森蘭丸外伝─果心居士

春野わか

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第21章 鳴動

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 温かな陽だまりを紋白蝶がひらひらと翔んでいく。
 風が運ぶ甘い蜜の匂いに誘われる。

 濃桃色の躑躅《つつじ》に止まった所に、ふっくらとした小さな手が伸びてきた。
 幼い指が触れる寸前、紋白蝶は蜜を諦め花弁を離れる。

 ふわふわ、ひらひら

 人の背丈程の高さを緩やかに舞う。
 羽が柔らかな風を受け、ふうわりと浮き上がる。
 何と心地好いのだろう。

 昔者荘周夢為胡蝶《むかしそうしゅうゆめにこちょうとなる》
 栩栩然胡蝶也《くくぜんとしてこちょうなり》
 荘子の漢文が頭に浮かんだ。
 宋の思想家の荘子は嘗て夢の中で蝶となった。

 当に夢の中では蝶そのものであったが、目覚めると荘子であった。
 蝶になる夢を見たのではなく、己は蝶の夢の中にいるのではと考えてしまったという話しである。

 それをふと思い出したのは、躑躅に手を伸ばす幼子が己では無く、ひらひら翔んでいる紋白蝶こそが己であると感じたからだ。
 荘子と異なるのは何れにせよ夢の中にあるという事だろう。

「一体何時まで寝ておるのじゃ」

「ええ……そのう……」

 だが麗らかな春の夢を破る耳障りな声が俄に混じり込んできた。

 やけに騒々しい。

 その声には聞き覚えがあった。
 しかし、そんな筈は無い。
 確かめたい一心で瞼を開いた。

 これは悪夢か、幻か。

「乱!やっと起きたか! 」

「う……ああーー」

 予期せぬ人物が目の前にいた動揺で絶叫してしまう。
 
「何じゃ!化け物を見たような声を上げおって。全くたわけた弟じゃ! 」

 それこそ荘子の漢文が頭の中をぐるぐると駆け巡る。

「何故、兄上がここに? 」

 今の乱法師にとって兄の長可がいるのは、果心が目の前にいるのと同じぐらい心臓に悪かった。
 長可は乱法師のすぐ上の兄で、長男可隆、父の可成が相次いで討ち死にした為家督を継ぎ、美濃の金山城主となっていた。

 勇猛故に冠せられた筈の鬼武蔵という異名は、敵だけでなく味方に対する傍若無人さで、真の鬼と認識される始末だった。

 そんな兄に癒しや安らぎを期待するは愚か。
 心地好い夢で得られた安らぎは、あっという間に霧散した。

「何故も糞もあるか!戦じゃ!そんな事も知らずに眠りこけていたのか。上様の小姓でありながら、腑甲斐無いにも程がある。周りは何をしておった! 」

 藤兵衛と三郎がびくりと身を強張らせる。

「乱法師様の体調優れぬのを上様が忝なくも非常に御案じ下され、良く休むようにと御許しを頂いております。数日前はよもやという程の具合の悪さで……上様にもお見舞い下され、縛り付けてでも休ませるようにと。乱法師様は我が身が壊れても構わぬ故小姓のお務めをと乞われたのですが、御許し下さら無かったのでございます」

 よくもまあ鬼武蔵を前にして、これだけの嘘がすらすら出てくるものだと三郎は我ながら感心した。
 神も仏も地獄も恐れぬ長可といえども、取り敢えず信長の名を出せば引き下がるだろうと考えたのだが。

「ちっ!どいつもこいつも、乱をまるで公家の姫のように扱いおって! 」

 神仏と地獄に加え、信長さえ長可は恐れていなかった。
 どいつもこいつもの中には、恐らく信長も含まれていると思われる。

「病など気の持ちよう。儂を見倣え!病が裸足で逃げ出していくわ」

 大抵の者は彼よりも柔弱であったし、逃げ出すのは病だけでは無かった。

「申し訳ございませぬ。鍛練に励みまする。若輩者故、戦況を良く把握出来ず情けない事ではございますが、兄上は何処の戦場へ参られるのでございますか? 」

「まあ仕方がない。初陣もまだの小倅じゃからな。松永退治に出向くのよ。加賀の手取川で織田は上杉軍に大敗を喫したが、その後謙信は動かなかったのじゃ」

 通常であれば大勝利の勢いを借りて進軍するところだ。

「越後では雪が降っておる。上杉軍は道が雪で閉ざされるのを恐れ、これ以上の進軍はないと上様は御判断された。兵糧の確保も難しくなるからのう」

 不敗と言われる程負けなしの上杉謙信の勝率は九割とも伝わり、足利義昭も毛利も本願寺も彼の上洛を恃みにしていた。

 無論、信貴山城に籠る松永久秀もである。

 しかし信長から見れば上杉恃みなど愚かな事で、謙信は戦には滅法強いがそれだけの男だった。
 天下を狙うのであれば越後のような雪深い土地から居城を移せば良いものを。

 謙信は勝つ事は勝つが、雪や他の大名にとっても頭を悩ます農繁期に阻害され、信長と同年代というのに、その領地は一向に広がら無かった。

 そして如何に戦に強かろうとも、甲斐の強敵武田と小田原の北条が手を結び、彼の行く手を阻んでいた。
 それでも、合理的な信長ならば大局的に物事を見て、攻めるべき所を攻め、とっとと雪の越後から居を移していた事だろう。

 そんな彼から見れば、謙信の攻め方は一貫性が無く、一体何がしたいのか理解出来なかった。

 雪も毎年なら農繁期も毎年の事。
 田植えや刈り入れ期に左右されない兵士も信長は確保している。
 目論見通り、謙信は積雪を気にして西上を諦めたという訳だ。

 謙信は来年の春まで越後から動けない。

 其処で森長可の話しに戻る。

 謙信の脅威は失せた為、岐阜城にある嫡男信忠を総大将に据え、信貴山城への徹底攻撃が開始される手筈となったのだ。

「明日には信貴山の支城、片岡城攻めが開始される。儂等は大軍をもって信貴山城を包囲する。加賀にいた軍勢も戻り包囲に加わる予定じゃ。凡そ四万にはなろう。血が沸き立つのう」

 己が寝ている間に戦況は大きく変わっていた。
 すっかり蚊帳の外にいた事が悔しくも情けなくもあった。
 それにしても、強烈な兄の登場で忘れていたが呪詛返しは一体どうなったのだろう。

 無傷でいるという事は成功したと考えて良いのか。
 取り敢えず、この兄の前で口に出す訳にはいかなかった。

「乱、そういえば儂は安土への途上で神社に立ち寄り瑞祥を得たぞ! 」
 
 並みの者ならある程度の予想は付くが、長可の場合は難しい。
 柄にも無く先勝祈願でもして、縁起の良い物でも拾ったのか、というぐらいしか思い付かない。

 無論、長可の答えは予想を大幅に上回っていた。

「境内に蛇が現れてのう。神主がお節介にも、神の化身故祈れば戦に勝利するだろうと抜かしてきよった」

 嫌な予感がした。

「儂は蛇を引っ掴み、二つに割いて食ってやったのじゃ!がははは! 」

「うぐ……何故……」

「祈るより腹に収めた方が良いに決まっておる。長物は精が付く。そちにも丸焼きにして持ってきてやれば良かったのう。お陰で負ける気がせぬ。幸先良しじゃ! 」

「うう……おぇ」

 今一番聞きたくない話しだった。
 想像しただけで吐き気を催し具合が悪くなった。

「それでじゃ。久しぶりに会う可愛い弟の為に、これを持ってきてやったぞ」

 そうして満面の笑みで差し出してきたのは、皿の上に載った大粒の干し柿だった。
 干し柿であるのにふっくらと瑞々しさを保つ濃厚な橙色。
 抜群の糖度を表す白い粉が吹き、生唾が沸いてくる。

 干す事で旨味と甘味が凝縮される。
 生果の完熟の味わいを上回る洗練された究極の技。
 美濃名物、堂上蜂谷柿。
 現代でも高級品として珍重され、その歴史は千年も遡る。

 堂上と言うのは昇殿、帝にも供せられる格を意味する。
 朝廷や幕府に献上され、時の権力者達の舌を唸らせた。

 甘味好きの信長も好んだと云う。

「頂きまする」

 長可が顎をしゃくって促すのを、震える手を伸ばし柿をそっと摘まむ。
 故郷、美濃の味。
 一口齧ると濃厚な甘さに痺れ、思考は極楽浄土に羽ばたいた。

 ああ、何て甘い。

 兄の存在を忘れ無言で果肉を舌に乗せ、じっくりと極上の味わいを堪能する。

 干し柿のお陰で蛇の生食いの気持ち悪さは払拭された。

「蛇には及ばぬが、干し柿には身体に良い───」

 兄の蘊蓄《うんちく》も耳に入らなかった。

「ははは!顔色も良くなったな。これで蛇を持ってきてやらなかった事恨まずにおけ! 」

 自己中心的な兄の愛情表現は常に理解し難いが、柿を通して此度はきちんと伝わった。
 乱法師は兄に対する敬慕の情をこれに依り取り戻したのだった。

───

 長可は織田信忠に付き従い、大和信貴山城に向けて進軍する途上、安土の信長に挨拶する為に立ち寄っただけである。

 木瓜紋の軍旗棚引かせ大和に向かう織田勢の勝利、兄の武運を祈る気持ちはあれども、心に掛かるのは呪詛返しの結果だ。

 実は兄と共に信長の前に罷り越したのだが、信長は頬笑むばかりで何も語ってくれなかった。
 軍議の席にも侍る事を許されたが、信長の周囲はずっと慌ただしく果心の事を口に出す機会は得られなかった。
 好奇や冷たい視線に晒されるのには辟易したが、長谷川秀一の見え透いた嫌味よりはましだった。

「おや?足が付いておられる。体調が悪いようじゃと耳に入り、暫く姿を見なかったので死んだとばかり。小姓達の間でも、そちは既に此の世に亡くと噂が立っておったに生きていたとは──」

 と、さも残念そうに言うではないか。

 死んだと噂を立てたのは長谷川の仕業であろうとむっとする。

 しかし反論出来ない程、小姓の務めを果たしていないのも事実なのだ。

 信長の側に侍る家臣は小姓を含め数が多く、殆んど顔を合わせない者もいるくらいだから、長谷川の嘘を真に受けてしまうのも頷ける。
 信忠軍が発った後、暫くして信長が二人きりの時間を作ってくれた。

「顔色も良い。武蔵守の顔を見て元気になったか」

 膝の上に座らせ愛しそうに頬を撫でたり髪を撫でたりされて、乱法師は顔を赤くした。

「はい、嬉しゅうございました」

 兄に会えて、とは言わない。

 兄が与える興奮を、ある種の活力と捉えて良いのかどうか。

「上様、果心の事……」

 口にするのも忌まわしい名だが、最も気になる問いを漸く発した。

「おお!こうして無傷でおるのじゃから上手くいったのは間違いない。悪夢は見なかったのであろう? 」

「はい!何も──いえ寧ろ心地好い夢を見ましてございます。はっ……申し訳ございませぬ。大事の時に……」

「謝る事は無い。これから儂の為に精一杯務めてくれれば良いだけじゃ。そなたは若い故、これまでの分簡単に取り返せようぞ」

 屈託ない笑顔で彼以上に呪詛返しの成功を喜び、些細な罪悪感を取り除いてくれた。

「上様……」

 心の奥深くが甘く蕩け、瞼が下がりとろんとしてしまう。

「果心の事、そなたが悪夢に魘される事はもう無いが、後始末をせねばならぬと六助が申しておった」

 信長が耳元で告げた。

「後始末? 」

 乱法師の顔が不安で翳る。

「案じるな。六助が屏風を預かり始末を付けたのと同じ事じゃ」

「はあ……」

 いざなぎ流の仕組みのような物は漠然と理解している。
 祭文を唱え、穢れを御手楽《みてぐら》に集める。
 果心の呪いに対しては専ら法文であったが大方の流れは変わらない筈だ。

 では、『みてぐらくくり』という後始末をして全て終わりという事になるのだろうか。

「詳しい事は六助に聞くと良い。そなたが目覚めねば行えぬと申しておった」

 そこで首を傾げる。

 詳しくは知らないが、穢れを封じた御手楽を土に埋めるのではなかったか。

 まさか自分も埋められる筈はないだろうから、少々方法が異なるのだろうと考えた。

────

 九月の末

 法隆寺に布陣した筒井順慶、明智光秀、細川藤孝の軍勢は信貴山城の南を守る支城、片岡城に攻め寄せた。

 兵の数は僅か千人余りで標高90mの丘に建つ平山城である。
 本丸と東側に張り出した曲輪の間を遮断する大堀切、南にも空堀、本丸曲輪の角に隅櫓、西には葛下川が流れている。

 支城とはいえそれなりの構えだが、織田家の精鋭相手に千名の兵数で持ちこたえられる訳が無かった。

 城兵が鉄砲、矢をあらん限りに射て必死に防戦する。
 城を背にして死ぬ気で向かってくる敵は侮れない。

 この時を待ちに待っていた順慶は、鬼気迫る形相で采配を振るい大声を上げて自軍を叱咤する。
 掘を越え城壁をよじ上る寄せ手の兵達は、鉄砲、矢や石礫に苦しめられるが、衆寡敵せず矢玉がやがて尽きると城内へと雪崩れ込んだ。

 片岡城は十月一日に敢えなく陥落した。

────

 その時松永には空が血の色に見えた。 
 南方三里程に位置する片岡城に押し寄せる黒き甲冑の兵達が、屍肉に群がる烏を思わせた。

 天守閣最上階の廻縁に彼はいた。
 置かれた指に、高欄を握り潰さんばかりの力が籠る。
 双眸をかっと見開き、歯をぎりぎりと食い縛り、口内に錆鉄の味が沁みる。

 片岡城は後数刻と持つまい。

 一度目の謀反では当てにしていた武田信玄が病で亡くなり、此度は期待していた上杉謙信の進軍が止まり目算が狂った。

 轟く銃声、山を震わす雄叫び、城を霞ませる程の硝煙の臭いが鼻先まで漂ってくるかのようだ。
 昨日の夜半から攻撃を開始した織田軍の優勢が明らかに見て取れた。

 物見櫓からひっきりなしに戦況が齎されるが、最早その必要は無かった。

 よくぞ此処まで持ちこたえた。

 この仇は倍にして返してやる。
 未だ万策尽きていない。

 傍らに控える弓削三郎の息遣いを感じ、紫色の隈で縁取られた眼を、ふと彼の方に向けた。

 氷の美貌を斜陽が少し柔らげ、白い面と松永の強い視線に応え見詰め返す瞳も茜色に染まっていた。
 その瞳をから長い睫毛が頬に影を落とし、少し哀しげに見えた。

 だが松永が求める思いを、夕陽の力を借りて彼の白面に映していただけなのかも知れない。
 味方の落城を目の前にして、松永はその美しさに癒しを求めずにはいられなかった。

「果心の名を何度も呼んだ。だが何も答えぬ」


 

 
 


 

 

 


 

 

 
 

 





 

 
 

 
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