森蘭丸外伝─果心居士

春野わか

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 己よりも深く広く物事を見通す信長の言葉が心を揺らした。

 彼女は犬死にしたのではない。
 信長は納得した上で彼女が死んだのだと伝えたいのだ。

 そうだとしても、彼女が己の為にしてくれた事は大きいのに、それに対して何をしてやれただろうかと情けなさに打ち拉がれる。

 信長の言に只の慰めでは無い意味も込められている事を悟った。
 何時までも一人の死に囚われてはならぬ、と。
 
「周りの力添えがあったとはいえ、そなたは果心を退けた。それが射干の一番望んでいた事じゃ」

「それを伝えずに逝ってしまった事が心残りでなりませぬ」

「いや、恐らく確信していたであろう。必ず果心の力を六助が封じてくれるとな。それ故、己の為すべき事を為したのじゃ」

 乱法師の心は僅かだが救われた。

「そなたが生きていく事こそが射干の思いに報いる事じゃ。儂は家臣達を数多戦で死なせてきたが、哀しみに囚われていたのでは前に進めぬ。そ奴等の為に儂が為すべき事を為すしかないと思っておる」

 己よりも、ずっと多くの哀しい別れを経験し重い責務を負っているのだ。

 そう思い、涙を指で拭う。

「三郎や藤兵衛、六助には儂から伝えよう」

「いえ、もう耳にしておるやも知れませぬが私から伝えまする」

 歯を食い縛り、顔を真っ直ぐ上げてきっぱりと言い切った。

「そなたは強い」

 そう言って、信長はもう一度乱法師を強く抱き締めた。

───

「そんな!馬鹿な──」

 乱法師から射干の訃報を伝えられ、三郎も藤兵衛も絶句した。

 それ以上の反論が出来ないのは、彼等の前に骨壺が置かれ、若い主の面には静かで深い哀しみが揺蕩うていたからだ。

 六助に至っては言葉さえ発する事も出来ず、只呆然としていた。

「皆が驚くのはもっともである。儂も信じられなかった」

「何故!何故じゃーー何故何故ぇぇーー信じられん!嘘じゃーーうぅあーー」

 精一杯の反論として六助が叫び慟哭した。

 三郎は六助の肩に両手を置いた儘、自身も嗚咽する。

「射干を殺めたのは恐らく松永の残党であろう」

「許せねえ!許せねえーー」

「六……」

 乱法師は六助の悲嘆振りに、どう言葉を続けて良いか分からなくなってしまった。

 捕らえた残党一人一人に問い質す訳にもいかず、人手を割いて捜索する訳にもいかず。
 松永の残党だからと全て斬首を乞うというのも現実的ではない。

「悲しいのは皆同じじゃ。射干は忍びであった。受け入れるしかないのじゃ」

 一同の中で最も人生経験豊富で、戦場の地獄を見てきた年嵩の藤兵衛が諭す。

「く……うぅ……射干さんの……御幣が震えたんや。儂は自分が許せねえ。何の為に持っちょったんだあーー射干さん守る為やったのに……なのに守れざった……」

「射干の御幣。あの時の──」

 乱法師が息を呑む。
 まだ持っていたのか。

 そう思った時、六助にとって射干が特別な存在であった事に気付いた。

 鈍いなりに彼も薄々察していたが、何分性に関してはぼんやりしている為、今一分かっていなかったのだ。

「射干さんが発つ前に儂は言うたんや。貴女と夫婦になりてえ……て。そしたら……そしたら……ぅうううう」

「夫婦になる約束をしていたのか」

 藤兵衛は苦し気な面持ちで天井を仰いだ。

「嬉しいっ言うてくれたんや……笑うて……あんな優しい人が……どいて斬られんとなんねえのか……」

「皆、そちと同じ思いでおる。儂は射干の望みが分かったような気がする。射干は優しい女子じゃ」

 乱法師は骨壺をそっと六助の前に移した。

「そちに任せる。何処に埋葬すべきかと悩んでいたが、真に射干を思うそちならば、どうするのが一番良いか分かるのではないか? 」

「儂が? 」

 六助は骨壺を射干その人のように愛しげに抱き締め大粒の涙を流した。

「親子は一世、夫婦は二世と申す。分かるか?六……」

 乱法師の哀しみを湛えた瞳を見詰め返す六助の瞳に、ある決意が宿った。

───

 大きな拍手喝采が沸き起こる。
 都や堺から呼び集められた芸達者な者達に、民衆からも盛んに声援が飛んだ。

 安土城下の馬場に桟敷席を設え、祝勝の酒宴を兼ねた興行を、予定通り信長は催した。

 芸達者な者達の中でも六助の人気は群を抜いていた。

 縄を張り、その上で赤い羽織を着た小猿の藤吉郎が扇を手に持ち、くるりと回転して見せる。
 段々に重ねられ、高く積み上げられた箱が抜かれていく上でも、同様に逆立ちしたり宙返りをしながら玉を見事に受け止める。

 信長や信忠も満面の笑みで手を打ち興じた。
 乱法師も三郎や藤兵衛と共に盛んに声援と拍手を送る。

 最後の大技では六助と藤吉郎が見事な連携を見せた。
 高い梯子から飛び降りた藤吉郎を六助が抱き止める。

 藤吉郎を肩に乗せながら観衆の歓声に応え、六助は何度も何度も御辞儀をした。

 金銀白の紙吹雪が舞っていた。
 冬を先取る、粉雪のようだった──

──

「六、真に見事であった。都で初めてそちの芸を見た時よりも、此度は格段に凄かったぞ」

 笑みを浮かべながら称賛する乱法師の瞳には涙が滲んでいた。

「寂しくなる。気持ちは変わらぬのか? 」

「へえ、儂も皆さんとお別れするのは悲しいけんど、やっぱり村に戻って太夫目指すって決めたんや」

 乱法師は鼻をすすり、黙って六助の言葉を聞いていた。

 六助が哀しみを堪えて興行に参加したのは、信長、乱法師、三郎、藤兵衛、そして射干に対する感謝を形で示したかったからだ。

 精一杯演じ、皆に笑って楽しんで貰いたい。
 きっと射干も見ていてくれる。
 そして、これを最後に土佐の物部村に帰ると決めていた。

「破門されたと申していたが大丈夫なのか? 」

 武藤三郎が、いざなぎ流の掟を思い出し行く末を案じる。

「もし受け入れて貰えぬようであれば何時でも戻って参れ。そちの第二の故郷である安土にな」

 乱法師の優しさに六助は目を潤ませ俯いた。
 射干の骨壺をくるんだ、肩から襷に掛けた布をぎゅっと握り締める。

 小猿の藤吉郎が、六助の肩の上でキキ、と悲し気に鳴いた。

 射干は物部村に埋葬する。
 生涯彼女の為に祈り続けると六助は決めたのだ。
 皆もそれを了承した。

 忍びとしての生を終えた身寄りの無い彼女が、六助と共にある事を望んでいるように思えたからだ。

 深山に清流、緑豊かな清々しき物部村で、自然と共に暮らす人々は神と共存し、神に祈るを生業としている。

 そこにあれば射干の魂は安らかに眠る事が出来るだろう。

「道中くれぐれも気を付けて行け。持ち物に不足は無いか? 」

「いや、上様が沢山銭下さったき、全く困らねえ思う」

 藤兵衛の気遣いに対する返答に、思わず皆は泣き笑いをした。

「六……何時でも……何時でも戻って参れ」

 乱法師は涙で目を霞ませながら、六助の手を強く握った。

「へえ……またいつか会えるようにって、皆さんの事も神様にお祈り致しやす。御元気で……皆さんに会えて、げに良かった」

 乱法師は名残惜しげに六助の手を離した。

 途中まで馬を歩ませ付いて行ったが、都に通じる道で止め、いよいよ真の別れとなった。

 六助は、何度も振り返り手を振った。

「六ーーーー」

 どんどん姿が小さくなり声が届かぬ程遠ざかっても乱法師は名を呼び続け、姿が見えなくなるまで見送った。


───

 松永討伐の功により、晴れて織田信忠は朝廷から中将の官職を賜った。

 上洛の供をした明智日向守光秀は、親友の吉田神社の神主、吉田兼和の屋敷で連歌を楽しんだ後、家臣を従え馬を歩ませている途中、ふと通りの隅に目を止めた。

「あれは──」

 貴族の屋敷の漆喰の壁から覗く木々の影になり、真に目立たぬが一人の男が座っていた。

 光秀の目には随分と年老いて映った。
 男の前に蓙が敷かれ、その上に様々な品物が並べられている。

 時折男の前を人々が通り過ぎるが、まるで其処に何も存在せぬように無関心で、光秀は錯覚かと思った程だった。

「あの掛け軸を見よ」

 後ろに控える家臣は、はたと目を凝らし、光秀の指差す方を見た。
 男の前に並べられた品々の中に、確かに水墨画の掛け軸があった。

「あの、掛け軸でございますか? 」

 家臣の目には至極ありきたりの構図と映り、光秀の興奮振りを訝しんだ。

 だが光秀にはその返答で十分だった。
 何故これ程素晴らしい掛け軸に皆目を止めないのか。

 斯様な場所で掘り出し物に当たったのは僥倖じゃと、ほくほくして男の前へと歩み寄った。

「これは売り物か? 」

 男は笠を被り布で顔半面を覆い俯いている為、容貌が判然としない。

「はい……お気に召しましたなら御譲り致しましょう」

 顔を俯けた儘、洩れた男の声は何とも薄気味悪いものだった。

 光秀の背筋が寒くなったが、掛け軸を手に入れたい思いが勝り、気を取り直し男に訊ねた。

「これは値打ち物であろう。是非に欲しい。代価は如何程か? 」

 湖水と其処に浮かぶ小舟が墨で描かれているだけの平凡な構図である。
 
「如何にも如何にも……見る者が見れば値千金にもなりましょうが、そうでない者が見れば紙屑同然。貴方はお目が高い。この掛け軸を御譲りするに相応しい御方……」

 男の声は幽鬼の如く陰鬱で、地獄の底で呻く亡者のようであった。

 男がとうとう顔を上げた。
 光秀と家臣が同時に息を呑む。

 男の目は酷く落ち窪み、死んだ魚のように白濁し焦点定まらず盲いに見えた。

 布に覆われていない肌は火傷の跡とおぼしく無残に爛れ引きつれていた。

「お譲りすると申し上げているのです。目を止められたのは貴方様だけ。どんなに素晴らしい品でも価値を見出だせない輩には紙屑と申し上げました。それ故に、ずっとこうして広げていても一向に売れませぬ。ならば貴方に秘蔵して頂いた方がこの掛け軸にとっては果報というもの」

 それを聞いて光秀の瞳が輝いた。

「そちの申すは道理じゃ。しかし、ただと言う訳にはいかぬ。見れば戦火を逃れてきたのか。日々の暮らしも難儀であろう」

「くくく……この身を憂えて下さるか。代価は求めておりませぬ。儂が望む物は金子よりも大きな物。貴方に御譲りする事で恐らく望む物が手に入る事でしょう」

  男は謎めいた言葉を囁き声で言いながら、顔半面を覆っていた布を外した。

 思わず光秀も家臣も低く呻いた。

 男の舌の先は千切れ、じゅくじゅくと膿んだ傷口を晒していたからだ。

 早くこの場を立ち去りたい、恐怖が光秀を支配した。
 
「ただでは気が咎める。その掛け軸の値には到底及ばぬが、有り合わせの金子を置いていこう」

 光秀は金子を男の前に起き、掛け軸を手に入れると、その場を後にした。

 残された男は白濁した目で光秀の後ろ姿をじっと追いながら、にたりと笑い呟いた。

「……らんほぉしい……」



                  完
 












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