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第3章 鷹狩
しおりを挟む蝉の喧騒が、陽炎のように揺らめく熱気を益々煽り立てる。
七月になった。
安土から京までは舟でも半日程で着くが、度々上洛しなければならない為、京の二条に別邸を建てさせた。
その邸が完成したのは大変結構な事だったが、前の関白近衛前久が息子の元服式を是非信長の手でとしつこく願い出てきたので、完成披露も兼ね、仕方なく二条の邸で執り行う事にした。
公卿との付き合いだけは尾張のうつけ時代と異なり、面倒だの嫌いだのと言ってられないところなのだ。
前の関白の息子の元服式ともなれば、公卿だけでなく各地の大名や小名も参列し、数多くの祝いの品が届けられる。
詰まる所、関白ではなく信長の威光にすがりたい者達が列をなし、嫌でも元服式は盛大になる。
威勢を改めて示す良い機会ではあるが、公卿と僧侶は甲乙付け難い程虫が好かなかった。
乱法師は琵琶湖に浮かぶ舟の天幕の外から安土城を眺めていた。
普請作業は毎日行われていて城の形が徐々に出来上がってきている。
湖上から見ると巨大さに圧倒され、まるで信長その人のようで、己の存在の小ささと比して怯えた。
初夜の出来事は悪い夢を見たのだと言い聞かせ、頭の片隅に追いやり、その後は努めて何事もなかったかのように振る舞っている。
幸いにも、あの晩以来閨に召し出されてはいなかった。
水色の紗に落とし箔をした小袖の涼しげな装いで、移動中は肩衣は着けていない。
己が堅苦しいのを嫌う為、信長は夏の間、安土にいる時は肩衣はおろか袴も着けず、側仕えの者達にも肩衣は着けなくても良しとしていた。
舟の上にいると金山から安土に向かった日の事が甦る。
初夜の慣れない行為には泣きもしたが、主君として畏れ敬う気持ちは変わっていない。
敬うからこそ、あの夜の事は一時の気の迷いに過ぎないと思いたかった。
都に着き、公卿や豪商、近隣諸国の小名大名が出迎える中、二条の新邸に入ると、元服式のため信長が衣冠束帯に着替えるのを手伝う。
右大臣としての正装をした信長は、乱法師が常日頃見知っている姿と違い威厳に満ち溢れていた。
日頃から人を従わせる佇まいが備わっているが、今日のような場面では、より堂々として、皆が如何に畏怖しているかが伝わってくる。
安土で側仕えの者相手に軽口を叩いたり、湯殿で小唄を口ずさむ姿とはあまりにも違い過ぎた。
元服式に参列した者達は、関白ではなく信長を恐れ平伏しているのだ。
白い顔に天眉のお歯黒公卿達の似たような顔が入れ替わり立ち替わり挨拶する度に、「であるか。」と重々しく厳めしい表情で答える。
佑筆の太田牛一を側に置き時々言葉を交わしていた。
実は信長は特に公卿の名前を覚えるのが苦手だった。
太田牛一は、呼び名が官職を得て変わったり、元服後などに名を頻繁に変える時代にあって、人の名も顔も常に筆を持ち、まめに記し、詳細に記憶していたから誠に重宝する男なのだ。
元服式が滞りなく終わった後、暫く酒宴となった。
やがて公卿や大名や小名等が退出すると、織田家の側近、馬廻り、小姓達は後片付けや見回りで、夕日で紅く色付く邸内を忙しく動き回った。
信長は蜘蛛の巣柄と、捕らえられた美しい蝶の刺繍に縫い箔を施した白と黒の片身変わりという、真に彼らしい小袖に着替え寛ぎながら家臣達の働きを見るともなしに眺めていた。
その中に乱法師を見つけるや、自然に目で追ってしまう。
媚びへつらう事も取り繕う事もなく、熱心に働く彼の美しい姿に心癒された。
信長の強い視線に気付く様子もなく、そっと手拭いで汗を拭う姿さえ涼しげで、小袖に縫い取られた蝶のように我が手の中に捕らえ、隙間からずっと眺めていたいと思った。
「風呂の支度が整いましてございます」
小姓が知らせに来たので乱法師を呼び寄せる。
「蘭、参れ」
名指しで呼ばれても特に動揺を見せず、すっと立つと静かに後に従う。
この時代の風呂は蒸し風呂が基本で湯を窯で沸かした上に簀を敷き、立ち昇る湯気で身体を蒸していた。
二条の邸は特に庭園と池が見事で、南に建てさせた湯殿の屋形は庭に面した側は開いていて、庭園を眺めながら汗を流すという雅な造りであった。
湯殿での世話のために湯帷子に着替えていると「蘭、そなたも入って参れ」と、声が掛かる。
主の型破りで性急な気性はとうに承知しており、一々畏れ多いだのと遠慮せず直ちに従った方が良いと心得、蒸し風呂であるので湯帷子を着た儘入り信長の前に座った。
向き合うと、信長にしか伝わらぬ程度に微かに視線を避け、どうしても顔が強張ってしまう。
「見事な庭園であろう」
立派な岩、池、池の上を渡る紅の橋、庭を巡る真っ白な敷石、季節ごとで違った風情を楽しめる草花。
元々は公卿の邸であったものを庭の美しさに惹かれ、半ば奪い取り改築したものだ。
寢殿造りの雅な趣が色濃く残る。
「あやつらの、こういう趣向は好きなんだがな」
あやつらとは公卿の事であり、乱法師も信長が公家衆を嫌っている事は知っている。
信長の視線をあの夜以来避けてきたが、好奇心旺盛な彼は聞かずにはいられなかった。
「上様は御公家衆を何故苦手とお感じになられるのですか? 」
「白粉臭いし、回りくどくて何を言ってるのか分からん。可笑しくもないのに笑ってばかりで考えている事も分からず気色悪い。一緒にいると憂さがたまって仕方がない」
ここのところ機嫌が悪かったのを気遣い、「どのように致せば、その憂さは晴れましょうか?」と訊ねてみた。
このような問いを発すれば、己に出来る事があれば何でも致します、と捉えられても仕方がないのだが──
湯気で濡れた髪と上気した白い肌に張り付いた湯帷子、信長と違い細い線で描かれた華奢で優しげな顔立ち、少女とも少年とも見える容姿は妖しく、長い睫毛が艶やかに濡れ、それに対し余りにもあどけない瞳が男の欲情を刺激する。
「おお、鯉が跳ねたぞ」
池を指差し、乱法師が其方に顔を向けた隙に男の視線で彼の姿を密かに楽しんだ。
「ふん、そうじゃな。あやつらの生っ白い顔を庭の飛び石に変えて並べて、次々と踏みつけてやったら憂さが晴れるやもしれんな」
「っふ─ふふ」
信長らしい答えに思わず吹き出してしまった。
身分の高い者にありがちな、偉そうで気取った言い方や回りくどく理屈っぽいのを信長は嫌う。
強引に身体を奪われ恐れを感じていたが、二人で向き合っていると、同じ年頃の悪童と話しているような気安さを覚え、慕う気持ちが湧いてきた。
「蘭、儂の前では笑え」
主の前で吹き出したのを不敬と畏まる様子を見せた事に対してである。
『この儂が一度でも抱いたからには、蘭に手を出そうとするたわけはおらぬであろう』
との安心感から、暫く心を通わせ、もう少し打ち解けてから閨の相手をさせる事に決めた。
主の前で吹き出した事を不敬と畏まる様子を見せた事に対してである。
『この儂が一度でも抱いたからには、蘭に手を出そうとするたわけはおらぬであろう』
との安心感から、暫く心を通わせ、もう少し打ち解けてから閨の相手をさせる事に決めた。
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