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 乱法師は大きく目を見開いた。 
 戦から戻ってきた最初の夜は、妻達と過ごすものと思い込んでいたからだ。
 陣中ならばいざ知らず、帰城した主を初めに癒すのは城で待つ女達の役目ではないのか。
 女の先陣争いは良く分からないが、一先ず正室のところに渡るのが妥当に思えた。
 お濃の方は母と同じ年頃の筈だから、未だに美しいとはいえ男女の交わりは既にないのだろうかと些か不敬な考えが脳裏を過る。

『儂が上様のご寵愛を賜っている事は御存知じゃろうが、男子に先陣を奪われたら御不快に思われるのではなかろうか。』

 随分と気を回し過ぎだが、深い寵愛を受けていても所詮は男子の身。
 表向きは家臣として仕える身であれば、妻達を差し置き真っ先に召されるのは気が引けた。

────
 
 勝手に心配する乱法師の気持ちを他所に、お濃の方は雪景色を楽しんでいた。
 信長とは長く男女の交わりなどないのに、今宵渡りがあったら却って腰を抜かすだろう。
 彼女は十三歳で尾張に嫁いできたものの、評判通りの癖者の夫信長とは形ばかりの初夜であった。

 ある日夫の部屋を訪ね、声を掛けても返事がなく、呻き声が聞こえたので襖を開けてみると、裸で小姓と戯れる信長の姿があった。
 全く悪びれず恥ずかしがる様子もなく、更に衾の中からもう一人小姓が顔を出し、彼女には余程刺激的過ぎる光景だったのか、未だに脳裏に焼き付いて離れない。

 結婚当初から己に見向きもしないのは男子を好むからかと女の誇りは辛うじて保たれたが、その後歳上の後家に手を付け、次々と側室を所望するのには腹を立てたものだ。
 後家よりは少なくとも若く美しい筈なのに、どうやら『うつけ』と呼ばれる夫の好みは若くて活きの良い女ではなく、しっとりとした儚げな年増女であるらしいと納得した。

 初めて男女の関係になったのは、父の斎藤道三が兄の義龍に討たれ彼女の心が折れそうだった時だ。
 うつけと蔑んでいた夫が珍しく優しさを見せ、涙を溢すと互いの情が高まり初めて夜を共に過ごした。
 その後娘を一人産み落とし、暫く夫婦仲睦まじかったものの、五歳にも満たぬ内に亡くしてしまった。
 
 悲嘆にくれる彼女に対して腫れ物に触るような扱いになり、妻の務めとしての子作りを要求する事は無くなっていった。
 男女の甘い交流は途絶えても、正室として敬い意見は尊重してくれる。
 今の関係の方が気楽で良い。

 『格別の寵愛という程でもないが、今一番気に入りの側室はお鍋の方であろうか。』

 これまた後家で『さしずめ奥は後家の溜まり場じゃな。』と、心の内で呆れる。

 後家ばかり選ぶのは夫の優しさ故か、悲哀を帯びた儚げな色香に男心が惑うのかは分からないが、父を失った乱法師を溺愛している事から少年に対してもそうなのかと考えてしまう。
 やれやれ、元侍女の伜に手を付けるのもどうかとは思うが、男同士の同衾《どうきん》は元服までの事、当人同士が良ければ好きなだけ睦み合えば良いと大らかな気持ちではいる。
 それにしても暫く色事は大人しかったのに、孫もいる今になって美童に入れ揚げるとは──

 ──と、そのような訳で、お濃の方も御妾衆も、信長の渡りを常日頃からあまり気にしていなかった。

─────

 「御台様のところに参られずとも宜しいのですか?」
 
 おずおずと聞いてみた。

 「そなたが気にする事ではなかろう。」

 「……申し訳ございませぬ。出過ぎた事を申しました。」

 確かに下世話な気を回し過ぎたかもしれぬと畏まる。

 「そなたが良いのじゃ……乱」

 低く吐き出された短い言葉が、乱法師の心奥に強く響いた。
 男同士にしか解り合えぬ事もあるのだ、と。
 新たに芽生えた信長への情が溢れ出し、嬉しくも切なくもあり、涙が一筋頬を伝う。
 互いに寄り添い自然に唇が重なると激情に駆られ、自ら求め狂おしく名を呼んだ。

 「──ぅえさま、上様!」

 信長は年若い寵童の変化を感じ取り、閨に誘《いざな》うと仰向けで己の小袖をはだけ彼を上に乗せた。
 乱法師は鍛えられた胸に優しく唇を這わせ、腹まで徐々に下りていくと臍《へそ》の下辺りで顔を上げ、信長を見詰めた。 
 互いの瞳が濃密に絡み合う。
 信長自身を迷わず口に含み、自分がされているように愛撫を施していく。

 こうなる事をずっと望んでいた──

 心の奥深くに閉じ込めていた真の気持ちを漸く解き放った。

────『彼』は夢の中にいた。

「私がそなたの母です。三郎殿。」

 母なる女が此の世にあることを知ったのは何時の頃だったか。
 母が彼に微笑んだ。
 つられて彼が頬を緩めた時──
 
「弟の勘十郎にございます。兄上。」

 弟と名乗る少年の声で固まった。
 母の面は弟なる勘十郎に向けられ、その微笑みが、はっきりと自分に向けられたものとは違うと認識した。 

 母とは何じゃ。

 長じるに従い、母とは如何なる者かを弟や他者の目を通して知った。
 どのようにすれば人は従うか思い通りに動かせるか。
 冷徹な目と怜悧な頭脳で他者を見極め、支配者としての土壌を練ってきた。

 それなのに──
 母だけは違った。

 「初陣、おめでとうございます。三郎殿。」

 具足初めの時も戦で勝利した時も、母は微笑み祝いの言葉を述べた。 
 これで良いのじゃと納得した。
 だが勘十郎の初陣の時、戦から戻ってきた時も妻を娶った時も、全てが己に対するのとは違っていた。
 母に微笑む勘十郎の顔は美しかった。
 何故、あれ程眩しく誇らしげなのだろう。
 母の微笑みが、あの美しさを引き出しているのか。
 二人の間に流れている何か。
 自分には注がれない何か。
 二人を見ていると何故か胸が痛み、己が小さな存在に思えた。
 勘十郎のように美しくある為には、母から同じ眼差しを注がれなければならない。
 勘十郎よりも器用にこなせば、あの微笑みは自分に向けられるのだろうか。

 何故、そうまでして母の微笑みを求める必要がある。
 詰まらない女ではないか。
 悔しかった。
 理解出来ない事が何よりも──
 母の前では、己は勝っても負けても勘十郎に負ける。
 母という存在が己の理解を超えた境地にある事だけは分かった。

 勘十郎を見詰め続けた。
 勘十郎を通してしか母なる者を理解出来なかったからだ。 
 殺したくは無かった。
 当主の座を奪おうと画策していると知っても堪えた。
 勘十郎の代わりに母が頭を下げ、涙ながらに命乞いをした。
 もし、逆の立場だったら涙など流さなかったであろうに。
 母の言葉は心に響かず、その白い手は自分には触れる事さえ無いというのに。

 勘十郎と己と何が違うというのか。
 只の愚か者ではないか。
 一度赦したのだ。
 二度目は無いと言った筈だ。
 それなのに叛いた。
 病と偽り城に呼び寄せ数人掛かりで滅多刺しにした。
 愚かだから殺すしかなかったのだ。
 責められるような事をした覚えはないのに、何故そんな目で見るのか。

 そうだ今、母は安土にいる。
 自分の庇護の下、惨めに生き永らえている。
 微笑みを失った母は只の醜い老婆だ。

 彼は弟の血を吸った刀を捧げ立ち尽くしていた。
 年老いた母が現れ彼に向かって微笑んだ。
 漸く求めていた微笑みを得られた。 
 と、噛み締める間もなく笑みが消え、母の右手が上がり彼の背後を指し示した。 
 振り向くと血塗れの若者が横たわっていた。
 勘十郎。
 血痕が散る美しい死に顔。
 彼は腰を屈め、勘十郎の上半身を起こした。
 勘十郎が瞼を開けた。
 勘十郎ではない。
 乱法師──
 息が苦しくなった。
 何故、乱が──
 殺したのは乱だというのか。
 そんな筈は無い。
 
 「乱──!乱!」

 必死に名を叫んだ。

 「上様。」

 乱法師は血塗れの腕を彼に伸ばし微笑んだ。

─────

 目覚めると記憶は朧気《おぼろげ》だったが、夢の中に嘗て家督争いの末に謀殺した弟の勘十郎信勝が出てきた事と、途中から乱法師に入れ替わった事だけは覚えていた。

 隣には安らいだ顔で眠る乱法師の姿があり、夢の中では良く似ていると思ったのに、目覚めて繁々と眺めてみると、そんなに似ていないと感じた。
 胸が上下している事に安堵する。 
 何しろ、夢の中では血塗れだったのだから──
 彼を起こさぬようにして無邪気な寝顔をいつまでも眺めていたかったが、気配に気付いたのか目を覚ましてしまったのを残念に思った。

 「まだ寝ておれば良かったものを、夜は明けきっておらぬ。」

 愛する気持ちが相手に伝わり深く愛され、共に朝を迎える事が、こんなにも幸せで心満たされるという事を、乱法師は生まれて初めて知った。
 多くの者が毎日どこかで戦い憎しみ合い、片や愛に包まれた幸せな朝を迎えてもいる。
 彼が他の多くの人々と違うところは、初めての愛の対象が万民に恐れられ知らぬ者とてない日の本一の権力者という、只それだけだった。
 やがてそれが彼の人生、彼の運命そのものになっていくのだが──
 
 一晩中雪が降り続いた為外は寒かろうが、二人でいる衾の中は温かく、ずっとこのままでいたいという気持ちは同じだった。
 今こうして過ごす束の間、身分を忘れ、血生臭い戦の事は忘れていられる。

 「ずっと雪が降っていたのでしょうか?白く積もり、さぞや美しい眺めでございましょう。」

 「雪は見る物ではなく投げるものじゃ。気散じでもするか?雪玉を投げて当てれば面白い!」

 信長は戦場でも『気散じ』という遊びを好んだ。
 厳密な決まりがある訳ではなく、徒歩組と乗馬組に分かれて戦い、信長は徒歩組に加わり暴れるという、要は現代のストレス発散みたいなものである。
 結局は気を散じる事が出来れば何でも良く、鬱憤が溜まりやすい戦場での暇潰しといったところだ。
 博打は手軽に出来るが具足まで賭けてしまったり、鳥撃ちで捕った獲物を兵糧の足しにしたり、上級の武将なら鷹狩りを戦の合間に行い退屈をしのいだ。
 これは兵の数にも兵糧にも余裕がある攻め手側の場合であって、織田軍に包囲され兵糧攻めに苦しむ播磨の三木城や丹波の八上城は気散じどころではなかっただろう。

 雪遊びの話をしながら、衾の中で互いの肌を重ね温もりを楽しみ、気持ちが深く通じあった二人だけに、暫らく戯れ時を過ごした。

 障子を開けると、外は真っ白な雪景色であった。
 流石に冷えるが空は青く晴れわたり、雪に陽が当たると眩しい程に反射して虹色の光を放つ。

 せっかく雪が積もったので、言った通り雪玉遊びに興じ、家臣達皆童心に帰って騒ぎ、大いに『気散じ』をした。

 年が明けて天正七年
 本来、年始であれば各地から大名、小名等が挨拶の為の列を成すのが常だが、播磨では秀吉を始めとした諸将が砦を築き三木城を取り囲んでいる。
 毛利連合軍は上月城を攻め落とし目的を達成した事で、大軍の兵糧維持が困難な為、結局本拠地に戻った。
 それにより秀吉も三木城攻めに専念出来たのだが、別所長治の支城を次から次へと落とし兵糧の路を絶ったというのに、荒木村重の謀叛で新たな補給路が作られてしまった。
 落城まで、戦は長期に渡る事が予想された。
 荒木村重が籠る摂津の伊丹城攻めも続いており、各地で繰り広げられる戦は大軍を出陣させている為、織田家の名だたる武将達は、何処かしらで戦っているという状況だった。

 そのような訳で、いつになく安土の正月は静かで、乱法師等近習達の慌ただしさも減り、少しのんびりした趣の新年となった。

 信長は乱法師と将棋を打った。
 丹波の八上城についての戦況を語りながら将棋を指していく。
 将棋や囲碁に強くなる事は、現実の兵法、戦略にも役立つ側面があり、趣味と実益を兼ねる事が大好きな信長は無論、囲碁も将棋も強かった。
 盤面の遊びであるので雨雪も降らず、予測出来ない事態が起こり得る戦場の厳しさまでは実際の経験で学んでいくしかない。

 とはいえ、初陣も済ませていない乱法師にはちょうど良く、軍事や戦略について遊びながら教えるのは中々楽しかった。

 「八上城は日向守(明智光秀)が包囲しておる故、落ちるのは時間の問題であろうな。全く、あいつは用心深いからな。」

 「はい、新年早々餓死したくはございませぬ。──あっ!」 

 駒を取られ声をあげる。
 信長は笑いながら、また駒を進めた。

 「下の者、弱き者から死んでゆく。死んだ者は生きている者に食われるのじゃ!早く降服すれば下の者達の命は助けてやろうものを。」

 語りながら信長が桂馬を前に進めた。

 「そなたならば明智の囲みとどう戦う?」

 「何とか凌いで援軍を待つ以外──夜襲か、城から出ては退きを繰り返し、寄せ手を疲れさせる。ですが補給路を経たれていては力尽きるのは城兵側。やはり援軍しか──」

 「確かにそうじゃな。大軍に囲まれたら援軍でも来ぬ限り勝てぬ。最初から籠城せぬのが一番じゃ!」

 「そんな──」
 
 乱法師は、それでは答えにならぬとばかりに不満そうだ。

 「戦は戦をしていない時から戦なのじゃ!相手に既に戦を始めておると知られずに戦う方法もある。気付いた時には刃を喉元に突き付けている。勝つ為には、どうすれば良いか。必死に考え抜いた者が思わぬ奇策を編み出すのじゃ!」

  「はい──」

 「大体、外で戦うだけの兵力があれば籠城などせぬ。所詮大軍には勝てぬ。籠城している時点で負けておるわ。」

 「ですが寡兵で大軍を迎え撃たねばならないとしたら、やはり籠城するしか......」

 「降服すれば良いと申したいところじゃが、敵の動きを読み此処ぞという所で一気に攻めるという方法もあるぞ。桶狭間のようにな。日向守は用心深い男故、あやつを出し抜くのは容易ではあるまいがな。」

 乱法師は、明智光秀と会った時の印象を思い出した。
 光秀とは年が離れ過ぎているので元々話が弾むのは難しいが、軽やかで天真爛漫な彼とは異なり、熟慮して言葉を選び軽はずみな行動は決してしない人物と捉えた。
 やや堅苦しい面もあるが、戦では手抜かりなく敵に回したら厄介だろう。

 「籠城せずに大軍と戦う方法は他にございますか?」

 「調略を用いて寝返らせたり、疑心暗鬼を生じさせ、仲間割れをさせるのも良い。三佐(乱法師の父可成)が敵の家臣の筆跡を真似る事を考えついてな。裏切ったと思わせ家臣を始末させた事もあったな。」

 果たして実践で役に立つか立たぬかは別として、乱法師が盤面に視線を落とすといつの間にか駒を沢山取られていて負けは確実だった。

 「乱、戦に出るか?」

 突然言われ一瞬呆ける。

 「初陣をお許し下さるのですか?」

 「また春に摂津に出陣するつもりじゃ。そなたも供を致せ。」

 「ははっ!忝のう存じまする!」
 
 将棋は惨敗だったが初陣を許され顔が綻ぶ。
 武士としての通過儀礼を済ませるという単純な喜びもあるが、彼には別の気持ちも芽生えていた。

『上様の御側にいられる。』である。
 
 並の家臣であれば、如何に重用されていたとしても、ずっと主の側にいたいとまでの心境にはならないだろう。
 枕を交わした主従であるからこそ、互いに片時も離れたくないという甘い情を抱くようになるのだ。

 「具足はあるか?」

 「金山に具足が沢山ございます。」

 亡き父の少年時の物、亡き兄可隆の物、長可の物、祖父の物まで蔵に沢山仕舞ってある筈だ。

 「初陣は許すが儂の側から離れてはならぬ。敵と刃を交える事は相成らぬ!」

 森家は清和源氏を祖に持つ由緒正しい武門の家柄である。
 先祖を辿ると畳の上で死んでいる者の方が少ないくらいで、良く言えば勇猛果敢、悪く言えば猪突猛進。
 長兄の可隆は深追いし過ぎ、父も潔く敵陣に突っ込み、兄の長可は生きているのが不思議なくらいの血の気の多さで無謀の極みである。
 信長は乱法師を観察した。
 見た目は可憐で冷静沈着、長可のような蛮勇さは感じないのだが、恐れずに敵陣に突っ込んで行く彼の姿が容易に想像出来た。 

────

 やはり乱法師は父の少年時の具足を選んだ。
 やや黴臭かったので陰干ししてから身に付けてみた。
 今の己とそんなに体型に違いは無かったようで、若干胴回りに余裕があるくらいだ。
 まだ若年の父は、この甲冑で身を固めて初陣を果たしたのだと血が沸き立つ。
 
 「父上、上様が初陣を御許し下されました。」

 形見の刀を父に見立て、喜びを伝えた。


 「旗指物は儂が作ってやろう!筆と白い布を用意致せ!」
 
 信長は嬉しそうに袖を捲ると広げられた真っ白な布地にいきなり墨を置いた。 
 旗指物とは背中に差す自分の目印となる物で、甲冑や旗印同様、絵柄や文字でそれぞれの武将の信念や個性が強く表現されていた。

 文を書かなくなってどれくらい経つのか。 
 まともに筆を取ったのは、細川藤孝の息子与一郎が武功を立てた時の感伏状か。 
 それとも禿鼠の浮気癖を嗜めた時か。

 代筆が常で、乱法師ですら署名の時以外で信長が文字を書くのを見た事は殆どない。
 豪壮でありながら繊細で優美な趣があり、非常に達筆な文字が連なる。

『吉野竜田花紅葉更級越路乃月雪《よしのたつたはなもみじさらしなえちじのつきゆき》』

 直筆である事の畏れ多さと信長の愛の深さに胸打たれる。
 同時に戦場で用いる物としては随分甘やかで和歌のような雅語が並び、少し気恥ずかしかった。


 
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