森蘭丸外伝─果心居士

春野わか

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「なれど六助が念の為と申しておりますれば従った方が懸命かと」

 それは承知している。
 只、一刻も早く果心の事は忘れ去りたい。

 身も心も軽くなり、悪夢に魘される事も不気味な心話が頭に響く事も無くなった。
 喉元過ぎれば何とやらとばかりに平和に日々が過ぎて行く。

 とはいえ、呪詛返しから僅か数日。
 結界に囲まれていれば嫌でも果心に苦しめられた日々を想起せずにはいられない。

 何時まで結界を、と思いつつ六助に聞けずにいた。
 実は疑問をその儘にしているのは六助の佇まいに原因があった。
 険しい顔で深く考え込んでいる。
 無理に訊ねて上向いた気持ちを挫かれる事を懸念していた。
 それに彼は新たな悩みを抱えていた。

 大きな石が見つからないのだ。
 信長の言う通り近江安土近辺では目当ての石は築城に使われてしまっているようだった。
 石仏まで掻き集め階段に用い、作業に坊主まで駆り出す始末で、安土城の石段は人々が踏む度に石仏達が苦悶の表情で、あたかも恨みを訴えているように見えた。

 故に毎度の事ながら信長に相談すべきか否かと頭を悩ませているのだった。

 歯を磨き顔を洗い、結い髪をして身支度を整える。
 十月に入って朝の気温はぐっと下がり、水の冷たさに顔を顰めたが、お陰ですっきりと目が覚めた。

 灰黄緑と苔色に染分けた地に、海老茶濃紫でたわわな葡萄、柿色錆赤の酸漿《ほおずき》が刺繍された小袖。
 袴は紺藍に金糸銀糸、緑の染糸刺繍の亀甲模様。
 銀朱の地に雁形に刷り箔の袖無し胴服。

 晩秋の趣の装いで渡り廊下に向かうと、霧の名残で庭園が薄く霞んでいた。

───

 信長は機嫌が良かった。

 信貴山城攻めは嫡男の信忠に任せ、戦況の報告を受けつつ政務をこなし、早くも未来を見据えていた。

 信長の機嫌が良い事は喜ばしかったが、乱法師は漠然と物足りなく感じていた。
 格別な愛により側に侍る機会が多い為、信長の感情の動きは誰よりも察知出来る。

 但し、それだけなのである。

 万見は雑賀に検使役として長く留まっていたが、騒動も収まった為帰還していた。
 信長と打ち合わせて手際良く雑務を処理していく彼の姿を見ていると自虐的になってしまう。

 この寂しさと胸の痛みは何なのか。

「乱! 」

「はっ! 」

「少し気晴らしに付き合え! 」

 名を呼ばれて声の主に目を向けると、快活に笑う穏やかな瞳がそこにあった。

 先ず馬場に向かい馬を乗り回すのに付き合い、その後は槍や鉄砲を持たされ指導される。
 信長の気晴らしとは身体を動かす事なのだ。
 額には汗が滲み、冷たい風を心地好いと思う程に身体は温まっていた。

「流石に若いだけの事はある。まだまだ儂には及ばぬがのう」

 汗を拭いながら楽しげに笑う。
 それは乱法師が求める、最も馴染み深い信長の姿だった。

 だからなのであろう。
 天下人としての信長を畏敬しながらも寂しいと感じてしまうのは。

「元気になって良かった。真に良かった」

 そう言い乱法師の頭を撫でた。
 まるで子供扱いである。

 信長にとって乱法師と二人で過ごす時は私的であり、寛げる癒しの時間であった。

「石は見つかったのか? 」

「いえ、まだにございます」

「やはりそうか! 」

 ある筈が無いという予想が当たったのが嬉しいようだ。

「納得出来る石が見つからず、どうしたものかと」 

「大きければ大きい方が良いのであれば、あるではないか。どえりゃあのがな! 」

 唐突に尾張訛りで瞳を輝かせる信長を呆然と見詰める。

「分からぬか。蛇石じゃ」

「あ!ですが、あれは……」

「言い伝えでは蛇神が石となったという事じゃが、もう蛇は懲り懲りか?ははは! 」

 信長の口調は戯れ言めいていた。

 だが蛇石と聞いた途端、初めて上に乗った時の神掛かった体験を思い出し、乱法師の項が総毛立った。

「ですが蛇石は安土の守り石。そのような大事な石を御貸し頂くのは心苦しゅうございます」

 果心を封印する為に用いるとしか聞いていなかったのを後悔する。
 石を運ばねばならぬのならば論外。

 凡そ五間(約10m)、重さは三万貫(約112トン)の大石で、一万人で山頂まで引き上げるのに三日三晩掛かったというのだから桁外れな大きさである。
 そこらの石とは比べようもない迫力は、邪神鎮めの儀式には相応しかろう。

「蛇石で良ければ後始末とやらを行う事を許す」

「承知致しました。忝のう存じまする」

───

 鳥達の囀りは、射干を微睡みから誘《いざな》うには足りなかった。
 未だ黎明の刻限であり、戦場であろうとも睡眠は必須である。

 ふと六助の顔が浮かび頬が緩む。 
 半寝に近い状態の彼女は、様々な鳥達の種類に精通し鳴き声を聞き分けていた。

 つぐみ、ほおじろ、山鳩、むくどり。

 城側を疲弊させる目的で深更にも攻撃は続いたが今は止み、平時と錯覚してしまう長閑な山野の夜明けを迎えようとしていた。

 キィーーキィーーキチキチキチ

 一際甲高く攻撃的な鳴き声に重い瞼が上がる。

「百舌鳥! 」
 
 初秋から晩秋に掛け、百舌鳥の間で繰り広げられる縄張り争い。
 百舌鳥の高鳴きに彼女は飛び起きた。
 木の枝に冬に備えての早贄が見られたのに何故気付かなかったのか。

 つぐみ、むくどりと思っていたのは実は百舌鳥の声。
 百舌鳥とは名前の通り他の鳥の声真似を得意とする凶鳥。

 胸騒ぎがした。
 周囲が何やらざわついてきたので外に飛び出す。
 信貴山城の方角から煙が上がっていた。

 即座に森長可の元に馳せ参じる。

「何事でございますか? 」

「分からぬ。調べて参れ! 」

「はっ! 」

 煙の方角に走る彼女の勘が囁いた。
 つぐみの鳴き声を百舌鳥と考えたが、百舌鳥の鳴き声と思ったものはひょっとして───

 黒煙は今や山頂を覆い、遠目からは落城の様相を呈していた。
 山頂近く、搦め手の方角で火の手が上がっているようだ。

 信貴山城側に損害があるのは明白なのだが、織田方に混乱が生じているのは誰も攻撃を命じた覚えがないからであろう。

 城内で反乱か。
 それとも此方から無断で攻撃を仕掛けた者がいるのか。
 内乱であれば好機。
 策略であれば妄りに動けぬ。

 総大将信忠は直ちに諸将を集め状況の確認を急がせた。

 結果、燃えているのは信貴山中腹にある
朝護孫子寺、別名信貴山寺である事だけは掴めた。
 朝護孫子寺は聖徳太子を勝利に導いた、戦の神である毘沙門天を祀っている。
 どうやら境内の毘沙門堂が火元であるらしい。

 諸将の言に依り好機と判断した信忠は攻撃命令を下した。
 
──

 兵士達の雄叫びと轟く銃声、馬の嘶きと山野に生息する鳥獣の鳴き声が混じる。
 毘沙門堂こそが激戦の場であるが如く、業火の中華麗な伽藍が崩れ落ちるのが見えた。

 先日筒井順慶は信忠に城内を撹乱する手が無いかと問われ、こう答えていた。

「弾正が家臣の内に、嘗て筒井に与していた者がおりまする。その者達に働きかければ恐らく寝返りましょう」と。

 大和の国衆を従えてきた順慶だからこそ叶う策である。
 松永の侵攻に依り一時は地盤を失い掛けたが、今となっては寝返った者達は後悔している事であろう。

 だが此度の火は内乱とは異なる。
 月読が動いたに違いない。

 城の外と中とで密に連絡を取り合うのは難しい。
 調略を請け負ったものの順慶はまだ何も仕掛けてはいなかった。

 月読から頻繁に情報を得る事は危険であるし、いざという時の取り決めというものも特に無く、お互いの信頼関係に依る所が大きかった。

 月読は故あって順慶の家臣となった。
 そして順慶と男色関係にあった。
 大和の国衆出身でも武家の出でもない。
 
 だからこそ強く反間として潜入する事を申し出た。
 深い愛故に止めたが、月読は愛故に従わなかった。

「私以外にその任務まる者がおりましょうや」と。

 長く潜る内に敵方に取り込まれる危険の極めて少ない強固な絆。
 言葉は不要というのは言い過ぎでも、愛すればこそ他の者には伝わらぬ二人だけの言葉があった。

 例えば笛の音。

 必ず己の力になると知らせてきている。
 但し、その方法は分からない。

 ところが夜明け前、百舌鳥の高鳴きが聞こえた。
 忍びの間では獣の鳴き声を真似て連絡を取り合う事がある。

 月読は鳥の鳴き真似に長けていた。
 巧み過ぎて真の鳥か月読なのかを順慶とて聞き分けるのは難しい。

 なれど愛する者の行動を読むに理屈はいらぬ。
 とうとう仕掛けたのだ、直感がそう告げていた。

──

 先程までの紅蓮の炎は僅かに収まりつつあった。
 その代わりに雲のような白煙が立ち込め、激しい銃撃による硝煙が兵士達を盲目にした。

 しかし堅城に対して真っ向から立ち向かうよりも、騒ぎに乗じて利を得ようと攻撃の手を緩めなかった。

 白煙に包まれた虎口から抜け出る数名の影があった。
 黒い具足に顔半分を覆う面貌で、人相は判別出来ない。
 元より煙と激しい攻防の中、その者達を注視する者はいなかった。
 影達は戦いに背を向け、寧ろ未だ鎮火しない朝護孫子寺の方角から搦め手の道を下って行く。

 当然、其方は手薄であった。

───

 六助は溜息を吐き、小袖の懐に手を差し入れた。
 そっと取り出したのは紙製の人形である。

 それには髪の毛が数本貼り付けてあった。

「射干さん……」

 彼女が果心の名を求めて大和に向かう際、その身を案じて切り抜いた人形である。
 呪術に有効な髪を用いる事で、遠方からでも呪的攻撃を封じる事が出来る。

 彼女に恋心を抱く六助にとって、それは捨て難いものであった。
 つい懐から取り出してみたのは、彼以外に果心から乱法師を守れないという長きに渡る重圧が、今になって疲労と共に押し寄せていたからだ。

 射干は人の感情に敏感な女である。

 周囲の喜ぶ顔の中に、一人暗い面持ちの彼の懊悩を直ぐに察した。
 優しく労る彼女に抱き付き、思わず豊満な胸に顔を埋め思いを迸《ほとばし》らせたのだ。

「妻になって欲しい。貴女は菩薩か天女や。いかんのは分かっちょりますが……聞いとーせ。綺麗で強うって優しゅうて、げに心が大きい。昼も夜も、射干さんの事を考えちゅーと幸せで、やけんど苦しい。叶わん、やけんど言わんではいられんのじゃ。儂は誰よりも貴女が好きなんや」

 此処まで口走ってしまうと弾みが付き、止めどなく思いが溢れた。

 射干が六助の頭を優しく撫でた。

 はっと顔を上げると、菩薩に等しい彼女が微笑んでいた。
 見蕩れている内に柔らかい何かが唇に触れた。

 全身が熱く燃え、咄嗟に射干を押し退けようとするも、柔らかく優しく包むような彼女の唇と指先に、六助は抗う事が出来なかった。

「嬉しいよ。そんな事言ってくれたのは、あんたが初めてさ。あんたと夫婦になれたらどんなにいいだろう」

 六助は夢の中を揺蕩うていたが、彼女の言葉に今度は一気に極楽浄土にまで心は昇った。

「射干さんみたいな人なら、言い寄る男は儂で百人、千人目じゃないんやか?夢見ゆーみたいだ。ずっとずっと隠してきたけんど、口に出して良かったあ」

 六助は応と受け止めたが、射干は決して承知した訳ではない。
 但し六助と夫婦になれたらという気持ちに嘘偽りは無かった。

 子を成し畑を耕して平和に暮らす。
 そんな普通の女としての未来は夢の又夢。

 男を誑かし時に人を殺め、危険と隣合わせの忍び家業。
 女としての幸せなど地獄や極楽よりも遥か遠くにある生き様。
 何時か孤独に死んで行く。
 そう覚悟して生きてきた。

 好きだ惚れたのと囁く男は数多いたが、間者として出会った者に心許せる筈が無い。

 彼女の心に暖かい光が灯った。
 一瞬だが射干は夢を見た。
 六助の傍らで赤子に乳を含ませる己の姿を──

 乱法師を救う為、皆が六助を頼った。
 己にしか出来ぬ事と覚悟を決めて望んだ事だった。

 しかし果心と対峙する度、常に下手を打てば全員の死という緊張を孕み、心身は磨耗した。

 皆が乱法師にばかり目を向け、六助の心の内まで気遣う視野を持つ者は射干一人だけだったのだ。
 己の死後も果心という存在が此の世を荒らさぬようにと未来まで背負うのは重過ぎた。

「六、入るぞ」

 襖の外から掛けられた乱法師の声に、慌てて射干の人形を懐に戻す。

 乱法師に与えられた部屋の直ぐ隣に、六助等家臣である者達の控えの間もあった。
 身に付いた優美な所作で腰を下ろし、乱法師は静かに切り出した。

「求めていた石が見付かったやもしれぬ」

「石が……大きな石でごぜえますか? 」

 六助の意識は未だ射干の甘い唇と笑顔の記憶に溺れていたが、それを封じ込めるように乱法師の言葉を反芻する。

「そうじゃ六!どえりゃあのじゃ! 」

 信長の口真似でおどけ、乱法師が爽やかに破顔する。

「それは何処に?いや、どれぐらいの大きさなのでごぜえますか? 」

 乱法師は伝わる蛇石の大きさを得意気に伝えた。

「だねど、そがな石、良う見付けられたなあ」

 六助の顔色はぱっと明るくなったが、逆に乱法師は不安そうに眉を寄せた。

「大層な謂われのある上様の御威光を示す見事なものじゃが、山頂に上げるのに一万人も要したとか。それで六、儂は石をどのように用いるのか知らぬ。何処かに運ばねばならぬならば諦めるしかないのじゃが」


 







 

 


 

 
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