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 その日は、乱法師が不動行光の腰刀を預り厠の外で控えていた。

 信長は用を足すのに邪魔な腰刀は常に小姓に預けている。

 刀を預けるくらいだから、小姓であるという時点で信頼がおける者という事になるだろう。

 

 信長は名刀と呼ぶに相応しい刀を、およそ五百本程所有していたとも云われている。

 腰刀とは一尺以上二尺未満の鍔のない刀の事だ。

 戦場では槍が主であり、首を掻く時、槍が折れた時などに使用する。

 室内では太刀よりも長さがない分使い易い。

 数多くの名刀の中でも『不動行光』を格別に愛し、酒に酔うと自作の小唄を良く口ずさんでいたと云う。

 

『不動行光つくも髪、人には五郎左、御座候う』


 つくも髪とは松永久秀から差し出された名物茶器の九十九髪茄子、五郎左とは古参の重臣丹羽長秀の事で、信長にとって無くてはならない大事な家臣という意味が込められている。

 

「いつ見ても豪華な拵えじゃ」


 華美な拵えに、うっとりと眺めずにはいられない。

 鞘は朱漆塗りに斜め下半分に金着せ、柄巻きは金茶で下地は黒の鮫皮、下緒は金糸と白糸の唐組、鞘には何分か分からないが刻みが施されている。

 刀身に不動三尊が彫られている事から不動行光と称されているのだ。 


 彼は刻みに目を止めた。

 

『そういえば何分刻みなのだろう。二分か三分か?刀身を一尺と八寸程とするなら──数えてみるか』


 厠から中々出てこないのを良い事に、新たな探究につい夢中になってしまう。

 

 信長は用を足し終え、ふと厠の窓に目を遣り乱法師が鞘の刻みを一生懸命数えているのを見て首を傾げた。

 何が面白くて、と思いはしたが、愛しい者の無防備な姿を眺めるのは良いもので、他の者なら叱責していたであろうところ、数え終わるまで待っていてやった。


 数え終わったところで、いかにもすっきりしたという態度で出ていくと、冷静な小姓の顔に戻り腰刀を返す。


 信長はある事を思い付き、翌日それを実行した。

 

 小姓達を広間に集め、こう言った。 


「これなる不動行光の鞘の刻み目の数を当てた者に、この刀をやろう」

 

 豪気な言葉に皆が一斉ににどよめいた。

 年若い者達故に、興奮し歓喜に湧く。


 その場にいた近習、堀秀政や長谷川秀一は各々訝しんだ。

 信長が肌身離さず所持する名刀は、武功を立てた者に褒美とするに相応しく価値あるものだ。 

 主の愛刀ならば尚更下賜された者は主の愛と信頼に感激するだろう。


『不動行光をこんな座興じみた数当てで、武功もない小姓共に与えるじゃと? 』


 長谷川秀一は小姓達の顔を見回した。


 皆が瞳を輝かせる中に、一人だけ俯いて少し落ち着かない様子の者がいるのに気付いた。

 皆が順番に数を言い、俯いていた小姓が最後となった。

 信長は中々答えようとしない小姓に訊ねた。

 

 「蘭、何故そなたは答えぬ」


 乱法師は数当てをすると聞いた時から酷く動揺していた。

 まず何故いきなりこんな事を言い出したのか。

 こっそり数えていた事を知っているのなら試されているのか。


 勿論名刀は欲しい。

 

 偶然言い出したにせよ、既に数を知っているのに答えてしまったら、後でばれた時が恐ろしい。

 悩んだ末、彼は普通の少年らしく普通に考え普通の結論に辿り着いた。


「既に数えて存じておりますので、答える訳には参りませぬ」


 乱法師に与える為の座興というのに、予想外の答えが返ってきたので一瞬場をどう納めるべきかと悩み、機転をきかせた。


「そなたは何と正直者なのじゃ。黙っていれば良いのに、よくぞ申した。不動行光は、そなたに遣わそう」


 まさか貰えると思っていなかったので呆然としながらも、膝間付くと名刀を受け取った。

 素直に嬉しさを噛みしめながら小姓達が控える部屋に戻ると、皆の様子に違和感を覚えた。

 彼は利発でありながら、育ちの良さからか常に鷹揚として、人の悪意や妬みの感情に対してはかなり鈍い。


「お蘭殿、刻みを数えたのはいつの事じゃ? 」


 小姓達の視線が突き刺さり、さすがに察した。


「うーん。随分前の事ゆえ。確か、まだ安土に来て日が浅い頃だったであろうか」


 乱法師に与える為の座興というのに、予想外の答えが返ってきたので一瞬場をどう納めるべきかと悩み、機転をきかせた。

「そなたは何と正直者なのじゃ。黙っていれば良いのに、よくぞ申した。不動行光は、そなたに遣わそう」

 まさか貰えると思っていなかったので呆然としながらも、膝間付くと名刀を受け取った。
 素直に嬉しさを噛みしめながら小姓達が控える部屋に戻ると、皆の様子に違和感を覚えた。
 彼は利発でありながら、育ちの良さからか常に鷹揚として、人の悪意や妬みの感情に対してはかなり鈍い。

「お蘭殿、刻みを数えたのはいつの事じゃ? 」

 小姓達の視線が突き刺さり、さすがに察した。

「うーん。随分前の事ゆえ。確か、まだ安土に来て日が浅い頃だったであろうか」

 曖昧に誤魔化し何とかその場を切り抜けた────

「上様は、それにしても豪気な御方じゃ。このような名刀を儂のような若輩者に下さるとは……」
 
 不動行光を手にした事が嬉しくて、邸に戻ると直ぐに傅役の伊集院藤兵衛と小姓の武藤三郎に伝えた。

「上様は余程、若を大事に思われているのでしょう」
 
 二人は感じる儘に答えた。
 
「儂でなくとも数を当てた者がおれば、その者に下されたであろう。おらなんだ故、儂に下されたのじゃ」

 乱法師は二人の答えに不服そうに反論した。
 この一件を知る殆どの者は、信長が彼を愛するが故に惜し気もなく与えたのだと察している。 
 理屈ではない情愛は周囲にも伝わり、当の本人以外には、信長が如何に彼を慈しんでいるかは明白だった。

 そういう点で乱法師は大変奥手であり、心の動きがゆったりとしているのだ。 
 信長が愛して止まない彼が醸し出す春のような麗らかな風情は、そんなところから来ているのかもしれなかった。

─────
 
 長谷川秀一は数当ての件を万見重元に早速漏らした。 
 万見は嫌な予感を覚え、一瞬顔色を変えた。 
 長谷川は茶番に気付き憤り、あくまでも己の地位が乱法師に脅かされる事を危惧し、過度な寵愛に妬みを感じているに過ぎない。

 万見は今だ嘗て見た事もない信長の一面を知り不安を覚えた。

 人の子なれば好き嫌いも多少の依怙贔屓も仕方がないが、彼の知る主は己にも他者にも厳しく、賞罰に対して公平であろうと努めてきた。
 今回の事は小さな手柄に対する過剰な報償という依怙贔屓ですらなく、ありもしない手柄を無理矢理作ったのだ。

 
 彼自身も信長に見出だされ才を現し、側近としての地位を確立してきた。

 だが乱法師に対する寵は、それを遥かに越えている。
 正しい数を言っても間違えても、既に数えていたと言っても、刀は乱法師のものになっていた筈だ。 
 付き合わされた小姓達は憐れだが、最初から彼に与える為に行った茶番なのだから。

 盲愛──溺愛──そんな言葉が頭に浮かぶ。

 回りくどい方法を取ったのは、理由もなく名刀を与えれば乱法師が他の家臣から妬まれると考えたからだろう。

 彼が感じた不安とは、どことなく生に執着しない信長の危うさに対してなのか、こうまで信長を狂わせる乱法師を危険な存在と感じたからなのか、それとも、己自身に訪れようとしている間近に迫る死の予感だったのか──

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