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『全く何て目障りな奴等じゃ!いつの間にか三匹に数が増えておる。湧いて出る虫のようじゃ──』

 長谷川秀一は苛々と爪を噛んだ。

『坊丸だか、力丸だか──三人も小姓に取り立てられるなど正気の沙汰ではないわ!あの小童を、どこまで御寵愛なされるおつもりか!』

 弟二人までも小姓に取り立てられ、城内をうろうろするのを見る度目障りで仕方がない。

 元服すらしていない小童共だが、三人もいるとなれば、この先さすがに脅威となるだろう。
 
『確か下にもう一人いた筈....』

 末弟の仙千代まで小姓として取り立てられたらと思うと心底うんざりする。

 いや、うんざりするどころではなく信長の周りが森一族で固められてしまう事になるのだ。

 一番目障りなのは乱法師で間違いないが、並々ならぬ寵愛を与えられている彼を排除するのは容易ではない。

 下手に動けば己が足元をすくわれ転落する恐れすらある。

 幸いにも年若く、人の理不尽な悪意に対して鈍いところがある為、寵愛に報いようと熱心に奉公するばかりで、更なる出世や気にいらぬ者を蹴落とすのに己の力を行使するなど思いもよらぬようだ。

『良く言えば無垢。悪く言えば愚鈍じゃ。』


 だが三人も四人も同族から側近として侍り信頼を得る事になれば、今は若輩者とあしらえても、この先乱法師の力は比類無く、古参の重臣のみならず、織田家の嫡男信忠でさえ顔色を窺うようになるやもしれぬ。

 乱法師の邸は織田一門の津田信澄と軒を連ねており、既に異常な待遇だ。

 何でも噂の種になる為、信長の『隠し子』と密かに囁く者達までいた。

 以前に己が仕掛けた淫らな嫌がらせを忘れず、乱法師が許していない事には気付いている。

 日頃、他の側近達といる時には面に出さないが、回廊で鉢合わせたり、部屋の中で二人きりになるような事があると、隠しきれない警戒と嫌悪を顔に滲ませる。

 乱法師の怯えや嫌悪の反応を楽しみながら、想像の中で嫌がる彼の着物を剥ぎ、淫らな姿態を取らせて思う存分犯してやるのは心地良かった。

 向こうもこちらの顔を見るのも嫌だろうが、長谷川とて乱法師がいなくなれば良いと思っているのだからお互い様だ。

『この先、あんな小童に媚びへつらいながら生きていくなど考えただけで虫酸が走る。失態を犯すのが一番良いのじゃが──ん?下ではない、上にとんでもない事を仕出かすのがいるではないか!上が切腹でもすれば、乱法師は御咎めなしでも家督を継いで目出度く金山城主様として追っ払える!』

 長谷川秀一が心に思い描き期待を寄せた『上』とは乱法師の兄、森武蔵守長可の事である。

 彼は信長より鬼武蔵と名乗れと言われた程の剛の者だが、名前や官位の前に『鬼』『夜叉』『悪』など奉られている武将は他にも沢山いる。

 恐ろしげな渾名は、鬼のように強いという敬意を表して冠せられるものだが、鬼武蔵の場合は敵にも味方にも真の鬼と恐れられていた。

 何故そうなったかというと、信長上洛の折、足利幕府は関所を設け京に入る大名小名等を厳しく検閲した。

 長可は下馬しなければならぬところを馬上から名乗っただけで関所を通り抜けようとした。

 番人達が槍で行く手を遮ると激怒し、問答無用で番人の首を刎ねてしまったのだ。

 乱暴狼藉者の出現に慌てふためき木戸を閉鎖するも、長可は激昂し、木戸に火を放ち混乱に乗じて押し通ってしまった。

 人というものは中途半端な者は罰するが、やり過ぎる者に関しては諦めてしまうものなのか。

 信長も若い時から無茶ばかりしてきたから、つい大目にみてしまったのかは良く分からない。

 あまりの暴れっぷりに呆れたが、何と許してしまった。

 無論、周囲が厳罰を求めたのは言うまでもない。

 悪事は更に止まるところを知らなかった。

 数年前信長が架け替えさせていた瀬田の唐橋が完成したが、『渡り初め』があるまで、つまり信長が渡るまでは何人たりとも渡るべからずとの通達で橋は使えず、皆舟で琵琶湖を渡っていた。

 そんな折に長可が瀬田の唐橋にやってきてしまったのだ。

「何故橋があるのに渡れないのじゃ!上様の渡り初めがないと言うならば儂が渡り初めをしてくれるわ!!」と、またもや頭に血が昇り、橋の柵を破壊する暴挙に出た。

 橋奉行の山岡美作守の家来が馬の口を捉えて止めたところ、またもや激怒し、問答無用で罪無き番人を叩っ斬った。

 森家の家臣達が橋の上から死体を琵琶湖に放り込み、主の犯した罪の証拠隠滅を図ったが、後日死体が上がり、山岡家の家来が殺されたのだと、あっという間に露見してしまった。

 山岡美作守は怒り心頭で狼藉を訴え厳罰を求めた。
 
 だが信長は「最近、色々なところで武蔵守が悪さをしているから、皆が鬼武蔵と呼び、恐れ避けて道を通すらしいぞ。若輩者のする事故、此度は貴様も赦してやれ!」と、からから朗らかに笑っただけだった。

 無論、周囲の誰もが厳罰を望んだ。
 しかし『色々なところでの悪さ』とあるから悪行はこれだけに留まらず、きりがなかったのだろう。

 家臣達とて可成亡き後、若年の長可に不安を抱き、強い主を確かに望んだ。

────だが、いくらなんでも強過ぎた。

 家臣達が乱法師に甘いのは麗しい容姿のお陰もあるが、長可のような主に仕える事に心身が疲れているせいもあるのだろう。

 他の者なら斬首十回 切腹ならば三十回には及びそうな所業の数々だが、信長は常に赦してしまっている。

 このような長可であるので、常に争いは絶えず、先日も悪い噂が安土に聞こえてきたばかりだ。

『何故、上様は武蔵守のような愚か者を御許しになるのじゃ?お乱の兄だからか?上様の御気性なれば、悪事も度重なれば、そのうち堪忍袋の緒が切れるであろうがの。』

 長谷川はほくそ笑み、厳罰が下る事を待ち望んだ。

 
────実は長谷川以外にも、長可に罰が下る事を望む意外な人物がいた。

『何故、上様は兄上を罰して下されないのか。』

 乱法師は溜め息を吐いた。

 兄の行いの酷さは家族にとっても悩みの種であったが、金山にいる限り彼は一城の主であり、行動を真っ向から諌める勇気のある者などいる筈がない。

 「お屋形様を止められるのは上様しかいない。」

 皆がそう思っていた。

 「兄の処遇を案じているのか?」

 暗い顔で佇む乱法師に信長が声をかける。

『よくぞ、聞いて下されました!』と乱法師は胸踊った。

 しかし次に発せられた信長の言葉に愕然とした。

 「兄の事は案ずるな。まだ若い故大目に見ている。裏表がないから却って腹黒い者達よりも潔いではないか。戦ではとんでもない働きをして見せる憎めぬ奴よ!此度の事も不問に致す!」

 と、慈愛に満ちた目を向けてくるではないか。
 兄が罰せられずに済むと知り、安堵するであろうと信じて疑わぬ顔だった。

『上様.....何とお優しく、お心が広いのであろう。──違う、ちがーう!不問にされては困るのじゃ!』

 弟の立場は非常に複雑で、兄が切腹、斬首されても困るが、殺さない程度に罰して欲しいというのが本音だからだ。

 とはいえ「兄を止められるのは上様ただ御一人。殺さぬ程度に罰して下され。」などと言える筈がなく、しかも己が罰するよう頼んだ事が知れたら、あの兄の事、血を見るは必定。

 以前に金山で母が「お屋形様をお諌めするのは阿弥陀様でも難しいでしょう。」と溜め息と共に漏らすと、呑気な力丸がそれを聞き「ぶ、ぶふっ。」と吹き出した。

 その時には和やかな雰囲気となり笑い事で済んだが、信長は良く長可の事を若輩者と言う。
 だが一体いつまで若輩者だからと大目に見て貰えるのか。

 兄の性格は一生直らないだろう。

 主の信長からして異常な程諦めが良く、「武蔵守だから仕方がない。」などと、ゆったり構えているが、この先諌めても聞かず、許せない場合はヤマタノオロチのように首と胴体を切り離すしかなくなってしまうだろう。

 兄が切腹にでもなれば己が金山城を継ぐしかないが、『上様のお側を離れたくない。』と、そればかり念頭にある弟の思考にも偏りがあり、全く困った兄弟だった。

 「いつまでも上様のお慈悲にすがるのは私達兄弟皆、心苦しう思っておりまする。兄の目に余る所業の数々、度々のお許しを賜るのはありがたいと存じますが、兄が迷惑をかけた相手の身内に禍根を遺し、上様御自身に怒りの矛先が向くような事があれば御詫びのしようがありませぬ。兄とて人の子、上様からお諌め下されば必ずや改心し真っ当な人間になりましょう。お願いでございまする。上様のお力で、あの兄を改心させて下さりませ。」

 当に立て板に水の如く見事に訴え、信長の心を動かすかに見えた。

「あれは無理じゃ!武蔵守は一応神妙に反省するのじゃが、すぐ忘れてしまうようだなー。だから諦めておる。無駄じゃ!無駄じゃ!あっはっはっはっ!」と、可笑しそうに笑っただけだった。

『そんな....そんな......ひどい...兄上を止められる最後の砦と思うていたのに……こうも簡単に諦めてしまわれるとは……』

 乱法師は森家の行く末を案じ、がっくりと肩を落とした。

─────

 家族の粗暴さに行く末を案じ、どうしたものかと思案している者が他にもいた。

 「何とかせねばならぬ。お耳に入らぬうちに手を打った方が良いのか。儂自身の手で──それとも──いずれお耳に入る。このままにしておけば大きな禍になるに違いない。」

 沈痛な面持ちで城の窓から遠くの山々を眺め、傍らの家臣に言うともなく悩みを口にする。

 「三郎君の事なれば、徳姫様より伝わる前に信長公のお耳に入れてしまった方が良いように思われます。その後で廃嫡などの処置を取られたら如何でございましょうか?嫌、いっそ信長公に処遇をお任せになられては?」

 「我が倅の事を任せるなど……身内の揉め事ぞ。」

 「三郎君の御正室は徳姫様、こちらだけで処分を決める訳には参りませぬ。」

 嫡男信康に手を焼く、徳川三河守家康は苦渋の色を滲ませた。

 庶民であれば親子の縁を切れば済む話しだが、有力大名の、しかも嫡男として城も領地も任せているものを、ただ粗暴という一言では片付けられない。

 家康とて父親らしく何度も諌めたが、悪業は中々直らず、領民や家臣、信康の正妻である信長の娘徳姫からも不満や泣き言を聞かされていた。

 若者にありがちなと言ってしまえばそれまでの事だが、仮にも一城の主なのだ。
 ましてや正室が信長の娘ともなれば、妙な形で信長の耳に入ったらと気が気ではない。

 挙げ句の果ては、信康生母の築山殿は今川義元の縁者の為、信長もその娘も憎しと信康を庇うばかりで、徳姫が娘しか生まない事を理由に夫婦の仲を裂こうとでもいうのか妾を薦める始末だった。

 築山殿の境遇は哀れではあるが、彼女の居場所と誇りの拠り所は嫡男を生んだという一事のみとなり、夫は若い側妾に取られても、息子だけは嫁に取られたくないというのが根底にあるのだろう。

 女性の地位が低かった時代、家の中ではせめて嫁よりも上でありたいという女心を打ち砕くかのように、徳姫は天下人信長の娘であり、舅の家康でさえ気を使う存在である。

 父と息子、姑と嫁、夫と妻、対立が対立を生み、それぞれが権力を持つが故に、従う家臣同士の対立をも誘発する怖れを孕み、ただのお家騒動では済まなくなってきていたのだ。

 家康の傍らの家臣、家老の酒井忠次にはどうすべきかが分かっていた。

 信康は若いと言っても二十歳、軍を持ち城を持つ者が、父親であると共に主君である家康に逆らい続けるという事がどういう事なのか。

 徳川家は二つに割れかかっていた。

 だが酒井忠次は家康に身内殺しをさせたくなかった。

 骨肉の争いは乱世の倣いとはいえ、身内殺しは世間の評判も悪い上に、相手が謀反を起こし粗暴であれ、手にかけた側は後味が悪く心に淀みを残すものだ。
 
 信長でさえ弟殺しを未だに引きずっている。

『信長公に命じられたから仕方なく、という形で処理したい。さすれば三郎君(信康)の処分に反対の者達の反発を外に向け、殿(家康)のお立場を御守り出来る。』

 家康と酒井忠次が、そのような手立てを考えていた頃、徳姫の我慢は限界に達し、父信長に夫の乱暴狼藉、築山殿に関する噂を文にしたため訴えた。

 その頃、信長は乱法師と共に光り眩い天守閣の最上階にある黄金の間で寛いでいた。

 バテレンからの贈り物の地球儀や時計が置いてあり、初めは全てが黄金で落ち着かぬと感じたが、過ごして見ると意外と心安らぐ部屋である。

 地球儀をくるくると回して、海の遥か向こうにある世界に思いを馳せる。 
 信長と二人きりで過ごしながら、このように寛ぎ、思考を遊ばせていられるのは彼ただ一人であったかもしれない。

 「上様、徳姫様から文が届いておりまする。」
 力丸が階段を上り声を掛けた。

 少し意外に思ったものの愛娘からの文は素直に嬉しかったので、直ぐに目を通す事にした。

 だが読み始めると顔をしかめ眉間に皺を寄せ、側にいる乱法師はただ事ではないと感じた。

 文には、夫信康の暴虐と姑の築山殿が甲斐の武田に内通しているといった穏やかならざる内容が記されており、真偽を確かめさせる事にした。

 安土からの呼び出しを受けた酒井忠次の腹は決まっていた。
 無論、彼一人の独断ではなく、家康と相談した上での事だ。


 酒井忠次の前で徳姫の文を読ませると、信長は真偽を問いただした。
 
 女の嫉妬による愚痴が大半で、夫や姑を貶めたのかと半信半疑だったが、酒井忠次は内容を否定しなかった。

 徳川家の重臣が否定しないのであれば放っておく訳にはいかないのだが、同盟国の家康は表向きは織田の家臣ではない。

 嫡男と正妻に対して過酷な処罰を自ら下せば、徳川家の恨みを買う事になってしまう。 

 「二名の事は相分かった。処分はお任せすると三河殿に伝えよ。」

 信長は徳川方の思惑には乗らず、処分を下す事を避けた。

 世にいう『築山殿事件』の真相は分からないが、永く信長が信康と築山殿を家康に殺させたと信じられてきた。

 そして築山殿は武田に内通していたからだと。

 一つだけ確かなのは、信康は切腹し、築山殿は徳川家の家臣の手で葬られたという事である。


 「真に築山殿は武田に内通していたのでしょうか?」

 「さあな。」

 信長の答えは異常な程あっさりしたものだった。

 内通していたかなど興味がないかのように。

 「三河が伜と妻を処分したがっていたのは確かじゃ。」


 「ならば...…」

 乱法師は言い掛けて止めた。
 
 「全てが茶番とは思えぬが、簡単に言えばそういう事じゃ。己が悪者にならぬように内通の噂を流したか、徳の立場も利用したか。喰えぬ奴よ。」

 「────」

 
 安土の天守閣最上階の窓から見える琵琶湖は澄み、人々の心を映す鏡のように煌めいていた。
 

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