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 万見は地味な雑務を乱法師に押し付ける形で、荒木討伐の為出陣した。
 情勢は伴一族の忍びから得る手筈になっていた。  
 信長も森家と繋がり深い伴一族をお抱え忍びとして用い、頭領の伴太郎左衛門は此度も出馬の供をしている。
 戦況次第で帰城は遅くなるであろうと伝えられた時、何故か胸が締め付けられた。

 信長は再び松井友閑、羽柴秀吉、明智光秀を遣わして荒木村重を説得させたが応じる様子は依然としてなかった。
 謀叛の要因となった中川清秀がこちらに寝返りさえすればと、祈るしかない現状が焦れったい。

 古田佐介は今、中川の説得に当たっている。

 荒木の謀叛に乗じて、六日に毛利軍が六百隻もの船で木津の沖に攻め寄せてきた。
 守るのは九鬼嘉隆の鉄甲船、たったの六隻である。
 六百もの船に囲まれれば、見物人達は勝てないだろうと予想したが、鉄の船は大砲を積んでいた。
 大将の船を先ず撃破すると、怖じ気付く他の船も次々と大破させ、完膚なきまでに打ち破り、天正四年の戦いの雪辱を見事に晴らした。

 この海戦を見物した人々は、鉄の船の威力に度肝を抜かれ感嘆したが、何よりもこの圧勝に信長は喜び織田軍は大いに湧いた。
 
 乱法師は安土で報せを受け、不動行光の柄を撫でた。
 主を強く感じられる物。
 鞘を払い、剥き出しの刀身を右に左に返しては片目を瞑り、飽くことなく熱心に眺めた。 
 不動行光の刀身の樋《ひ》は太く一本だけ彫られ殆ど反りはなく、波とも年輪とも見える波打つ刃紋の優美さ、地沸《ぢにえ》は陽が当たると光り輝く。 
 不動行光は鎌倉時代の刀工、藤三郎行光の作である。 
 名前の由来となった不動三尊の彫り物は、櫃の内に梵字、蓮花、不動明王に、矜羯羅童子《こんからどうじ》、制多迦童子《せいたかどうじ》が見事に浮き彫りされている。

 刀を主から賜るという事は命を預けられたに等しい。
 信長を命懸けで守る。
 柄を固く握り誓うも、初陣を許されぬ身が歯痒い。
 主の身を案じる事しか出来ぬ未熟さが口惜しい。
 庭に降り立つと一閃。
 凍てつく風に震える紅梅の枝を切り落とした。
 未だ開かぬ梅の蕾。 
 不動行光を鞘に戻し、胸に押し当てた。

─────

 荒木村重に与する高槻城主、高山右近が吉利支丹《きりしたん》である事に目を付け、信長は南蛮人宣教師を呼び付けた。

 「高山右近が寝返るように説得致せ。成功すれば教会を何処にでも好きなだけ建ててもよい。引き受けねば吉利支丹を禁制とする!」

 全く信長らしい言い様で、宣教師達は無論従ったが、教会を好きなだけ建てたくて引き受けたのでない事は一目瞭然だった。
 信長からの命令は恩賞よりも罰を恐れて死に物狂いで頑張るという側面があるのだ。

 佐久間信盛、羽柴秀吉、松井友閑、大津長治も供をして説得に赴いた。 
 高山右近は荒木村重に人質を捕られている為、中々応じない。

 宣教師も加わり必死に神の教えを説く。 
 半ば脅されて来ているようなものだから、失敗すれば処刑されるかも知れないと最後は泣き落しで攻めた。 
 信長はやると言ったらやる男だ。
 禁制となったら既にキリシタンになっている者達への改宗の強制、弾圧、国外追放といった処置が取られるだろう。

 高山右近は高槻城を明け渡す事に漸く応じた。

「後は中川清秀じゃ。上手くいけば荒木は降伏するやも知れぬ。」

 高山右近に褒美と領地を与えると、いよいよ織田方に付いた方が得策と心変わりする者達も出てき始め、説得の甲斐あって中川清秀が漸く寝返り、大和田にある城の者達もそれに続いた。

 戦況は織田方に有利と思われたが、乱法師は夜具に身を横たえると突然不安に襲われたり、様々な思いに心が揺れ動き苦しむようになっていた。
 信長の腿には傷痕があり、嘗て千種峠で狙撃されたと語っていた。
 悪い想像が膨れ上がり中々寝付けない。
 寝返りを打った時の褥の広さ冷たさ、特に寒い季節柄、一人寝の寂しさに溜息が洩れる。
 陽が昇れば不安な気持ちは収まるが、何となく留守居の者達の気は緩みがちで、大抵の者には主の不在は息抜きであろうが、彼は物足りなく寂しさを覚え、今どこで何をしているだろうかと考えてばかりいた。
 不動行光を箱から取り出し頬を寄せ、抱き締めた儘、褥に臥した。

 そのうち信長の言葉が甦った。 

 『儂が居らぬ間、寂しうなったらこうしてするのじゃ。いつも申しておるが他の者に身体を許してはならぬ。』
 
 顔がかっと火照り、慌てて頭を振る。 
  
 『陣中では他の者を愛でておられるのだろうか……』

 胸が痛み堪らず涙が溢れた。
 まだ出陣から日はさほど経っていないというのに、随分と会っていないような気がした。
 顔や声、温かい大きな手の感触を思い起こしながら、自分の手を頬に宛がい首筋や胸に這わせてみる。
 彼の手はいつしか腿の間に滑り込み、交合の記憶を辿りながら自身を慰め始めていた。
 徐々に熱く、真に信長に抱かれているかのような心地になり暫し我を忘れた。

 手に何やら粘ついた感触を覚え、初めて精を放ったと知ると同時に我に返った。
 懐紙で手と身体を拭うと虚しさに襲われ、信長に会いたくて堪らなくなり、どうしようもなく切なくなった。
 
 「何故こんなに心が苦しいのか……情けない、情けない……」

 今度は己を責め始めた。
 彼は人を恋慕うと胸が苦しくなる事も、その気持ちを恋と呼ぶ事さえ知らない。
 初めて精を放った後の気怠さで眠りに落ちると、信長が颯爽と馬廻り衆や万見重元、堀秀政を従え帰城する夢を見た。
 喜びで胸が一杯になり出迎えると、唐突に礼状書きや目録の整理は終わったのかと万見に詰問され、全く手を付けていない事に気付き慌てて目が覚めると朝になっていた。

 近頃の朝の冷え込みは酷く、雪がちらつく事もある。
 冷たさを堪えて顔を洗い口をすすぐと頭はすっきりとした。
 育ち盛りなので飯を四、五杯おかわりするのが常だが、武術の鍛練や成長で消費され一向に太らない。 
 今日は特に冷えるので綿入りの胴服を羽織った。
 
 「乱法師様、伴太郎佐殿から、たった今報せが届きました。」

 「──何じゃ?」

 胸中に不安が過る。

 「昨日、上様ご近習、万見仙千代殿が討ち死にされたとの由にございまする。」

 「何じゃと!!」

 予想だにしなかった報せに愕然とする。

 「万見殿が討ち死に?」
 
 俄には信じ難く、別の万見ではと問い掛けそうになるが、他の万見などいる筈もない。
 常に冷静沈着な万見は武将というより吏僚としての印象が強く、討ち死にという衝撃的な言葉とどうしても結び付かない。

 「上様は……上様は……ご無事か?」

 信長の身が心配で声が震える。

 「いえ、上様の事は特に何も。万見殿と堀殿、菅屋殿は鉄砲隊を率いて城攻めをされていたらしく、有岡城の猛攻凄まじく、万見殿は城壁を乗り越えようとされたところを、下から槍で貫かれたとか。それ以上の事は...…」

 思えば昨夜の夢は生々しく、万見が最期に自分に伝えたかったのは目録の整理や礼状書きであったのだろうかと、ぼんやり考えた。
 もしそうなら勤勉で責任感の強い万見らしいが、信長がどう受け止めているのだろうかと胸中を案じた。

 師走も暮れに迫り、安土城も完成間近だ。

 乱法師は死を悼み念仏を唱えた。
 
 母である妙向尼の影響から、彼も敵対する本願寺の宗派である一向宗に帰依しており、仏が亡くなった者には等しく慈愛の心を示し極楽浄土に導いてくれるようにと祈った。

 信長の好きな小唄がふと浮かび口ずさむ。
 
『死のうは一定しのび草には何をしよぞ 一定語りをこすよの』
(死ぬのは定め、死後にも人に語り継がれる為には何をすれば良いのだろう。精一杯生きた証があれば、人は死後も偲び永く語り継いでくれるだろう。)

 中断しかけていた播磨での三木城攻めの為に、羽柴秀吉は対峙の砦に兵糧を補給し、佐久間信盛、筒井順慶も援軍として向かった。
 明智光秀は丹波に攻め入り、波多野兄弟の八上城を包囲した。
 足利義昭と信長との仲が険悪になるや将軍側に寝返った為、攻撃対象とされたのだ。
 
 信長自身は安土へ一旦戻る事を決め、十二月の二十一日には京都に帰陣した。
 死者を悼み、兵士達の心を癒すかのように、ひらひらと優しく雪が舞い、乱法師は空を見上げた。
 
 吐いた息が白く広がる。
 二条の邸に今すぐにでも駆け付け、広い胸に飛び込みたかった。 
 戦疲れを癒し垢を落として、出陣した日と同じく大勢の家臣達を従え堂々とした姿で戻ってくるのだろう。

 到着は二十五日と伝えられ、上様いよいよご帰城との知らせに留守居の家臣達は慌てふためいた。

 待ち遠しくて仕方がなかった。
 京から安土までは瀬田の唐橋を渡るのが早い。
 早朝出立すれば昼頃には到着する筈だ。

 信長には正室お濃の方、若かりし時の側室吉乃とは死別しているので、現在の側室は七名程である。 
 相撲大会などの催しには正室、側室も居並び、華やかな装いで見物をする事もあったり、信長に付き従い側室の住まう御殿に供をする事もあるので呼び名と顔は把握している。

 母の妙向尼は斎藤道三の命で、お濃の方の尾張輿入れ時より従った侍女という縁もあり、未だに女同士で文のやり取りをしていると、お濃の方から直接聞いていた。
 初出仕の頃から会えば親しげに、お濃の方から声を掛けてくる。

 「えい(妙向尼の俗名)が、そなたの事を案じ、あれこれ聞かれるが、頻繁に顔を合わす訳ではないものを──えいは申しておったぞ。全く男子などと言うものは一度手を離れてしまうと、ろくに文も書かず、たまに寄越したと思えば特に変わりなく候う。とか、恙無う過ごしおり候うとか、何が変わりなく、どう元気なのかが全く伝わらず寂しい限りじゃと。そなたもたまには、もそっと心の籠った文を書き、母を安心させてやったらどうじゃ。のう、乱法師......」

 これには言葉が無く、母には頻繁に文を書いているつもりであったのに、知らぬところでの女同士のやり取りが恐ろしく、この先長文を書かねば信長の正室に毎回嗜められるかと思うと気が重かった。

 信長は男女合わせると二十名以上もの子供がおり、末の男子はまだ赤子で縁《えん》という、また少し変わった幼名を付けられていた。
 元服前の幼子や姫も母達と共に美々しう着飾り父の帰りを待つ。
 
 「お帰りなされませ。」
 
 他の家臣達に交じり出迎えた乱法師は、出陣した日と変わらぬ姿で帰城する信長を見て安堵した。
 先ず広間で留守居の主だった者達に型通りに変わった事はないかと訊ねた後、沢山の土産らしき品を運ばせ乱法師の前に並べた。

 「これは女達に渡せ。バテレン共からも色々貰ってな。沢山ある故、後で皆で分けよ!」

 奏者番として重用され始めている彼は、諸将の謁見の取り次ぎ、献上品などの披露といった、主と家臣を繋ぐ大事な役目を担っている。
 宣教師達からの献上品は沢山の南蛮菓子や葡萄酒などであった。
 
 「ナタルとかナタウとか申しておった。」

 唐突さに戸惑う者もいるが、余計な言葉を省いて声を掛けてくるのを、主の気さくさと乱法師は捉えている。

 「ナタウとは何でございますか?」

 「奴等が信仰するキリストという男が生まれたのが今日だそうじゃ。ミサを行ったり物を贈ったり、酒や菓子を食べて祝うとかで、こんなに持ってきよった。」

 「──ナタウ、何やら楽しげでございますね。バテレンの祭りなのでございましょうか。」
 
 「Feliz Natal! フェリスナタウと言って祝うらしいぞ。」

 久しぶりに話せるのが嬉しく信長も楽しげであったが、ふと突然違和感を覚えた。 
 此処にいるべき人間がいない──
 今、口にすべき事ではない。 

 沢山の土産品を妻達に渡しに行くというので奥御殿まで供をした。
 意外とまめな所がある信長は女達への土産は欠かさない。
 
 美しい小袖や高価な化粧道具、珍しい玩具等沢山の土産品で奥が賑わい、信長の表情も和らぐ。
 己に向けられる顔は公私両方だが、 ここは完全に私的な空間で、信長自身が激しい気性故か、側室達は皆温和で大人しやかな女性ばかりだ。
 信長を常に恐れ平伏する家臣達は、このような姿を見たらどう思うだろう。
 逆に此処にいる女性達は、信長が人を斬る姿など想像出来ないのではないか。

 強大な権力を有する割には美女を国中から漁るという好色な一面はなく、側室達とは穏やかで細やかな愛情の交流が見受けられ、彼女達に求めるのは肉欲ではなく優しい安らぎのように思われた。
 女達をある意味敬い尊重し慈しむが故に、誰か一人に寵を傾けている様子もない。

 では自分に対しては何を求めているのだろうか。
 閨では支配的で独占的な愛情と共に激しい肉欲を伴うのは、己が男子で子を為す事が決してないからなのだろうか。
 生殖という目的を持たない衆道(男同士の性愛を含む契り)は、突き上げる昂りに身を委ねる刹那的なものであり、出産という肉欲を減退させる現実的要素が入り難い分純粋ともいえる。
 互いに求め合う気持ちが高まると、共に生きるよりも共に死にたいとさえ願う情愛が強く芽生えるのかもしれない。

 南蛮菓子を頬張り他愛ない話しに花を咲かせながら和やかな時を暫し過ごした後、やがて主殿に戻った。

 「来年春には城に入れるであろう。長かったが漸くじゃ!そなたの邸の普請はどうじゃ。進んでおるか?」

 「はい!もうすぐ完成致しまする。」

 「弟達の事じゃが、安土の城に移って後に目通りを考えておる故、暫く待て。中々気忙しくてかなわん。」

 「有り難き幸せ。弟達も喜んでおりまする。」

 「邸が完成したら安土に呼ぶが良い。母も心配しているのであろう?御台から聞いたぞ。」

 さも可笑しそうに笑う。

 「忝のう存じまする。母は年を取りまして、少し心配し過ぎなだけかと。恙無く過ごしていると書き送っているのですが……」
 
 「世の中の母とはそうしたものであろう。心配するなと申しても心配なのが母というものじゃ!こちらに移れば、そうした事もなくなるな。」

 信長らしい優しさと快活な笑いに胸が熱くなる。

 「さて、葡萄酒を飲んで、ナタウとやらを祝おうぞ!」
 
 家臣達を集め葡萄酒で祝杯を上げる。
 陽が落ち暮れるまで酒を酌み交わし、無事に帰城した事とナタウを祝った。

 家臣達が退出した後、二人きりになった。
 燭台に明かりを灯していると、薄暗い部屋の中で信長が口を開いた。

 「万見の事──」

 「────立派なご最期であったと──聞き及んでおりまする。」

 「…………立派......か。」

 背を向けた儘、噛み締めるように呟く。

 信長にとっては、どのような死に様でも死は死でしかなく、立派な死などないのだ。
 だが生前故人を愛し悼む者達は、その死に少しでも多くの意味を与え、苦しまずに死んだのだと必死に受け入れようとする。

 覇王と呼ばれ恐れられる男ですら──

 「首級は取られなかった……身体が塀の外側に落ちた……」

 それ以上、万見の事が語られる事はなく
温かな灯火に照らされた信長の背が微かに震えるのを見て胸に切なさが込み上げた。

 「...…随分と部屋が冷えておりますので炭を取って参りまする。」

 静かに部屋を出て外に目を遣ると、また雪がちらついていた。 
 花のように舞う雪は、如何なる時も汚れなく白く美しい。

 時を置いてから声を掛け襖をそっと開けると、信長がこちらを向いて立っていた。

 「今宵は、そなたと過ごそう。」


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