78 / 83
──5──
しおりを挟む
松永が短刀の鞘を払う。
それに応じて三郎が立ちあがり、太刀をすらりと抜いた。
既に数多の人の血と脂で滑る刀身が、陽光を反射して眩い光を放つ。
「平蜘蛛は如何されました? 」
死神が淡々と問う。
僅かな沈黙の後、松永が口を開いた。
「叩き割った」
低く答えるやいなや、短刀を己の腹に突き立てた。
「ぐぅおぉーーぐっ……」
松永が短刀を横に引くと、腹から血と臓物が零れた。
美しき死神は微かに首を傾げたが、冷徹に松永の項に刃を振り下ろした。
勢い良く鮮血が吹き出す。
ごとりと首が落ち、三度回り顔を上にして止まった。
最期に嘘を発した唇は真一文字に引き結ばれ、大きく開いた儘の瞳が三郎を見詰める事は最早なかった。
三郎は首級を布で包むと、素早く部屋から忍び出た。
───
城内には織田勢が満ち初めていた。
狙うは本丸、松永久秀の首級である。
城に避難していた逃げ惑う民衆にまで、槍をいちいち向けている暇など無い。
敵味方入り交じり、焦げ臭い城内は混乱を極めていた。
どさくさに紛れて逃亡しようとする数多の者達の中に、柳生松吟庵の姿があった。
布に包まれた何かを背負い、彼はまんまと城を抜け出し、何処《いずこ》かへと落ちて行った。
───
「上様、彼方へ。濡れてしまいまする」
乱法師の言葉が空虚に響く。
作り掛けの御殿の廂の下で雨を凌いで、やれやれという状況では無い。
落雷が地を揺るがし、おまけに強風による横殴りの激しい雨が肌を叩く。
そして空には恐ろしい大蛇が目を光らせているのだ。
何を一番に為すべきか惑い、咄嗟に口走ったに過ぎぬ。
己の無力を痛感する。
「上様、どうかお逃げ下さいませ! 」
尚も悲痛に訴えるが逃げ場など無い。
彼には、そう叫ぶ以外出来る事が他に無かった。
三郎と藤兵衛とて同じだ。
雨に打たれながら石のように動けず、構える太刀は大蛇に比して脆く見えた。
「そなたを置いて逃げるつもりは無い。乱、落ち着け」
乱法師の濡れた額に、そっと唇を寄せる。
「おのれぇぇぇーー信長ぁぁ貴様だけは絶対に許さぬぅ」
見詰め合う二人に妬心を煽られ果心が咆哮する。
黒い巨大な肉体を波打たせ、口を開けて威嚇する顔付きが凄まじい。
しかし姿形とて大仰でも、その心の有り様は実に愚かしく幼児にも劣るものだ。
今この場に現れた真の目的を果心は怒りで忘れていた。
最も厄介な幼児には違いない。
信長にも果心を倒す策は無いが、何故今姿を現したのか何を恐れているのかを冷静に見抜いていた。
力を封じられまいと焦っている。
今まで姑息な手を用いるばかりで己の前には姿を現さなかった。
乱法師を操る為の繋がりは確かに絶たれたのだ。
それ故に本体を現した。
稲光に雨風吹き荒れる中、巨体を畝らせ吼える姿は一見恐ろしげだが、内心では焦っているのだろう。
乱法師に対する妄執に未だ捕らわれており、それが果心を果心たらしめ突き動かしているのだ。
これ以上乱法師を傷付ける真似はさせぬ。
「果心!まやかしに怯む儂と思うたか。相変わらず姑息な奴じゃ!そんな所で吼えていないで下に降りて来い!一刀両断にして蛇鍋にして食ろうてやるわ!」
信長は天を仰ぎ大音声で罵倒し始めた。
「上様……お止め下さい……」
果心の怒りに火を注ぐ主の行動に血相変え必死に懇願する。
「この張りぼてが!うぬの腐った性根ごと叩っ斬ってくれるわ!儂が恐ろしいか?臆病者めが」
果心がぐるぐると旋回する。
「貴様ぁーー貴様貴様貴様ぁぁーー愚かな人間の分際で良うもほざいたな!!望み通り牙で引き裂いてくれるわーー」
信長の挑発に咆哮で答える。
塒を巻き終えると鎌首を信長に向けて突き出し、真っ赤な喉奥を見せた。
果心の毒液は骨をも溶かす。
乱法師は咄嗟に信長の前に飛び出した。
「乱法師ぃぃそんな男の何が良いのじゃ!儂を化け物と言うが、信長の方が余程化け物ではないか!邪魔立てするなぁぁどけーー」
とうとう天高くから猛烈な勢いで突進してきた。
信長は己を庇おうとする乱法師を突飛ばし、天下の宝刀不動国之の鞘を払った。
これは松永久秀が信長に献上した品で、足利将軍家伝来の太刀である。
不動と名が付くのは不動行光と同じく、不動明王が刀身に彫られているからだ。
刀工は異なるが国之と行光を兄弟刀として秘蔵していた。
それ故に不動行光を乱法師に与えたいと考えているのだ。
──
「このかんなぎはかしょは──八万四丈大万丈の千丈ひろま~高田の上印かけおき申す~高田の式の警護様が降りいり影向なされて立って守らせ給え~」
六助は濡れそぼり、蛇石の側で一人祈祷を続けていた。
全霊力を込め、神に守護を願った。
己の為すべき事こそが皆の命を守る。
果心の脅威になぞ惑わされはしない。
信長のお陰で己から果心の気が逸れ、鎮めの祈祷を終える事が出来た。
なれど未だ封じられてはいない。
六助の目が大きく開かれた。
信長の紅の気が更に膨れ上がる。
不動国之に闘気が伝わり熱を帯びて湯気が立ち上る。
一直線に信長目掛けて襲い掛かる果心に向けて突き出した。
だが次の瞬間、信長の身体がよろめいた。
地鳴りと共に大地が突如動いた。
激しい揺れに立っている事も出来ない。
倒れる信長を引き裂こうと果心が大きく口を開ける。
「上様あぁーー」
乱法師が叫び駆け寄ろうとするも、揺れが激しく膝を突いてしまう。
ゴゴゴゴゴ──
落雷さえ圧倒する轟音と共に、信長の背後から巨大な何かが出現した。
それが何かと見定めるよりも早く、果心の姿が信長の前から忽然と消え失せた。
否──
雨と共に黒い何かが空から降ってきた。
信長が頬に落ちたそれを摘まむと、焼け焦げた木屑のようにぼろぼろと崩れた。
乱法師は天を見上げ驚愕の光景に刮目した。
大蛇がもう一匹。
果心よりも一回りは大きい白蛇が空に浮かんでいた。
どす黒く濁った空を染め変える程雄大な半透明の気が、白蛇から発せられているのが乱法師にも見えた。
「蛇石に宿る神様じゃろうかあ。上様と此の地を守ろうと出現されたんじゃろう」
いつの間にか乱法師の側に六助が立っていた。
弾き飛ばされた果心は目を爛々と赤く光らせ、新たな敵を睨み付けた。
「邪魔するなぁーー貴様も神の癖に愚かな人間の味方をするか! 」
鱗が斑に剥がれ落ち、醜く焼け爛れた肉を露出させている。
「大火傷を負っている」
驚天動地の光景に興奮しつつ、強力な味方の出現に乱法師は冷静さを取り戻していた。
「そんでも動いてる」
六助にとっては予想だにしない展開だったが、凶悪な怨念を型通りに封じられないのではという点だけは的中した。
信長の気と六助の祈祷が白蛇神を呼び覚ましたのだ。
「我は此の地を守る神じゃ。それを侵さんとするお前は許さぬ」
白蛇神の不思議な声が木霊のように響き渡った。
神対神。
白蛇対黒蛇。
二体の神は空中で睨み合った。
白蛇神が現れた時から風と雨の勢いが弱まっていた。
ぶるりと震える。
秋も暮れに近いというのに、雨でびしょ濡れの身体は芯から冷えきっていた。
寒さを感じぬぐらい無我夢中であったのだ。
今はともかく寒い。
信長が背後から彼を抱き締める。
無論、信長も濡れていた。
「寒いな。濡れた衣を脱いで肌を合わせるのがいちばんじゃが、此処ではそうもいくまい。少しは暖かいであろう」
淫らな含みを察し頬を染める。
寒い事は寒いが先程よりは暖かい。
そこで、ふと気付いた。
これ程の騒ぎであるのに、二の丸より下にいる筈の番兵達が一人も駆け付けてこない事に。
動揺し過ぎて大事な事に思い至らなかった己が情け無い。
「番兵を呼んで参りまする」
乱法師が三郎に命じようとした時、果心の凄まじい咆哮が耳をつんざいた。
「乱、儂の側を離れるな。今更番兵など呼んだ所で右往左往して終わるだけじゃ」
確かに信長の言う通りだった。
果心相手に人海戦術は通用しない。
神と神との戦いを今は見守るしか無かった。
堪え性の無い果心が先に動いた。
赤黒い舌が猥雑に蠢き、唾液を飛び散らせ白蛇に襲い掛かる。
白蛇が身体を畝らせ、果心が牙を立てる前に尾を振って強烈な一撃を食らわせる。
弾き飛ばされた果心の身体から、焼け焦げた鱗が剥がれ落ちてばらばらと降ってきた。
炭化した鱗が剥がれるごとに赤黒く爛れた皮膚が一層露になり、所々血が滲んでいるのは無惨という他ない。
顔の鱗も剥がれ掛け、益々悍ましい様相を呈している。
「ぐぐぐぅぅーー己ぇぇ」
白蛇の方が身体が大きく、満身創痍の果心よりも有利に思えた。
だが果心の怒りが再び天を鳴かせ、風が吹き荒れ雨が強まる。
どす黒い気が空を覆い始め、闇の支配が陽気を押し返し始めた。
蛇体を果心が畝らせる度に鱗がどんどん剥がれ落ち、爛れた皮膚が殆ど剥き出しになっていく。
瀕死の状態で尚も退かぬ執念深さ。
滾る怨讐。
何処までもしぶとい負の生命力。
それを身を持って知る乱法師は結末を考えた。
本当に果心を封じられるのか。
絶望感で気力が萎えそうになる。
どうすれば果心を封じられるのか。
信長を守れるのか。
彼の胸の内に覚悟が宿った。
天空では二匹の大蛇が絡み合っていた。
牙を向け、お互いの身を引き裂く凄まじい闘いが繰り広げられている。
「信長!我に力を貸せ! 」
白蛇が叫んだ。
力を貸せと言われても、そもそも現実的過ぎる信長は、目の前の出来事は幻覚と思っている。
取り敢えず手にした不動国之を構えて見た。
すると紅の気が天に向かって放出され、白蛇の気と合わさった。
激しくぶつかる大蛇達が一旦離れる。
次の瞬間、白蛇が果心の喉元に深々と食らい付き肉を噛み千切った。
「ぐぐっぐぼーーぐぅおぅーー」
神とて血を流すのか。
大量の血の雨が空から降り注ぐ。
果心の首は皮一枚で繋がっていた。
乱法師は口を押え、吐き気を必死に堪えた。
首だけとなった果心が怨嗟の込もった眼差しで信長を睨み付け、次に淫らな視線を乱法師に向けた。
虹彩の赤光の輝きが増し、にたりと三日月形に口が裂けた。
「信長ぁぁーー貴様だけは許さぬぅ」
断末魔の叫びなのか。
最期の力を振り絞り再び信長に向かって突進してきた。
首だけとなっても妄執と怨念は衰えない。
「果心!狙いは儂であろう! 」
乱法師が叫んだ。
何よりも欲して止まぬ相手の声に、果心の視線が信長から逸れ、彼に釘付けになった。
その視線の先には袴を脱ぎ小袖の前を開け、下帯の紐まで解いた半裸の乱法師が立っていた。
「ぐぐ──乱法師ぃぃ何と美しい──」
久しぶりに直接目にした乱法師の裸体に涎を垂れ流し、欲望抑え難く我を忘れる。
「何処までも淫らな奴じゃ!地獄に落ちろ! 」
その隙を見逃す信長ではない。
破魔の力を持つ不動国之を後ろから振り下ろし、果心の頭を真っ二つに斬り裂いた。
「やった! 」
三郎、藤兵衛、六助が快哉を叫ぶ。
「らん──ほぉしぃーー」
果心の頭が乱法師の目の前で二つに裂け、熟した柿のように落ちた。
終わった。
誰もがそう思った。
しかし地に落ちて尚、果心は邪な視線を乱法師に向け悍ましい言葉を発した。
「そなたは儂のものじゃあーー」
乱法師の腰で不動行光が震えた。
半分に割れた頭が宙に浮き、瑞瑞しい裸体を貪ろうと先の欠けた舌が突き出される。
「うわああーーおおおーー」
悲鳴なのか雄叫びなのか、不動行光を滅茶苦茶に振り回し、今度こそ果心を血塗れの肉塊に変える。
荒く息吐く乱法師の元に一陣の風が吹き抜け、白蛇が肉片を身体の内に巻き込む。
その後跡形も無く、白蛇も、果心のばらばらになった身体も忽然と消え失せた。
乱法師がふらりと地に崩折れた。
「乱! 」
信長に抱き止められた途端、安堵の涙が一筋頬を伝った。
ミシミシッッミシ ズーン
「今度は何じゃ! 」
雨も雷も鎮まり、風こそ冷たいが穏やかな静寂の中で皆が身を寄せ合っていたところに、またもや地を揺るがす音が鎮静を破った。
蛇石の方から音は聞こえた。
三郎と藤兵衛、六助が走った。
「これは!」
蛇石を置いた穴を覗き込み絶句する。
信長に支えられ後から来た乱法師も目を見張った。
「上様……蛇石が……」
蛇石が四つに割れていた。
皆が恐る恐る信長の顔色を窺う。
「是非に及ばず」
信長が低く唸り一言だけ発した。
先程までの出来事が嘘のような雅やかな秋の宵である。
空を見上げれば星が煌めき、美しい月も其所にあった。
動から静への急激な変化に思考が付いていかない。
一同はこれから何をして良いか分からず、暫し口をぽかんと開け佇んでいた。
「もう良い。寒い!ぶるるる──戻るぞ。はっくしゅ!! 」
沈黙を破る信長の大きなくしゃみが彼等を現実に呼び戻し、ずぶ濡れ状態の一同は、信長に急かされる儘に震えながら二の丸を後にした。
それに応じて三郎が立ちあがり、太刀をすらりと抜いた。
既に数多の人の血と脂で滑る刀身が、陽光を反射して眩い光を放つ。
「平蜘蛛は如何されました? 」
死神が淡々と問う。
僅かな沈黙の後、松永が口を開いた。
「叩き割った」
低く答えるやいなや、短刀を己の腹に突き立てた。
「ぐぅおぉーーぐっ……」
松永が短刀を横に引くと、腹から血と臓物が零れた。
美しき死神は微かに首を傾げたが、冷徹に松永の項に刃を振り下ろした。
勢い良く鮮血が吹き出す。
ごとりと首が落ち、三度回り顔を上にして止まった。
最期に嘘を発した唇は真一文字に引き結ばれ、大きく開いた儘の瞳が三郎を見詰める事は最早なかった。
三郎は首級を布で包むと、素早く部屋から忍び出た。
───
城内には織田勢が満ち初めていた。
狙うは本丸、松永久秀の首級である。
城に避難していた逃げ惑う民衆にまで、槍をいちいち向けている暇など無い。
敵味方入り交じり、焦げ臭い城内は混乱を極めていた。
どさくさに紛れて逃亡しようとする数多の者達の中に、柳生松吟庵の姿があった。
布に包まれた何かを背負い、彼はまんまと城を抜け出し、何処《いずこ》かへと落ちて行った。
───
「上様、彼方へ。濡れてしまいまする」
乱法師の言葉が空虚に響く。
作り掛けの御殿の廂の下で雨を凌いで、やれやれという状況では無い。
落雷が地を揺るがし、おまけに強風による横殴りの激しい雨が肌を叩く。
そして空には恐ろしい大蛇が目を光らせているのだ。
何を一番に為すべきか惑い、咄嗟に口走ったに過ぎぬ。
己の無力を痛感する。
「上様、どうかお逃げ下さいませ! 」
尚も悲痛に訴えるが逃げ場など無い。
彼には、そう叫ぶ以外出来る事が他に無かった。
三郎と藤兵衛とて同じだ。
雨に打たれながら石のように動けず、構える太刀は大蛇に比して脆く見えた。
「そなたを置いて逃げるつもりは無い。乱、落ち着け」
乱法師の濡れた額に、そっと唇を寄せる。
「おのれぇぇぇーー信長ぁぁ貴様だけは絶対に許さぬぅ」
見詰め合う二人に妬心を煽られ果心が咆哮する。
黒い巨大な肉体を波打たせ、口を開けて威嚇する顔付きが凄まじい。
しかし姿形とて大仰でも、その心の有り様は実に愚かしく幼児にも劣るものだ。
今この場に現れた真の目的を果心は怒りで忘れていた。
最も厄介な幼児には違いない。
信長にも果心を倒す策は無いが、何故今姿を現したのか何を恐れているのかを冷静に見抜いていた。
力を封じられまいと焦っている。
今まで姑息な手を用いるばかりで己の前には姿を現さなかった。
乱法師を操る為の繋がりは確かに絶たれたのだ。
それ故に本体を現した。
稲光に雨風吹き荒れる中、巨体を畝らせ吼える姿は一見恐ろしげだが、内心では焦っているのだろう。
乱法師に対する妄執に未だ捕らわれており、それが果心を果心たらしめ突き動かしているのだ。
これ以上乱法師を傷付ける真似はさせぬ。
「果心!まやかしに怯む儂と思うたか。相変わらず姑息な奴じゃ!そんな所で吼えていないで下に降りて来い!一刀両断にして蛇鍋にして食ろうてやるわ!」
信長は天を仰ぎ大音声で罵倒し始めた。
「上様……お止め下さい……」
果心の怒りに火を注ぐ主の行動に血相変え必死に懇願する。
「この張りぼてが!うぬの腐った性根ごと叩っ斬ってくれるわ!儂が恐ろしいか?臆病者めが」
果心がぐるぐると旋回する。
「貴様ぁーー貴様貴様貴様ぁぁーー愚かな人間の分際で良うもほざいたな!!望み通り牙で引き裂いてくれるわーー」
信長の挑発に咆哮で答える。
塒を巻き終えると鎌首を信長に向けて突き出し、真っ赤な喉奥を見せた。
果心の毒液は骨をも溶かす。
乱法師は咄嗟に信長の前に飛び出した。
「乱法師ぃぃそんな男の何が良いのじゃ!儂を化け物と言うが、信長の方が余程化け物ではないか!邪魔立てするなぁぁどけーー」
とうとう天高くから猛烈な勢いで突進してきた。
信長は己を庇おうとする乱法師を突飛ばし、天下の宝刀不動国之の鞘を払った。
これは松永久秀が信長に献上した品で、足利将軍家伝来の太刀である。
不動と名が付くのは不動行光と同じく、不動明王が刀身に彫られているからだ。
刀工は異なるが国之と行光を兄弟刀として秘蔵していた。
それ故に不動行光を乱法師に与えたいと考えているのだ。
──
「このかんなぎはかしょは──八万四丈大万丈の千丈ひろま~高田の上印かけおき申す~高田の式の警護様が降りいり影向なされて立って守らせ給え~」
六助は濡れそぼり、蛇石の側で一人祈祷を続けていた。
全霊力を込め、神に守護を願った。
己の為すべき事こそが皆の命を守る。
果心の脅威になぞ惑わされはしない。
信長のお陰で己から果心の気が逸れ、鎮めの祈祷を終える事が出来た。
なれど未だ封じられてはいない。
六助の目が大きく開かれた。
信長の紅の気が更に膨れ上がる。
不動国之に闘気が伝わり熱を帯びて湯気が立ち上る。
一直線に信長目掛けて襲い掛かる果心に向けて突き出した。
だが次の瞬間、信長の身体がよろめいた。
地鳴りと共に大地が突如動いた。
激しい揺れに立っている事も出来ない。
倒れる信長を引き裂こうと果心が大きく口を開ける。
「上様あぁーー」
乱法師が叫び駆け寄ろうとするも、揺れが激しく膝を突いてしまう。
ゴゴゴゴゴ──
落雷さえ圧倒する轟音と共に、信長の背後から巨大な何かが出現した。
それが何かと見定めるよりも早く、果心の姿が信長の前から忽然と消え失せた。
否──
雨と共に黒い何かが空から降ってきた。
信長が頬に落ちたそれを摘まむと、焼け焦げた木屑のようにぼろぼろと崩れた。
乱法師は天を見上げ驚愕の光景に刮目した。
大蛇がもう一匹。
果心よりも一回りは大きい白蛇が空に浮かんでいた。
どす黒く濁った空を染め変える程雄大な半透明の気が、白蛇から発せられているのが乱法師にも見えた。
「蛇石に宿る神様じゃろうかあ。上様と此の地を守ろうと出現されたんじゃろう」
いつの間にか乱法師の側に六助が立っていた。
弾き飛ばされた果心は目を爛々と赤く光らせ、新たな敵を睨み付けた。
「邪魔するなぁーー貴様も神の癖に愚かな人間の味方をするか! 」
鱗が斑に剥がれ落ち、醜く焼け爛れた肉を露出させている。
「大火傷を負っている」
驚天動地の光景に興奮しつつ、強力な味方の出現に乱法師は冷静さを取り戻していた。
「そんでも動いてる」
六助にとっては予想だにしない展開だったが、凶悪な怨念を型通りに封じられないのではという点だけは的中した。
信長の気と六助の祈祷が白蛇神を呼び覚ましたのだ。
「我は此の地を守る神じゃ。それを侵さんとするお前は許さぬ」
白蛇神の不思議な声が木霊のように響き渡った。
神対神。
白蛇対黒蛇。
二体の神は空中で睨み合った。
白蛇神が現れた時から風と雨の勢いが弱まっていた。
ぶるりと震える。
秋も暮れに近いというのに、雨でびしょ濡れの身体は芯から冷えきっていた。
寒さを感じぬぐらい無我夢中であったのだ。
今はともかく寒い。
信長が背後から彼を抱き締める。
無論、信長も濡れていた。
「寒いな。濡れた衣を脱いで肌を合わせるのがいちばんじゃが、此処ではそうもいくまい。少しは暖かいであろう」
淫らな含みを察し頬を染める。
寒い事は寒いが先程よりは暖かい。
そこで、ふと気付いた。
これ程の騒ぎであるのに、二の丸より下にいる筈の番兵達が一人も駆け付けてこない事に。
動揺し過ぎて大事な事に思い至らなかった己が情け無い。
「番兵を呼んで参りまする」
乱法師が三郎に命じようとした時、果心の凄まじい咆哮が耳をつんざいた。
「乱、儂の側を離れるな。今更番兵など呼んだ所で右往左往して終わるだけじゃ」
確かに信長の言う通りだった。
果心相手に人海戦術は通用しない。
神と神との戦いを今は見守るしか無かった。
堪え性の無い果心が先に動いた。
赤黒い舌が猥雑に蠢き、唾液を飛び散らせ白蛇に襲い掛かる。
白蛇が身体を畝らせ、果心が牙を立てる前に尾を振って強烈な一撃を食らわせる。
弾き飛ばされた果心の身体から、焼け焦げた鱗が剥がれ落ちてばらばらと降ってきた。
炭化した鱗が剥がれるごとに赤黒く爛れた皮膚が一層露になり、所々血が滲んでいるのは無惨という他ない。
顔の鱗も剥がれ掛け、益々悍ましい様相を呈している。
「ぐぐぐぅぅーー己ぇぇ」
白蛇の方が身体が大きく、満身創痍の果心よりも有利に思えた。
だが果心の怒りが再び天を鳴かせ、風が吹き荒れ雨が強まる。
どす黒い気が空を覆い始め、闇の支配が陽気を押し返し始めた。
蛇体を果心が畝らせる度に鱗がどんどん剥がれ落ち、爛れた皮膚が殆ど剥き出しになっていく。
瀕死の状態で尚も退かぬ執念深さ。
滾る怨讐。
何処までもしぶとい負の生命力。
それを身を持って知る乱法師は結末を考えた。
本当に果心を封じられるのか。
絶望感で気力が萎えそうになる。
どうすれば果心を封じられるのか。
信長を守れるのか。
彼の胸の内に覚悟が宿った。
天空では二匹の大蛇が絡み合っていた。
牙を向け、お互いの身を引き裂く凄まじい闘いが繰り広げられている。
「信長!我に力を貸せ! 」
白蛇が叫んだ。
力を貸せと言われても、そもそも現実的過ぎる信長は、目の前の出来事は幻覚と思っている。
取り敢えず手にした不動国之を構えて見た。
すると紅の気が天に向かって放出され、白蛇の気と合わさった。
激しくぶつかる大蛇達が一旦離れる。
次の瞬間、白蛇が果心の喉元に深々と食らい付き肉を噛み千切った。
「ぐぐっぐぼーーぐぅおぅーー」
神とて血を流すのか。
大量の血の雨が空から降り注ぐ。
果心の首は皮一枚で繋がっていた。
乱法師は口を押え、吐き気を必死に堪えた。
首だけとなった果心が怨嗟の込もった眼差しで信長を睨み付け、次に淫らな視線を乱法師に向けた。
虹彩の赤光の輝きが増し、にたりと三日月形に口が裂けた。
「信長ぁぁーー貴様だけは許さぬぅ」
断末魔の叫びなのか。
最期の力を振り絞り再び信長に向かって突進してきた。
首だけとなっても妄執と怨念は衰えない。
「果心!狙いは儂であろう! 」
乱法師が叫んだ。
何よりも欲して止まぬ相手の声に、果心の視線が信長から逸れ、彼に釘付けになった。
その視線の先には袴を脱ぎ小袖の前を開け、下帯の紐まで解いた半裸の乱法師が立っていた。
「ぐぐ──乱法師ぃぃ何と美しい──」
久しぶりに直接目にした乱法師の裸体に涎を垂れ流し、欲望抑え難く我を忘れる。
「何処までも淫らな奴じゃ!地獄に落ちろ! 」
その隙を見逃す信長ではない。
破魔の力を持つ不動国之を後ろから振り下ろし、果心の頭を真っ二つに斬り裂いた。
「やった! 」
三郎、藤兵衛、六助が快哉を叫ぶ。
「らん──ほぉしぃーー」
果心の頭が乱法師の目の前で二つに裂け、熟した柿のように落ちた。
終わった。
誰もがそう思った。
しかし地に落ちて尚、果心は邪な視線を乱法師に向け悍ましい言葉を発した。
「そなたは儂のものじゃあーー」
乱法師の腰で不動行光が震えた。
半分に割れた頭が宙に浮き、瑞瑞しい裸体を貪ろうと先の欠けた舌が突き出される。
「うわああーーおおおーー」
悲鳴なのか雄叫びなのか、不動行光を滅茶苦茶に振り回し、今度こそ果心を血塗れの肉塊に変える。
荒く息吐く乱法師の元に一陣の風が吹き抜け、白蛇が肉片を身体の内に巻き込む。
その後跡形も無く、白蛇も、果心のばらばらになった身体も忽然と消え失せた。
乱法師がふらりと地に崩折れた。
「乱! 」
信長に抱き止められた途端、安堵の涙が一筋頬を伝った。
ミシミシッッミシ ズーン
「今度は何じゃ! 」
雨も雷も鎮まり、風こそ冷たいが穏やかな静寂の中で皆が身を寄せ合っていたところに、またもや地を揺るがす音が鎮静を破った。
蛇石の方から音は聞こえた。
三郎と藤兵衛、六助が走った。
「これは!」
蛇石を置いた穴を覗き込み絶句する。
信長に支えられ後から来た乱法師も目を見張った。
「上様……蛇石が……」
蛇石が四つに割れていた。
皆が恐る恐る信長の顔色を窺う。
「是非に及ばず」
信長が低く唸り一言だけ発した。
先程までの出来事が嘘のような雅やかな秋の宵である。
空を見上げれば星が煌めき、美しい月も其所にあった。
動から静への急激な変化に思考が付いていかない。
一同はこれから何をして良いか分からず、暫し口をぽかんと開け佇んでいた。
「もう良い。寒い!ぶるるる──戻るぞ。はっくしゅ!! 」
沈黙を破る信長の大きなくしゃみが彼等を現実に呼び戻し、ずぶ濡れ状態の一同は、信長に急かされる儘に震えながら二の丸を後にした。
0
お気に入りに追加
12
あなたにおすすめの小説
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~
ひなの琴莉
恋愛
イケメンで完璧な上司は自分にだけなぜかとても過保護でしつこい。そんな店長に秘密を握られた。秘密をすることに交換条件として色々求められてしまう。 溺愛体質のヒーロー☓地味子。ドタバタラブコメディ。
2021/3/10
しおりを挟んでくださっている皆様へ。
こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる