
「は、はい。」
瞼が張れぼったい乱法師にそう言うと、信長は馬上で一つ大欠伸をして、軍勢は信州を目指し進み始めた。
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