森蘭丸外伝─果心居士

春野わか

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 三郎と藤兵衛が少し困ったように顔を見合わせる。

「済まぬ。どうしているかなど真に愚かな事を申してしまった」

 忍びとして潜っている謝干と連絡を取り合うなど簡単に出来る訳が無いのに。

「乱法師様の御様子もそれとなく伝えて欲しいと申しておきましょう」

 気持ちを汲み三郎が請け負った。

──

「何も動きが無いってえのは全くやんなるねえ」

 摂津の石山本願寺に対する最前線の天王寺砦に『お藤』として潜伏する謝干である。

 女達とは下世話な世間話が最早日常となっているが、余り役に立つ情報は得られていなかった。

「梟雄とか言われてても爺さんだし、耄碌して牙を剥く元気も無いんだったら結構だけど」

 雑用の合間のちょっと一息の振りを装い、砦の外れで結った髪の間から小指の第一関節程に小さく巻かれた紙を取り出す。
 日常的な内容に見えるよう暗号化された、伴家の者からの文であった。

「若は元気で、果心の手掛かりを掴んだ、か。良かった。ぎゃっっ! 」

 何気なく視線を落とすと薄黄色に黒い縦縞模様の蛇を見つけ、柄にも無く悲鳴を上げる。

「こっち来んじゃないよ! 」

 石を投げて脅すと尾を振るい、シューシューと音を立てて威嚇してくる。
 無毒の縞蛇と分かり安堵したが、赤い虹彩が果心を思い起こさせ、むかっ腹が立ってきた。

「蛇の癖に生意気なんだよ! 」

 無茶苦茶に石を投げ付けると、蛇は草むらに姿を消した。
 蛇を神と崇める信仰は日本各地に見られ、昼間にそうした生き物を殺すと不吉という言い伝えがあるのに全くお構い無しである。

 謝干も乱法師の周りに数名いる、神を恐れぬやんちゃな者達の内の一人だった。

 漸く静かに考え事が出来ると手近な岩に腰を下ろした時には、乱法師では無い別の者の顔が頭を占めていた。

 それは弓削三郎の事である。
 何処で見たのか思い出せない為、勘違いかとも考えたが、やはり記憶違いでは無いという結論に辿り着く。

 重要なのは彼が何者かと言うよりも敵か味方かという点であるが、彼女の中では『彼が何者か』と追及する事の方が勝っていた。
 
 つまり己と同じ類いの者と直感が告げていたのだ。

 諸国の大名は皆、乱破《らっぱ》、素破《すっぱ》、草の者、軒猿《のきざる》、歩き巫女、細作《さいさく》など、地方によって呼び名は違えど忍びを敵の領地に放っている。
 この砦に武田や毛利、上杉などの敵の忍びが潜んでいる可能性は十分有り得る。
 差し詰め色気で松永を誑かし、寝返らせるのが役目だろうか。

 そうなると射干の立場は複雑である。

 敵は敵、味方は味方という単純な図式は描けないし、弓削三郎の目的が松永を寝返らせる事だったとしても、それを止めるのは彼女の役目では無い。

 とはいえ、彼の正体を敵の間者とするなら、気付いているのに見て見ぬ振りもどうかと思う。
 それで結局『彼は何者か』という問いに戻ってしまうのだ。

 ただ、いずれの答えに辿り着いたとしても、正体に気付いた事は絶対に悟られる訳にはいかなかった。 

「棟梁(伴太郎左衛門)に知らせるのは、もう少し探ってからにしよう。敵方の忍びなら何処で見たんだろう。そうで無かったら奴の狙いは? 」

 正体と目的の分からぬ者は不気味で恐ろしい。
 況して美貌の持ち主であれば甘く香る食虫花のように、喰われると分かっていながら引き寄せられてしまう故に、尚恐ろしい。

 底知れぬ闇を抱え、忍び続ける忍びの中の忍び。
 気付いた事を知られてしまったら──

 冷たい汗が背を伝った。

───

「ああ三郎。愛い奴じゃ。そなたのもこうして愛でてやろう」

 主従は身体を重ね、激しく睦み合っていた。
 七十近い松永久秀の皮膚には老人特有の染みが点々と散っている。

「ああ殿……早く殿が欲しい」

 三郎が老体を励ます。

「愛い奴じゃ。たっぷりくれてやろう。さあ参れ」

 松永は彼を背後から抱き締めた。
 誇り高い獣を支配する喜びで、松永は己の惨めな境遇を今だけは忘れる事が出来た。
 
 三郎の閉じかけた瞼の奥で黒い瞳が濡れ揺らぎさ迷う。
 その時、天井に信じられないものを捉え、驚愕で三郎の瞳が大きく見開かれた。
 身体がびくっと強張ると同時に二人は同時に昇天した。

「菩薩じゃ、極楽浄土が見えたぞ。生きた儘、極楽浄土に行って来た。そなたと睦み合うと、寿命が延びるのか縮まるのか」

 行為の余韻を楽しみ戯れる二人。
 交合の絶頂感は正に極楽浄土そのもの、一瞬でも無我となれる悟りの境地。

 三郎も陶然とした表情で松永に身を任せていたが、真っ白な筈の景色に混じり込んだ信じられない光景を思い出し眉根を寄せる。

「どうした? 」

「恐らく私の見間違いかと。いくら何でも……殿と楽しい時を過ごしている時に余り口にしたくは……」

 あの時、見たのは果心──
 日頃冷静な彼が見間違いかと思ったのは、その異様な姿にあった。

 身体が蛇のようにくねり、長く青白い。
 元々異形であったとはいえ、目を疑うのは当然だ。

「申せ!見た儘を申せ! 」

 三郎を仰向かせ、上から組み敷き顔を覗き込む。

 真剣な顔で見詰められ、瞳が揺蕩う。
 逸らした視線が天井の隅にまたもや異形の姿を捉えた。
 今度こそ見間違いでは無い。

 ぎゅっと己の肩を掴む怯えた顔に、只事では無いと松永は視線の先を追った。

「くくく、お久しいですのう。松永弾正様……」

「お前は──何故! 」

 何故、という松永の一語に疑問の全てが込められていた。
 噂程極悪人のつもりも無いが、権謀術数に長けた老獪な一面を敢えて否定はしない。
 武家、公家、宗教勢力、豪商、雑賀衆や伊賀甲賀の忍びといった傭兵集団、それに周辺の海域を制する海賊まで含めると、群雄割拠する畿内では常に鍔迫り合い、睨み合いが続けられて来た。

 『天下』とは畿内の事だという見方すらある。
 ならば大和に多聞山城という斬新且つ華麗な城を建て、権勢と栄華を誇った松永は、嘗て天下人であったと言えるのかも知れない。

 大抵の事では驚かないつもりだった。 
 しかし──

「真に堪能させて貰ったぞ。くく、三郎」

 人では絶対に有り得ない二股に割けた赤黒い舌が伸び、ぐじゅりと音を立て舌舐めずりする。 
 そして愛撫の跡も艶かしい、火照りの冷めぬ裸体を念入りに目で犯す。

 三郎は不快感で顔を歪めた。

「その姿は一体、いや、果心!何しに来た? 」

 聞きたい事は山程あった。
 凡人ならば真っ先に気にする姿形の変貌についても。
 だが聞きたい事よりも聞くべき事を優先させたのは流石、梟雄松永久秀である。

「流石は弾正様。話しが早い。私の友、心を同じうする者として御力添えをしたいと存じましてなあ」

「話しが見えぬ」

 冷静さを取り戻した三郎は、床から脱いだ衣を拾うと松永の肩から着せかけた。
 己は裸体の儘、松永が袖を通すのを手伝い腰紐も締めてやる。

「惚けるのはお止め下され!貴方の燻っている御心の内を私が気付かぬとでも?はっきり申しましょう。信長に従うべきか叛くべきか迷っておられるのではありませぬか?いや、叛きたいと思っておられる。そうでございましょう? 」

 三郎は己の衣も白い指先で掬い上げると、ゆっくりと肩から羽織り、緩く重ねただけで腰紐も結わえず、見せつけるように松永の肩に手を置いて寄り添う。

「世迷言を!そのような企みは微塵も無い。お前こそ身に過ぎた野心を持ち、上様の御命を狙ったという松吟庵の話しは真であったか!何を企んでおる? 」

「私は天下を動かしたいのです」

「──うっはっははあっははあ」

 松永は一瞬呆気に取られたが、突然腹を抱えて豪快に笑い出した。

「ふっふ、お前が?馬鹿な……大体その姿は何じゃ!得意の幻術か?蛇将軍にでもなって見せるか?戦も仕掛けず天下を取るか?それとも幻の城に住み、幻の大軍、家臣を従えるか? 」

 松永の嘲笑に果心の眉間に皺が寄る。

「天下人になりたいと申している訳ではありませぬ。此の世を統べるに相応しい御方に天下を差し上げたいだけ。信長如きは全く相応しく無い。奴の野望を阻止し、天下を狙えるのは貴方を置いて他にはいない」

 松永の肩に置いた三郎の指がぴくりと跳ねた。
 見え透いた追従と鼻で笑う事は出来無い。

 天下を狙えるだけの気力、知力、体力、財力、それに官位、人脈、文化的素養、全てを松永は有していた。
 そして、それらを持たざる者でさえも、この時代の男達は皆天下を夢見た。

「ふっ、せめて十年前であれば頷いていたやも知れぬ。だが見よ。哀しいかな……後は老いさらばえて死ぬだけじゃ。二十以上も年下の若造に平伏し、扱き使われて一生を終える……」

 先程は果心を嘲弄したが、今度は自嘲する番だった。

「貴方には御子息の久通様もおられるが、貴方自身の寿命も延ばして差し上げる事も出来まする。御望みとあれば若返らせる事も」

 果心は言葉を切り、にやりと笑うと三郎に意味深な視線を送った。

「私の姿を御覧下さい。幻ではございませぬ。安土で信長の家臣に斬られた際に人の皮を脱ぎ捨て真の姿に立ち戻ったのです。最早先勝祈願など無用。私こそ神!神と共にある私が貴方に力を貸すのです。迷う必要は無い筈」

 荒唐無稽過ぎる提案。
 とはいえ、目の前の男が人間離れした幻術で嘗て松永を怯えさせ、今は人の姿ですらない事が、その言葉に説得力を持たせていた。

 待て、待て── 
 信じられないが例えば真に叶うとしたら?
 望むものを果心は与えようと言っているのだ。

『今の儂に何がある? 』
  
 そう自問してみた。

 何もかもが謎めいて現実離れし過ぎている。
 現状に満足している者ならば、蛇の姿の妖が突然現れ、望みを叶えると言われて飛び付く筈は無い。
 『化け物め、失せろ』そう突っぱねるのが当然の場面では無いか。 
 或いは直ちに家臣共を呼び、捕縛して信長に突き出すのが相応しい行動であろう。

 だが悔しいかな。 
 忠誠心など端から皆無で、若さと機会さえあれば疾うに二度目の謀反を起こしていただろう。

「神じゃと?化け物にしか見えぬ。いや、この際化け物でも構わぬ。お前の言う事が真という証を此処で見せよ! 」

 本音は、嘘でも真でも構わなかった。
 ただ叛くきっかけが欲しかっただけなのかも知れない。

 その言葉を待っていたと言わんばかりに果心の口が耳元まで大きく裂け、奇怪な笑みを浮かべると姿がみるみる薄くなっていく。

 代わりに靄々とした何かが宙に広がり、覚えのある声が聞こえてきた。

〈多聞山城の木材や石、壁も中々良い状態の物が多い故、安土の城造りに役に立っている〉

 松永と三郎の顔がはっと強張る。

 最初は薄くて良く見えなかったが、そこに浮かび上がった像は何と、此方を向いて話す信長だったからだ。

「上様……」

 よろめき、思わず膝ま付きそうになったが、信長の焦点が合っていない事と、明らかに並の人間よりも姿が巨大であった。

「これは幻術か? 」

「最後まで御覧になれば御理解頂けるかと。貴方様の御立場と信長の本心が。くくく……」

 果心の楽しげな声だけが響く。

 信長の視線の先に映像が切り替わり、次に現れた男に松永は目を剥いた。

〈多聞山城の石や木を用いて、更に壮麗で絢爛豪華な城が出来上がるのが今から楽しみでございまする。安土の御城こそが日の本一の城とたちまち諸国で評判となる事でしょう〉

「順慶! 」

 驚愕の余り尻餅を付きそうになるのを三郎がしっかりと支える。
 その三郎さえも空中に映し出された光景から目が離せず、眉根を寄せじっと見入っていた。

「これは……」

 二の句が継げない。
 今、此処にいる筈のない者が目の前に現れているのだから幻術には違い無い。

 但し交わされている会話の内容は恐らく──

〈毛利、上杉、雑賀が動けば、弾正殿も、もしや──という危険性について〉

〈分かっておる──貴様は家臣を試した事があるか?無理難題を言って、何処まで己に従うかと〉

 松永は瞬きするのも忘れていた。
 二人は自分について話している。

 いつの間にか握り締めた拳の内側にびっしょりと汗をかいていた。

〈だからこそ今、多聞山の破却を命じた。大事な物を失う苦しみと、従うという事がどういう事かを教え込む為にな。もう一度叛けば、もっと大事な物を失う事になるという事じゃ〉

〈つ、つまり…〉

〈脅しじゃ〉

  二人の声が木霊のように交互に頭の中に響き渡り頭痛がした。

 身体がわなわなと激しく震える。
 こんな事は現実では無い。
 断じて無い。
 悪趣味な手妻に過ぎぬ。

 傍らに寄り添う三郎の手が、しっかりと肩に置かれ、その事が却って、これは嘘では無いのだと物語り辛かった。

〈松永が謀叛を起こしたら、今度は何を差し出して命乞いをするかのう〉

〈平蜘蛛の釜、まさか、その為に弾正を追い詰めるような真似を? 〉

 空中では、松永の傷に塩を塗り込むような会話が続いていた。

〈松永の年を考えよ!最早隠居同然で、いつ彼の世に逝ってもおかしくない老人ではないか〉

「ぅぅおぉーーええい!もう良い!もう良い!止めよお!止めよお! 」

 限界だった。
 怒り、苛立ち、失望、落胆、悲哀、虚無、後悔、様々な思いが込み上げ、叫びたいのか泣き出したいのか。

「お分かり頂けましたか?今目にされた事が真に交わされた会話であると御理解頂けたかと存じますが」

 松永が俯いてぶるぶると震えている間に果心は再び姿を現していた。

「言いたい事はよーく分かった。なれど二人の様子を一体どうやって知る事が出来たのか?それこそが神の力と申すか?ならば、お前が天下を狙えば良いでは無いか!それに儂が謀反を起こす気になったとて、手を結ぶべき勢力は他にいくらでもある。妖の力を借りずともな! 」

 野犬同士が群れ諍う鳴き声が遠くで聞こえた。

「一言では答えられませぬなあ。先程の光景はある者の目を通して得たものでございます。信長の側近くに仕える『ある者』に呪いを掛けていると言えば分かり易いでしょうか? 」

「ある者とは誰じゃ? 」

「森乱法師、信長が溺愛する小姓でございます。詳しい事は御気持ちが固まってからという事に致しましょう。私のような者の手を借りずとも、と申されましたが、無論戦でございますから諸大名と手を結ぶ必要はございましょう。なれど前回もその方法で失敗したのではございませぬか? 」

 世に言う信長包囲網は今から四年前の元亀四年(1573年)、甲斐の武田信玄の死により瓦解した。
 暗殺との噂は流れたが、そうでないとしたら信長の強運と言う他無い。

「そもそも私は信長が大嫌いなのです。あの男の顔も声も人を見下すような態度も気に食わぬ。あの傲慢な男から大事な者を奪い、儂の前に平伏させ命乞いをさせたい。そして乱法師をあ奴の前で辱しめ──」

 少なくとも信長を嫌いという一点では意見が合いそうだった。

「森乱法師?ああ、森三左衛門(可成)の伜か」
 
 松永は乱法師とは一度も面識は無かったが、織田家の重鎮であった三左衛門可成の事は流石に知っていた。

 所謂寵童というものは、この時代の武将達にとって珍しい存在では無かったが、『溺愛』という言葉が引っ掛かった。

 大概の者達は信長に対して冷酷非道、傲岸不遜、良くて剛毅果断という印象を抱いている。
 年端のいかぬ小姓を『溺愛』している姿が想像出来なかった。

『だが面白い! 』

 身内を駆け巡っていた激情は去り、冷静で打算的な思考にすっかり切り替わっていた。

 順慶が大和守護に任じられた時から胸の内で不満を募らせてきたのだ。

 果心の言う事の殆どが誇張であったとしても、『乱法師』の存在は極めて大きい。

 信長が誰と会い、どのような戦略を立てるかを知る事が出来るのならば無謀な企てにはならないだろう。

「乱法師を通して状況を探るだけで無く、心を操る事も可能でございます。信長の溺愛する小姓を此方の思いの儘にするというのは如何でございますか?信長の苦しむ顔を見れば弾正様の溜飲も下がる事でございましょう」

 思いの儘という言い方に卑猥な含みを感じたが、寵童相手ならば、あの信長も甘い顔を見せるのだろうと思った。

 信長が警戒せず心を開く相手ならば打って付けの間者である。
 本人が操られていると気付いていないなら尚更都合が良い。

 考えが纏まるに従い、松永の顔は獰猛な顔つきに徐々に変化していった。

「果心、お前の話しをもっと聞きたい」

 弓削三郎の手が、はっと松永の肩から離れた。
 松永は三郎に目を遣り、直ぐに果心に視線を戻す。

「ところで、其方の若衆がおられても構わないのですか? 」

 果心が三郎を見据えた儘訊ねた。

「無論じゃ」

───

 山の空気はすっかり秋の風情で、ひんやりとした冷たい風が枯れ葉を鳴らす。
 遠くで篝火の炎の揺らぎが見えるくらいで、夜の帳が辺りを漆黒に塗り潰していた。

 庭に面した廊下に佇む人の姿があった。

 風が吹くと、肩から羽織っただけの白い衣がふわっとはためく。
 その下は完全な裸体で、衣との判別付き難い白雪のような肌であった。
 それに対する射干玉《ぬばたま》の髪が靡くと闇に溶け、純白の衣と肌は一層白く浮かび上がる。

 星の瞬きと下弦の月が照らす顔は、人界には不相応なくらい、山に潜む精霊や魔性の者と見紛う妖しい美しさを漂わせていた。

 寒さを感じないのか。
 冷たい風が吹いても、その美貌に変化は見られない。

「其処ににいるのだろう?果心」

 弓削三郎は漆黒の闇に問い掛けた。
 闇に白い円が出現し霧のように広がっていく。

「くく、月よりも美しい。そなたの姿をただ眺めていただけじゃ。松永はそなたに骨抜きにされておるようじゃなあ」

「下らぬ、失せよ! 」

「くく、そなた内心喜んでいるのでは無いのか?三郎……」

 陰鬱に掠れ淫靡な含みを持つ嘲るような言い様に、美貌が歪む。

「何が言いたい? 」

「そなたの身体は真は誰のものじゃ? 」

 いつの間にか目の前に果心が移動していた。
 白く輝く裸身に淫らな視線を絡み付かせる。
 それでも三郎の表情は凍り付いた儘動かない。

「そなたの真の狙いの事じゃ」

 風が凪いだ。
 三日月に紗の如き薄い雲が掛かっている。

「儂の真の狙い? 」

 氷のような美貌が珍しく紅潮し、苛立ちを表した。

 暗闇で息を潜めていた射干はごくりと唾を呑んだ。
 何か情報が得られないかと夜の散策をしていたら、とんだ場面に出くわしてしまった。

 何かと言っても、三郎の尻尾を掴むというのが今回の大半の目的であったのだから、僥倖と言うべき状況の筈である。
 しかし果心まで出てくるとは。

 今宵の相手の褥からそっと抜け出して来たからには、この場に長居し過ぎれば小用で誤魔化せなくなってしまう。
 一人は勘の鋭そうな美男、もう一人は人でさえない化け物では、僅かな身動きでも気取られそうで恐ろしい。

「弾正には告げぬ。告げたら儂の策に乗ってこなくなってしまうからのう」

 ふっと微かな吐息が三郎の朱唇から洩れた。

「今はお互い様という立場じゃが、状況によっては、そなたの企み阻止させて貰うやも知れぬ。それを告げておこうと思ってのう」

 三郎の瞳が鋭く光った。

「邪魔はさせぬ! 」

「くく、儂の狙いは弾正を焚き付け天下を乱し信長を倒す事。その後、天下を狙う者に力を貸すも良し、その敵にも力を貸すも良しじゃ。世は乱れていた方が面白い」

「故に毒を吹き込んでいるという訳か」 
 
 果心が我が意を得たりとほくそ笑んだ。

「儂のせいでは無い。欲深い人間共は直ぐに争いたがる。少し背を押してやってるだけじゃ。儂の真の狙いを知るそなたと、そなたの真の狙いを知る儂は同じ穴の狢であろう。弾正が必ずしも勝つ必要はないからのう、三郎……」

 二人の会話から射干が知り得たのは、果心の目的が世の中を引っ掻き回すという事と、その為に松永の野心を焚き付けようとしているという二点だけである。

『全く腐った蛇野郎だよ』

 それにしても弓削三郎の正体が分からない。
 少なくとも果心とは異なる狙いを持つ者である事は明らかだが。

「上手くやっていきたいものじゃ。儂等は似た者同士じゃからなあ。蛇の一物は流石に試した事はあるまい?人間の男とは違う味わいじゃぞ。試してみるか?さあ──」

「断る! 」

 好色な申し出を忌々しげに退ける。

「つれないのう。そなたの思い人に手を貸す事も、或いはこの先あるやも知れぬというに──」

「失せろ! 」

「ムキになるな。これからも仲良うしていきたいものじゃ」

 眼尻を吊り上げ、きっと睨み付ける三郎を尻目に果心の姿はぼやけ、やがて失せた。

 風が動き、空に浮かぶ月を覆う雲は消え、元の静かな闇に戻る。
 射干は息をする事さえ忘れ身を縮めていたが、果心が消えたので、ほんの少し気を緩めた。

 三郎は月を見上げ、松永のいる寝所に戻ろうと白い衣を翻した。

 かさっ
 草が揺れる微かな音。

 射干は口に手を当て、息を止め固く縮こまる。
 三郎が射干のいる辺りの草むらに鋭い視線を走らせた。

 射干の背を冷たい汗が伝う。

 彼女の心からの願いが通じたのか、三郎は踵を返し寝所の方に消えて行った。










 
 



 

 








 
 








 



 

 





 
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