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六助は熱よりも身体の疲労が抜けていなかった。
「若様、もう起きてええんやか? 」
「動けぬ程ではない」
「上様に怒られちまう」
「上様御自身が御咳をされているのに動き回っておられる」
「全く御元気な方や」
六助は微かに笑った。
「粥を食え。儂も食べたら元気になった」
六助が粥を口に運んでいる間、信長の出した結論を話して聞かせると六助はまた笑った。
「相変わらずやな。上様らしいちょいうか。何かあやかりてえなあ」
「なれど上様が申される事は──」
乱法師は家臣の立場でその先を言う事を躊躇った。
六助が苦笑する。
「ふう、確かに粥食うたら元気になったあ」
「だが、まだ寝ていた方が良い。鎮め封じで、さぞや力を消耗したであろう」
「若様こそ寝ちょらんと」
まだ熱が下がっていない乱法師の労りに言い返す元気が出てきたようだ。
「六、儂は……そちの口から聞きたいのじゃ」
「果心がどうなったか、でごぜえましょう? 」
乱法師がおずおずと頷く。
知りたいから信長に内緒で此処に来た。
だが知るのは怖い。
「神というのは人よりすごい力持っちょっても、不便なとこがあるがよ」
「不便? 」
「というのは、人の世に関わるには依代が必要なんや。それが覚信や」
乱法師は眉を寄せ考え込む。
「神が怒ると人は慌てて鎮めようとしたり、邪神言うて恐れたりするけんど、神には神なりの理由があるんや。やき、元々悪い神なんておらん。人と同じだ」
「だが覚信を依代として世を乱そうとしたではないか。神としては悪であろう? 」
乱法師は納得出来ない。
「儂は考えたんや。神が覚信の悪心につけこんだんではのう、覚信が神を動かしたんやって」
仮にそうだとしても、悪い魂を持つ人に操られる神も神だと思った。
「儂が言いたいのは、神の怒りなんて珍しい事じゃないって事や。儂が生まれた物部村でも怒りを鎮める為の祈祷行っちょったし」
乱法師には六助の言いたい事が漸く分かってきた。
「では、そちは覚信が依代とならずば邪神の復活は無かったというのか?つまり覚信の歪んだ魂が神を引き寄せた。元凶は覚信じゃと」
一言主神はどこまでも憐れな神である。
人に貶められ怨念を募らせ、また覚信の欲望を満たす為に、ある意味利用された。
「そうや。神と人とは古より喧嘩しながら上手うやってきたんや。神を鎮め祀る。いざなぎ流では呪詛《すそ》を集めて封じるというのを繰り返してきたんや」
「蛇石が割れたのは? 」
「白蛇神様が果心を巻き込み封じる手助けしてくれたのは確かだ。割れたのは果心の怨念があまりにも凄いき、手こずったと見るべきかもしれんが、蛇石の下に封じたのは神そのものでのうって、覚信を依代にして集まった呪詛や。やき、鎮め封じは成功した思うちゅう」
乱法師は聞きたかった言葉が聞けて心底安堵した。
「若様に言わざったけんど、怨念の大きさに応じた石が必要かもしれんって悩んじょったんや。普通のやり方でええのかどうか自信が無かった。結果見れば蛇石で良かった。いや、蛇石で無かったら奴を封じる事は出来ざっつろう」
「やはり天命であろう。上様の御力でもある。白蛇神の加護を得られておるのじゃ。正しく上様こそ天下を取られる御方である事は間違いない」
「確かに。やけんど若様も凄い。上様を守ろうとして褌の紐を絞め直すどころか取っちまって!若様の気が不動行光に流れ込んで、奴に止め差したのは若様ちや」
褌を外したという下りは余計じゃと、乱法師は称賛に顔を赤くする。
「必死だっただけじゃ──覚信は上様が仰せのように死んだのであろうか」
覚信など呪術に秀でた只の人間に過ぎぬ。
そうは思えど全ての元凶は覚信というのは六助の言う通りだろう。
げに恐ろしきは神の怒りよりも邪な人の心なのかも知れない。
「覚信の魂が神を動かしちょったけんど、覚信の命を繋いじょったのは神の力や。覚信の体は殆ど神に取り込まれ、魂だけが強う残ったんでないか思う。やき、神の力が打ち破られて封じられちまえば奴は生きていけん。神には元々肉体はねえが、人である以上、肉体が滅びりゃあ死んだという事になりましょう」
乱法師は目を見開いた。
鼓動が高鳴る。
「覚信は死んだと思って良いのじゃな」
念押しする声は震えていた。
「へえ、儂には生きちゅーとは思えん」
六助の瞳には労りと優しさが込められていた。
乱法師は何度も何度も頭の内で六助の言葉を反芻した。
「そうか……もう、奴の声も姿も見る事は無いのじゃな」
「へえ、もう二度と! 」
六助は言い切った。
今後も乱法師は暫くの間苦しむだろう。
なれど信長が彼の傷を癒し、大きな力で支えてくれるに違いない。
それに乱法師にははち切れんばかりの若さがある。
天真爛漫で気性の健やかなる彼は、過去を忘れ前を向いて生きていけるだろうと思った。
「六、そちのお陰じゃ。何度礼を申しても足りぬ。そちがおらねば今頃儂は──」
「もう終わったんや。儂の力だけやない。皆の力無かったら果心を封じる事は出来ざったやろう。上様、若様、三郎さんや藤兵衛さん、そして射干さん。みんなすげえ。若様は負けざったんだ。果心に勝ったんや」
乱法師の瞳から涙が溢れた。
自分が心より欲している言葉を投げ掛けてくれる六助の優しさが胸に沁みた。
「済まなかった、長居してしまった。ゆっくり休んでくれ」
「若様も部屋に戻って寝とーせ。先ずお互いに身体しっかり治さんと」
「そうじゃな」
乱法師は愛らしく頬笑むと部屋を出て行った。
六助はふっと一息吐くと瞼を閉じた。
粥を口にした事で身体が温まり、心地好い睡魔の波に身を委ねる。
夢と現の間にある時、胸元に微かな振動を覚えた。
殆ど無意識に手を遣り、はっと瞼を開ける。
首から吊るしてある紐を引っ張ると先には布袋が付いていた。
汚れたり濡れたりしないようにと、油紙で丁寧に包んだ射干を模した紙の人形を袋から取り出す。
だが手にしてみると、特段異変は無かった。
恋慕う射干の事を考え過ぎていたせいなのか。
彼女は戦場にいるとはいえ、城は既に落ちたのだから危険が及ぶような状況が想像出来無かった。
万々が一の事があったとしても彼女に邪な手が伸びるとは考えにくい。
六助は暫し人形を見詰め、そこから予兆を感じ取ろうと試みた。
胸騒ぎがしたが杞憂に違いないと頭を左右に振る。
今の彼は霊力を消耗し、彼女に起こった事を感知出来なかった。
───
目が霞み、意識朦朧としながら射干は這った。
景色は色褪せ、己が何処に向かおうとしているのか分からなくなっていた。
彼女の進んで来た地面に点々と血の跡が続いていた。
胸の焼けるような痛みが却って意志を強める。
景色がふっと遠退き、視界が戻ると地面が目の前にあった。
尚も進もうとすると爪に土が入り、蟻が手の甲に登ってきた。
それでも土を掻き、僅かに進んだ。
口中が鉄の味で溢れていた。
胸から込み上げたものを吐き出すと、小さな血溜りが左頬の下に出来、蟻が溺れながら必死に藻掻く様が具《つぶさ》に見えた。
己の境遇を一匹の蟻に重ねる。
こうなる事が何処かで分かっていた。
そして、こうなる事を望んでいた。
何故、そう望んだのかは分からない。
最後の力を振り絞り、人差し指で溺れている蟻を掬うと、そっと地面に置いてやる。
微かに笑みを浮かべ、蟻の動きを虚ろに眺めた。
───
「乱、熱は下がったようじゃな」
昨日までの乱法師の熱は、名医曲直瀬道三処方の薬のお陰か若さ故か、翌朝には下がっていた。
「はい、ご心配をお掛け致しました。早速本日より小姓務めに戻りとう存じまする」
「ならぬ。夜に熱がぶり返すやも知れぬ。もう一日休んでおれ」
相変わらずの過保護振りである。
乱法師が内心不満であるのは言うまでもない。
果心の一件で床に就いてばかりで漸く務めに戻ったというのに、また三日も寝込んでいたら、長谷川に何と陰口を叩かれるか知れたものではないからだ。
とはいえ、反論しても絶対に許して貰えないのは明白だった。
「松永弾正の実検は済んでおる。それに朝廷に対する報告もじゃ」
信長が嬉しそうに言った。
「では、少将様(信忠)も直にお戻りになられるのですね」
果心という存在が此の世から滅した事を早く射干に報告したかった。
「奇妙(織田信忠の幼名)は少将では無くなる」
信長の子供達に対する名付けの感性こそ奇妙だが、父親としての愛情が不足している訳では決して無い。
「まだ内々じゃが帝が伜の武功を称賛され、中将の官職を賜る事が決まっておる」
「それは……真に真に……おめでとうございまする」
乱法師は心よりの祝いの言葉を述べた。
果心の脅威も去り、信貴山城は陥落し、全ての風が良い方向に吹いている。
あんなにも苦しかった事が、まるで遠い昔にあった事のように感じられた。
「これで心置き無う鷹狩りを楽しめるというものじゃ」
瞳を潤ませ言祝《ことほ》ぐ乱法師の可憐さに、つい肩を抱き寄せる。
愛しさで胸が熱くなるついでに股間まで熱くなってしまうのはいつもの事だ。
「早く、そなたを鷹狩りに連れて行きたい」
「はい……あ……」
唇の間を舌が割る。
未熟な乱法師に信長の強引で激しい愛を退ける術は無い。
「もう待てぬ」
いつにもまして力が強い。
身を捩った拍子に二人の態勢が崩れ、信長にとってはちょうど良く褥の上に折り重なった。
「乱法師様!三郎と藤兵衛にございます。入っても宜しゅうございますか? 」
武藤三郎の声に信長の動きがはたと止まった。
「良い!入って参れ! 」
その隙を捉えて乱法師が叫んだ。
助けを求めるような素振りに、信長の自尊心が多いに傷付けられた。
じっくり時間を掛けて距離を縮めて来た筈なのに心外だった。
二人が襖を開けて入ってきても、幸い褥を隠す屏風があった。
「待て!上様がおられる。此方に来てはならぬ」
着衣の乱れを素早く整える。
襲い掛かった側の信長には然程乱れは無かったが、憮然たる面持ちであった。
「上様には我等にまで寛大なる御心遣い下さり忝のう存じまする。また、此度信貴山城の松永弾正討ち果たされた由、真におめでとうございます」
「うむ──」
ひたすら謝辞を述べ平伏する二人には、信長の不機嫌さを察する余裕は無かった。
「二人共元気になったようで良かった。少将様が凱旋されたら六助の他にも芸の達者な者達を集め、上様が面白き宴を催されると仰せなのじゃ」
信長の御機嫌斜めの理由は勿論分かっていた為、言葉を促すように円らな瞳を敢えて信長に向けた。
「うむ──奇妙(嫡男の信忠)も戦の後始末を終え一両日中には戻って来るであろう」
まだ若干二十歳の嫡男の武功は父親としても満足いくものだった。
信忠は中将任官に当たり、暫く安土に止まる事になっている為、宴の準備には余裕がある。
「そういえば肝心の六助の具合はどうじゃ? 」
「昨日は粥を口にし、熱は然程無いようでございましたので問題無いかと存じまする。三郎、藤兵衛、後で様子を見て参れ」
懊悩が全て吹き払われ、楽しい催しの計画で皆の頭が一杯になっていた。
───
「一体何故? 」
森長可隊の兵達が、陣屋に戻る途中の道端で倒れている射干を発見した。
彼女は瞼を開いた儘事切れていたが、死者が安らかに眠れるよう今は閉じられている。
何故、それ以外の言葉が浮かばない。
「残党の仕業でございましょう」
家老の各務兵庫が考えた末に答えた。
言われてみればそれ以外考えられない。
武闘一辺倒と思われがちだが、実は頭の切れる長可は各務の答えで全て納得した訳ではない。
射干は何処に行ったのか。
明確な目的があるような言い方だった。
流石に長可にも、縺れた糸のように複雑な理由が其処に潜んでいるとは考えが及ばなかった。
死んだのは忍びの女一人。
己自身の命が狙われた、若しくは重臣が斬られたとあれば下手人を追及するところだが──
「残党が未だ潜んでいる恐れがございます。少将様の御命を狙うような事があっては一大事」
各務兵庫が現実的な意見を述べる。
「うむ。射干程の忍びが斬られたという事は、相手は中々の手練れであろうな。警備を強化し残党が潜んでおらぬか徹底的に探索致せ! 」
「骸は如何致しますか? 」
甲賀忍者の伴家とは親の代から親好が篤い。
「荼毘に付して伴家に返してやれ」
そう決断すると、長可の胸の靄々は掻き消えた。
戦場において人の死に何時までも心動かされる彼では無い。
ふと、乱法師の顔が浮かんだ。
初陣も済ませていない甘っちょろい弟にも報せてやるべきか。
それよりも、射干は伴家を通じて織田家の為にも働いていた忍びである。
安土に戻ったら信長にも報告せねばと考えた。
────
三郎と藤兵衛が六助に宛がわれた部屋を訪れた時、彼は既に起き上がり着替えを済ませていた。
「もう良いのか」
「へえ……」
そう答える割には顔色悪く、目の下には隈が出来ていた。
六助は射干の事が気に掛かっていたのだが、その不安を乱法師達に伝えられずにいたのだ。
「余り顔色が良くないようじゃな。まだ休んでいた方が良いのではないか? 」
「いえ……身体はもう……それより何か儂に? 」
「おお、上様が松永討伐の総大将、御子息の織田少将様の祝勝の宴を催される際に、そちの芸を披露すべしと仰せなのじゃ」
「若様、もう起きてええんやか? 」
「動けぬ程ではない」
「上様に怒られちまう」
「上様御自身が御咳をされているのに動き回っておられる」
「全く御元気な方や」
六助は微かに笑った。
「粥を食え。儂も食べたら元気になった」
六助が粥を口に運んでいる間、信長の出した結論を話して聞かせると六助はまた笑った。
「相変わらずやな。上様らしいちょいうか。何かあやかりてえなあ」
「なれど上様が申される事は──」
乱法師は家臣の立場でその先を言う事を躊躇った。
六助が苦笑する。
「ふう、確かに粥食うたら元気になったあ」
「だが、まだ寝ていた方が良い。鎮め封じで、さぞや力を消耗したであろう」
「若様こそ寝ちょらんと」
まだ熱が下がっていない乱法師の労りに言い返す元気が出てきたようだ。
「六、儂は……そちの口から聞きたいのじゃ」
「果心がどうなったか、でごぜえましょう? 」
乱法師がおずおずと頷く。
知りたいから信長に内緒で此処に来た。
だが知るのは怖い。
「神というのは人よりすごい力持っちょっても、不便なとこがあるがよ」
「不便? 」
「というのは、人の世に関わるには依代が必要なんや。それが覚信や」
乱法師は眉を寄せ考え込む。
「神が怒ると人は慌てて鎮めようとしたり、邪神言うて恐れたりするけんど、神には神なりの理由があるんや。やき、元々悪い神なんておらん。人と同じだ」
「だが覚信を依代として世を乱そうとしたではないか。神としては悪であろう? 」
乱法師は納得出来ない。
「儂は考えたんや。神が覚信の悪心につけこんだんではのう、覚信が神を動かしたんやって」
仮にそうだとしても、悪い魂を持つ人に操られる神も神だと思った。
「儂が言いたいのは、神の怒りなんて珍しい事じゃないって事や。儂が生まれた物部村でも怒りを鎮める為の祈祷行っちょったし」
乱法師には六助の言いたい事が漸く分かってきた。
「では、そちは覚信が依代とならずば邪神の復活は無かったというのか?つまり覚信の歪んだ魂が神を引き寄せた。元凶は覚信じゃと」
一言主神はどこまでも憐れな神である。
人に貶められ怨念を募らせ、また覚信の欲望を満たす為に、ある意味利用された。
「そうや。神と人とは古より喧嘩しながら上手うやってきたんや。神を鎮め祀る。いざなぎ流では呪詛《すそ》を集めて封じるというのを繰り返してきたんや」
「蛇石が割れたのは? 」
「白蛇神様が果心を巻き込み封じる手助けしてくれたのは確かだ。割れたのは果心の怨念があまりにも凄いき、手こずったと見るべきかもしれんが、蛇石の下に封じたのは神そのものでのうって、覚信を依代にして集まった呪詛や。やき、鎮め封じは成功した思うちゅう」
乱法師は聞きたかった言葉が聞けて心底安堵した。
「若様に言わざったけんど、怨念の大きさに応じた石が必要かもしれんって悩んじょったんや。普通のやり方でええのかどうか自信が無かった。結果見れば蛇石で良かった。いや、蛇石で無かったら奴を封じる事は出来ざっつろう」
「やはり天命であろう。上様の御力でもある。白蛇神の加護を得られておるのじゃ。正しく上様こそ天下を取られる御方である事は間違いない」
「確かに。やけんど若様も凄い。上様を守ろうとして褌の紐を絞め直すどころか取っちまって!若様の気が不動行光に流れ込んで、奴に止め差したのは若様ちや」
褌を外したという下りは余計じゃと、乱法師は称賛に顔を赤くする。
「必死だっただけじゃ──覚信は上様が仰せのように死んだのであろうか」
覚信など呪術に秀でた只の人間に過ぎぬ。
そうは思えど全ての元凶は覚信というのは六助の言う通りだろう。
げに恐ろしきは神の怒りよりも邪な人の心なのかも知れない。
「覚信の魂が神を動かしちょったけんど、覚信の命を繋いじょったのは神の力や。覚信の体は殆ど神に取り込まれ、魂だけが強う残ったんでないか思う。やき、神の力が打ち破られて封じられちまえば奴は生きていけん。神には元々肉体はねえが、人である以上、肉体が滅びりゃあ死んだという事になりましょう」
乱法師は目を見開いた。
鼓動が高鳴る。
「覚信は死んだと思って良いのじゃな」
念押しする声は震えていた。
「へえ、儂には生きちゅーとは思えん」
六助の瞳には労りと優しさが込められていた。
乱法師は何度も何度も頭の内で六助の言葉を反芻した。
「そうか……もう、奴の声も姿も見る事は無いのじゃな」
「へえ、もう二度と! 」
六助は言い切った。
今後も乱法師は暫くの間苦しむだろう。
なれど信長が彼の傷を癒し、大きな力で支えてくれるに違いない。
それに乱法師にははち切れんばかりの若さがある。
天真爛漫で気性の健やかなる彼は、過去を忘れ前を向いて生きていけるだろうと思った。
「六、そちのお陰じゃ。何度礼を申しても足りぬ。そちがおらねば今頃儂は──」
「もう終わったんや。儂の力だけやない。皆の力無かったら果心を封じる事は出来ざったやろう。上様、若様、三郎さんや藤兵衛さん、そして射干さん。みんなすげえ。若様は負けざったんだ。果心に勝ったんや」
乱法師の瞳から涙が溢れた。
自分が心より欲している言葉を投げ掛けてくれる六助の優しさが胸に沁みた。
「済まなかった、長居してしまった。ゆっくり休んでくれ」
「若様も部屋に戻って寝とーせ。先ずお互いに身体しっかり治さんと」
「そうじゃな」
乱法師は愛らしく頬笑むと部屋を出て行った。
六助はふっと一息吐くと瞼を閉じた。
粥を口にした事で身体が温まり、心地好い睡魔の波に身を委ねる。
夢と現の間にある時、胸元に微かな振動を覚えた。
殆ど無意識に手を遣り、はっと瞼を開ける。
首から吊るしてある紐を引っ張ると先には布袋が付いていた。
汚れたり濡れたりしないようにと、油紙で丁寧に包んだ射干を模した紙の人形を袋から取り出す。
だが手にしてみると、特段異変は無かった。
恋慕う射干の事を考え過ぎていたせいなのか。
彼女は戦場にいるとはいえ、城は既に落ちたのだから危険が及ぶような状況が想像出来無かった。
万々が一の事があったとしても彼女に邪な手が伸びるとは考えにくい。
六助は暫し人形を見詰め、そこから予兆を感じ取ろうと試みた。
胸騒ぎがしたが杞憂に違いないと頭を左右に振る。
今の彼は霊力を消耗し、彼女に起こった事を感知出来なかった。
───
目が霞み、意識朦朧としながら射干は這った。
景色は色褪せ、己が何処に向かおうとしているのか分からなくなっていた。
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胸の焼けるような痛みが却って意志を強める。
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口中が鉄の味で溢れていた。
胸から込み上げたものを吐き出すと、小さな血溜りが左頬の下に出来、蟻が溺れながら必死に藻掻く様が具《つぶさ》に見えた。
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何故、そう望んだのかは分からない。
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「乱、熱は下がったようじゃな」
昨日までの乱法師の熱は、名医曲直瀬道三処方の薬のお陰か若さ故か、翌朝には下がっていた。
「はい、ご心配をお掛け致しました。早速本日より小姓務めに戻りとう存じまする」
「ならぬ。夜に熱がぶり返すやも知れぬ。もう一日休んでおれ」
相変わらずの過保護振りである。
乱法師が内心不満であるのは言うまでもない。
果心の一件で床に就いてばかりで漸く務めに戻ったというのに、また三日も寝込んでいたら、長谷川に何と陰口を叩かれるか知れたものではないからだ。
とはいえ、反論しても絶対に許して貰えないのは明白だった。
「松永弾正の実検は済んでおる。それに朝廷に対する報告もじゃ」
信長が嬉しそうに言った。
「では、少将様(信忠)も直にお戻りになられるのですね」
果心という存在が此の世から滅した事を早く射干に報告したかった。
「奇妙(織田信忠の幼名)は少将では無くなる」
信長の子供達に対する名付けの感性こそ奇妙だが、父親としての愛情が不足している訳では決して無い。
「まだ内々じゃが帝が伜の武功を称賛され、中将の官職を賜る事が決まっておる」
「それは……真に真に……おめでとうございまする」
乱法師は心よりの祝いの言葉を述べた。
果心の脅威も去り、信貴山城は陥落し、全ての風が良い方向に吹いている。
あんなにも苦しかった事が、まるで遠い昔にあった事のように感じられた。
「これで心置き無う鷹狩りを楽しめるというものじゃ」
瞳を潤ませ言祝《ことほ》ぐ乱法師の可憐さに、つい肩を抱き寄せる。
愛しさで胸が熱くなるついでに股間まで熱くなってしまうのはいつもの事だ。
「早く、そなたを鷹狩りに連れて行きたい」
「はい……あ……」
唇の間を舌が割る。
未熟な乱法師に信長の強引で激しい愛を退ける術は無い。
「もう待てぬ」
いつにもまして力が強い。
身を捩った拍子に二人の態勢が崩れ、信長にとってはちょうど良く褥の上に折り重なった。
「乱法師様!三郎と藤兵衛にございます。入っても宜しゅうございますか? 」
武藤三郎の声に信長の動きがはたと止まった。
「良い!入って参れ! 」
その隙を捉えて乱法師が叫んだ。
助けを求めるような素振りに、信長の自尊心が多いに傷付けられた。
じっくり時間を掛けて距離を縮めて来た筈なのに心外だった。
二人が襖を開けて入ってきても、幸い褥を隠す屏風があった。
「待て!上様がおられる。此方に来てはならぬ」
着衣の乱れを素早く整える。
襲い掛かった側の信長には然程乱れは無かったが、憮然たる面持ちであった。
「上様には我等にまで寛大なる御心遣い下さり忝のう存じまする。また、此度信貴山城の松永弾正討ち果たされた由、真におめでとうございます」
「うむ──」
ひたすら謝辞を述べ平伏する二人には、信長の不機嫌さを察する余裕は無かった。
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信長の御機嫌斜めの理由は勿論分かっていた為、言葉を促すように円らな瞳を敢えて信長に向けた。
「うむ──奇妙(嫡男の信忠)も戦の後始末を終え一両日中には戻って来るであろう」
まだ若干二十歳の嫡男の武功は父親としても満足いくものだった。
信忠は中将任官に当たり、暫く安土に止まる事になっている為、宴の準備には余裕がある。
「そういえば肝心の六助の具合はどうじゃ? 」
「昨日は粥を口にし、熱は然程無いようでございましたので問題無いかと存じまする。三郎、藤兵衛、後で様子を見て参れ」
懊悩が全て吹き払われ、楽しい催しの計画で皆の頭が一杯になっていた。
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「一体何故? 」
森長可隊の兵達が、陣屋に戻る途中の道端で倒れている射干を発見した。
彼女は瞼を開いた儘事切れていたが、死者が安らかに眠れるよう今は閉じられている。
何故、それ以外の言葉が浮かばない。
「残党の仕業でございましょう」
家老の各務兵庫が考えた末に答えた。
言われてみればそれ以外考えられない。
武闘一辺倒と思われがちだが、実は頭の切れる長可は各務の答えで全て納得した訳ではない。
射干は何処に行ったのか。
明確な目的があるような言い方だった。
流石に長可にも、縺れた糸のように複雑な理由が其処に潜んでいるとは考えが及ばなかった。
死んだのは忍びの女一人。
己自身の命が狙われた、若しくは重臣が斬られたとあれば下手人を追及するところだが──
「残党が未だ潜んでいる恐れがございます。少将様の御命を狙うような事があっては一大事」
各務兵庫が現実的な意見を述べる。
「うむ。射干程の忍びが斬られたという事は、相手は中々の手練れであろうな。警備を強化し残党が潜んでおらぬか徹底的に探索致せ! 」
「骸は如何致しますか? 」
甲賀忍者の伴家とは親の代から親好が篤い。
「荼毘に付して伴家に返してやれ」
そう決断すると、長可の胸の靄々は掻き消えた。
戦場において人の死に何時までも心動かされる彼では無い。
ふと、乱法師の顔が浮かんだ。
初陣も済ませていない甘っちょろい弟にも報せてやるべきか。
それよりも、射干は伴家を通じて織田家の為にも働いていた忍びである。
安土に戻ったら信長にも報告せねばと考えた。
────
三郎と藤兵衛が六助に宛がわれた部屋を訪れた時、彼は既に起き上がり着替えを済ませていた。
「もう良いのか」
「へえ……」
そう答える割には顔色悪く、目の下には隈が出来ていた。
六助は射干の事が気に掛かっていたのだが、その不安を乱法師達に伝えられずにいたのだ。
「余り顔色が良くないようじゃな。まだ休んでいた方が良いのではないか? 」
「いえ……身体はもう……それより何か儂に? 」
「おお、上様が松永討伐の総大将、御子息の織田少将様の祝勝の宴を催される際に、そちの芸を披露すべしと仰せなのじゃ」
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慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~
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2021/3/10
しおりを挟んでくださっている皆様へ。
こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
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