森蘭丸外伝─果心居士

春野わか

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 手応えは感じたものの、闇夜の月明かりのみでは確かめようが無い。
 横に払った太刀をすかさず抉るように突き上げ鬼の股間を狙った。
 多少なりとも足を切り裂いた筈なのに反応が鈍いと感じたが躊躇ってはいられない。

 鬼より勝るのは知恵と速さだけだ。
 動きを止めれば金棒の餌食になってしまう。
 ところが勢い良く突き上げた刃先に豆腐程の手応えも感じず前のめりになる。
 慌てて振り向き様に太刀を振るうが、それも虚しく空を切った。
 流石に動じてきょろきょろと辺りを探してみるが、あれ程の巨体が何処にも見当たらない。

 雲で月が隠れてしまったが、随分目は慣れてきている。

「乱!鬼が消えた!いなくなった」

 馬廻り衆の団平八が叫んだ。

「いなくなった? 」

 頭に上った血と燃え上がった闘争心が急激に冷めた。

「そうじゃ!皆、上様の元に向かった。新たな化け物が来ないうちに早く退け! 」

 言った方も言われた方も状況が良く分かっていなかったのだが、鬼が消え失せた事だけは確かである。

 戦う相手がいないのだから、この場にいても仕方が無い。
 すっきりしない儘、信長の元に急ぐ途中、再び聞こえてきた悲鳴は微かで遠かった。
 ともかく信長を安全な所に移すのが先決と気持ちを切り替える。

「上様、上様……しっかりして下さりませ……」

「早く何とか致せ! 」

 家臣達の苛立つ声から焦燥が伝わってくる。
 それにしても、まだ退避していないのか。
 乱法師も平八も同じ事を考えた。

 寝所の灯りは幸い消えてはいない。
 医師が信長の側に付いて、何やら処置を施しているようだが、家臣達に囲まれ様子が伺えなかった。

 「まさか……」

 乱法師は最悪の事態を想像して唇を噛み締めた。
 今さっき、鬼に斬り掛かった事さえ忘れるくらい動じて瞳から涙が溢れる。

「むうっぅ……ゥぅ……」

 その時、苦しそうな呻き声が聞こえてきた。

「上様……」

 信長の声に間違いなく、胸を撫で下ろす。

「鬼だの化け物だのと──見間違いでは無いのか!大体、こんな状態の上様を他の場所に御移しするのは危険じゃと医師も申しておるのじゃ! 」

「確かに見たのじゃ!巨大な鬼が男を殴り殺すのを! 」

「それが真ならば何故逃げ帰ってきた?直ちに鬼を退治すべきであろう。腰抜けが! 」

「ぐっ!何じゃと?そちは目にしておらぬから勝手な事を!束になって掛かったとて敵うかどうか分からぬ化け物相手にどう戦えと言うのじゃ!退いた方が良いと申しておるのが分からぬのか! 」

 このような堂々巡りの議論が繰り返されていたのが未だ退却していない理由なのだと分かった。
 ただの賊と申せば良かったのだろうが、鬼や化け物では目にした者しか信じられないのも無理は無い。
 目にした者達ですら信じられないのだから尚厄介だった。

 信長ただ一人の決断に頼る事が多い織田家故に、倒れてしまっては大事な決断が益々先送りになってしまっている。
 深刻さの比重をどちらに置いて良いのか判断が難しい。

「何か板か蓙のような物か、御褥の儘、お運び申し上げたら如何でございましょうか。ともかく妙な輩が邸に入り込んだようなのでございます。此処におられては危険にございます」

 乱法師は割って入り現状を訴えた。

「む……板戸を外せ!その上に乗せて御運びしよう。京都所司代の村井貞勝殿にも御所にも早く知らせるのじゃ」

 そこで信長を運びながら警護する者、怪しい賊の正体を見極め捕らえる者と別れて散った。

 乱法師は信長の側に残った。
 信長の顔は青褪め、苦しそうに息をする様子は見ているだけで辛くなる。

 ふと、己の手に握り締めた儘の太刀に目を移した。
 僅かに刃こぼれしているのを認め、先程の青鬼は確かに存在したのだと実感する。

 では何故、何処に消え失せたのか。
 そう思った時、忌まわしい声が聞こえてきた。

『逃がさぬぅ……逃がさぬぞ。他の者はどうでも良い!信長を殺せえ』

 声を聞いただけで怖気立つ。
 忘れもしない憎き果心の声。

 攻撃の対象が己では無く信長であるという事を知り、乱法師の心で怒りの炎が燃え上がった。

「上様に指一本でも触れたら、この儂が許さぬ! 」

 勇ましく言い放ち、刃こぼれした太刀を下段に構える。
 その途端──

 「あっあ……火が……灯りが……」

 先程と同じく、灯明の火が一斉に消えた。
 その場に緊張が走る。
 まさしく真の闇だ。

「風も無いのに何故……早く誰か明かりを灯せ! 」

 ばたばたと慌てて何かを探す音や太刀を抜く音、荒い息遣い等が入り交じる。

「曲者の仕業か!上様を御守り致せ!」

 声と手探りでしか何が何処にあるやら検討が付かず右往左往する。
 灯明の煙の匂いに混じる、香炉から漂う伽羅の香を頼りに信長の居場所を探った。

 伽羅は沈香の内でも最高級で、数ある香木の中でも別格の香りとされ、金と同等の価値があると言われていた。
 東大寺が所蔵していた秘宝の香木『蘭奢待《らんじゃたい》』を信長が強引に切り取ったのは有名な話しである。

 衣類にも信長は伽羅を好んで焚き染めていた。
 寝所に置く香炉で焚くのも大抵は伽羅だが、たまに香りが変わる時もある。

『あの夜は、麝香(ムスク)だった』

 恐怖と羞恥で記憶は翌日でも朧だった筈なのに、信長との初夜に嗅いだ香の種類を今頃になって思い出したのには驚いた。
 それこそが名香の力なのか、続けて濃密な交わりの詳細まで甦りかけ、慌てて頭から振り払う。
 今はそんな場合では無い。

 周囲を守る者達の息遣いと囁き。
 殺気は感じるものの、肝心の信長の気配を捉えられず不安になった。

「上様は?何処におられます? 」

 暗闇の中で誰へともなく問い掛ける。

「上様は意識を失われてしまわれたようじゃ。しっっ!妙な気配を感じる。油断するな! 」

 声を殺して応えたのは団平八であろう。

 乱法師の視力が闇の中にぼんやりと浮かび上がる何かを捉えた。
 地獄絵図から抜け出した亡者に得体の知れぬ魑魅魍魎。
 それと数匹の巨大な鬼達の全てが部屋に集結していた。

「あっぁ……」

 その数の多さに絶句する。

「どうした? 」

 平八の声は緊張感を漂わせながらも冷静で、同じ光景を目にしているとは思えなかった。

「見えぬのか?沢山の化け物が、部屋に……」

 乱法師の声は絶望感で沈み震えていた。

「化け物?何処に?」

 刃こぼれはしているが、太刀は何重にも紐で巻き付けたように掌に張り付き、ずっしりとしたその重みだけが心の支えだった。

『そこをどくのじゃ……愛しいそなたを傷付けとうない。そんな男を守る為に命を賭けるのは愚かな事じゃ』

 果心の声が乱法師にのみ語り掛ける。

「黙れ!上様に手出しはさせぬ。化け物め! 」

「ぐぐぐ、儂を化け物というかぁ。ならばそなたが守ろうとしている男は数多の民を殺し魔王と恐れられ、神仏をも敬わぬ、化け物以上の化け物ではないか。そのような男の側におれば、可愛いいそなたもろくな最期は迎えまいぞ。そなたの為に申しておるのじゃ。さあ儂のものになれ! 」

「嫌じゃ! 」

 果心の言う事はある意味真実であったが即座に拒絶する。

『くくく、まあ良い……儂の操る式神共はそなたの太刀では斬れまいぞ。そなたには手を出すなと命じておこう。信長が引き裂かれる様を、その美しい眼にしっかり焼き付けるが良い。ぐぐぐ……』

 いつの間にか、あらゆる音が消えていた。

───無音。

 果心が直接送り込んでくる声が唯一の音である。
 暗闇で良く見えないが、この部屋には多数の者がいる筈なのに、細やかな息遣いも衣擦れの音さえしないとは。

 まるで世界に一人取り残されたような静けさだった。

 無数の化け物が、もっさりと蠢いた。
 信長の前に立つ乱法師の方に向かってくる。
 守りたい、その気持ちだけで太刀を強く握り締める。

 その時、胸の辺りに熱を感じた。

「熱い! 」

 手で胸を押さえると同時に益々熱を帯び、胸元から何かが大きく伸び膨れあがった。

「あっ! 」

 白い巨大な何かが乱法師の前に立ちはだかった。
 手を広げ、乱法師と信長を守っているように見えた。

…………の小みこが遊ぶゥ……神のまどころ……注連より……だんぬしだんだん……防ぎたまえや小みこ達、防がせたまえや小みこ達…

 聞き覚えのある声。
 手を繋いだ大きな大きな三人の子供達。

『六助、六助の声じゃ……』

 巨大化したひなごが、乱法師と信長の周りを物凄い速さでぐるぐると回り始めた。
 安堵からか、乱法師の瞳から涙が溢れる。

 全身から力が抜け掛けて、その場にへたり込みそうになる。

『確か三郎の話しでは、魔を防ぐ結界とはなっても果心を倒す事は出来ないと言っていた。ならば、この儘ではいずれ。どうすれば上様を御助け出来るのか』

 先程の青鬼との戦いを思い出した。

 一太刀で刃こぼれするくらいなのだから、相手も相当な打撃を受けている筈だ。
 人よりは強固なのかも知れないが、何故か己の太刀は擦り抜けずに相手を捉える事が出来た。

 懐に仕舞っていた『十二のひなご』の力なのだろうか。
 闇の中で化け物の姿が見えるのもひょっとして。

 覚悟を決めながら良い事を思い出した。
 果心が式神達に乱法師には手を出すなと命じた事を。

 意を決して結界の外に出る。
 暫くは、ひなごの結界が信長を守ってくれるだろう。

 案の定、化け物達は彼に見向きもしなかった。
 如何に見た目が不気味でも、所詮傀儡、正体はただの紙切れ。
 式神などと言うと大層な呼び名だが、下等な獣霊が怨念を利用され駒となって使役されているだけ。

 乱法師は躊躇無く、近場の鬼に斬り付けた。
 何の抵抗も無く、木偶の坊同然の鬼の脇腹に刀が食い込む。
 手応えはあったが、二の太刀をお見舞いする前に姿が消えた。

 しかし、また刃こぼれをしていた。
 
 ここまで刀の損傷が激しいのは、実体を持ち皮膚が硬いのでは無く、邪念によるものか。
 時として刀は魔を祓う法具ともなる。
 故に邪気を祓う度に傷付いていくのだ。

 何匹倒せるか。

 全てを倒す前に当然刀は折れるであろうし、果心が何処かで様子を見ているのならば放っておく筈が無い。

「出来る限り倒してやる! 」

 乱法師は化け物の群れに突っ込むと刀を振り回し、斬って斬って斬り捲った。

『己えーー折角儂が忠告してやったものを!許さぬぞぉぉーーそんなに信長が愛しいかあ! 』

 乱法師がしぶとく刃向かってくるよりも腹立たしいのは、そこまでして信長の為に命を賭けようとする情愛に対してらしい。

 果心らしいと言えば実に果心らしかった。

『捕らえよ!乱法師を!裸にひん剥いて、あの晩の続きをしてくれようぞ! 』

 相変わらず淫らで悍ましい妄執に囚われた男だと呆れてしまう。

 何対もの濁った目玉が彼の方にぎょろりと一斉に向いた。
 生気の無い目玉の何と不気味な事か。

 痩せこけた亡者達の手が、彼を捕らえようと伸びてくる。
 咄嗟に横に薙ぎ払った太刀が、とうとうぽきりと折れてしまった。

 腰の脇差を探ったが、無数の手が彼の小袖の袂を掴み、最早これまでかと観念して目を瞑る。
 だが次の瞬間、凄まじい突風が巻き起こり、結界の中に弾き飛ばされた。

「ぐぎゃぎゃぎゅーーぎゃぁあぎぎぃきっぎぃぎぃえーー」

 鳥獣が群れ、闘い相喰むような凄まじい叫び声が聞こえ、そろそろと目を開けてみる。

 見えない何かが式神と闘っている様子は窺えた。
 それはぐるぐると部屋中を猛烈な速度で駆け巡り、目で捉えようもない。

 嵐風が吹き荒れ、獣のように化け物達に襲い掛かり次々と駆逐していくのを、尻もちを付き、ただ呆然と見守った。
 吐き気がする程いた筈の化け物達が、あっという間に掻き消されていく様に圧倒される。

 荒れ狂う八つの頭を持つ大蛇が鬼に食らい付く姿が、一瞬見えたような気がした。

「八面王《やつらおう》」

 彼は思わず呟くと、張り詰めていた神経の糸が弛み、力尽きて意識が遠退いた。
 薄れゆく意識の中で、果心の悔しげな声を微かに聞いた。

『何者の仕業じゃ!山の神達をけしかけるとは。じゃが、これで終わると思うなぁ乱法師よ。信長を殺して必ずそなたを手に入れてみせる──ぐぐぐ』

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