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果心は余りにも異例で異端、異色過ぎる存在である。
いざなぎ流に伝わる数多の法文、陰陽道の古い文献にまで目を凝らしても、確実に滅する方法を見出す事は難しいだろう。
そこで六助自身が異端であった事が幸いだったのかもしれない。
彼は口伝の教えを己のものとしながら、それらを組み合わせて新しい方法を編み出していく創造性に優れていた。
だが果心は強大で想像を上回る力を持つ化け物。
霊力を最大に発揮して何とか呪詛返しを成功させたが、封印するにしても相当の気力と体力が必要となるだろう。
いや、気力体力というよりも。
「早く始めよう。もう終わらせたい。特別な準備や品が必要なのか? 」
希望が湧いてきたのか乱法師の声は明るく弾んでいた。
懊悩たる物思いから我に返った六助は、内心に抱えた不安を吐露する事は出来なかった。
「石が必要なぐれえでごぜえます。大きな石──」
「どれぐらいの大きさであれば良いのじゃ? 」
当然の問いに六助は狼狽え、無邪気な瞳から視線を逸らした。
「出来るっだけ大けな石がええんや。大きけりゃ大きい程ええ」
このように言われて想像する大きさは人それぞれであろう。
尺や寸などの指定が無ければ各々の感覚的判断に依ってしまう。
但し、多くの人々が思い浮かべる大きさには細かい寸法に違いはあれど然程違いは無いように思われる。
乱法師も敢えて追求はしなかった。
彼の思い浮かべた大きさとは、精々庭に置かれる飾り岩程度であった。
六助が求める大きさを厳密に伝えられなかったのには理由がある。
『すそ』という御手楽に集められた禍々しいものは、括った後石の下に埋められる。
埋めた後、高田の王子という式王子の力を借りて上印を施す。
上印とは封印と同じく鎮め封じる事である。
物理的重さだけで封じる訳ではないが、魔性が出てこれぬ為の重石であるので、大きければ大きいに越した事はない。
六助の危惧しているのは果心の怨念と力を封じるとなったら、それに見合う大きな石でなくては、という点である。
前例の無い事態であるから、どれぐらいの大きさであれば良いのか、そもそも大きさは其処まで重要でないのかさえ分からない。
果心の力に見合う大きさが必要となったら国中探しても見つかるかどうか。
出来るだけ大きい石、ともかく皆が見て大きいと感じる程度の石で妥協するしかない。
「相分かった。だが御手楽を早う埋めねば、集まった悪しきものが逃げ出してしまうのではないか? 」
ここで少し面倒だが乱法師の誤解を解く事にした。
呪詛返しの後、御手楽を解体し、二本を残して法の枕から抜き取った御幣と共に『不動びゃくの縄』という楮《こうぞ》の皮で括る。
その後数珠の間を三度潜らせ、五種類の関を打つ。
剣の印、岩の印、ばらもんの印、あじろの印、金わの印である。
関は防御、結界。
魔性が逃げ出せぬように打つのである。
実は乱法師が意識を失っている間に、あれこれとした始末は既に行っていた。
後は大きな石が見つかれば良いだけ。
だが六助は尚も懊悩していた。
果てしない憎悪と妄執を、全て御手楽の内に集められたのだろうか、と。
───
日没後に焚かれた数多の篝火が、夜空に煌めく星々と共に闇を照らす。
三日月は既に没していた。
潜めた兵士達の息遣いと甲冑が触れ合う音だけが、此処が戦場である事を物語っている。
信貴山城の周囲を包む静謐の中に、緊張の糸が張り巡らされていた。
信貴山城が支城の片岡城、黒塚砦のように容易く落とせない事は誰の目にも明白だ。
標高433mの山城で、南は880m東西に600mという大和最大級の巨大城郭で、山全体に築かれた曲輪群が攻撃を阻む。
松永は信長が兵力を割けずに懐柔策に終始していた間に改修工事を行っていた。
曲輪の一部を壊し、土塁や東側に階段曲輪、堀切などを設け防御を強化した。
籠城の兵力は凡そ八千。
それに対し寄せ手は四万。
信貴山城には他にも数多の仕掛けがあり、半年は持ち堪えられるというのが松永の目算であった。
織田軍は手始めに城下を焼き払った。
火の粉を散らしながら炎が巻き上がり、黒煙が空の色を鈍らせる。
鎮火しても燻り続ける煙の匂いが風で運ばれ、城兵達の鼻に届いた。
織田軍が、力で攻め落とすべく山頂を目指す。
しかし厚い城壁の狭間からの銃撃に、寄せ手に数多の血が流れ退却を強いられる。
何度も攻めては退きを繰り返したが、噂に違わぬ堅城は、織田軍の前に仁王の如く聳え立っていた。
一際明るく篝火に照らされた陣屋には、織田の家紋、木瓜紋が染め抜かれた鬱金色の幕が張られていた。
中央に置かれた几を険しい顔つきで諸将が囲む。
総大将織田信忠から見て、左右に佐久間信盛、丹羽長秀、羽柴秀吉等、年功序列で床几に腰かけ城攻めの策を練っている最中であった。
やはり真っ向から数に物言わせて攻め込むのは難しく、多大な犠牲を払う事は必至だ。
松永は今どんな心持ちでいるのか。
自棄《やけ》になっていて、憎き織田軍を苦しめられればそれで良いのか。
順慶は松永の心境に思いを巡らした。
己の大和守護就任が松永の謀反の要因である事は疑いようがない。
憎き仇とは不思議なもので、その心情を深く理解するのは恋心にも似ている。
今になって松永の置かれた状況に同情していた。
松永が追い詰められているのは明白だ。
もし己が逆の立場だったら──
やはり同じく謀反を起こしたかもしれない。
そのように思ったが、恐らくそうはならなかったであろう。
順慶は年若いが領民に慕われる人望篤い男である。
槍を捧げ持ち軍を率いる事に、常に矛盾を感じている。
純粋な武士とは心の在り方が異なるのだ。
様々な局面で迷い揺らぐのは並みの者と変わらない。
だが其処で耳を傾けるのは仏の声であった。
止むに止まれぬ状況に置かれたとて謀反は不義理である。
況してや己の野心の為に主を裏切るのを是とする訳がない。
その仏心故に彼は大和守護の地位を得たのであり、此度も叛かなかった。
そして後々起こる国を揺るがす大事変の折も、その信念に叛く事は出来なかったのだ。
「順慶よ。城内に内乱、或いは寝返りを誘う手はないか」
総大将信忠が、父信長に良く似た双眸を向けた。
「それは──」
順慶は口を開き、続く言葉を呑んだ。
凍える夜気を震わせる麗しい笛の音。
諸将もはっと気付き耳を澄ませる。
焼かれた草木が放つ焦げ臭い匂い、血生臭ささに心ささくれ立つ兵士達の鬱憤を吹き払うように、清冽な笛の音が高く低く響き渡る。
「何と雅やかな笛の音であろう」
思わずそう呟いたのは、二条家が継承してきた和歌の秘伝、古今伝授を受けた細川藤孝である。
信貴山城から流れる音色は幽玄で艶やかに物悲しく、耳にする者の心情によって色を変えた。
荒々しく強《こわ》い髭面の佐久間信盛でさえも、戦場にある事を忘れ聞き惚れている。
順慶の顔色の変化と唇の震えに気付く者はいなかった。
『月読……』
『私は此処におりまする』
朗々たる笛の音は、愛しい者の唇が紡ぐ言葉として、変わらぬ愛を訴えているのだと順慶は確信した。
悲哀の波に堪え、拳を握り締める。
天空を仰げど地上での営みには興味無さげに星が瞬くばかり。
彼の想い人である麗しい月の姿は其処には無い。
「少将様(信忠)!策ならばございます」
諸将の視線が再び順慶に集まった。
──
「今宵は特に冴え渡っていた」
篠笛の唄口から朱唇を外した三郎に松永が声を掛ける。
天守閣から望む眼下の光景は闇に包まれ、瞳に映るのは敵の篝火だけ。
なれど笛の音で癒された心には、長閑に蛍が愛を囁き交わしているようにさえ見えた。
勝つ事を諦めている訳ではないのに、勝てぬ事も分かっていた。
死を覚悟しているのに未だ命の炎は盛んに燃え滾っている。
今の状況に至るには、止むに止まれぬ事情があったのかと問われれば、それも疑問である。
松永の心境は複雑に縒《よ》れていた。
只一つ理解しているのは、もう後戻りは出来ぬという一事のみ。
それは天王寺砦を捨てた時からそうであったし、先にあるのは死のみであろう。
織田軍は今、静まり返っている。
今日の戦闘では、松永方から死者は出なかった。
城兵の士気は上がっている。
「早く援軍を要請した方が良い」
松永と弓削三郎以外にもう一人。
柳生松吟庵の声が松永を現に戻した。
「それは分かっている」
当てにしていた上杉謙信の西上が無くなった今、援軍要請は必須である。
兵力も兵糧も外からの助けが無くば何れ尽きる。
「本願寺に援軍を! 」
此処から最も近く、当てに出来る味方といえば本願寺である。
「城から抜け出すのは困難じゃ。誰を密使として遣わすか。信頼出来て無事に戻って来れる者でなくてはならぬ」
三郎の瞳が大きく見開かれ、肩が震えた。
「儂が参ろう」
柳生松吟庵が此処ぞとばかり胆力を示した。
「ならぬ!松吟庵! 」
「儂は適任であろう。伊賀者と共に城を出て、援軍を連れ戻って見せる」
老境の男達は暫し睨み合った。
「そなたは逃げよ!今のうちなら間に合う」
「たわけた事を!馬鹿にするにも程があるぞ!儂とて柳生の男、腕には覚えがある! 」
二人のやり取りを座して見守る白蝋のような面の三郎の胸中は如何に。
「そなたを道連れにはしとうない。そなたは生きるべきなのじゃ! 」
松永は目を赤くして本音をぶちまけた。
「弾正、気持ちは嬉しい。なれど此処で逃げては笑い者じゃ。こんな皺首惜しくはない。友を見棄て生き延びたとて、どれ程の余命ぞ。頼む!儂に密使の役、やらせてくれ! 」
三郎がするりと立ち上がり、いきり立つ二人の男達の胸の上に白い指先を置いた。
「私がその役、仕りまする」
低く掠れた声が唇から囁くように洩れた。
二人の男達は暫し間抜け面を並べた。
「三郎……ならぬ……」
漸く頭に血が巡り止めようとする松永の唇を、己の唇でさっと塞いだ。
「私が参りまする」
唇を重ねていた時は長かったのか短かかったのか。
意識は浮遊し空から俯瞰するように、三郎を止める己の声が他人事のように聞こえた。
理由も説明も一切不要。
何故と問うは愚か。
青みがかった月を思わせる瞳はそう語っていた。
「抜け出す事は難しい……そなたは儂の側におらねばならぬ」
「容易く城を抜け出して御覧に入れます。私はお二方の寵を同時に受けた身なれば、そのお情けに報いとう存じます」
三人の交情を思い起こさせる生々しさで、あくまでも柔らかく二人に語り掛ける。
見目麗しい優姿の若衆に、二人の男達は呑まれていた。
考えてもみよ。
誰かがやらねばならぬ事。
松吟庵も嫌、三郎も嫌では罷り通らぬ。
他に適任がいるのか。
三郎は帯に手を掛けするりと解いた。
声を失った男達の前で着衣を脱ぎ捨てる。
斯様な時に。
そんな月並みな言葉は弓削三郎を前にしては寧ろ似つかわしくないであろう。
緊張を孕む戦場故に、猛る闘志が淫欲にも火を点す。
背に負うた死でさえ甘く耳に囁くのだ。
「どうか私をお選び下さい」と。
男達は三郎の肌に魅せられる事に依って、彼の申し出を受け入れたも同然だった。
彼の言葉を退けたければ肉体の誘惑も退けねばならなかったのだ。
艶めく声が男達から理性という鎧を毟り取る。
三郎の肉体は、提案を受け入れた褒美として男達に供された。
──
夜目の利く射干は、瞬く星の光に惑わされず、濃紺色の空を流れる雲の影を追っていた。
彼女は今、森武蔵守長可の陣屋にあった。
何故いるのかというと、彼女からすれば本来の役務に戻っただけの事である。
甲賀五十三家の一つである伴家と森家とは、父の森可成の代より縁が深い。
乱法師毒殺騒動以来、彼を側で守っていたが、果心の脅威が無くなった今、兄の長可に従い諜報活動を行う事になった。
視力だけでなく発達した聴力が微かな音を捕らえた。
「笛の音! 」
天王寺砦で何度か耳にした、忘れもしない笛の調べに間違いない。
彼女にとって信貴山城討伐の陣営に加わる事は、弓削三郎の狙いを突き止める近道でもあった。
何かの合図か、と耳に神経を集中するが、砦で聞いた曲調と同じであり、特別な狙いは感じ取れなかった。
弓削三郎は間者である。
ならば此方にとっては今は味方という事になろうか。
くるくると立場が入れ替わる彼は、満ち欠け形を変える月のようだ。
何よりも心に掛かっているのは、乱法師毒殺未遂の一件に関わっているのではないかという疑惑。
そうであるならば許すまじ。
この先も乱法師の命が脅かされる事あれば只ではおかぬと心に決めていた。
笛の音は、未だ信貴山城に三郎がある事を教えてくれた。
天王寺砦を捨てた時点で逃げようと思えば出来た筈。
射干は闇夜を睨み、白い息を吐きつつ考えを巡らした。
───
「乱法師様、昨夜は良くお休みになられましたか? 」
「うむ。もう、ひなごの結界は必要ないのではないか? 」
湯漬を蕪の塩漬けと共に口に運びながら武藤三郎に本音を洩らした。
いざなぎ流に伝わる数多の法文、陰陽道の古い文献にまで目を凝らしても、確実に滅する方法を見出す事は難しいだろう。
そこで六助自身が異端であった事が幸いだったのかもしれない。
彼は口伝の教えを己のものとしながら、それらを組み合わせて新しい方法を編み出していく創造性に優れていた。
だが果心は強大で想像を上回る力を持つ化け物。
霊力を最大に発揮して何とか呪詛返しを成功させたが、封印するにしても相当の気力と体力が必要となるだろう。
いや、気力体力というよりも。
「早く始めよう。もう終わらせたい。特別な準備や品が必要なのか? 」
希望が湧いてきたのか乱法師の声は明るく弾んでいた。
懊悩たる物思いから我に返った六助は、内心に抱えた不安を吐露する事は出来なかった。
「石が必要なぐれえでごぜえます。大きな石──」
「どれぐらいの大きさであれば良いのじゃ? 」
当然の問いに六助は狼狽え、無邪気な瞳から視線を逸らした。
「出来るっだけ大けな石がええんや。大きけりゃ大きい程ええ」
このように言われて想像する大きさは人それぞれであろう。
尺や寸などの指定が無ければ各々の感覚的判断に依ってしまう。
但し、多くの人々が思い浮かべる大きさには細かい寸法に違いはあれど然程違いは無いように思われる。
乱法師も敢えて追求はしなかった。
彼の思い浮かべた大きさとは、精々庭に置かれる飾り岩程度であった。
六助が求める大きさを厳密に伝えられなかったのには理由がある。
『すそ』という御手楽に集められた禍々しいものは、括った後石の下に埋められる。
埋めた後、高田の王子という式王子の力を借りて上印を施す。
上印とは封印と同じく鎮め封じる事である。
物理的重さだけで封じる訳ではないが、魔性が出てこれぬ為の重石であるので、大きければ大きいに越した事はない。
六助の危惧しているのは果心の怨念と力を封じるとなったら、それに見合う大きな石でなくては、という点である。
前例の無い事態であるから、どれぐらいの大きさであれば良いのか、そもそも大きさは其処まで重要でないのかさえ分からない。
果心の力に見合う大きさが必要となったら国中探しても見つかるかどうか。
出来るだけ大きい石、ともかく皆が見て大きいと感じる程度の石で妥協するしかない。
「相分かった。だが御手楽を早う埋めねば、集まった悪しきものが逃げ出してしまうのではないか? 」
ここで少し面倒だが乱法師の誤解を解く事にした。
呪詛返しの後、御手楽を解体し、二本を残して法の枕から抜き取った御幣と共に『不動びゃくの縄』という楮《こうぞ》の皮で括る。
その後数珠の間を三度潜らせ、五種類の関を打つ。
剣の印、岩の印、ばらもんの印、あじろの印、金わの印である。
関は防御、結界。
魔性が逃げ出せぬように打つのである。
実は乱法師が意識を失っている間に、あれこれとした始末は既に行っていた。
後は大きな石が見つかれば良いだけ。
だが六助は尚も懊悩していた。
果てしない憎悪と妄執を、全て御手楽の内に集められたのだろうか、と。
───
日没後に焚かれた数多の篝火が、夜空に煌めく星々と共に闇を照らす。
三日月は既に没していた。
潜めた兵士達の息遣いと甲冑が触れ合う音だけが、此処が戦場である事を物語っている。
信貴山城の周囲を包む静謐の中に、緊張の糸が張り巡らされていた。
信貴山城が支城の片岡城、黒塚砦のように容易く落とせない事は誰の目にも明白だ。
標高433mの山城で、南は880m東西に600mという大和最大級の巨大城郭で、山全体に築かれた曲輪群が攻撃を阻む。
松永は信長が兵力を割けずに懐柔策に終始していた間に改修工事を行っていた。
曲輪の一部を壊し、土塁や東側に階段曲輪、堀切などを設け防御を強化した。
籠城の兵力は凡そ八千。
それに対し寄せ手は四万。
信貴山城には他にも数多の仕掛けがあり、半年は持ち堪えられるというのが松永の目算であった。
織田軍は手始めに城下を焼き払った。
火の粉を散らしながら炎が巻き上がり、黒煙が空の色を鈍らせる。
鎮火しても燻り続ける煙の匂いが風で運ばれ、城兵達の鼻に届いた。
織田軍が、力で攻め落とすべく山頂を目指す。
しかし厚い城壁の狭間からの銃撃に、寄せ手に数多の血が流れ退却を強いられる。
何度も攻めては退きを繰り返したが、噂に違わぬ堅城は、織田軍の前に仁王の如く聳え立っていた。
一際明るく篝火に照らされた陣屋には、織田の家紋、木瓜紋が染め抜かれた鬱金色の幕が張られていた。
中央に置かれた几を険しい顔つきで諸将が囲む。
総大将織田信忠から見て、左右に佐久間信盛、丹羽長秀、羽柴秀吉等、年功序列で床几に腰かけ城攻めの策を練っている最中であった。
やはり真っ向から数に物言わせて攻め込むのは難しく、多大な犠牲を払う事は必至だ。
松永は今どんな心持ちでいるのか。
自棄《やけ》になっていて、憎き織田軍を苦しめられればそれで良いのか。
順慶は松永の心境に思いを巡らした。
己の大和守護就任が松永の謀反の要因である事は疑いようがない。
憎き仇とは不思議なもので、その心情を深く理解するのは恋心にも似ている。
今になって松永の置かれた状況に同情していた。
松永が追い詰められているのは明白だ。
もし己が逆の立場だったら──
やはり同じく謀反を起こしたかもしれない。
そのように思ったが、恐らくそうはならなかったであろう。
順慶は年若いが領民に慕われる人望篤い男である。
槍を捧げ持ち軍を率いる事に、常に矛盾を感じている。
純粋な武士とは心の在り方が異なるのだ。
様々な局面で迷い揺らぐのは並みの者と変わらない。
だが其処で耳を傾けるのは仏の声であった。
止むに止まれぬ状況に置かれたとて謀反は不義理である。
況してや己の野心の為に主を裏切るのを是とする訳がない。
その仏心故に彼は大和守護の地位を得たのであり、此度も叛かなかった。
そして後々起こる国を揺るがす大事変の折も、その信念に叛く事は出来なかったのだ。
「順慶よ。城内に内乱、或いは寝返りを誘う手はないか」
総大将信忠が、父信長に良く似た双眸を向けた。
「それは──」
順慶は口を開き、続く言葉を呑んだ。
凍える夜気を震わせる麗しい笛の音。
諸将もはっと気付き耳を澄ませる。
焼かれた草木が放つ焦げ臭い匂い、血生臭ささに心ささくれ立つ兵士達の鬱憤を吹き払うように、清冽な笛の音が高く低く響き渡る。
「何と雅やかな笛の音であろう」
思わずそう呟いたのは、二条家が継承してきた和歌の秘伝、古今伝授を受けた細川藤孝である。
信貴山城から流れる音色は幽玄で艶やかに物悲しく、耳にする者の心情によって色を変えた。
荒々しく強《こわ》い髭面の佐久間信盛でさえも、戦場にある事を忘れ聞き惚れている。
順慶の顔色の変化と唇の震えに気付く者はいなかった。
『月読……』
『私は此処におりまする』
朗々たる笛の音は、愛しい者の唇が紡ぐ言葉として、変わらぬ愛を訴えているのだと順慶は確信した。
悲哀の波に堪え、拳を握り締める。
天空を仰げど地上での営みには興味無さげに星が瞬くばかり。
彼の想い人である麗しい月の姿は其処には無い。
「少将様(信忠)!策ならばございます」
諸将の視線が再び順慶に集まった。
──
「今宵は特に冴え渡っていた」
篠笛の唄口から朱唇を外した三郎に松永が声を掛ける。
天守閣から望む眼下の光景は闇に包まれ、瞳に映るのは敵の篝火だけ。
なれど笛の音で癒された心には、長閑に蛍が愛を囁き交わしているようにさえ見えた。
勝つ事を諦めている訳ではないのに、勝てぬ事も分かっていた。
死を覚悟しているのに未だ命の炎は盛んに燃え滾っている。
今の状況に至るには、止むに止まれぬ事情があったのかと問われれば、それも疑問である。
松永の心境は複雑に縒《よ》れていた。
只一つ理解しているのは、もう後戻りは出来ぬという一事のみ。
それは天王寺砦を捨てた時からそうであったし、先にあるのは死のみであろう。
織田軍は今、静まり返っている。
今日の戦闘では、松永方から死者は出なかった。
城兵の士気は上がっている。
「早く援軍を要請した方が良い」
松永と弓削三郎以外にもう一人。
柳生松吟庵の声が松永を現に戻した。
「それは分かっている」
当てにしていた上杉謙信の西上が無くなった今、援軍要請は必須である。
兵力も兵糧も外からの助けが無くば何れ尽きる。
「本願寺に援軍を! 」
此処から最も近く、当てに出来る味方といえば本願寺である。
「城から抜け出すのは困難じゃ。誰を密使として遣わすか。信頼出来て無事に戻って来れる者でなくてはならぬ」
三郎の瞳が大きく見開かれ、肩が震えた。
「儂が参ろう」
柳生松吟庵が此処ぞとばかり胆力を示した。
「ならぬ!松吟庵! 」
「儂は適任であろう。伊賀者と共に城を出て、援軍を連れ戻って見せる」
老境の男達は暫し睨み合った。
「そなたは逃げよ!今のうちなら間に合う」
「たわけた事を!馬鹿にするにも程があるぞ!儂とて柳生の男、腕には覚えがある! 」
二人のやり取りを座して見守る白蝋のような面の三郎の胸中は如何に。
「そなたを道連れにはしとうない。そなたは生きるべきなのじゃ! 」
松永は目を赤くして本音をぶちまけた。
「弾正、気持ちは嬉しい。なれど此処で逃げては笑い者じゃ。こんな皺首惜しくはない。友を見棄て生き延びたとて、どれ程の余命ぞ。頼む!儂に密使の役、やらせてくれ! 」
三郎がするりと立ち上がり、いきり立つ二人の男達の胸の上に白い指先を置いた。
「私がその役、仕りまする」
低く掠れた声が唇から囁くように洩れた。
二人の男達は暫し間抜け面を並べた。
「三郎……ならぬ……」
漸く頭に血が巡り止めようとする松永の唇を、己の唇でさっと塞いだ。
「私が参りまする」
唇を重ねていた時は長かったのか短かかったのか。
意識は浮遊し空から俯瞰するように、三郎を止める己の声が他人事のように聞こえた。
理由も説明も一切不要。
何故と問うは愚か。
青みがかった月を思わせる瞳はそう語っていた。
「抜け出す事は難しい……そなたは儂の側におらねばならぬ」
「容易く城を抜け出して御覧に入れます。私はお二方の寵を同時に受けた身なれば、そのお情けに報いとう存じます」
三人の交情を思い起こさせる生々しさで、あくまでも柔らかく二人に語り掛ける。
見目麗しい優姿の若衆に、二人の男達は呑まれていた。
考えてもみよ。
誰かがやらねばならぬ事。
松吟庵も嫌、三郎も嫌では罷り通らぬ。
他に適任がいるのか。
三郎は帯に手を掛けするりと解いた。
声を失った男達の前で着衣を脱ぎ捨てる。
斯様な時に。
そんな月並みな言葉は弓削三郎を前にしては寧ろ似つかわしくないであろう。
緊張を孕む戦場故に、猛る闘志が淫欲にも火を点す。
背に負うた死でさえ甘く耳に囁くのだ。
「どうか私をお選び下さい」と。
男達は三郎の肌に魅せられる事に依って、彼の申し出を受け入れたも同然だった。
彼の言葉を退けたければ肉体の誘惑も退けねばならなかったのだ。
艶めく声が男達から理性という鎧を毟り取る。
三郎の肉体は、提案を受け入れた褒美として男達に供された。
──
夜目の利く射干は、瞬く星の光に惑わされず、濃紺色の空を流れる雲の影を追っていた。
彼女は今、森武蔵守長可の陣屋にあった。
何故いるのかというと、彼女からすれば本来の役務に戻っただけの事である。
甲賀五十三家の一つである伴家と森家とは、父の森可成の代より縁が深い。
乱法師毒殺騒動以来、彼を側で守っていたが、果心の脅威が無くなった今、兄の長可に従い諜報活動を行う事になった。
視力だけでなく発達した聴力が微かな音を捕らえた。
「笛の音! 」
天王寺砦で何度か耳にした、忘れもしない笛の調べに間違いない。
彼女にとって信貴山城討伐の陣営に加わる事は、弓削三郎の狙いを突き止める近道でもあった。
何かの合図か、と耳に神経を集中するが、砦で聞いた曲調と同じであり、特別な狙いは感じ取れなかった。
弓削三郎は間者である。
ならば此方にとっては今は味方という事になろうか。
くるくると立場が入れ替わる彼は、満ち欠け形を変える月のようだ。
何よりも心に掛かっているのは、乱法師毒殺未遂の一件に関わっているのではないかという疑惑。
そうであるならば許すまじ。
この先も乱法師の命が脅かされる事あれば只ではおかぬと心に決めていた。
笛の音は、未だ信貴山城に三郎がある事を教えてくれた。
天王寺砦を捨てた時点で逃げようと思えば出来た筈。
射干は闇夜を睨み、白い息を吐きつつ考えを巡らした。
───
「乱法師様、昨夜は良くお休みになられましたか? 」
「うむ。もう、ひなごの結界は必要ないのではないか? 」
湯漬を蕪の塩漬けと共に口に運びながら武藤三郎に本音を洩らした。
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終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
お知らせ有り※※束縛上司!~溺愛体質の上司の深すぎる愛情~
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2021/3/10
しおりを挟んでくださっている皆様へ。
こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
陸のくじら侍 -元禄の竜-
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元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
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