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 宿直を直々に命じられ、乱法師は不安で堪らなかった。
 
 茶室での出来事を思い返しては唇に触れる度、顔が火照り身体が再び震えてくる。

 彼は利発で生真面目な少年故に、性に関しては奥手だった。
 
 ただ如何に未熟とはいえ、相手が同じ年頃の少年であれば、唇を吸われる事を愛の行為と理解出来ただろうが──
 
 世間から信長はあまりにも畏怖されていた。

 数々の処罰や処刑、比叡山焼き討ちの話も金山の頃からさんざん聞かされてきた。

 側に仕えてから、噂とは異なる優しさや温かさに触れ印象は和らいだが、彼にとっては畏れ敬うべき主である事に未だ変わりはない。

 わけても信長は当時からすればかなり傾《かぶ》いていた。

 なので恐ろしいお方であると同時に奇想天外で予測不可能なお方というのが周りの見方なのだ。
 
 唇を重ねてきた事も何か深いお考えあっての事、いや、戯れかとも思う事で気持ちを落ち着かせた。
 
 天下人が己を愛と肉欲の対象として見ているなど思いもよらなかった。

「お蘭殿、今宵の宿直役を代わってくれたそうじゃな。忝ない」
 
 小姓仲間の飯河宮松が声を掛けてきた。

 どういう経緯でそうなったのかは知らないが、本当の事は黙っている事にして、礼を言われたついでに苦手な湯殿での世話役を一回だけ代わって貰う約束をした。 

 朝が早いので未の刻頃(午後2時)には夕飯となる。
 
 小姓仲間との食事の間、織田の家臣達についての種々雑多な話が交わされる。
 
 様々な武将に接する機会の多い多感な年頃の彼等は、下世話な話も含め諸事に感心する程詳しい。
 
 食事の後、必要な持ち物を取りに行くついでに湯浴みも済ませてしまいたかったので、森屋敷に一旦戻る事にした。
 
 
 夕暮れ時、再び御殿に向かう途中、仕事を終え退出する者達とすれ違う。
 
 彼と同じく夜の警護や宿直番の者達は、辺りが暗くなると御殿を見廻り戸締まりを確認し始める。
 
 照明が発達していなかった時代の夜は早く、日暮れを午後6時とするなら大体、戌の刻頃(午後8時)には就寝していた。

 舞良戸《まいらど》を閉めようと、ふと外を見ると青白い上弦の月が視線を捕らえ、金山にいる家族の顔が頭に浮かんだ。

 安土に来て一月になろうとしているのに、ゆっくり文を書いている余裕が無く、どうしているかと気にかかる。
 
『上様は噂と違い情に篤く大変お優しい方であるので心配は無用』
 
 明日にでも、そう文を書こうと決めた。

 信長の褥の支度は既に整えられていたが、枕元や手周りに用意されている品に不足はないか一通り確認する。
 
 刀を置く刀架、懐紙や香炉、水呑、灯明用の菜種油。

 他には髪を整えたり腫れ物や歯痛にも効き、椿油を混ぜれば刀の錆止めとしても使える万能な丁子油には殺菌作用と防臭効果まであり、武士の必需品として枕元に常備されていた。

 蒸し暑い夜故、扇ぐ物も用意したりと細やかに気を配る。

 いよいよ信長の就寝となり、褥の側で頭を下げた。
 
「御用がございましたらお呼び下さいませ」
 
「──そなた、寝衣に早く着替えて参れ」
 
「は……? 」

 宿直とは寝ずの番と理解していたのに、何故寝衣に着替える必要があるのかと訝しむ。
 
「申し訳ございませぬ。必要ないと思い用意がございませぬ」

 今度は信長が訝しんだ。
 
『用意がない?こ奴はどれだけ初心なのか。唇を吸われ宿直を命じられれば、こちらの用は分かりそうなものだが』
 
 彼の鈍さに呆れつつも今さら決意を変えるつもりはない。

「では上の小袖を脱ぎ、下着だけになってこちらに参れ」

 と、衾をめくった。

 身分の高い人間の前で下着姿になるような育てられ方をされていない乱法師は戸惑った。
 
 しかし主命であるので仕方なく小袖や袴を次の間で脱ぎ、白い下着のみ身に付けて平伏したが、急に不安がどっと押し寄せ身体が強張り、信長が誘う衾の中に歩を進める事が中々出来ない。
 
 普段の凜とした磨き抜かれた刀剣のような大人びた美しさではなく、儚げで少し幼く可憐に見えた。

 動けずにいると、いきなり身体が宙に浮き上がり、気付くと抱き抱えられて褥の上に下ろされていた。
 
 薄い下着一枚のみであるので、信長の体温が熱いくらい伝わってくる。
 
 茶室での羞恥が甦り激しく震え出し、歯の音が噛み合わぬ程怯えながらも信長の顔から視線を逸らす事が出来ない。

「蘭、儂に抱かれるのは怖いか? 」

 舌が縺れて声が出ない。


「 蘭、儂のものになれ。儂がそなたの初めての男になろう」


 乱法師が言葉を発する前に唇を奪い押し倒すと、すばやく腰紐を引いた。

 状況が把握出来ず、頭の中でガンガンと音が鳴り響く。

 信長の唇が肌に触れた。


「怖いか?震えている」


 頭の中の轟音と耳に吹き込まれる信長の声に混じり、切なげな女のすすり泣きが聞こえてきた。 

 それが己の声と気付くと、こんな淫らな声を上げている事に驚き、目尻から涙が零れ落ち褥を濡らした。


 信長は手元近くの品の中から丁子油を探った。

 丁子油は性の営みの用途としては催淫効果もあり、局部の傷みを和らげるので、このような場合に実に適していた。


「怖がらずとも良い。痛まぬようにせねば──」


 頭にかっと血が上り喉奥から声を絞り出す。


 やがて信長は果てると、懐紙で身体を浄めてやった。

 嗚咽を堪えきれず、俯せ気味に夜具にしがみつき顔を埋める。

 信長は愛おしさが強く湧き上がり、胸に抱き寄せ髪を撫で続けた。

 すすり泣く声がしばらく続いたが、いつしか疲労の波に呑まれ、互いに眠りに落ちた


 
 暁光はいつもなら爽快に感じるのに、今朝は己の弱く情けない姿が残酷に曝されるようで辛かった。

 昨夜の行為に打ちのめされていても、何とか身繕いを済ませ、礼儀正しく寝所から退出する。

 しかし明らかに折り目正しい日頃の姿には遠く、己で整えた髪は乱れ、瞼は腫れ上がっていた。

 宿直の後の非番は有り難く、屋敷に戻ると水を浴び、すぐに着替えた。 

 朝飯を出されても食は進まず、普段は育ち盛りなので飯は何杯もお代わりするのに、汁物と香の物しか喉を通らなかった。

 家臣達は憔悴しきった彼の姿を見ても、初めての宿直なので疲れているのだと考えたようだ。

 一人になると衾を被り、さめざめと泣いた。

 何もかもが受け入れ難く、この先どのように奉公をして良いか分からなくなり、泣き疲れて寝入ってしまった。

────

「乱法師様、お目覚めでございますか? 」
 
 襖の外の声で目覚めた。
 
 金山から小姓役として付いて来た武藤三郎である。
 
「なんじゃ」
 
「御屋形様から文が届いておりまする」
 
『御屋形様?はて? 』

 金山を出立する前は、あれ程殊勝に側を離れたくないだの役に立ちたいのと可愛い気を見せたのに、悪気なく、すっかり存在を忘れていた兄の事だと気付く。

 いくら忘れていたとはいえ、思い出せば今の乱法師にとっては心強く頼もしい存在には違いなかった。

 文に早速目を通した。

『何故そちらから文をよこさないのか、もう小姓勤めは慣れたのか、くれぐれも上様のご不興を買うような失態がないように気を付けよ、何か儂の役に立つような話しを耳にしたら、すぐに文を寄越せ』

 丸めて屑籠に投げ入れたくなったが、三郎の前なので思い留まる。

 呑気とも勝手とも取れる内容に腹が立ち、床から起き上がると望み通り文を認め始めた。

 長可は弟からの文を受け取ると激怒した。

 やっと文を寄越したかと読めば、『文を書く暇などなかった 、小姓勤めは楽しいと聞いていたのに話が違う、兄上に役立つ話は全く耳に入ってこない、今のところは御不興は買っていないが、それも時間の問題だから金山に帰れるように兄上から上様に申し上げて欲しい』
 というような内容だったからだ。

「何と我が儘で女々しい弟じゃ!まだ、金山を立って一月しか経っていないというのに、もう戻りたいと抜かしよる」

 鬼のように怒り『お前は上様の御側で十年でも二十年でもお仕えし、性根を叩き直して貰え! 」と書いて送り返した。

 兄弟のそんなやり取りを傅役の藤兵衛は知り、信長の寵を受けた事は察していたので気を回して文を送った。

『上様の御寵愛ひとかたならず』

 それを知った森家の重臣達は喜んだ。

 男色が蔓延っていた時代では、主の閨の相手に選ばれる事は決して悪い話しではなかった。
 
 無論相手にもよるが、今や日の本一の権力者である信長に特別に目を掛けて貰えるからである。

 だが、それを知った長可は、「何じゃと?信じられぬ! 」と顔をしかめて考え込んだ。

 幼い頃から知る弟は鼻を垂らし小便を漏らしていた印象が強く、どうしても信長の寵愛を受けるなど信じられなかったからだ。

「あやつのどこがそんなにお気に召したのか? 」

 しきりに首を傾げ不思議がった。

─────
 
 季節柄、陽はしぶとく空にあったが、やがて傾き月に座を譲った。

 兄に文を認めて後、乱法師は一心不乱に槍を振るい武芸に打ち込んだ。

 武家の少年として特に武術の鍛練には重きを置いている。

 小姓として仕える以上、信長の出陣が彼の初陣となる筈だ。


 乱法師の鬼気迫る突き込みは家臣達の目にも異様に映った。

 声を掛ける隙がない。

 突如、乱法師の動きが止まり、柄が手から離れた。

 汗だくでへたり込んだ彼の瞳を、斜陽が眩しい程に照らした。


 槍は壁に、太刀は枕元の刀架に常に備えてある。

 若い肉体は彼の狙いに反して、湯浴み後に大方の活力を取り戻していた。

 よって寝付けない。

 仄かな灯りが映す影が形を変える。

 それは彼の心そのものである。

 胸中を占めているのは無論信長の事だ。

 明日、どのような顔をして会えば良いのか。

 分かり易い不安を無理矢理脇に押し退けようとすると父の顔が浮かび、兄の言葉を発してくる。


「武名に恥じぬように」


 初陣も済ませていない彼に武功を立てよという意味ではないのだ。

 流石、あの三左衛門可成の倅じゃと信長に認めて貰えるような振る舞いを心掛ける。

 そういう事なのだと気を引き締めて勤めていたつもりだった。


 彼に触れてきた信長の肌の熱さ。

 耳元で聞いた荒い息遣い。

 薄暗がりの中、己に注がれる鋭い眼差し。


 乱法師は身を起こし、父の形見の打ち刀を仕舞ってある漆箱を開けた。


「父上、父上──」


 細い声音で呟きながら、刀を抱き締め頬を擦り寄せる。

 若年とはいえ、家臣達には見せられぬ姿とは承知していた。

 数えで六歳の時に逝った可成は、頭を撫でたり肩車をしてくれる優しい父として彼の中に留まっていた。

 動揺が鎮まり箱に刀を戻す。

 観念して再び身を横たえ瞼を閉じた。

 途端に信長の顔が目の前に迫ってきた。


 飛び起き、灯火を暫く見詰めた。

 立ち上がると慌ただしく小袖袴を身に付け、枕元の太刀を腰に差した。

 銭を入れた錦の袋を懐に押し込む。

 襖を静かに開け、不寝番の家臣達の目を掻い潜り厩まで走り、馬を宥め裏口から忍び出た。


「警護が甘いな」


 肩の力が抜けた。

 馬を駆り、夜道を進む。

 琵琶湖沿いの下街道に出て迷いが生じた。

 左か右か。

 左に馬首を向け、月を見上げた。

 故郷に続く道。

 母の顔と弟達の顔が浮かび、兄の顔を振り払う。 

 後ろ髪を引かれつつ右を選んだ。


「父上──」


 父との数少ない思い出。

 近江八幡から南方へ走る八風街道を進んだ。

 

 商人達が多く行き交う道だからであろうか。

 幅は凡そ二間、松が植えられ柳が風にそよぎ、夜更けても荷を背負った人馬の姿が絶えない。

 信長の顔がちらりと浮かんだ。 

 宿屋、酒場、まだ灯りが所々に残っていた。

 道行く男達の袖を引く妖しげな女達。 

 宿は取らずに馬を休ませ、木に凭れ鳥の声を聞いた。

 夏の夜空に煌めく星が彼を癒してくれた。


 八風峠越えは少々疲れたが、姿を覗かせた太陽に活力が湧き、先を急いだ。

 気持ちが逸り、馬を駈る。

 途中、宿で休憩して再び馬を進めた。

 陽が空の中央に留まる頃、目的地が視界に広がった。


 これが潮の匂いか──

 銀色に煌めく海面が眩しい。

 伊勢の国、桑名の湊。

 美濃の金山を流れる木曽川の執着地点。

 流れ行く水は伊勢湾へと広がる。

 幼き日、父に訊ねた。


「ちちうえ、木曽川のずっとずっと先には何があるのですか? 」


「伊勢の桑名まで続いて、その先は海になる。湊があるのじゃ。大きいぞ。金山湊よりずっとな」


「では、あの舟は伊勢まで行くのですか? 」


「此処から運ばれた荷は桑名の湊で下ろされる。桑名からは魚が運ばれる。そちが朝に口にしたのは伊勢の海で獲れたものじゃ」


「乱も行ってみとうございます」


「何れ大きうなったらな。目にすれば分かる。大きな流れが──」


 記憶は其処で途切れていた。

 

「大きな流れ」


 三つの河の水を呑み込む大きな海を見渡せる湊。

 伊勢湾には、数え切れぬ程の船が浮かんでいた。

 風で膨らむ白い帆を張った廻船、釣り船。

 金山湊とは規模が違う。

 初めて見る海。

 心地好い潮風に海鳥の鳴き声。

 

「これだけの船じゃ。津料は如何程になるのか」


 ざっと目算してみる。

 この湊には海、陸、河を通じて物も人も集まる。

 人が集まれば宿屋も繁盛する。

 寺も潤い、物の取り引きが盛んになれば役銭が沢山取れる。

 技術者が集まり工業も発展する。

 物だけでなく情報も集まる。

 大きな流れが、大きな利を生み出している。

 港からの税収は関銭、津料、帆別銭、港町から地子銭、棟別銭、役銭などがある。

 但し、状況や訴えに応じて其れ等を免除して既存の権力との軋轢を避けたり発展を促したり、別の形で銭を取り立てるなどしていた。

 税は年貢米、労働で支払われる夫役などもある。

 或いは、矢銭(軍資金)を徴収される場合もある。 

 嘗て此処は十楽の津と呼ばれ、自由な交易都市であったが今は信長の支配下に置かれていた。

 

 信長が嘗て存った尾張の熱田とは海路を経て通じ、木曽川を下れば美濃に至る。

 桑名を抑える事は軍事上、重要な意味を持つ。

 制海権を得て敵の補給路を絶つと同時に自軍への物資を円滑に運ぶ。

 戦にはともかく銭が必要だ。

 莫大な利益を生み出す各地の湊が織田家を躍進させてきた。


「それにしても広いな」


 広さは五、六町、家や寺が数千軒も軒を連ね、数千艘の船が停泊していたと伝わる桑名の湊。

 領内の関所を撤廃し人と物が流れ、楽市楽座で商人を集めるというのは良く知られる信長の政策だ。

 都市の発展を促すという狙いがある。

 楽市楽座とは楽市と楽座。

 楽市は市場税や営業税の免除。

 楽座は組合による商売の独占の撤廃。

 関銭にしてもそうだが、こうした政策には柔軟性も見られ、楽市と楽座が必ずしも同時に領内全てで施行された訳でもない。

 要は柔軟な対応をしていたという事だ。

 

 好奇心旺盛な乱法師は夢中で歩き回り、商人達から諸国の情勢を聞き出したり、肉厚の蛤を食べたり値段交渉をして楽しんだ。 

 此処に来たそもそもの理由は、既に忘却の彼方にあった。

 しかし、取り引きされる品の中に美濃紙や美濃の焼き物に目を止め、彼は思い出してしまった。

 冷静になれば、随分と大それた事を仕出かしてしまったものだ。

 突き動かされる儘に無断で小姓としての勤めを放り出して来てしまった。

 今頃、家臣達は青褪めているであろう。

 悔やんでも時既に遅し。

 この事態を丸く収める方法を瞬時に捻り出せる訳もない。


「戻らねばならぬ」


 分かっていても覚悟が定まらない。

 行き先は決まっていても、戻った後の事は一切頭に無かった。

 殆んど一睡もせずに夜通し駆けた疲労に襲われ、目眩がした。


「一先ず宿で休もう」


 宿で息を吐き、ごろりと横になる。

 湊の熱中から覚めれば、頭に浮かぶのは信長の顔だ。

 彼は信長の行為の意味が理解出来なかった。

 抱かれている間は只恐ろしく、酷い事をされたと考えていた。

 腰に手をやり刀の柄を握り締める。


「ん? 」


 父の形見の刀は邸に置いてきてしまった事に思い至り焦った。


「戻らねば──何としても戻らねば──」


 彼にとっては命よりも大事な刀である。

 お陰で頭の中の信長像は消え失せた。

 握り飯を四個も頬張り、気合いを入れて安土へと急いだ。

 どう言い訳するかは後回しで、父の刀の事で頭は占められていた。

 疲労困憊で安土に辿り着き、邸の門を潜ると家臣達が駆け寄ってきた。


「若様!! 」


 そして取り押さえられた。



「具合が悪いと……そう伝えてあると……」


 当に今、極めて具合が悪い乱法師は呟いた。

 何故突然邸を抜け出したかについては既に問い質されている。

 話しは、乱法師が出仕しないのを信長にどう言い訳したかに移っていた。


「上様は何と? 」


 上様と口にするだけで泣きたくなった。


「良く休むようにと。御近習の青山虎殿をわざわざ遣わされ、若様の事を大変案じておられるとか──」

 

 途端に罪の意識に苛まれた。


「案じておられる。儂が邸におらなんだ事は御存知ないのか」


 もう四日は出仕していないというのに。

 奇妙な胸の高鳴りに動じ、父の刀の柄に触れる。


 家臣達は、此度の出奔が信長の寵を受けた事に関連しているのではと察しが付いていた。

 実のところは早くも痴話喧嘩かと、憶測を心に秘める者もいた。


「左様でございます。もう具合は良くなりましたと、明日出仕なされませ。さすれば何事もなく済みましょうぞ」


 家臣達の瞳には一様に懇願の色が浮かんでいた。

 此処で嫌だとごねても、寄ってたかって説得されるだけだし、下手をすれば幽閉だ。

 それに、本当の事を知られたら森家全体に咎が及ぶかもしれない。

 覚悟と言うより諦念に達しかけた時──
 
「大変でございます。上様御近習の青山虎殿が参られました」

 近習の来訪を告げられ、室内に緊張が走る。
 慌てて病人の体を取り繕い対応した。
 目の下に浮く隈が功を奏したのか、仮病を疑われる事なく、青山虎の巧みな説得に折れ、翌日出仕すると渋々承知した。



────翌日


 覚悟の無さを物語る足取りで仮御殿に向かい、小姓部屋に入ると直ぐに信長に呼び出された。 

 嘘を吐いた経験が余りない彼の心臓ははち切れそうだった。

 声を掛けて襖を開けると信長が一人で待っていた。

 身体が汗ばむ。


「蘭、近う。もっと近う参れ」


 信長の声を久しぶりに聞いた気がした。

 こんなに優しい声音であったろうか。


「大事ないか? 」


「はい、もうすっかり良くなりましてございます」


「それは良かった」


 真に身を案じてくれていたのが伝わり、やや心が苦しくなったが、今回の件は信長のせいでもある。

 軽く息を吐いたところで信長が問いを発した。


「何処まで行ってきた? 」


 はっと顔を上げ、信長の目を見て、さっと青褪める。

 唇を噛み締め俯き、血が逆流して今度は耳まで赤くなった。


「金山か?家族には会えたか? 」


 口調は穏やかで怒っている様子はない。
 何故知り得たのか、という疑問がぐるぐる頭を巡る。

 身体が震えて顔を上げる事が出来ない。

 信長はそんな様子を見て、鳩尾の辺りにむず痒さを覚えた。

 その儘眺めていたいような抱き締めたいような心持ちである。

 

 乱法師に嫌われた訳でもなさそうだと思いつつ、一度も謝罪が無いな、とも感じた。

 とはいえ、彼に罪があるかというとそうとも言えない。

 愛しさが高まり強引に彼を褥に押し倒した事が原因と承知していた。

 つまり彼と己との間で解決すれば良い私的な問題である。

 目の前の彼は、か弱い存在であり怯えていた。

 普通ならば、悪くなくても絶対的強者の己に謝り縋り付きたくなる心境であろうに。

 悪いと思っていないのか。

 家臣達の中には信長を前にすれば言い分を抑え込み、直ぐに謝って逃げを謀る者もいる。


「金山ではなく……桑名の湊に行って参りました」

 

 乱法師は何処までも正直だった。

 と、いうより誤魔化せないと悟り、観念したというのが正しい。

 指先が、腰に差した父の刀に触れた。


「桑名?その刀、何処かで──三左のか」


「は……仰せの通り父の遺した刀にございます」


 唇を震わせ顔を上げて答える。

 やはり、謝罪はない。

 信長の鳩尾に温かな痒みが広がり、掻き毟りたくなった。


「何故、桑名に? 」


 乱法師は父の言葉を伝え、湊を散策して感じた事を正直に語った。


「八風越えか。千種(千種街道)を選んだら狙撃された事があったな。あの湊は今も楽座の儘じゃ」


 淡々と話しが進んでいく。

 信長は何処か楽しげであった。

 どのような形で収益を得て、どれくらいの

利を上げているかまで話し始めたのには驚いた。

 彼が質問すれば分かり易く説明してくれる。

 話しは長島の一向一揆での戦術にまで及び、いつの間にか時を忘れ熱心に耳を傾けていた。

 桑名の湊を見て信長の話しを聞き、此処で己の欲するものは得られると確信した。


 何故、桑名に行ったかは打ち明けたが、どうして黙って邸を抜け出したかは聞かれていない。

 聞かれても責められても困る。

 責めるならば、あのような真似に及んだ訳を教えて欲しい。 

 だが今、二人きりで、あの夜の事に話しが及ぶのは恐ろしい。

 
 互いの事情で、初夜の生々しい話しは回避された。


 


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