森蘭丸外伝─果心居士

春野わか

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「上様の御憂慮の種、これで一つは無くなりましょうか」

「うむ。平蜘蛛を渡せば命は助けると申し入れておるが、あの頑固爺は応じる気はなさそうじゃがな。憂慮しておるのはその点だけじゃ」

 茶器狂いの信長は、名物と耳に入れば片っ端から狩り手の内に集めていた。
 故に平蜘蛛を差し出せば助命するというのは嘘では無かった。
 とはいえ、何時までも松永の降伏を当てにして城攻めに手を抜く訳にはいかない。

 内乱にせよ外からの攻撃にせよ、先鋒となるであろう順慶に、平蜘蛛を何としてでも手に入れるよう言い含めていた。

「それはそうと、そなたの事じゃ」

 唐突に信長は顔を向けた。

 そなたの事というのは無論果心の件で、鎮め封じは茜色の陽光が差す時分に行おうと決めていた。
 今のところ雨は降っていないが生憎の曇天である。
 空が茜色に染まる事はどうやら無さそうだった。

 暗くなる前には、と言っていたが、灰色の雲のせいで辺りは既に薄暗かった。

「まだ早いな。少し一息吐きたい。風呂に入ってから二の丸に向かうとするか」

「はっ! 」

───

 世話に当たるだけなら当番の小姓は他にいるが、信長の頭には乱法師という選択肢しか無かった。

 共に入ろうという意味であるからだ。
 乱法師もその意を察し信長の後に従う。

 脱衣場にも火鉢が置かれ、湯殿から漏れる暖気もあって寒さは感じない。

 共に湯帷子に着替え戸を開けた途端、漏れた湯気が目を霞ませる。

 脱衣場は充分暖かったが内外の温度差に身体がぶるっと震えた。
 先に信長が簀子に座すと、横に移った乱法師を背面から抱き寄せ膝の上に置いてしまう。
 父が幼子を扱うような自然な流れで、乱法師も抗わず身を任せる。

「久しぶりじゃのう。そなたとこうして共に入るのは」 

「は……」

 全く久しぶりでは無かった。
 精々数日振りである。

 それにしても心地好い。

 いつものように髪を撫でられ首筋を揉まれる。
 畏れ多いとは思いつつ、主が望んでいるのだから仕方がない。

 信長の腕が背後から回され彼の腕と手に重ねられる。

 こうして汗の玉艶めく肌を密着させ、愛でられる事に身体がすっかり慣らされてしまっていた。

 少しずつ信長の手の内で性愛に対する抵抗感が薄らいでいく。

 ふと、父の膝の上であやされた幼き日の記憶が甦った。

「乱、信貴山も落ち、後始末も済んだら──」

 信長の掠れ声に、暫し父の追憶に耽っていた乱法師は、はっと我に返った。
 ぼんやりしていた間も己に注がれていたであろう淫靡な視線に、父の面影を重ねる事は全く出来なかった。

「何じゃ、ぼけっとしおって!随分と儂の膝の上で寛げるようになったものじゃ」

 戯れ言めいて笑みを浮かべる信長の爽快さが、淫靡に傾いた空気を軽くする。

「申し訳ございませぬ。心地好くて……つい……」

「儂にこうされて心地好いか」

 項に手を這わせ再び首筋を揉む。

「はい──心地好うございます」

「そなたが心地好さそうにしている顔は真に愛らしい。もっと心地好いようにしてやりたくなる。そして、その様子をずっと眺めていたい」
 
「上様──先程のお話の続きをどうか──」

 己に向けられる情愛が濃厚な蜜の味わいに変化し始めている事に気付き、甘い空気を薄めようとした。
 
「話し?ああ、六助の事じゃ」

「六助の?」

「そうじゃ。猿曳が本業であろう。後始末が終わったら、あ奴の芸を見たいと思ってのう」

 その言葉に乱法師の顔がぱっと華やぐ。

「上様の勿体ない御言葉。六助もきっと喜びましょう」

「大勢に見せてやりたい。町民共にもじゃ。辻芸に秀でた他の者達を呼び集めても良いな。それとも相撲と組み合わせるか」

 祭り好きの信長が楽しげな案を出す。

「良いお考えにございます。六助の芸は全く見事で、小猿達の愛らしさと賢さに皆さぞかし驚く事でございましょう」

 きらきらと瞳を輝かせ乱法師が語れば語る程、邪な欲望が信長の中で再び滾っていく。

 当初は優しく相づちを打っていた信長が徐々に口数少なくなり、瞳の奥に揺らめく欲望の陽炎《かぎろい》を見て取ると、すかさず乱法師は訴えた。

「熱くてのぼせて参りました。そろそろ、二の丸に参らねば」

「うむ──仕方がない」

 信長の勢いを削ぐ事に関して、彼は随分と長けてきていた。

──

 ちょうど良い刻限であった。
 冬も迫り益々日が暮れるのが早まっている。
 二の丸に向かうのは射干を除いたお馴染みの面々だ。

 綿入りの胴服を着込んでいるお陰で頬と手に冷たさを感じるぐらいである。
 此処数日は雨も降らず、からっとした秋晴れが続き、冷たい風が却って爽快だった。

 信長には必ず警護の者が従うが、此度は各所にそうした者達が配備されているものの、蛇石の元まで行く事を許されているのは乱法師、六助、武藤三郎、伊集院藤兵衛の四名のみだ。

 果心が乱法師に呪いを掛け、彼の意思を操っていた事は極秘中の極秘である。

 乱法師不在が続き、信長が彼の部屋を度々訪れていた時には様々な憶測を呼んだものだ。

 しかし、そうした事も乱法師自身が昼の務めに戻った事で大分静かになってきていた。
 信長の命で二の丸には人っ子一人残っていなかった。
 閑散とした眺めが敷地をより広大に見せ、造り掛けの建造物を寂寞たる影が覆う。

 風が先程よりも冷たく吹くのは、ほぼ山頂だからであろう。
 日暮れ前で良かったのかもしれない。

 暗くなる前に築城の作業を切り上げさせるならば、人払いの名目として成り立つ。
 頂上に通じる道々に番兵は立つが、二の丸にはたったの五人だけ。

 信長の全身から立ち上る炎のような気が、側に立つ乱法師まで守るように包んでいるのが六助には見えた。

 灰色の情景に際立つ鮮やかさ、美しさ。

  紅の気を揺らめかせながら歩を進め蛇石に近付くと、二つの強大な気が混ざり合い螺旋状に昇っていく。

「綺麗じゃあ」

 六助の口から感嘆の溜息が洩れる。

「何が綺麗なのじゃ? 」

 六助以外の者には殺風景な景色しか見えていない。

「いえ、何でもねえです。さっさと終わらせてしまいましょう」

 自分しか見えぬ世界を表現するのは難しい。
 人の持たざる力を持つ六助には苦しみもあるが、陽の気に触れた時には何倍もの幸福感を味わう事が出来る。

 面々は蛇石が置かれた大きな穴を覗き込んだ。

「梯子を掛ければ降りれそうでございますな」

 築城作業現場で梯子を見つけるのは容易かった。
 縁に掛けた梯子を、先ず三郎、藤兵衛、六助の順に降りていく。

 彼等が何をしようとしているかと言えば、蛇石の下に穴を掘り、其処に御手楽を埋めようというのだ。

 上にいる乱法師が鋤と鍬を縄で括り、底にいる彼等に渡す。

 穴を掘る作業は短時間で終わった。
 後は出来るだけ奥に押し込むだけだ。

 上から覗き込む乱法師は灯りが欲しいと思った。

 二の丸に向かったのは未の終頃(15時頃)。
 夕七つ(16時頃)の鐘はまだ鳴らされていないというのに、やはり天候のせいで薄暗い。

 括られた御手楽を押し込むのを目を凝らして見詰める彼の腰の辺りで何かが震えた。
 手を遣ると腰に差した不動行光に触れる。

 異変は感じない。
 気のせいか──

 無事に作業を終えると、三郎と藤兵衛は六助を残して梯子を昇ってきた。

 六助は天を仰いだ。
 墨を水で溶いたような黒雲が渦巻き増殖していく。
 一雨きそうな気配であった。

 六助は二本の御幣を御手楽を埋めた辺りの土に立てた。

 右に高田王子の幣を、左にすその幣を。
 手前に米を撒き、中央には古釘を差す。

 先ずは鎮め封じの守護となる天神の祭文を唱える。
 天神は呪いに対して絶大な力を発揮するからである。

「天神七代地神五代の御時に────日本の神代に鍛《かじや》の次第といゆうぎなくして~うちとりこう明善悪ごしようが~」

 六助の声が静寂の中、力強く響き渡る。

 蛇石から発せられる悠々とした気が、祭文に合わせて揺らめいた。 
 三郎が松明を手にして戻ってきた。
 薄暗い情景に、また一つ美しい色が灯る。

 だが各々から揺らめく気の色は六助にしか見えていない。
 様々な色の気が、くすんだ景色を鮮やかに幻想的に彩っていた。

「日本の天神王様のみたまの剣とこめおき小刀剣は───けんぴんごまのはし───あれ物封じ物──是れまで大天満の天神様の御本地回向の祭文読や開いて参らする~」

 極めて長い祭文を空ですらすらと唱える六助は神々しかった。

 いざなぎ流にある数多の祭文法文が神の言葉として降りてきているようだ。
 長い祭文を唱え終えると大きく息を吐く。
 刻が経つごとに冷気が増し、息が白く流れていく。

「上様、大分冷えて参りました故、御戻りになられた方が──」

「儂は最後まで見届ける。気遣いは無用じゃ。それよりも、そなたの方が冷えている」

 そう言うや乱法師の両手を包み息を吐き掛けてやる。
 ばっと乱法師の頬に朱が差し、咄嗟に手を引っ込めようとするも逆に強く掴まれてしまう。

「遠慮致すな。もっと近う参れ。こうしていれば互いに暖かい」

 強引に引き寄せ背後から抱き締める。
 
 紅白の気が合わさり桃色に、其処だけ春の花々の蜜のような甘さが香る。
 
 信長の体温が重ねられ、確かに暖かかった。
 しかし寒さ以上に天候が気になるところだ。
 三郎の手にした松明の炎が一瞬強く揺れ動いた。

 天神の守護を得た六助は今一度天を見上げ、きりりと顔を引き締めた。
 胸の上に右手を置いたのは、懐に射干の髪を貼り付けた守り人形を入れているからだ。

 印を結び鎮め封じの終末に向けて意識と力を高めていく。

「この巫博士《かんなぎはかしょ》は~師匠次第でこれ高田の上印十二ひなごの王子様──式や十郎式や五行の大万尺の岩を行い降ろいて~打ちや鎮めてまいらする~」

 高田の行いと称される鎮め封じの唱え詞。
 高田王子とすその御幣が激しくはためく。
 風は然程強く吹いている訳ではない。

 御幣に式王子が降り給うたのだ。

 ごろごろと天が轟いた。
 はっと一同空を仰ぐ。

 黒雲の動きは先程よりも激しく、ぐるぐると渦巻き模様を形作っていく。

 まるで塒を巻く大蛇。

「上様……」

 乱法師の身体が信長の腕の中で震えた。
 寒さのせいだと思おうとした。
 なれど骨の髄まで刻み付けられた果心への恐怖が勇気を挫く。

「雨が降りそうでございます」

 己の怯懦をせめて敬愛する主には悟られまいと、降雨を気にする風を装う。

「案ずるな。降ったら降ったで雨は凌げる」

 信長は造り掛けの建造物に目を遣ると、乱法師に頬を寄せ手を固く握り締める。

 乱法師を守ろうとする強固な意思を映し、紅の気が増幅し活気付く。
 六助ならば、二人が炎に焼かれているように見えただろう。

 雷鳴の音が頻繁に、六助の声をかき消す程に大きくなってきた。

 六助の集中はそれでも途切れない。

 彼自身の若草色の気も神の助けを得て色が変じ、大きく膨れ上がっていく。
 とうとう一際大きな雷鳴と共に、閃光が天と地とを白く照らした。

──

 凄まじい雄叫びに呼応するかのように風が吹き、松明と篝火の炎が勢い良く燃え爆ぜる。

 大和信貴山城では闇夜の戦闘が繰り広げられていた。
 空には上弦の月が妖しく浮かび、星々の小さな光を圧倒している。

 松明が千も万も城に押し寄せ、方々で火の手が上がっているように見えた。

 ここにきて織田軍総大将織田信忠は総攻撃を決したのだ。

 諸将はそれぞれの持ち場で声を枯らし下知を飛ばす。
 兵達は功を競い、必死に大手搦め手より攻め掛けるが矢玉と長槍がそれを阻む。

 やはり城名人松永久秀の築いた城の守備は固い。

 城内での内乱の手筈は既に整っているが、今は城側の力を出来る限り削ぐのが第一の戦術だった。

「奴等め!援軍の入城を許して焦っておるのか。攻めよ!幾らでも攻め掛かって来い! 」

 本願寺、更に毛利からも追加で援軍が送られてくるという報が松永の気を大きくしていた。
 いや、それよりも蛇の粉の効力に因るものか。

 筋肉がはち切れんばかりに盛り上がり、若さ漲り猛る獣欲を持て余し、弓削三郎の肉体で発散させていた。

 戦時中である為具足は身に付けた儘だ。
 黒光する甲冑に対して三郎の白い肌が殊更艶かしい。
 四つん這いの獣の態勢を取らされ後ろから犯されていた。

 









 

 

 

 

 



 



 




 
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