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─────

 安土に着く頃には空を朱に染める陽が西に沈みかけていた。
 一日がかりで行って戻って来たのだ。

 乱法師には馬で駆け通しても物ともしない若さがあった。
 何しろ信長自身が強靭な肉体を有している為に、それぐらいの体力がなければ近習は務まらない。

 安土城が目に入って来た途端に大きな安心感に包まれる。
 信長の住む城は、最早彼にとって我が家なのだ。
 気持ちが逸《はや》り馬を急かすと、紅紫に染まる幻想的な安土城が迫ってくる。

 信長の顔を思い浮かべただけで、つい顔が綻ぶ。
 ほんの少し離れたぐらいで、こんな気持ちになってしまうとばれたら、益々子供扱いされてしまうと顔を引き締めた。
 信長に守られている己の未熟さから脱却したいのに、強い腕に身を任せている時を最上の幸せと感じてしまう。

 「只今、金剛寺より戻りました。」

 「さすがは乱じゃ!早かったな。」
 
 帰城した彼を迎える瞳はひたすら優しく穏やかだった。  
 信長は彼を使者として遣わすのが好きなのだ。
 厳命を伝えたり敵方への威嚇の使者ではなく、此度のように礼状や褒美を携える使者としてである。
 人には向き不向きがある。
 物腰も容姿も優美で礼儀正しい彼には褒美を下賜する為の使者は真に似つかわしく、政《まつりごと》の一環として考えるならば、彼に求めるのは信長自身の印象を和らげる役回りだろう。
 金剛寺への使者を命じたのは、坊主共に乱法師を拝ませてやる事事態が褒美なのだという悪戯心もあった。
 女犯を禁じられた僧侶が美童を見て涎を垂らさんばかりになるのは容易に想像出来たからだ。

 「金剛寺はどうであったか?」

 声を聞くと安らぎ、顔を見て気持ちが和らぐ。
 信長の側にこそ己の居場所があると実感する。 
 彼は金剛寺で目にした大日如来像や素晴らしい庭の景色を熱く語り始めた。

 

────後日

 天野山金剛寺から乱法師邸に天野酒が届けられた。

 使者や取り次ぎ役としての役得とも言えるし、少なからず不快な思いをさせた事への詫びとも思えた。

 月を見ながら美酒に酔いしれたいものと思っていた折、一人の男が邸を訪れた。

 「あなたは──」

 「お乱殿お久しぶりどす。貴方がお邸に戻られてると伺い立ち寄らせて頂いたんどす。お会い出来て良かったどす!」

 邸を訪れた者の名は吉田兼和。

 京の吉田神社の神主で、吉田神道の継承者である。
 
 上京焼き討ちの時に信長に助言をした経緯から信頼を得て朝廷に推挙され、家格は堂上家(昇殿を許される上級貴族)の中では末端である半家を許され、卜部氏として朝廷に出入りしているのだ。

 卜部とは文字通り占いの事で、天皇家の行事は仏教ではなく神道に依る為、朝廷では家格は低くとも影響力は強い。

 都の貴族達は進む方角さえ占いで決め、方角が悪いと方違えと言って、わざわざ違う方角で一晩明かし、道を変え目的地に赴く事が一般的であった。

 足利義昭とも嘗ては親交があり、以前幕臣だった信長の家臣の細川藤孝の従兄弟でもある。

 そして同じく、元幕臣明智光秀とは古くからの親友だった。

  
 「兼和殿は、此度はどのような御用事で?日向守(光秀)殿の阪本城には立ち寄られたのですか?」

 吉田兼和が光秀や細川藤孝と親交があり、度々光秀の居城坂本城を訪れている事は乱法師も良く知っている。

 「いえいえ、津田様(信長の甥、乱法師の邸の隣人)に御挨拶をして、貴方もいらしゃれば、お会いしたいと御訪ねしたんどす。時間があれば、明日にでも坂本には立ち寄ってみようとは思うとります。」

 「金剛寺から天野酒が届けられたのです。せっかくですから御一緒にいかがですか?」

 「そらおおきに。ほな御言葉に甘えて少しお邪魔致します。こら、おもんないもんどすが、酒の肴にでも。」

 と差し出したのは、しば漬けとすぐき菜の漬物であった。

 すぐき菜とはカブラの一種で、塩を振り重石で漬けた簡単な漬物だが、上流階級の贈答品として用いられていた。

 家臣に申し付け肴と酒を用意させ、兼和を客間で持て成す。

 兼和は乱法師より三十も年上だ。

 京の公家らしい柔和な物腰に話し方だが、人に取り入るのに関しては特に抜け目ない。

  朝廷と信長を始めとする武家との橋渡し役。
 
 自身の身分家柄ではなく、権力を持つ者に擦り寄り立場を強めていくのが非常に上手い。

 信長の寵愛と信頼を得て、若くして今の立場にいる乱法師に似ていなくもなかった。

 だが彼の場合は特別取り入ろうとした訳でも、自ら信長の褥に身を横たえた訳でもない。

 天真爛漫、無垢でありながら利発な彼を信長が強く欲したからだ。

 ただ取り入ろうとしたにせよ、そうでないにせよ、権力者の心を取り込む事も天賦の才の一つと言えるのかもしれない。

 そんな吉田兼和が、意図的に信長の寵童に近付いたのは当然の成り行きだった。

 乱法師が現れる前は光秀や細川藤孝を頼み信長と連絡を取っていたが、彼等は所詮武官である。

 常に信長の側にいて取り次ぐ事が主な仕事ではない。

 「石清水八幡宮の修理も上様のおかげで随分進んで綺麗になりました。夏頃には終わりますやろ。帝も大層お喜びでいらしゃって。近頃、上様が御上洛されてないのを気にしてらっしゃるようですな。」

 坊丸の言葉を借りれば、策謀、欲望、妬みなどの人の負の側面に対して薄らぼんやりした所がある彼と言えども、吉田兼和の狙いくらい気付いている。

 「ここのところ御忙しい御様子ですが、近々上洛される御予定でいらっしゃるようです。もし宜しければお取り次ぎ致しますが……」

 「いやいや、此度は手土産をなんも用意しとりまへん。また日ぃ改めておたのもうします。それにしても天野酒はやっぱり美味やな。寿命延びそうや。河内まで行って来られて一日で戻って来るなんて若いんどすなぁ。十兵衛(光秀)はんや儂とはえらいちゃいます。病なんぞ中々掛かる事もなさそうどすが、もしお困りどしたら祈祷致しますえ。十兵衛はんなんか、なんべんも祈祷して良なってるんやさかい儂の祈祷は効く筈どす。」

 「日向守殿は、どこかお悪いのですか?」

 同じ家中で光秀は重臣中の重臣。

 顔を合わせた事も言葉を交わした事も頻繁にある。

 ただ歳が大きく離れている上に、光秀は堅苦しい所があり、あまり砕けた話しをした事はなかった。

  人柄が違い過ぎて較べるのも妙だが、年下の乱法師にも甘えた声を出し、信長の前でも出来ないだの困っただのと己の駄目っぷりを平気で曝け出す同じ重臣の秀吉とは正反対である。

 秀吉ならば、こちらから聞かなくても病を大袈裟に吹聴して同情を引こうとするだろう。

 「腰痛いの腹痛いの、きょうびも何や具合悪い言うてました。儂らの歳になると色々悪いとこは出てくるもんどす。それにしても上様は御元気どすなあ。たまには御病気される事もあるんどすか?」

 「いえ私も御側で拝見していて真に驚く程御元気でいらっしゃいます。御風邪を召された時も、お薬を飲まれたら、すぐに良うなられました。」

 「きっと上様は長生きされるやろうな。ま、どのみち祈祷なんぞ好かんやろうさかい、儂の出る幕はなさそうでございましな。」

 乱法師は苦笑する。

 「では、もし坂本に行かれましたら、お大事にと日向守殿に御伝え下さいませ。」

 「いやいや、十兵衛はんは昔から人に弱味は見せたない質で。気心知れてますけど、最初は何や、何考えてるのか思うてた。お乱殿にも具合悪い事やら知られとうはあらへん思います。お気ぃ悪うしいひんでください。」

 「気を悪くなどは致しませぬが、日向守殿は戦上手で様々な事に見識が高い御方。上様の御信頼並々ならず。御自身の内で無理をされてしまわれないか心配です。上様は才ある方を非常に高く評される反面、諸事を沢山任されてしまうところもあります故、病を隠して御無理をされない方が良いのではと。」

 「真にそうどすなぁ。いつでも聞き役ばっかしで本音を出すのんは苦手なんどす。儂と十兵衛はんは長い付き合いで、もううんと話しをしたし、裸の付き合いどすさかい。」

 裸の付き合いと聞き、乱法師の目が大きく見開かれる。
 そして慌てて平静を装おうとした。

「あ、いやいや──はっは!裸って、そないな意味やあらしまへん。風呂に入ったちゅう意味でおじゃります。共寝した訳やあらしまへん。」

 かなり丁寧に説明され、居心地が悪かった。
 
 「そ…その……では、上様が御上洛される時には、また御知らせ致しまする。」

 急いで話しを切り替える。

 「それは、ほんに大きに。助かります。」

 時の権力者信長がいつ上洛するかを知る事は公家衆にとって一大事なのだ。

 「兼和殿、何か上様に御伝えする事はございますか?」

 一瞬、兼和の顔に迷いが浮かんだ。

 「いえ、今のとこは……上様には万事良うして頂いてますさかい、帝も常に『信長、信長』て頼りにされてはります。石清水八幡宮修繕や宮様(誠仁親王)の二条御所の造営、節会まで、上様の御力のうしては出来ひん事でおじゃった。こちらから言わずとも自ら色々な事に気ぃ回して下さり、望む物があれば、どないな物でも上様に与えたいちゅう帝の御気持ちであらせられます。これからも、御所の事、都の事、どうか良しなに良しなにと御伝え下さりませ。」

 奥歯に物が挟まったような感じだが、都の公家相手なら良くある事。

 お互い深くは追求せずに兼和は邸を後にした。

 乱法師の頭の中に『裸の付き合い』という言葉が引っ掛かっていた。

 己の前では話せなかった事も光秀には話すのだろうかと、ふと考えた為だ。

 元幕臣、光秀や細川藤孝の交友関係は、織田家にとって非常に利用価値が高く、信長が初めて上洛を果たした時も、上京焼き討ちを断行する際の足利義昭の評判を探る時も、その関係が有効に働いた。

 光秀の人柄は律儀で生真面目で非常に勤勉。
 出しゃばらず、望んだ以上の結果を出しながら、あくまでも腰が低い彼に対する信長の信頼は篤い。

  一旦頭の中で、役に立つか信ずるに値する内容かを熟考した上で耳に入れる。
 軽々しく情報を漏らさぬ口の固さと評す事も出来るだろう。

 誰にでも良い顔をする者は主を裏切り易いのだ。
 
 乱法師は吉田兼和が邸を訪れ、もたらした内容を信長に全て報告した。


 彼にとって信長は唯一無二の存在であり、家族とは別に何でも打ち明け、大きな喜びや苦しみを感じた時真っ先に頭に思い浮かぶ相手である。

 美少年の名を欲しい儘にする容姿は、出仕してから歳を重ねるごとに凄みと色気を増していく。

 信長にとっても乱法師は他の家臣とは一線を画す特別な存在であった。 
 
────── 

 四月九日、石山本願寺から顕如上人と和睦派の者が退去した。

 父親が退去しても息子の教如は周りの説得を聞き入れず、あくまでも徹底抗戦を訴え石山本願寺に籠城を続けた。

 既に力は弱まっていたにも関わらず退去を拒んだのは、若く血気盛んな事に加え、信長を信じられず、退いた途端に殺されるのではと頑固に思い込んでいたからというのもある。

 猜疑心や恐怖が一度深く心に根付いてしまうと、正しい決断が中々下せないものらしい。

 
 「母上、後は朝廷にお任せ致しましょう。」

 「……私の力及ばず……教如殿がまだ籠城を続けているとはいえ心が少しだけ軽くなりました。」

 「此度の和睦により多くの命が救われたのです。戦が長引けば、織田方の兵の血もまだまだ流された事でしょう。母上の成された事、決して無駄ではありませぬ。」

 「教如殿が朝廷の説得を聞き入れて下されば良いのですが……まだ無駄な血が流されるかと思うと……」

 「母上、望みはありまする。教如の説得には前の関白近衛前久様が向かわれるそうです。あの方の言う事ならば聞き入れるやもしれませぬ。」

 近衛前久ならばと言ったのには意味がある。

 教如は前久の猶子《ゆうし》なのだ。
 
 親子の縁を結んだ経緯は、前久が足利義輝殺害の関与を疑われ都を追われ諸国を放浪していた間に、石山本願寺に身を寄せた事による。

 公家とは思えぬ程豪胆で宮中で浮いているのは苦労したからなのだろう。

 本願寺の成り行きは近衛前久に任せ、今は見守るしかなかった。

────

 六月に明智光秀が安土に出向いてきた。

 用向きは、土佐の大名長宗我部元親からの品を献上する為である。

 献上品は、鷹十六羽と砂糖三千斤で、うち砂糖は馬廻り衆に分けられた。

  砂糖三千斤とは、現代の単位でおよそ1500kg以上の重さになる。

 桁外れな砂糖の量に乱法師も驚いた。

 この時代の砂糖は輸入品で高価で貴重な物だったからだ。

 「土佐守殿は破竹の勢いで四国を攻め取られておられる故、献上される品も大層な物でございますね。」

 献上品の披露が終わり、光秀に声を掛けた。

 「贈る物には贈る者の気持ちが込められているという事でござる。土佐守(長宗我部元親)は上様からの四国切り取り次第の御沙汰に大変感謝しております。その御言葉を信じ、粉骨砕身しておるのでござろう。同時に上様との同盟あってこその長宗我部と、御力を畏れ敬う心遣いの表れでしょうな。」

 随分長宗我部を庇い持ち上げるような言い方だが、光秀を介して献上し、両者の関係を考えれば至極当たり前の事である。

 「土佐守殿の御正室は確か──」

 「我が家臣、斎藤利三の妹でござる。付け加えれば、儂にとっては従姉妹に当たる女性《にょしょう》。」

 光秀が乱法師の言葉を継いで答えた。

 「では御縁戚でいらっしゃるのですね。大事な事を聞き申した。これは覚えておかねば。」

 いくら利発とはいえ、数多いる家臣や同盟関係にある武将の縁戚関係まで完璧に把握するのは至難の業だ。

 取り次ぎや献上品を披露する奏者番としての立場上、出来る限り諸将の顔名前は勿論だが、縁戚関係なども頭に入れておきたい。

 
『そうか。だから日向守殿は土佐守との間に立っておられるのであったな。』

 そのような関係から、信長の切り取り次第の言葉通り、四国全土の支配を目指して戦う長宗我部との仲介役を光秀が担当してきたのだ。

 長宗我部は阿波国の三好氏と攻防を繰り広げてきたが、今や阿波、讃岐まで手中にする勢いがある。

 大量の砂糖の献上の裏には複雑な四国の情勢が絡んでいる。

 敵対関係にある三好家の康長は、信長に『三日月の茶壺』という名物を献上し家臣として厚遇されている。

 だが長宗我部は四国切り取り次第の朱印状を盾にして、三好康長の息子や甥が支配する阿波の国にまで侵攻を始めてしまった。

 織田家が長宗我部と三好のどちらとも同盟関係であるような状況下での事態なので『四国切り取り次第』が矛盾した言葉となってしまいかねない。

 長宗我部元親としては、此度の献上品で三好側に傾いている信長の気持ちを引き戻し、あくまでも四国全土の統一を認めて欲しいとの意向があるのだろう。

 四国は土佐の長宗我部氏、阿波の三好氏、長宗我部の臣下となった讃岐の香川氏、中国地方を支配する毛利氏との間で複雑にせめぎ合ってきた。

 更に其処に織田家が加わり、力関係の均衡が崩れたり取れたりと、分かりやすく言えば三つ巴か四つ巴かといったところだ。

 織田に睨まれ動けない毛利、三好との対立がある為目立って毛利と敵対出来ない長宗我部、織田家の機嫌を取り長宗我部を追い払おうとする三好。

 そして、それらの力関係を利用し、最後に喰らおうと狙う織田。

 三河の徳川家康との長い同盟関係とは異なる、情勢次第でいくらでも崩れる砂糖菓子のような脆《もろ》い関係である。

 光秀は非常に頭の切れる男だ。

 秀吉のような派手さはなくとも連歌、和歌などの風雅を嗜《たしな》み、幕臣時代に築いた公家との交遊など、秀吉の持たざる物を多く持ち、着実に信長の信頼を勝ち得てきた。

 光秀の事を妬み良く思わない者は数多くいる筈だが彼は隙を見せない。

 乱法師のように極端に愛される事は無くとも、決して信長の機嫌を損ねる事をしないのが強みである。

 それ故、阿波に攻め入り三好康長の親族を攻撃する事に対して忠告したのだ。

 主、信長の気性を嫌という程知るが故に。

 だが、長宗我部は攻撃した。
 『四国切り取り次第』の朱印状をあくまでも信じて。

 寵臣光秀の縁戚であるから、三好よりも一日の長があると考えたのか。

 此度の砂糖の献上は、光秀から勧めた事だった。


 「先日、兼和殿は坂本に立ち寄られたのですか?」

 話しを変えるように訊ねた。

 「──ああ、そういえばお乱殿の邸に寄ってきたと言ってましたな。」

 「随分仲が宜しいのですね。裸の付き合いと申されていましたから、お二人の間には隠し事はないのですか?」

 「──あっはっは!ええ、確かに昔から風呂を何度か借りたなぁ。共に入って汗を流しました。石風呂でござるよ。これが実に気持ちが良い。お乱殿も試してご覧になりたければ兼和に言ってみたら良い。もし言いづらいようでしたら儂から言っても良いが。まあ、儂は隠し事はしているつもりはござらぬが、兼和はどうでしょうなぁ。結構腹黒いところがある故。」

 「ははは!では、今度頼んでみます。兼和殿の好物をお教え頂ければ、それを携えて参りましょう。それはそうと、日向守殿が御元気そうで何よりです。」

 「元気そう?何か兼和から聞いたのですか?」

 途端に怪訝そうな警戒するような表情になる。

 「あ……つい、申し訳ございませぬ。日向守殿とお話をしていたら我が母の事を思い出しまして。先頃、具合が良くないと申しておりました故……妙な事を言ってしまい申し訳ございませぬ。」

 危うく口を滑らしそうになったのを咄嗟に誤魔化す。

 「おお、これは。母御が──御心配でありましょう。それこそ、あまり体調がすぐれぬようでしたら兼和に祈祷を頼まれるのも良いでしょう。我が妻も先頃祈祷をして貰い、すっかり元気になり申した。」

 考えてみたら病など誰でも掛かるものだ。
 隠す必要はないのに知られたくないのは単に光秀の誇り高さなのか、あまり体調が芳しくないのか。

 会って話しをした限りでは普通に元気そうに見えるが。

 そんな事を考えながら光秀と挨拶を交わして別れた。

─────

 天正八年、七月二日 、晴れ。
 陽射しが強く照り付ける、夏真っ盛りである。

 安土の城下町の職人や商人達には上半身裸で作業する者もいた。

 城勤めの者達はさすがに裸という訳にはいかないが、毎年のように略装を許され肩衣は着けずに過ごしている。

 この日の信長は流水と夏の草木を刺繍した生成り色の単衣の着流しという気楽な格好で、小姓の力丸に団扇で風を送らせていた。

 乱法師や力丸以外に、側には松井友閑、佐久間信盛も控え、更に六月の三十日から安土に滞在している嫡男の信忠も座していた。

 佐久間信盛は信長の父信秀の代からの織田家筆頭の家老だ。
 彼に付けられた与力は家中で最も多く、最大の軍団を従えている。

 本願寺攻めの筆頭として指揮を取り続け、和睦の話しが進み始めてからは朝廷との取り次ぎ役を担っていた。

 此度は教如の説得に当たっていた近衛前久から、ついに和睦に応じたとの知らせを先に受け、安土にて正式な勅使の来訪を待っているところだった。

 
 この日訪れた勅使は近衛前久、勧修寺晴豊、庭田重保。
 本願寺からの使者三名を伴ってきていた。

  松井友閑と佐久間信盛が対応し、信長の代わりに信忠が勅使と本願寺からの使者の挨拶を受けた。

 信忠は勅使と本願寺の使者を礼を持って遇し、和睦の印として黄金をそれぞれに渡した。
 これにより八月二日に本願寺の明け渡しが決まり、漸く真の和睦が成立したのだった。

 「乱、母に早く知らせてやれ。」

 「……はい……はい。」

 信長の優しい心遣いに感謝し、自邸に急いだ。
 
 乱法師には公私の別があまりない。
 邸は天守閣から近いので、夕餉の為だけに邸に戻る事もしばしばあったからだ。

 門を潜ると、暑さを和らげる為に手桶を持ち、庭や草花に水遣りをする妙向尼の姿が目に入った。

 「…………」

 母の姿を見た途端に立ち尽くし、何と声を掛けて良いか分からなくなってしまう。

 乱法師に気づき、妙向尼から声を掛けた。

 「早いお戻りですね。何かございましたのか?」

 「……教如が……教如が……本願寺を明け渡すと……」
 
 声が震える。

「あ─ああ─それは──それは──良うございました……まことに…まことに……」

 涙が溢れそうになる。
 母のように揺るぎない信仰心がある訳ではない。

 だが、息子達の身を案じ阿弥陀如来にすがる母の信仰心を潰さずに済んだ事がただただ嬉しかった。

『やっと終わったのだ。』

 「乱法師殿、そなたのお陰です。礼を申しまする。言葉だけでは足りませぬ。何か望まれる物、望まれる事はございませぬか?」

 喜びの涙を流す母の申し出を最初は断ろうとしたが、ふとある事を思い付いた。

 「母上にお願いがございます。」


『今度こそ終わらせる。そして二度と戦を起こさせはしない。もう二度と──』

 本願寺との戦いが終結し、信長が最早仏敵ではないと世に知らしめる。

 その、良い方法を。

 此度の和睦尽力への朝廷に対する礼と、石山本願寺の明け渡し後の検分を兼ね、信長は七月中旬に上洛した。

 本能寺はまだ普請中である為、妙覚寺を宿所とした。
 
  八月一日に妙覚寺を訪れた吉田兼和が、菓子を献上し乱法師が披露した後、京に滞在中の信長の予定を訊ねてきた。

 「明日、いよいよ本願寺明け渡されるんですやろう?長うおじゃりましたな。大坂は日の本一富める土地でおじゃります。都にも近い。舟も使えて海もおっきな河もある。大坂城(本願寺の事)は全く見事な城でおじゃります。あれが上様の物になるんやさかい、益々御威光増すやろうなぁ。」

 「此度、無事に和睦と相成りましたのも、ひとえに朝廷のお力があっての事と、上様も真に喜ばれておられます。」

 「しばらく都におられて、教如上人退去後に御自ら出向かれんのどすやろ?この後の都での御予定を伺うても宜しいどすか?」

 「はい、先ず石清水八幡宮の修築が完了致しましたら、その御検分をされる御予定です。後は、宇治橋の様子と本能寺の御屋敷の普請の進み具合も御覧になられたいと仰せでございました。」

 「承知致しました。せやったら、私も上様に随行させて頂きたいとお伝え下さりませ。こないだ本能寺に行ってみたんどすけど、おっきな石垣も積まれて、周りには堀も深う掘られて。まるで城のようどしたなぁ。」

 「如何に上様とて、御上洛される度に軍勢を引き連れ都に入る訳には参りませぬ。都では我等近習ばかりが御供つかまつる事が多うございますれば並みの屋敷ではいささか不安がありまする。城のように堅固な造りであれば不埒な輩も滅多な事は出来ますまい。」

 「左様でおじゃりますな。それに本能寺の向かいには、京都所司代の村井長門守様の御邸もあって、なんかあればすぐに駆け付けられるさかい安心ちゅう訳どすな。」

 八月二日
 
 いよいよ本願寺から教如が撤退する日、勅使と織田家からは松井友閑、佐久間信盛、堂宇を受け取る検使役には矢部家定が任命され大坂に向かった。

 織田家の兵士達が本願寺を検分する為、武器という武器は外に立て掛けておき、内部は雑具の類まで整頓し、綺麗に掃き清められ、神妙に検使に赴いた役人達に引き渡したのは未の刻(午後三時頃)。

 佐久間信盛、検使役の矢部家定の指示により、兵士達が隅々まで怪しいところがないか調べる。

 確認する作業は陽が沈み暗くなるまで続けられた。

 灯りは松明のみ。

  一説によれば悪風が吹いたのだと云う。

 木造の伽藍に瞬く間に火が燃え移り広がった。

 消している暇などない。
 早く逃げねば焼け死ぬ。

 一先ず外に出てから火を消し止めようとしたが勢いは凄まじく、阿修羅が怒り狂うかの如く堂宇伽藍を焼き尽くしていく。

 あっという間の出来事に、成す術のない者達の顔を火焔が明々と照らし、燃え上がる焔と巻き上がる黒煙で空が黒々と染まった。

 三日三晩燃え続け、一向宗徒達の夢の城は灰塵に帰した。

 佐久間信盛等が何よりも恐れたのが、信長の怒りである事は言うまでもない。

 報告を受けた信長の機嫌が元より良い訳はないが、失火の原因が本願寺の手によるものか織田方の失態かを先ず調べさせた。

 乱法師は無念で仕方がない。
 
 堅牢堅固な本願寺を無傷で手にいれる事が出来る筈だったのに。

『ここまで来て、最後の最後で……』

 これだけの大火である。
 民の間では、様々な噂が飛び交った。

──失意の乱法師の元に、母に依頼し作らせていた物が届けられたのは炎上から何日も過ぎたある日の事だった。

 全てを仕上げるのには数ヵ月を要する為、肝心の物だけを先に作らせた。

 民達の噂では本願寺側が織田方に引き渡したくないから燃えるように仕掛けをしたのだという話も出回ったが、調査の結果、信長は織田方の失火と判断した。

 織田方の兵の失火となれば、責を負わせる者は一人しかいない。

 まるで本願寺の火焔が移ったかのように信長の瞳が怒りでぎらぎらと燃えた。

 「これは良い機会である。本願寺が焼失したにせよ、儂が出向いて検分は致す。」

 八月中旬、兵士達を率いて大坂に出陣する事が決まった。

 具足を身に付けた乱法師が信長に声を掛ける。

 「上様!出兵の準備が整いましてございまする。」

 信長が振り向いた。

 乱法師の姿を見て目を瞠り、思わず言葉を失う。

 真っ先に目に入ったのは、この世で最も忌むべき言葉。

『南無阿弥陀仏』

 乱法師の兜の前立てには、『南無阿弥陀仏』の文字が堂々と象られていたのだ。

 「────乱、それは──如何がしたのじゃ。」

 「はい!母が書いた文字を象らせたのでございまする。」

 全く悪びれず、寧ろ信長の反応を楽しむような無邪気な笑顔で答えた。

  信長は最初は驚いたが、乱法師の豪胆さに呆れ、思わず笑いが込み上げた。

 己の傍らに南無阿弥陀仏の文字が揺れる。

 これ程不似合いな光景があるだろうか。
 
 だが寵臣の兜の前立てに南無阿弥陀仏の文字が踊れば、無学な者にも理解出来る筈だ。

 最早、信長は一向宗の敵ではないのだという事が。

 馬上で乱法師は心に誓った。

『守られたいのではない。守りたいのじゃ!一生、御側で上様を御守り申し上げる。命に代えてでも──絶対に──』

 
 三日三晩盛大に燃え続けただけあり、ものの見事に焼けていた。

 炭化した木材の残骸からは焦げ臭い匂いが漂ってくるような有り様で、炭と灰の山からは、宗徒達が各地から集まり栄華繁栄を極めた本願寺の面影を忍ぶ事は出来ない。

 我が物にする前に燃え尽きた本願寺跡に立つや信長の怒りは再燃し、過酷な処罰の決意を固めた。

 筆頭家老、佐久間信盛に対する折檻状。
 賞罰の書状は大抵信長直筆である。

 一字一字をしたためる度に、佐久間への怒りが込み上げる。

 父の代からの家臣と思えば我慢してやってきたのに。
 家中で一番多くの与力を付けてやっているのに。
 佐久間信盛に宛てた十九箇条の折檻状の内容の中で一番強く責めているのは、大軍を率いていながら本願寺との戦いでは持久戦に終始するばかりで何もしなかったという点だろう。

 明智光秀、羽柴秀吉、池田恒興、柴田勝家の戦功を誉め讃え、新たな家臣を召し抱えない事をケチ臭いと罵り、信盛の息子の人望の無さを指摘している。

 一見すると様々な失態を責めているように見えるが、取り上げられている失態は、本願寺攻めで戦功を挙げられなかったという一点に、ほぼ全てが結び付けられているのだ。

 佐久間信盛が長年の奉公で役に立たなかった訳では決してない。 
 寧ろ『退き佐久間』の異名を持ち、様々な場面で活躍を見せてきた。

 本願寺炎上が、主に本願寺攻めでの佐久間の無為無策に前々から腹を立てていた信長の怒りに火を点けるきっかけになったのは明らかだった。

 父子共々領地没収の上追放。
 頭を丸め高野山にでも隠遁しろと言っておきながら高野山にも居る事を許さず、熊野に落ちねばならなかった時は、たった一人だったという。

 怒りの火焔は収まるどころか更に激しく燃え広がり、 数日後、更に三名の古参の家臣が追放される事となった。

  三名の名は、安藤守就、林秀貞、丹羽氏勝。

 安藤守就は元は美濃の斎藤道三に仕え、後に信長に仕えるようになり、様々な合戦に参加している古くからの家臣である。

 林秀貞に至っては、幼少からの信長の家老だが、信長の弟信勝を擁して一旦裏切ったという二十四年も前の罪を今になって蒸し返されるという不可解さだった。

 その後地道に仕え重臣として堅実に勤めてきたにも係わらずだ。

 丹羽氏勝は、信長の叔父信次の元家臣であった。
 他二名と同様、特に大きな問題はなく仕えてきたが、今年信長が伊庭山への鷹狩り途中の道先に、氏勝の家臣が大石を落としてしまうという事件があった。

 その場で家臣は手討ちになったが、それは数ヶ月も前の話だ。

『先年信長公御迷惑の折節、野心を含み申すの故なり』と信長公記は記す。

 野心があったからだと。

 他の家臣達から見れば不可解な処罰ではあったが、特に筆頭家老の佐久間信盛の追放と哀れな末路に皆震えあがった。

 ところが、震えあがるどころか笑いが止まらない者もいたのかもしれない。

 この四名の家臣達の追放後、更なる領地と与力を得たのは明智光秀。

 近江坂本、丹波の支配に加え、丹後の細川藤孝、佐久間信盛の元与力の大和の筒井順慶、高山右近、中川清秀、信長と朝廷のお膝元である畿内の大軍団を従える事となった。

 この時点で光秀に対抗出来る軍事力を有していたのは宿老柴田勝家だけだった。

 だが柴田は加賀や越前を従える身。
 日本の中心からは遥か遠い地を支配している。

 与力の領地も含めれば、二百四十万石にもなったという光秀の掌握する領土。

 無論信長の力があってこそだが、管領のようだと噂される程に、信長さえいなければ天下に一番近い処にいたのかもしれない。

 信長さえいなければ──

 

──どこかで小さな焔《ほむら》がゆらゆらと揺らめいた。
 
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