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第2章 初夜

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 佐久間信盛の屋敷では勝手が悪いと、既に信長は仮御殿に移り住んでいたので、謁見はそこで行われる事となった。
 
 乱法師は身支度を整えていた。
 薄紅色、薄藤色、ひわ色の三色使いの辻が花染めで藤の花を型取った小袖に、深い縹色の肩衣は森家の鶴丸紋が染め抜かれ、美童振りが引き立つ実に華やかな装いだった。


 御殿に着き、取り次ぎの側近に告げると謁見の間に通された。
 
 側近らしき者が数名控えており、座して待つと「上様が参られます。」と告げられ平伏する。
 
 荒々しい足音が響き、小姓を従え信長が入ってきたのが分かった。
 
「貴様が三左の伜か。名は何と申す? 」
 
 立った儘で前置きもない。
 
 唐突さに驚くよりも、平伏した儘で顔を見る事が出来ない代わりに、良く通る声だと耳で感じた方が先だった。
 
「森乱法師と申しまする」
 
 信長は少し考えてから言葉を掛けた。
 
「美しい名である。では、蘭で良いな。蘭、忠勤に励め」
 
 後ろに控えている伊集院藤兵衛が少し身動ぎするのが伝わってきた。
 
「はっ! 」
  
 名乗り、問いに返答しただけの僅かなやり取りで終わり、信長は着座すらしなかった。


「ご立派でございました。上様も美しい名であると褒めておられましたな」
 
「名を呼ばれる時には変わりあるまい。些細な事じゃ」

 乱を蘭に間違われる事に慣れている乱法師は、藤兵衛の言わんとする事を察し鷹揚に答えた。

『上様の御顔を拝する事が出来なかったのが残念であったな。これから御側にお仕えするようになれば、御顔を拝む機会もあるだろう』

 名前の字を間違われたであろう事はどうでも良いが、短か過ぎる謁見に物足りなさを感じた。

 
 翌日、現代の感覚では随分早いが、寅の刻(午前4時頃)には起床し朝食を済ませた。

 その後、房楊枝で歯を磨き口をすすぐと、口臭予防と殺菌効果のある丁子を口に含み顔を洗い、髪を整え小袖袴に着替える。
 
 卯の刻(午前6時頃)には出仕し、まず小姓頭を兼任する近習の万見仙千代のところに挨拶に向かった。
 
 小姓は一日数名、全体では百名近くいるが、数名が組になり時間交代で主の側に侍る事になっている。

 仲間の小姓達の名前を覚え話をするようになると、信長の髭を剃る事と爪を切る事を皆が一番恐れているとか、宿直は一晩中寝ずの番をするが、信長は眠りが深く、朝まで呼ばれる事が滅多にないので意外と楽だとか役立つ話しが色々聞けた。
 
 仕事を覚えているうちに初出仕から、あっという間に五日が経過していた。


 今日は野駆けと鉄砲の鍛練も兼ねて鳥撃ちをすると言い出し、数名の小姓と馬廻り衆と、安土から程近い山野まで供をする事になった。
 乱法師は他の小姓達と少し離れた所に控え、信長が鉄砲を構え鳥を狙う様子をじっと見つめていた。 
 信長の姿をはっきりと拝む事が出来たのは、実は本日が初めてである。
 周囲が新参者の粗相を恐れ、直に信長に触れる仕事をさせなかったからだ。
 
 背が高く、非常に美男で四十四歳になる筈なのに驚く程若々しい。
 誰もが恐ろしいと口を揃えて言うが、はっきりとした二重の大きな瞳は悪戯心を秘めた少年のように快活で、口元には少し笑みを浮かべ、楽しげで優しげですらある。
 
 信長につられ、無意識のうちに微笑んでいたらしい。 
 相手も自分を見つめ返している事にはっと気付き、咄嗟に顔を伏せた。

 が、時既に遅く

「蘭、蘭法師!こちらに参れ」
 
「──はっ! 」

 と、大声で召され、早くも不興を買ってしまったかと悔やみながら慌てて側に膝間付く。
 
「貴様も撃ってみよ! 」
 
 いきなり鉄砲を目の前に差し出され、戸惑いながらも主命の為鉄砲を受け取り構えて見せた。
 
「中々良い構えじゃ」
 
 背後から肩に手を乗せ、鉄砲を支える彼の左手に軽く触れた。 
 緊張で筋が強張る。
 信長の手が離れた。
 上空に筒を向け狙いを定める。
 横顔に強い視線を感じたが、鳥の動きを追ううちに意識は眼に凝集し、汗ばむ掌《たなこ》は鉄と同化した。
 彼は引き金を引いた。
 衝撃に伴い開いた瞳孔に、落下する鳥が映った。

「見事じゃ」

 低く発せられた賛辞に顔を振り向ける。
 そこには、朗らかな笑みを浮かべる信長が在った。


 信長は謁見の時から、乱法師を美しい少年だと思っていた。 
 父の三左衛門可成は信長の為に戦い近江の宇佐山で討ち死にしている。 
 小姓として召し出したのは、幼い子等を残して逝った可成の忠義に少しでも報いたいという慈悲あっての事だ。
 謁見の際の堂々とした態度、小姓として側近く侍る時の品のある美しい挙措を好もしく感じ、立派に成長したと嬉しくなった。
 脇息に肘を付きながら、鳥撃ちの時の彼の様子を思い出す。

 奥二重の涼やかな瞳に浮かぶ微笑の可憐さに、見詰め返した時の羞恥の仕草に得も言われぬ色香を感じた。
 白い項、着物に焚き染めた芳しき梅香。 
 少年の華奢な身体つきが肩に置いた手を通して伝わり、雄の昂りを覚えた。
 一瞬とはいえ、彼への執着は心に強く残った。

────

 信長の身の回りの世話をする機会も日増しに増えてきた。
 
 彼の健気な働き振りに信長の心は癒され、誰にも触れさせず清らかな少年の儘でいてくれたらと養父のような温情で心満たされる。
 
 と同時に、美しく無垢な者に心惹かれた時の、男としての淫らな好奇心も同時に沸き起こるのは否めなかった。

『蘭はまだ女は知らないだろう。だが、男には既に抱かれておるのか? 』

 今よりも結婚年齢が早い時代であるので、自身も男女共に知ったのは乱法師と同じ年の頃だった。 

 試しに彼の着物を頭の内で脱がせ、男の姿を上に重ね淫らな姿態を取らせてみる。
 
 己の経験から察するに、男もまだ知らぬ生童だろうと邪な妄想を楽しんだりもした。

 乱世の遥か古より、特権階級である武家、公家、僧侶の間では、側近くに仕える美童を愛でる事が風習として深く根付いていた。
 
 男性のみの戦場、或いは男性のみで形成された生活集団の中で生まれた男色は、武家においては時として互いを守り合う命がけの愛にまで昇華し、より深く強い絆を結ぶ手段として小姓を愛する事は慣習となっていたのだ。
 
 信長も今まで多くの小姓と同衾してきた。

 そうした者達も今は長じて妻を娶っている。

 肌を合わせる事はなくなっても心の絆は今も強く、長年連れ添った夫婦のような間柄だ。

 乱法師に手を付ける事を咎める者など誰一人としていよう筈がなかった。

 彼自身をおいては──

 信長は前置きを嫌い常に性急で強引だ。

 元々迷ったり躊躇したりするような気性でない上に、天下人となった今は少し口にしただけで好みの物が目の前に即座に並ぶ。
 
 考えるよりも先に行動し、城も欲しい物も何でも手にしてきた。
 
 清らかなままでいて欲しいなどと悠長な事を考えていたら、乱法師のような美童はすぐに手折られてしまうだろう。

 むやみに汚したくもないが、他の者に先を越される愚だけは犯したくない。

 いっそ伽を命じてさっさと己の物にしてしまおうかとも考えたが、天下人として何でも手に入る今だからこそ、それでは味気ないと思い直す。

 肉欲のみを満たすのではなく、乱法師が心より慕うようになり、あの一途な素直さを己だけに向けるようになったら、さぞかし愛おしく可愛いだろうと思うからだ。

 とはいえ、無垢な身体に対する肉欲に抗えず、淫らな悪戯を仕掛ける事はしばしばあった。

 例えば湯殿で乱法師が世話役に従事する場合のみ、下帯を身に付けるのを彼に手伝わせるのだ。
 
「下帯を持てい! 」
 
 厳めしい顔で全裸で仁王立ちになる。

 普段は下帯くらいは自分でさっさと身に付ているのにだ。

 彼が努めて冷静に手際良く、さっと下帯を腰に当てて結ぼうとするのを、わざと身体を動かす。
 
 下帯が滑り落ちると、初心な乱法師が目のやり場に困って俯くのを、笑いをこらえながら楽しんだりするという具合だ。

 だが、悪ふざけの後は決まって『褌を変な位置で締めちまったような、はたまた足袋を履こうとして親指を四本の指を入れる袋の方に入れちまったような』彼流に表現するなら、そんな居心地の悪さを覚えるのだった。


 六月に入り、自室で側近達と普請中の京の二条の新邸に入る日取りを話し合っていた時、関白近衛前久からの使者の対応をしていた万見重元が戻ってきた。
 
「近衛からは、またあれか? 」
 
「前の関白様のご子息 、明丸様の元服式を上様が烏帽子親にて執り行う事、重ねてお願い申し上げたいとの由にございます」

 宮中での元服式が慣例として、再三辞退しているにも関わらず、我が子の烏帽子親に是非にと何度も使者を遣わして寄越すのでうんざりした声になるのも無理は無い。

 しかし来月の二条の新邸の完成披露を兼ねて元服式を執り行えば、色々な意味で一石二鳥である為、信長は最終的には引き受けるのではと万見は踏んでいた。

 他の側近達が退出した後も、万見のみが安土城下で行われる楽市楽座の細かい取り決めについて話しをする為に側に残った。

 楽市楽座には新しい商人が参入しやすいように既存の商人の組合を廃止し、税も安くし、自由な商売が活性化する事で人が集まり町が潤うという効果があった。

 政務や雑事の話が一段落すると、万見が可笑しくて仕方がないという風に笑い出す。

「蘭法師に下帯を着けさせて面白がっているそうですね」 
 
 言いにくい事をさらっと口にする。

「何じゃ。妬いておるのか」
 
「妻も子もいる身で妬心など」
 
 万見は呆れて悪戯好きな主を詰る。
 
 仙と呼ぶのは元服後も字《あざな》は仙千代という幼名をその儘使用しているからである。
 
 あくまでも戯れる主を鼻で笑いながら軽くあしらう。

「髭は生やすなよ」

 髭なんか生やして、少年の面影が消えてしまったら寂しいものだ。

 天下人となり絶大な権力を持つようになっても、うつけと呼ばれていた頃から中身は全く成長していなかった。 
 激しい気性も相変わらずだが、信長には日常において機嫌さえ良ければ軽口を叩き、気さくに身分の低い者にも話しかけたり、面白い事や祭りが大好きで小唄なども口ずさむ、誠に人好きのする一面もあった。

 気の合う側近達に見せる寛いだ顔と、公家や僧侶、平伏する家臣達に見せる恐ろしい程の威圧的な顔とが矛盾無く彼の中に存在しているのだ。

 それにしても、邪な方向に進もうとする度に三左衛門可成の顔がちらつき、美童故に愛でる為だったのかと思われる事への強い抵抗感に邪魔される。
 
 また、早々に乱法師に手を付けたら己の劣情に負けてしまうというような気持ちが歯止めとなっていた。


 乱法師が佩刀を捧げ持ち侍していた時に、ふと可成と嫡男であった可隆が茶の湯に通じていた事を思い出し、茶室に誘ってみた。
 
 戦場で血を浴び気の休まる暇のない乱世の武将達に茶道は大変好まれた。
 
 静謐な狭い空間で一時でも戦いを忘れ、身分の上下なく茶を点て茶を服す。

 血生臭ささを忘れ、一人の人間として静かな時を過ごしたいと思いたてば、供をしている者を茶室に気軽に誘う事もしばしばあった。

 茶坊主に用意を命じ、躙口《にじりぐち》より入る。

 中に入ると、掛け軸には『夏雲多奇峰』と書かれ花入れには半夏生が差してあり、真に季節にふさわしい風情であった。

「こちらに来てから宗易には会ったのか」

「まだ、お会い出来ておりませぬ」
 
 森家は名門に相応しく茶道にも精通し、茶頭三宗匠と呼ばれる千宗易、今井宗及、津田宗及とも親交があった。

 討ち死にした兄可隆は特に宗易を師として教えを受け、秘蔵の茶杓まで贈られている。
 
 今は次兄長可も師事していた。

 茶の湯の用意が整うと、信長は乱法師に点前座に座り亭主を務めるように命じた。
 
 慣れた手付きで茶筅を使い点てていく。

 彼の美しさは容姿だけでなく品の良い挙措から生まれるものだと信長は感じた。
 
 厳しく己を律しているからこそ美しい振る舞いが出来るのだ、と。
 
 茶を点てる美麗な姿と静謐な空間により、春風の中で清らかな流れに足を浸しているかのように心が和らいでくる。
 
 彼と共寝をしたら戦乱の世である事を暫し忘れ、心地良い夢を見て惰眠を貪《むさぼ》る事が出来るかもしれないと感じた。

 茶を点て終わり、作法通りに信長が服す。
 
「見事な点前じゃ」
 
 褒められた嬉しさで乱法師の顔が綻ぶ。 

『真にお優しい御方じゃ。斯様な名君の御側にお仕えするは我が誉れぞ』
 
 今も狭い茶室の中に二人で向き合っているのに心は解れ、寧ろ親しみさえ沸いてくる。

「蘭、宗易は度々安土にも参る故、その時に色々と聞くが良い」
  
「はい」
 
 茶室とは真に不思議な空間で、侘び寂びを良しとし、花は野にあるように花入れに挿す。
 
 飾らず、あるが壗という事なのか。

「金山には確か名水が湧いておるそうじゃな。三左が申しておった」
 
「小関の清水の事でございましょう。その水で茶を点てますと、大層美味でございます」
 
「金山に参る事あらば、そなたの点前で味わってみたいものじゃ」
 
「はい!是非に」
 
 信長が金山に来る事があるのだろうかとは思ったが、こんな風に言ってもらえるだけでも大変な名誉には違いない。

 普段、側近や知識人に囲まれている信長は畏れ多く、新参小姓が打ち解けて話せるような雰囲気では無かった。
 
 茶を服した後、父可成の面白い話を語り出し、いつの間にか自然に笑みが溢れる。
 
 己が知らなかった父の一面を信長の口から楽しげに語られるのが何よりも嬉しい。

「上様は父の事を良く御存知でいらっしゃるのですね」
 
 思わず口にすると信長から笑みが消え、真剣な面持ちで眉を寄せ乱法師をじっと見つめた。

「寺は詣でたのか? 」

 呟きに似た問い掛けに、はっと顔を上げると何とも優しい眼差しが向けられていた。

「──はい」

 信長の言う寺が、父の骸を引き取った聖衆来迎寺を指しているのだと瞬時に悟った。
 乱法師の顔が歪む。

「儂は何度も行った」

 ぶっきらぼうに放たれた言葉に心が震えた。
 涙で視界が霞み、また顔を伏せた。
 途端に強く抱きすくめられ、驚いて顔を上げると唇に生暖かい何かが触れた。 
 伝わる熱に侵され、指先まで力が抜けていく。
 漸く離れた時には前後不覚、夢現な有り様で、甘えるように凭れかかり、すっかり腕の中に抱きこまれていた。

「今宵は宿直か? 」

「い、いいえ.....まだ、宿直を仰せ遣った事はございませぬ」

 声が掠れる。

 初めての経験に心臓が早鐘のように打ち、がくがくと震えが止まらない。
 
「ならば今宵はそなたが宿直をするのじゃ」
 
「ですが今宵は……」

「儂から申しておく故そなたがするのじゃ。良いな」
 
 既に決まっている者がいると言いかけたが遮られた。
 
 有無を言わせぬ強引さに頷いてしまう。

 呆然としながらも、『貴様』ではなく『そなた』と呼ばれた事に、ふと気づいた。
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