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第20章 裏式
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床の間には紅葉と紫敷実《むらさきしきみ》が、無造作に竹の花入れに生けられていた。
掛け軸の禅語は掬水月在手《みずをきくすればつきてにあり》。
艶やかにして素朴。
秋の風情が四畳余りの空間に見事に表されている。
数奇屋に用いられた竹の香に混じり、抹茶と炭の香が馥郁《ふくいく》と漂う。
深山に分け入る雲水のような静かな心持ちで茶筅で茶を点てていく。
風炉先に設けられた円形の下地窓から差込む光が控え目に手元を照らす。
順慶は客畳に座る嶋左近の前に器を置いた。
作法通り服すと、感嘆を込め息を洩らす。
「大層美味しゅうございました」
「そちから誘ったのであるから余程の話しであろうな」
型通り頭を下げる左近に早速切り出した。
「は?殿が茶室にと申されたので参りました」
「そちが内密に話したき義があると申した故、茶室に誘ったのじゃ! 」
左近の融通の利かない頭の固さに苛立ち、茶室にいる事を思い出し声を潜める。
嶋左近は後の世まで勇名を残す、順慶には過ぎたる家臣と評判が高い。
軍事でも政治でも慎重で正確無比、常に漏れが無い。
計画の緻密さと遂行力には全幅の信頼を置いていた。
「内密にとは特に申してはおりませぬが茶室は良き選択にございますな」
「ならば単刀直入に申せ! 」
「殿は手取川での惨敗を聞かれ、何とも思われなかったのでござるか?直ぐに御決断は無理でも、お覚悟を固めておかれた方が宜しいのではないか。と申し上げたかったのでござる」
手取川とは加賀国を流れる川である。
能登の七尾城を攻略した上杉謙信が、宿老柴田勝家を総大将とする織田軍と数日前に激突した。
柴田勝家は七尾城が陥落した事を知らず、援軍として進軍の途上にあったが、手取川を越えた辺りでそれを知り、慌てて退却しようとしたところ追撃され敗走した。
川で溺死する者も含め損害は大きかった。
上杉謙信の快進撃は信長包囲網に加わる有力大名達を活気づかせる事は間違いない。
それよりも今、織田方に与している大名小名等が寝返る可能性は十分にあった。
雑賀衆の隆起は一先ず内輪で収まった形だが、本願寺が毛利の援軍で勢いを増せば、宗教的理由により雑賀孫一は再び本願寺を支援するだろう。
嶋左近は織田の旗色悪しと見て、順慶にいざという時の心構えをしておけと勧めているのだ。
信長を裏切る算段である。
松永に城を奪われ、それに対抗する力を得る為、所詮信長に従ったに過ぎない。
そういう意味では松永も順慶も同じ穴の狢であった。
人質を差し出したとて、裏切り者に対する過酷な処断を耳にしたとて、家名を残す為には強い者に従うしかない。
人質の処刑はともかくとして、毎回裏切り者を皆殺しにしていたら従う者がいなくなってしまう。
一度叛いたぐらいでは赦す他ないのだ。
「調略に対しては、のらりくらりと応じておくべきかと」
足利将軍からの誘いは当然あった。
鞆に幕府を移した足利義昭は、毛利の庇護下でせっせと諸国大名に書状を発している。
己を鞆に追いやった憎き信長を討てと。
擦りきれた古布のような存在でも将軍は将軍だ。
それに応じて信長包囲網に加われば、名目上謀反にさえならない。
僅かに心が揺れた。
「折角大和の地を取り戻したというに」
「かはは!大和守護如きの地位で甘んじられるおつもりか。殿はお若い。諸国の大名達の年を考えてみられよ。謙信も北条も年寄りではないか。毛利や武田はまだ若いが、信玄亡き後力は弱っている。それに比べ殿はまだ二十九。大和の国衆は殿に従いましょう。いっそ天下を視野に入れられては如何か」
「大それた事を」
「大それた事?その大それた事を有象無象の輩ですら胸に抱いておるのです。何が起こるか分からぬのじゃ。強い者が勝つとは限らぬのです。天運もございましょうなあ」
順慶は若い割には老成していた。
悪く言えば疲れ、野心など枯渇していた。
幼い頃から身体が余り丈夫で無かった。
二十代の若さで病死した父の遺伝かとも思う。
故に何よりも恐ろしいのは病だ。
元々の家系もあるが、若くして得度しているのもそれが理由の一つだ。
頭を剃り上げ墨染を着込んでいるというのに、自ら殺生の罪を犯すなど愚かしい。
家を守る為の戦いならばいざ知らず、野心の為に他国に攻め入るなど。
順慶は父を失い、後見人の叔父まで失い十七歳で松永に領地を奪われてから、それを取り戻す事のみに専心してきた。
漸く信長という有力な武将の助けを借りて大和守護の地位を得た。
要はそれ以上の野心は無いのだ。
この年でもう隠居したいぐらいだった。
いや、松永の首級を見るまでは。
松永久秀という男が憎過ぎて信長に叛くなど考えられない。
「天下取りはともかく情勢次第では、というそちの言い分も分かる。だが今は考えられぬ」
愛しい月読を思い浮かべた。
松永と肩を並べて戦うなど御免だった。
信貴山城は必ず落とし、月読を我が手に公然と取り戻す。
今はそれしか考えられなかった。
「なれど肝に命じておかれよ。謙信の勢いが衰えねば、織田に付いていたら殿の首も危ないと」
「それはそうと──今となっては先走り過ぎましたかな」
左近が話題を変え、間者からの知らせにあった乱法師の件に移った。
「真と思うか? 」
「骨細く色の白い小姓であったとか。ですが今となっては生かしておいた方が良かったのかとも思うておりますが──」
「違う!儂が言いたいのは乱法師の霊が夜な夜なさ迷い歩いているという話しじゃ。そうした奇妙な噂があるから死んだという風に結論づけただけではないか。確かな筋からは耳に入ってきてはおらぬ」
「公には秘しておるのでしょう。上様も大事の時故に哀しみから目を背けておられるのでは? 」
「以前にも死んだとの噂が流れた。まさか存外しぶとく生きておるのではないのか? 」
「殿、確かな筋からの話しと思って良いでしょう。この件については上様の御近習、長谷川お竹(秀一)殿も認めておるらしく、これ程確かな筋はございますまい」
左近も順慶も長谷川秀一の性質を良く知らなかった。
「むう。長谷川が既に此の世にはなくと申しておるならば、やはり……」
「生きていた所で床に臥し、務めもままならぬ有様なのでしょう。それに未だ果心に操られているのであれば、いずれ使い道も出てくるやも知れませぬぞ」
左近の心中では、既に織田を見限るという方向に傾き掛けているらしい。
順慶は諸々の事情により、謀反など考えたくは無かったが、乱法師の事は一先ず脇に置いておく事にした。
───
空は久しぶりの荒れ模様であった。
陽の高いうちにと信長は言ったが、太陽そのものが雲に隠れていた。
雨音は時に弱まり再び激しく、石礫のように壁を叩いた。
今日に限ってと思っても詮無き事だ。
空模様だけは人の意の儘にはならぬもの。
だが果心の怒り、はたまた最期の悪あがきかと、嫌な考えが胸中を過る。
それにしても薄暗い。
今、乱法師の髪や顔、身体はしっとりと濡れていた。
雨のせいではない。
呪詛返しを行うに辺り、禊として信長と湯殿で身体を浄めている最中だからだ。
いや、寧ろ禊はついでで、彼の緊張を和らげるのが本意であった。
ずっと抱き締められていた。
信長が他愛ない話しを仕掛けるも、直ぐに気が逸れてしまう。
彼の両腕は信長の背に回される事なく、だらりと脇に垂らされていた。
雨音が強くなる度に、ぴくりと跳ね上がり、信長にしがみ付くような仕草を見せる。
主に対して己から求め抱き付くなど不敬であるという奥ゆかしさは相変わらずで、信長の頬がつい緩み、益々身体を寄せてしまう。
「そなたの笑う顔がこれからは沢山拝めるのう」
「上様から御覧になられて、私はそんなに堅苦しい顔をしておりますか? 」
「そうじゃな。果心の事で苦しんでいた故仕方がない。憂鬱な風情も儚げで美しいが、これからは思う存分笑い、儂の心を癒して欲しいものじゃ」
心寄り添わずにいられる訳がない。
常に優しい腕で包まれ愛を囁かれ、床から起き上がれぬ時には足繁く見舞い、窮地を何度も救ってくれた相手に。
必死に線を引こうとしても乱法師の心は疾うに信長に落ちていた。
信長は強く思った。
隙があるから果心のような淫らで歪んだ男が近付いてくるのだと。
心の奥深くまで己の愛で隈無く満たせば、そうした危険も回避出来るだろう。
全身に触れる事だ。
最早、心を通わせるだけの段階は過ぎた。
信長は彼の手を掴み己の背に回すように促す。
そんな細やかな愛の行為でさえ羞じらう様子に、庇護欲と決意が強まった。
果心の事も松永の事も片が付いた暁には、己の事しか考えられぬ程に彼を愛でてやろう。
もうこれ以上待つつもりは無かった。
己の身に凭れ掛るしかない程に身体を斜めに倒す。
両手を信長の胸に当てて縮こまるのが愛しかった。
───
「それにしても上様はすげえ御方でごぜえますなあ」
緊張感を感じさせない快活さで六助は言った。
信長と乱法師が『禊』を行っている間、後の四人は祭壇を設えたり結界を張ったりと忙しなく働いていた。
「若を目覚めさせた事を言ってんのかい? 」
細かく切れ目の入った様々な形の語弊を興味深げに手に取りながら射干が応じた。
「へえ、情けない事や。あんな事になっちまって狼狽えて。上様がおられざったら……げに勇敢で堂々となさっちょって、上様だけで果心退けてしまうんやき。どんな御力なのか。あやかりてえ」
「くく、やだあ。愛の力に決まってんだろう」
射干の発言に注連縄を張ろうとしていた三郎と藤兵衛の手元が乱れて縄が撓《たわ》む。
「あ……愛っ言うても色んなのがあるんじゃけんど、よっぽど強いという事やか?儂は母が子に注ぐ愛が世の中で一番強いっ思うちょりますが、それよりも? 」
「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世って言うんだよ。親子との縁は此の世限り、夫婦や主従の方が深いってさ。まあ、全部に当て嵌るとは思えないけど。あたしは納得しちまうねえ」
主従に重きを置くのは封建社会ならではと思いがちだが、あながちそうとも言えないのかもしれない。
直ぐに巣立ってしまう子供に比べ、夫婦はその後の人生を長く共に過ごす連れなのだから。
戦国武将にも愛妻家であった事を物語る逸話は多い。
側室を持つ事や男色に抵抗が無くとも、妻一筋の男達はいた。
それに側室や男色相手がいても正妻に対して愛情を惜しみなく注いでいる。
だが、男色相手を女人の代用の性の捌け口としていた訳ではない。
其処には深い心の交流があり、夫婦同然の交わりに加え、女性の入り込めぬ同性ならではの主従の絆も加わるのだから正に最強であった。
後の信長と乱法師の運命を思えば、夫婦は二世、主従は三世というのも頷けるのである。
「上様と若様は主従やき親子よりも絆が強いって事やか?そしたら他の家臣の方々とも……儂が思うちょったよりも武士の方々はすんげえ仲良しなんやなあ。あんな……」
此処までくると、射干だけでなく三郎や藤兵衛までが笑いを噛み殺す。
「あはは!あたしが言いたいのは血よりも肉の方が案外強いって事さ。親と死に別れたって、赤の他人様との間に親子以上の情愛を持てるって考えたらどうだい? 」
「肉……親子以上……へ、へえ。夫婦って、ええもんだち思う。生涯添い遂げられる女と巡り会えたら……」
六助の顔が分かり易く朱に染まり、射干を熱っぽく見詰めた。
「ふふ、良い女と出会えるといいねえ」
───
丸桶に七升分の米を注ぎ、其処にお馴染みの個性豊かな御幣が立てられている。
いざなぎ流、表の祭文で穢れを祓う時と設えは大きく変わらない。
大荒神、山神、水神、すそ、四足、六道、天下正、真ん中には高田王子の御幣を立てる。
それらは獣の霊、邪心、疫病神、死霊を表している。
通常の御幣と異なるのは人や獣を思わせる形状だけではない。
それは『ちぢ』と呼ばれる左右の細かい折り目である。
この『ちぢ』こそが御幣を特別な物とする仕掛けであり、妨害をはね除けるのだ。
依って太夫の祈祷は御幣を切り出す事から始まる。
最後に忘れてならないのは鎮めの呪具、『関の小刀』である。
又はケンピンゴマノハシ、明剣の太刀とも呼ばれ、打ち鎮めの用途から刃を上に向けて差す。
関の小刀として、信長の愛刀不動行光をそれに代えた。
これが法の枕である。
次に御手楽《みてぐら》であるが、藁で作った円形の輪に『だいば人形の幣』を立てる。
一見長閑な表情の人形だが、だいばとは釈迦の従兄で、世継ぎ争いに破れてしまう敵役である。
結果、その母が釈迦を調伏する事となり、それが呪詛の始まりと伝わる。
呪詛の起源、提婆達多《だいばだった》の御幣に依り、御手楽に呪いが集まるのである。
だいばの幣の周囲には四幣が立てられ、その上に『花べら』という色紙を被せる。
花べらに米を投げ入れて邪な物が集まるようにと祈るのだ。
御手楽の中には様々な物が収められている。
例えば御幣を切った際に出る紙屑と『ズツ米』。
紙屑はその儘にしておくと穢れが移ってしまうと考えられているからだ。
『ズツ米』とは祓い清める家の者の爪、髪の毛等であるが、この場合は乱法師の物になる。
その他には『一枚揃え』という穴の開いた貨幣や、焼いた五穀の実。
掛け軸の禅語は掬水月在手《みずをきくすればつきてにあり》。
艶やかにして素朴。
秋の風情が四畳余りの空間に見事に表されている。
数奇屋に用いられた竹の香に混じり、抹茶と炭の香が馥郁《ふくいく》と漂う。
深山に分け入る雲水のような静かな心持ちで茶筅で茶を点てていく。
風炉先に設けられた円形の下地窓から差込む光が控え目に手元を照らす。
順慶は客畳に座る嶋左近の前に器を置いた。
作法通り服すと、感嘆を込め息を洩らす。
「大層美味しゅうございました」
「そちから誘ったのであるから余程の話しであろうな」
型通り頭を下げる左近に早速切り出した。
「は?殿が茶室にと申されたので参りました」
「そちが内密に話したき義があると申した故、茶室に誘ったのじゃ! 」
左近の融通の利かない頭の固さに苛立ち、茶室にいる事を思い出し声を潜める。
嶋左近は後の世まで勇名を残す、順慶には過ぎたる家臣と評判が高い。
軍事でも政治でも慎重で正確無比、常に漏れが無い。
計画の緻密さと遂行力には全幅の信頼を置いていた。
「内密にとは特に申してはおりませぬが茶室は良き選択にございますな」
「ならば単刀直入に申せ! 」
「殿は手取川での惨敗を聞かれ、何とも思われなかったのでござるか?直ぐに御決断は無理でも、お覚悟を固めておかれた方が宜しいのではないか。と申し上げたかったのでござる」
手取川とは加賀国を流れる川である。
能登の七尾城を攻略した上杉謙信が、宿老柴田勝家を総大将とする織田軍と数日前に激突した。
柴田勝家は七尾城が陥落した事を知らず、援軍として進軍の途上にあったが、手取川を越えた辺りでそれを知り、慌てて退却しようとしたところ追撃され敗走した。
川で溺死する者も含め損害は大きかった。
上杉謙信の快進撃は信長包囲網に加わる有力大名達を活気づかせる事は間違いない。
それよりも今、織田方に与している大名小名等が寝返る可能性は十分にあった。
雑賀衆の隆起は一先ず内輪で収まった形だが、本願寺が毛利の援軍で勢いを増せば、宗教的理由により雑賀孫一は再び本願寺を支援するだろう。
嶋左近は織田の旗色悪しと見て、順慶にいざという時の心構えをしておけと勧めているのだ。
信長を裏切る算段である。
松永に城を奪われ、それに対抗する力を得る為、所詮信長に従ったに過ぎない。
そういう意味では松永も順慶も同じ穴の狢であった。
人質を差し出したとて、裏切り者に対する過酷な処断を耳にしたとて、家名を残す為には強い者に従うしかない。
人質の処刑はともかくとして、毎回裏切り者を皆殺しにしていたら従う者がいなくなってしまう。
一度叛いたぐらいでは赦す他ないのだ。
「調略に対しては、のらりくらりと応じておくべきかと」
足利将軍からの誘いは当然あった。
鞆に幕府を移した足利義昭は、毛利の庇護下でせっせと諸国大名に書状を発している。
己を鞆に追いやった憎き信長を討てと。
擦りきれた古布のような存在でも将軍は将軍だ。
それに応じて信長包囲網に加われば、名目上謀反にさえならない。
僅かに心が揺れた。
「折角大和の地を取り戻したというに」
「かはは!大和守護如きの地位で甘んじられるおつもりか。殿はお若い。諸国の大名達の年を考えてみられよ。謙信も北条も年寄りではないか。毛利や武田はまだ若いが、信玄亡き後力は弱っている。それに比べ殿はまだ二十九。大和の国衆は殿に従いましょう。いっそ天下を視野に入れられては如何か」
「大それた事を」
「大それた事?その大それた事を有象無象の輩ですら胸に抱いておるのです。何が起こるか分からぬのじゃ。強い者が勝つとは限らぬのです。天運もございましょうなあ」
順慶は若い割には老成していた。
悪く言えば疲れ、野心など枯渇していた。
幼い頃から身体が余り丈夫で無かった。
二十代の若さで病死した父の遺伝かとも思う。
故に何よりも恐ろしいのは病だ。
元々の家系もあるが、若くして得度しているのもそれが理由の一つだ。
頭を剃り上げ墨染を着込んでいるというのに、自ら殺生の罪を犯すなど愚かしい。
家を守る為の戦いならばいざ知らず、野心の為に他国に攻め入るなど。
順慶は父を失い、後見人の叔父まで失い十七歳で松永に領地を奪われてから、それを取り戻す事のみに専心してきた。
漸く信長という有力な武将の助けを借りて大和守護の地位を得た。
要はそれ以上の野心は無いのだ。
この年でもう隠居したいぐらいだった。
いや、松永の首級を見るまでは。
松永久秀という男が憎過ぎて信長に叛くなど考えられない。
「天下取りはともかく情勢次第では、というそちの言い分も分かる。だが今は考えられぬ」
愛しい月読を思い浮かべた。
松永と肩を並べて戦うなど御免だった。
信貴山城は必ず落とし、月読を我が手に公然と取り戻す。
今はそれしか考えられなかった。
「なれど肝に命じておかれよ。謙信の勢いが衰えねば、織田に付いていたら殿の首も危ないと」
「それはそうと──今となっては先走り過ぎましたかな」
左近が話題を変え、間者からの知らせにあった乱法師の件に移った。
「真と思うか? 」
「骨細く色の白い小姓であったとか。ですが今となっては生かしておいた方が良かったのかとも思うておりますが──」
「違う!儂が言いたいのは乱法師の霊が夜な夜なさ迷い歩いているという話しじゃ。そうした奇妙な噂があるから死んだという風に結論づけただけではないか。確かな筋からは耳に入ってきてはおらぬ」
「公には秘しておるのでしょう。上様も大事の時故に哀しみから目を背けておられるのでは? 」
「以前にも死んだとの噂が流れた。まさか存外しぶとく生きておるのではないのか? 」
「殿、確かな筋からの話しと思って良いでしょう。この件については上様の御近習、長谷川お竹(秀一)殿も認めておるらしく、これ程確かな筋はございますまい」
左近も順慶も長谷川秀一の性質を良く知らなかった。
「むう。長谷川が既に此の世にはなくと申しておるならば、やはり……」
「生きていた所で床に臥し、務めもままならぬ有様なのでしょう。それに未だ果心に操られているのであれば、いずれ使い道も出てくるやも知れませぬぞ」
左近の心中では、既に織田を見限るという方向に傾き掛けているらしい。
順慶は諸々の事情により、謀反など考えたくは無かったが、乱法師の事は一先ず脇に置いておく事にした。
───
空は久しぶりの荒れ模様であった。
陽の高いうちにと信長は言ったが、太陽そのものが雲に隠れていた。
雨音は時に弱まり再び激しく、石礫のように壁を叩いた。
今日に限ってと思っても詮無き事だ。
空模様だけは人の意の儘にはならぬもの。
だが果心の怒り、はたまた最期の悪あがきかと、嫌な考えが胸中を過る。
それにしても薄暗い。
今、乱法師の髪や顔、身体はしっとりと濡れていた。
雨のせいではない。
呪詛返しを行うに辺り、禊として信長と湯殿で身体を浄めている最中だからだ。
いや、寧ろ禊はついでで、彼の緊張を和らげるのが本意であった。
ずっと抱き締められていた。
信長が他愛ない話しを仕掛けるも、直ぐに気が逸れてしまう。
彼の両腕は信長の背に回される事なく、だらりと脇に垂らされていた。
雨音が強くなる度に、ぴくりと跳ね上がり、信長にしがみ付くような仕草を見せる。
主に対して己から求め抱き付くなど不敬であるという奥ゆかしさは相変わらずで、信長の頬がつい緩み、益々身体を寄せてしまう。
「そなたの笑う顔がこれからは沢山拝めるのう」
「上様から御覧になられて、私はそんなに堅苦しい顔をしておりますか? 」
「そうじゃな。果心の事で苦しんでいた故仕方がない。憂鬱な風情も儚げで美しいが、これからは思う存分笑い、儂の心を癒して欲しいものじゃ」
心寄り添わずにいられる訳がない。
常に優しい腕で包まれ愛を囁かれ、床から起き上がれぬ時には足繁く見舞い、窮地を何度も救ってくれた相手に。
必死に線を引こうとしても乱法師の心は疾うに信長に落ちていた。
信長は強く思った。
隙があるから果心のような淫らで歪んだ男が近付いてくるのだと。
心の奥深くまで己の愛で隈無く満たせば、そうした危険も回避出来るだろう。
全身に触れる事だ。
最早、心を通わせるだけの段階は過ぎた。
信長は彼の手を掴み己の背に回すように促す。
そんな細やかな愛の行為でさえ羞じらう様子に、庇護欲と決意が強まった。
果心の事も松永の事も片が付いた暁には、己の事しか考えられぬ程に彼を愛でてやろう。
もうこれ以上待つつもりは無かった。
己の身に凭れ掛るしかない程に身体を斜めに倒す。
両手を信長の胸に当てて縮こまるのが愛しかった。
───
「それにしても上様はすげえ御方でごぜえますなあ」
緊張感を感じさせない快活さで六助は言った。
信長と乱法師が『禊』を行っている間、後の四人は祭壇を設えたり結界を張ったりと忙しなく働いていた。
「若を目覚めさせた事を言ってんのかい? 」
細かく切れ目の入った様々な形の語弊を興味深げに手に取りながら射干が応じた。
「へえ、情けない事や。あんな事になっちまって狼狽えて。上様がおられざったら……げに勇敢で堂々となさっちょって、上様だけで果心退けてしまうんやき。どんな御力なのか。あやかりてえ」
「くく、やだあ。愛の力に決まってんだろう」
射干の発言に注連縄を張ろうとしていた三郎と藤兵衛の手元が乱れて縄が撓《たわ》む。
「あ……愛っ言うても色んなのがあるんじゃけんど、よっぽど強いという事やか?儂は母が子に注ぐ愛が世の中で一番強いっ思うちょりますが、それよりも? 」
「親子は一世、夫婦は二世、主従は三世って言うんだよ。親子との縁は此の世限り、夫婦や主従の方が深いってさ。まあ、全部に当て嵌るとは思えないけど。あたしは納得しちまうねえ」
主従に重きを置くのは封建社会ならではと思いがちだが、あながちそうとも言えないのかもしれない。
直ぐに巣立ってしまう子供に比べ、夫婦はその後の人生を長く共に過ごす連れなのだから。
戦国武将にも愛妻家であった事を物語る逸話は多い。
側室を持つ事や男色に抵抗が無くとも、妻一筋の男達はいた。
それに側室や男色相手がいても正妻に対して愛情を惜しみなく注いでいる。
だが、男色相手を女人の代用の性の捌け口としていた訳ではない。
其処には深い心の交流があり、夫婦同然の交わりに加え、女性の入り込めぬ同性ならではの主従の絆も加わるのだから正に最強であった。
後の信長と乱法師の運命を思えば、夫婦は二世、主従は三世というのも頷けるのである。
「上様と若様は主従やき親子よりも絆が強いって事やか?そしたら他の家臣の方々とも……儂が思うちょったよりも武士の方々はすんげえ仲良しなんやなあ。あんな……」
此処までくると、射干だけでなく三郎や藤兵衛までが笑いを噛み殺す。
「あはは!あたしが言いたいのは血よりも肉の方が案外強いって事さ。親と死に別れたって、赤の他人様との間に親子以上の情愛を持てるって考えたらどうだい? 」
「肉……親子以上……へ、へえ。夫婦って、ええもんだち思う。生涯添い遂げられる女と巡り会えたら……」
六助の顔が分かり易く朱に染まり、射干を熱っぽく見詰めた。
「ふふ、良い女と出会えるといいねえ」
───
丸桶に七升分の米を注ぎ、其処にお馴染みの個性豊かな御幣が立てられている。
いざなぎ流、表の祭文で穢れを祓う時と設えは大きく変わらない。
大荒神、山神、水神、すそ、四足、六道、天下正、真ん中には高田王子の御幣を立てる。
それらは獣の霊、邪心、疫病神、死霊を表している。
通常の御幣と異なるのは人や獣を思わせる形状だけではない。
それは『ちぢ』と呼ばれる左右の細かい折り目である。
この『ちぢ』こそが御幣を特別な物とする仕掛けであり、妨害をはね除けるのだ。
依って太夫の祈祷は御幣を切り出す事から始まる。
最後に忘れてならないのは鎮めの呪具、『関の小刀』である。
又はケンピンゴマノハシ、明剣の太刀とも呼ばれ、打ち鎮めの用途から刃を上に向けて差す。
関の小刀として、信長の愛刀不動行光をそれに代えた。
これが法の枕である。
次に御手楽《みてぐら》であるが、藁で作った円形の輪に『だいば人形の幣』を立てる。
一見長閑な表情の人形だが、だいばとは釈迦の従兄で、世継ぎ争いに破れてしまう敵役である。
結果、その母が釈迦を調伏する事となり、それが呪詛の始まりと伝わる。
呪詛の起源、提婆達多《だいばだった》の御幣に依り、御手楽に呪いが集まるのである。
だいばの幣の周囲には四幣が立てられ、その上に『花べら』という色紙を被せる。
花べらに米を投げ入れて邪な物が集まるようにと祈るのだ。
御手楽の中には様々な物が収められている。
例えば御幣を切った際に出る紙屑と『ズツ米』。
紙屑はその儘にしておくと穢れが移ってしまうと考えられているからだ。
『ズツ米』とは祓い清める家の者の爪、髪の毛等であるが、この場合は乱法師の物になる。
その他には『一枚揃え』という穴の開いた貨幣や、焼いた五穀の実。
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歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。

帰る旅
七瀬京
歴史・時代
宣教師に「見世物」として飼われていた私は、この国の人たちにとって珍奇な姿をして居る。
それを織田信長という男が気に入り、私は、信長の側で飼われることになった・・・。
荘厳な安土城から世界を見下ろす信長は、その傲岸な態度とは裏腹に、深い孤独を抱えた人物だった・・。
『本能寺』へ至るまでの信長の孤独を、側に仕えた『私』の視点で浮き彫りにする。
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