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「皆の申す事はもっともである。儂が腑甲斐無いばかりに射干に探って貰う事になったのじゃからな。済まぬ」
「いいんだよ。命じてくれたら、もう一肌でも二肌でも脱いでやるよ。何なら素っ裸になってやろうじゃないか! 」
「射干さん……」
最後の呟きは六助である。
「いや、儂を守ろうとしてくれる気持ちは嬉しいが、これは儂の問題じゃ。一人で抱え込もうとは思わぬが自身が強くあらねば所詮勝てぬ。敵を知らねば勝てぬ。知る事を恐れていてはならぬのじゃ。儂は負けぬ!これは魂の戦いぞ。今度こそ正体を突き止めてやる! 」
「若様……」
六助は乱法師の健気な勇敢さと、自分の身をあくまでも案じてくれる優しさに感動した。
「御覚悟はご立派なれど、なりませぬ。身体は傷付かぬとも心を壊されたら死も同然。今度は私が大和に参りまする」
三郎が大和行きの名乗りを上げる。
だが、当然皆に止められた。
「皆の気持ちは嬉しい。しかし奴が狙うは儂じゃ。此処で負けては、この先生きて行けぬ。簡単に倒せる相手では無い事、皆にも分かっておろう。後一息なのじゃ。何時までも守って貰う訳にはいかぬ」
乱法師が再び強固な意思を示す。
「奴は神の名を知ってんだろうか? 」
射干が突然、根本的な疑問をぼやっと口にした。
「神の住む山中で依代になったんやき。蛇体で現れんのは神と完全に同化してしもうちゅー証拠じゃあ。今や覚信の魂は神の一部として残りゆーばっかりで、奴は己は神、神の名こそが真の名だ思いゆー」
「六の申す通りじゃ。覚信という名も真の名であろうが、蛇の皮のように人の姿を捨てた時、覚信という名も捨てたのであろう。だが完全に捨て切れぬ故に、影針の時にはそこそこの効力があったが」
「気が早いかもしんないけどさあ。呪い返しをしたら果心はどうなるんだい?神って普通死なないもんだろう? 」
全く素朴な疑問である。
「へえ。覚信の禍々しい魂と人に対する怨念から神を解放するって風に考えちょります。神の力無うば覚信は滅し、依代を無うした神の荒ぶる魂を鎮め、最後は真の意味で御祀り致すつもりでごぜえます」
「何だかややこしいけど理屈は分かったよ。呪いを仕掛けてんのは覚信だけど、同化しちまってるから真の名は神の名で、成功したら若に対する呪いは解けて残った神の怒りは祈祷して鎮め、崇めてお祀りするってこったあね」
「はい!流石は射干さん、そんなところでごぜえます」
目指す終着点は見えた。
しかし其処で先程の議論に戻る。
「呪いが解けなきゃ死ぬだけだ。若だけじゃなくて此処にいる皆、只じゃ済まないかもねえ。下手な情け掛けて、じわじわ壊れるぐらいなら、覚悟を決めて若の言う通りにした方がいいんじゃないかい?派手な行動は近頃無いけど、せっせと穴を広げてんだろうさ。若の寝所に続く道のね」
男達の顔が青褪める。
簡単に諦める筈が無い。
息を潜めて何かを待っているのか。
隙か、此方が弱るのかを。
「皆、頼む。推測だけで六に命を掛けて貰う訳にはいかぬ。奴の心を見る事が出来るのは儂だけじゃ。もう奴に怯えて暮らすのは嫌なのじゃ。いっそ死んでしまいたいと何度思ったか……」
「若様……」
乱法師の苦悩を改めて知り三郎が絶句する。
「上様に御側に居て頂くというのはどうであろう。六助とは別の意味で魔を退ける強さをお持ちじゃ。若が万が一奴に苦しめられても、きっと御守り下さるように思うのじゃ」
静かに皆のやり取りを聞いていた藤兵衛が妥協案を出した。
魂の戦いでは六助の結界は効かない。
乱法師は信長の名を聞いただけで懊悩が和らぎ、殺伐とした心の荒野に花が芽吹くのを確かに感じた。
「お忙しい上様にお時間を頂くのは申し訳ない。それに、そのような事を申し出るだけでも畏れ多い」
だが相変わらずの奥ゆかしさで本音を隠し真に焦れったい。
「さっきの覚悟はどうしたんだよ!今宵も不寝番なんだろう?甘い声でお願いすれば上様が断る筈無いさ!寧ろ鼻の下伸ばして首突っ込んでくれるよ」
唖然とする程無礼な発言であるが、その通りなので誰も反論しない。
「そんな畏れ多い……不敬であるぞ」
唯一反論を試みた乱法師の声は弱々しく、結局射干に背を押されて不寝番に挑む羽目になったのであった。
───
「能登七尾城が落城致しました。遊佐や温井が内応し上杉勢を城内に引き入れ、長続連の一族は皆殺しにされたそうにございます。十五日の事であったと。柴田様はどうやら落城を知らぬ儘進軍を続けておる由にございます」
前々から旗色の悪さは承知していたが、此方の援軍が間に合えばという願い虚しく、七尾城が上杉軍の手に落ちたという報告に信長が呻いた。
「修理亮(柴田勝家)に直ちに知らせよ。七尾城には謙信が待ち構えているとな」
更に各地の戦況報告は続いた。
「紀伊の雑賀では宮郷の太田城を落とせず、和議となった由にございます」
「まあ何れ再び小競合いをするであろうが一先ず手打ちとなったか」
信長に味方した雑賀三緘衆宮郷を、敵対する雑賀の残り二組が攻めたのは一月前の事だ。
織田にとっても捨て置けぬ事態であった為介入はしたが、そもそも織田派対本願寺派という図式の戦いでは無かった。
以前から繰り広げられて来た雑賀衆同士の根深い土地争いに端を発していたからだ。
雑賀の孫一等にしてみれば信長に味方した事に対する報復はついでだった。
その証拠に攻撃側には信長派の宮郷以外の三緘衆も加わっていたらしい。
とはいえ、戦いが収まれば軍勢を雑賀に割く必要が無くなる為、良い報せと言えた。
「信貴山城でございますが、先日の岡周防守の寝返りに続き柳本も此方に味方すると申しております」
松永久秀が謀反の意を明らかにして以来、表向き懐柔策を取って来たが、裏では大和の国衆に調略を仕掛けていた。
それについては大和守護、筒井順慶の力も大きかった。
先ず一番の功績は松永の重臣である岡国高を寝返らせた事であろう。
これは天王寺砦に遣わした時、岡国高の心にある揺らぎを見抜いた明智光秀の慧眼に依るものでもあった。
調略の成果を受け、信長は松永に対する態度を硬化させる決断をした。
「松永の伜、久通の知行を差し押さえる。百姓共が年貢を納めたら悉く成敗せよ。大和の国衆にも通達するよう岡に伝えい! 」
早速、寝返った岡国高をして松永を牽制する為の朱印状を発した。
───
松永は何杯目かの酒を煽り、膝の上に座らせた弓削三郎の小袖の襟元から手を差し入れていた。
先程まで柳生松吟庵を交え酒を酌み交わしていたが、連日連夜の三人での乱交に疲れ、松吟庵は己の寝所に退がってしまった。
それ故に松永の収まらぬ焦燥と苛立ちが自ずと三郎に向けられているという訳だ。
「御許しを……」
「許せぬ!周防守(岡国高)め! 」
信長包囲網の一角を担っている己が、いつの間にか逆に包囲されていたという悔しさ。
大和の国衆や百姓が松永に味方するのを牽制する朱印状を岡国高が与えられたと耳にし、堅城に籠る己の優位が揺らいだように感じたのだ。
三郎を膝から下ろすと小袖の裾を腰骨辺りまで捲り上げた。
「お許しを……おお」
僕《しもべ》の従順さと絶品の味わいに松永が昇天すると、漸く三郎は解放された。
褥に突っ伏し、夢見心地で見つめ合う二人の唇から吐き出される荒い息が白く闇に溶ける。
秋の冷え込む室内でも、ぴたりと寄せる肌は火照り汗が光っていた。
激しい行為の余韻に浸る息遣いだけが、昂りが冷めゆく中で不思議な静けさを耳に届ける。
時と共に少しずつ虚無に侵されていく。
松永の心情を悟り三郎が口を開き掛けた時───
何時見ても良い乱れっぷりじゃ──
地獄の底から湧くような陰鬱な声が木霊した。
寝間での睦言を覗き見していた事に悪気無く、抜け抜けと好色な感想を述べる。
白い靄が宙空に広がり再び集まり大蛇の形を成した。
松永と三郎の交合直後に現れるという、良からぬ癖が果心にはあった。
すっかりそれに慣れてしまった二人は始めこそ驚くが、直ぐに気怠げな表情に戻る。
「何やら機嫌が良いではないか。此方は腸が煮え繰り返っておるというに!何故、儂に教えなかった? 」
「岡周防守の裏切りぐらいで腹を立てるものでは無い。大事の前の小事に過ぎぬ」
「信長が出陣する気配があるのか? 」
「今少しの辛抱であろうな。越後の上杉の猛攻に地団駄踏んで悔しがっておったぞ。血が騒いで仕方無かろうが、貴様の為すべきは城に籠り信長軍を引き付け疲弊させる事じゃ。その時こそ大雨でも雷でも、望みとあらば血の雨を降らせてやろうではないか」
幾度もこうした企みが言い交わされるが、松永は今一つ話しが噛み合わないと感じていた。
漲る若さを与えられ、織田の情報は期待する程では無いにせよ報せてくれる。
それに射干を始末してくれたと信じていた。
だが幻術師果心としても神としても物足りない。
神ならば信長の首を獲る事ぐらい造作も無かろう、と。
松永は果心に対する認識を誤っていた。
神という存在に対してもである。
そもそも神というものが人々の生活に干渉する為には人の力を借りる必要があった。
神と人との対話も結局は依代となる人を介さなくてはならない。
そしてそれには別の側面もある。
天変地異などの災害は、神の怒りに因る場合もあるが、神の仕業と人々が思うのは単《ひとえ》に信心あってこそだ。
そうでなければ只の雷、大雨に過ぎず、どうか鎮めて下されと天に向かって祈る筈が無い。
神業《みわざ》であると依代の口から語られる事で信心が増す。
神の存在を知らしめる者がいてこその神なのだ。
因みに一言主神が役小角の謀反を帝に讒言した際には巫女の口を借りたのである。
それでも、合戦の最中に天候を支配する事が出来たなら、何にも勝る強力な兵器となろう。
但し厄介な事に神は所詮人間より高位の存在であり、使役され兵器にされるなど誇りが許さない。
特に果心の場合、松永を積極的に支援しようとしないのは単に手駒と思っているからだ。
結局は全ての人間が嫌いなのである。
その中で最も不信心な信長は唾棄すべき存在だが、松永を含めた者達が愚かな争いを繰り広げ血を多く流す事こそを望んでいた。
それにより神に対する畏敬の念は増す。
人の世を統べる支配者は信心深く、傀儡となるような人物が望ましかった。
松永の勝利では無く、覚信の妄執は乱法師を求め、神の怨讐は人々の血を求めていた。
果心は人の皮を被り松永や順慶の前に現れた頃から、虫唾が走る程傲慢で利己的であった。
己の利しか考えず、その利害が一致すれば手を貸すという根本は何も変わっていなかった。
いや、実は手を貸しているという事自体が幻想であった。
互いに人であれば打算的な関係であろうとも、主張を抑え合わせるという知恵もあるだろう。
ところが果心には一切それが無かった。
思惑が合った場合のみ噛み合っているように感じるだけなのだ。
妖しに松永がつけ入られてしまったのは何故なのか。
それは果心が、使え無い癖に使い道だけはある異常に鋭い刃のようなものであるからだ。
蛇の粉が毒として体内を巡り臓器を侵食していた。
それに気付いているのは美貌の弓削三郎だけであったのかも知れない。
「お前はいつも言いたい事を言って去るだけじゃ。信長が安土を離れる事ばかり気にしている。出陣しなかったらどうなるのじゃ?」
「無論、それについては考えがある」
果心の答えは間違いでは無かった。
しかし其処には大きな食い違いがあり、果心にとっては出陣ではなく上洛という名目でも良かったのである。
憎い信長を滅ぼし乱法師を犯す舞台が血に塗れていた方が神の意向に添い、より早く乱法師を手に入れられる、という只それだけ。
松永は気付くべきだった。
口先ばかりで果心が真実助けになった試しが無い事に。
乱法師を手に入れる為だけならば機会は何度でも巡ってくる。
松永が勝利出来なかったら、他の男の野心に甘い養分を注ぎ育てれば良いだけなのだ。
「安心するが良い。今のところ信長に確たる策は無い。何かあれば儂を呼べ」
そう言いながら蛇体は霞み、白く広がり薄れて消えた。
乱法師達が何を企てようとも、己を倒せる者などいないと果心は慢心していた。
引っ掛かっているのは先日山に射干の気配を感じた事と、近頃乱法師の様子を窺い辛くなっているという点だった。
感情や大まかな動きは今も知る事は出来た。
だが心を覗こうとした罰を与えたせいで昼に休み、夜は信長の側に侍るようになってしまった。
果心の行動が鈍る昼の光景は単純化し、繋がりが強くなる夜は、乱法師に愛を囁く信長の好色な姿ばかりで嫉妬で目が眩んでいた。
「助平な奴めぇぇーー儂の乱法師に触るな! 」
己の事は棚に上げ信長を罵る。
乱法師を抱き寄せる様を思い浮かべるだけで腸が煮え繰り返った。
お陰で意識的に繋がりを弱めて見ないようにする始末で、それでも怒りは収まらず、神の癖に寝不足だった。
弓削三郎の淫蕩な乱れっぷりを期待しつつ、松永の心変わりが無いかと様子見で姿を現した。
弓削三郎の美しい裸身も目の保養となったが、頭の内で乱法師の顔にすげ替え犯す事を想像した。
「待ち遠しい。乱法師ぃ──ぐぐぐ」
───
信長の元に向かう乱法師の足取りは重かった。
退行催眠を行うに当たり、側にいて欲しいという頼みをどう切り出して良いか悩みに悩んだ。
そもそも止められるのでは無いかという心配もある。
足の進みは徐々に遅くなって止まり、つい後ろを振り返る。
廊下が実際よりも長く暗く感じられた。
「いいんだよ。命じてくれたら、もう一肌でも二肌でも脱いでやるよ。何なら素っ裸になってやろうじゃないか! 」
「射干さん……」
最後の呟きは六助である。
「いや、儂を守ろうとしてくれる気持ちは嬉しいが、これは儂の問題じゃ。一人で抱え込もうとは思わぬが自身が強くあらねば所詮勝てぬ。敵を知らねば勝てぬ。知る事を恐れていてはならぬのじゃ。儂は負けぬ!これは魂の戦いぞ。今度こそ正体を突き止めてやる! 」
「若様……」
六助は乱法師の健気な勇敢さと、自分の身をあくまでも案じてくれる優しさに感動した。
「御覚悟はご立派なれど、なりませぬ。身体は傷付かぬとも心を壊されたら死も同然。今度は私が大和に参りまする」
三郎が大和行きの名乗りを上げる。
だが、当然皆に止められた。
「皆の気持ちは嬉しい。しかし奴が狙うは儂じゃ。此処で負けては、この先生きて行けぬ。簡単に倒せる相手では無い事、皆にも分かっておろう。後一息なのじゃ。何時までも守って貰う訳にはいかぬ」
乱法師が再び強固な意思を示す。
「奴は神の名を知ってんだろうか? 」
射干が突然、根本的な疑問をぼやっと口にした。
「神の住む山中で依代になったんやき。蛇体で現れんのは神と完全に同化してしもうちゅー証拠じゃあ。今や覚信の魂は神の一部として残りゆーばっかりで、奴は己は神、神の名こそが真の名だ思いゆー」
「六の申す通りじゃ。覚信という名も真の名であろうが、蛇の皮のように人の姿を捨てた時、覚信という名も捨てたのであろう。だが完全に捨て切れぬ故に、影針の時にはそこそこの効力があったが」
「気が早いかもしんないけどさあ。呪い返しをしたら果心はどうなるんだい?神って普通死なないもんだろう? 」
全く素朴な疑問である。
「へえ。覚信の禍々しい魂と人に対する怨念から神を解放するって風に考えちょります。神の力無うば覚信は滅し、依代を無うした神の荒ぶる魂を鎮め、最後は真の意味で御祀り致すつもりでごぜえます」
「何だかややこしいけど理屈は分かったよ。呪いを仕掛けてんのは覚信だけど、同化しちまってるから真の名は神の名で、成功したら若に対する呪いは解けて残った神の怒りは祈祷して鎮め、崇めてお祀りするってこったあね」
「はい!流石は射干さん、そんなところでごぜえます」
目指す終着点は見えた。
しかし其処で先程の議論に戻る。
「呪いが解けなきゃ死ぬだけだ。若だけじゃなくて此処にいる皆、只じゃ済まないかもねえ。下手な情け掛けて、じわじわ壊れるぐらいなら、覚悟を決めて若の言う通りにした方がいいんじゃないかい?派手な行動は近頃無いけど、せっせと穴を広げてんだろうさ。若の寝所に続く道のね」
男達の顔が青褪める。
簡単に諦める筈が無い。
息を潜めて何かを待っているのか。
隙か、此方が弱るのかを。
「皆、頼む。推測だけで六に命を掛けて貰う訳にはいかぬ。奴の心を見る事が出来るのは儂だけじゃ。もう奴に怯えて暮らすのは嫌なのじゃ。いっそ死んでしまいたいと何度思ったか……」
「若様……」
乱法師の苦悩を改めて知り三郎が絶句する。
「上様に御側に居て頂くというのはどうであろう。六助とは別の意味で魔を退ける強さをお持ちじゃ。若が万が一奴に苦しめられても、きっと御守り下さるように思うのじゃ」
静かに皆のやり取りを聞いていた藤兵衛が妥協案を出した。
魂の戦いでは六助の結界は効かない。
乱法師は信長の名を聞いただけで懊悩が和らぎ、殺伐とした心の荒野に花が芽吹くのを確かに感じた。
「お忙しい上様にお時間を頂くのは申し訳ない。それに、そのような事を申し出るだけでも畏れ多い」
だが相変わらずの奥ゆかしさで本音を隠し真に焦れったい。
「さっきの覚悟はどうしたんだよ!今宵も不寝番なんだろう?甘い声でお願いすれば上様が断る筈無いさ!寧ろ鼻の下伸ばして首突っ込んでくれるよ」
唖然とする程無礼な発言であるが、その通りなので誰も反論しない。
「そんな畏れ多い……不敬であるぞ」
唯一反論を試みた乱法師の声は弱々しく、結局射干に背を押されて不寝番に挑む羽目になったのであった。
───
「能登七尾城が落城致しました。遊佐や温井が内応し上杉勢を城内に引き入れ、長続連の一族は皆殺しにされたそうにございます。十五日の事であったと。柴田様はどうやら落城を知らぬ儘進軍を続けておる由にございます」
前々から旗色の悪さは承知していたが、此方の援軍が間に合えばという願い虚しく、七尾城が上杉軍の手に落ちたという報告に信長が呻いた。
「修理亮(柴田勝家)に直ちに知らせよ。七尾城には謙信が待ち構えているとな」
更に各地の戦況報告は続いた。
「紀伊の雑賀では宮郷の太田城を落とせず、和議となった由にございます」
「まあ何れ再び小競合いをするであろうが一先ず手打ちとなったか」
信長に味方した雑賀三緘衆宮郷を、敵対する雑賀の残り二組が攻めたのは一月前の事だ。
織田にとっても捨て置けぬ事態であった為介入はしたが、そもそも織田派対本願寺派という図式の戦いでは無かった。
以前から繰り広げられて来た雑賀衆同士の根深い土地争いに端を発していたからだ。
雑賀の孫一等にしてみれば信長に味方した事に対する報復はついでだった。
その証拠に攻撃側には信長派の宮郷以外の三緘衆も加わっていたらしい。
とはいえ、戦いが収まれば軍勢を雑賀に割く必要が無くなる為、良い報せと言えた。
「信貴山城でございますが、先日の岡周防守の寝返りに続き柳本も此方に味方すると申しております」
松永久秀が謀反の意を明らかにして以来、表向き懐柔策を取って来たが、裏では大和の国衆に調略を仕掛けていた。
それについては大和守護、筒井順慶の力も大きかった。
先ず一番の功績は松永の重臣である岡国高を寝返らせた事であろう。
これは天王寺砦に遣わした時、岡国高の心にある揺らぎを見抜いた明智光秀の慧眼に依るものでもあった。
調略の成果を受け、信長は松永に対する態度を硬化させる決断をした。
「松永の伜、久通の知行を差し押さえる。百姓共が年貢を納めたら悉く成敗せよ。大和の国衆にも通達するよう岡に伝えい! 」
早速、寝返った岡国高をして松永を牽制する為の朱印状を発した。
───
松永は何杯目かの酒を煽り、膝の上に座らせた弓削三郎の小袖の襟元から手を差し入れていた。
先程まで柳生松吟庵を交え酒を酌み交わしていたが、連日連夜の三人での乱交に疲れ、松吟庵は己の寝所に退がってしまった。
それ故に松永の収まらぬ焦燥と苛立ちが自ずと三郎に向けられているという訳だ。
「御許しを……」
「許せぬ!周防守(岡国高)め! 」
信長包囲網の一角を担っている己が、いつの間にか逆に包囲されていたという悔しさ。
大和の国衆や百姓が松永に味方するのを牽制する朱印状を岡国高が与えられたと耳にし、堅城に籠る己の優位が揺らいだように感じたのだ。
三郎を膝から下ろすと小袖の裾を腰骨辺りまで捲り上げた。
「お許しを……おお」
僕《しもべ》の従順さと絶品の味わいに松永が昇天すると、漸く三郎は解放された。
褥に突っ伏し、夢見心地で見つめ合う二人の唇から吐き出される荒い息が白く闇に溶ける。
秋の冷え込む室内でも、ぴたりと寄せる肌は火照り汗が光っていた。
激しい行為の余韻に浸る息遣いだけが、昂りが冷めゆく中で不思議な静けさを耳に届ける。
時と共に少しずつ虚無に侵されていく。
松永の心情を悟り三郎が口を開き掛けた時───
何時見ても良い乱れっぷりじゃ──
地獄の底から湧くような陰鬱な声が木霊した。
寝間での睦言を覗き見していた事に悪気無く、抜け抜けと好色な感想を述べる。
白い靄が宙空に広がり再び集まり大蛇の形を成した。
松永と三郎の交合直後に現れるという、良からぬ癖が果心にはあった。
すっかりそれに慣れてしまった二人は始めこそ驚くが、直ぐに気怠げな表情に戻る。
「何やら機嫌が良いではないか。此方は腸が煮え繰り返っておるというに!何故、儂に教えなかった? 」
「岡周防守の裏切りぐらいで腹を立てるものでは無い。大事の前の小事に過ぎぬ」
「信長が出陣する気配があるのか? 」
「今少しの辛抱であろうな。越後の上杉の猛攻に地団駄踏んで悔しがっておったぞ。血が騒いで仕方無かろうが、貴様の為すべきは城に籠り信長軍を引き付け疲弊させる事じゃ。その時こそ大雨でも雷でも、望みとあらば血の雨を降らせてやろうではないか」
幾度もこうした企みが言い交わされるが、松永は今一つ話しが噛み合わないと感じていた。
漲る若さを与えられ、織田の情報は期待する程では無いにせよ報せてくれる。
それに射干を始末してくれたと信じていた。
だが幻術師果心としても神としても物足りない。
神ならば信長の首を獲る事ぐらい造作も無かろう、と。
松永は果心に対する認識を誤っていた。
神という存在に対してもである。
そもそも神というものが人々の生活に干渉する為には人の力を借りる必要があった。
神と人との対話も結局は依代となる人を介さなくてはならない。
そしてそれには別の側面もある。
天変地異などの災害は、神の怒りに因る場合もあるが、神の仕業と人々が思うのは単《ひとえ》に信心あってこそだ。
そうでなければ只の雷、大雨に過ぎず、どうか鎮めて下されと天に向かって祈る筈が無い。
神業《みわざ》であると依代の口から語られる事で信心が増す。
神の存在を知らしめる者がいてこその神なのだ。
因みに一言主神が役小角の謀反を帝に讒言した際には巫女の口を借りたのである。
それでも、合戦の最中に天候を支配する事が出来たなら、何にも勝る強力な兵器となろう。
但し厄介な事に神は所詮人間より高位の存在であり、使役され兵器にされるなど誇りが許さない。
特に果心の場合、松永を積極的に支援しようとしないのは単に手駒と思っているからだ。
結局は全ての人間が嫌いなのである。
その中で最も不信心な信長は唾棄すべき存在だが、松永を含めた者達が愚かな争いを繰り広げ血を多く流す事こそを望んでいた。
それにより神に対する畏敬の念は増す。
人の世を統べる支配者は信心深く、傀儡となるような人物が望ましかった。
松永の勝利では無く、覚信の妄執は乱法師を求め、神の怨讐は人々の血を求めていた。
果心は人の皮を被り松永や順慶の前に現れた頃から、虫唾が走る程傲慢で利己的であった。
己の利しか考えず、その利害が一致すれば手を貸すという根本は何も変わっていなかった。
いや、実は手を貸しているという事自体が幻想であった。
互いに人であれば打算的な関係であろうとも、主張を抑え合わせるという知恵もあるだろう。
ところが果心には一切それが無かった。
思惑が合った場合のみ噛み合っているように感じるだけなのだ。
妖しに松永がつけ入られてしまったのは何故なのか。
それは果心が、使え無い癖に使い道だけはある異常に鋭い刃のようなものであるからだ。
蛇の粉が毒として体内を巡り臓器を侵食していた。
それに気付いているのは美貌の弓削三郎だけであったのかも知れない。
「お前はいつも言いたい事を言って去るだけじゃ。信長が安土を離れる事ばかり気にしている。出陣しなかったらどうなるのじゃ?」
「無論、それについては考えがある」
果心の答えは間違いでは無かった。
しかし其処には大きな食い違いがあり、果心にとっては出陣ではなく上洛という名目でも良かったのである。
憎い信長を滅ぼし乱法師を犯す舞台が血に塗れていた方が神の意向に添い、より早く乱法師を手に入れられる、という只それだけ。
松永は気付くべきだった。
口先ばかりで果心が真実助けになった試しが無い事に。
乱法師を手に入れる為だけならば機会は何度でも巡ってくる。
松永が勝利出来なかったら、他の男の野心に甘い養分を注ぎ育てれば良いだけなのだ。
「安心するが良い。今のところ信長に確たる策は無い。何かあれば儂を呼べ」
そう言いながら蛇体は霞み、白く広がり薄れて消えた。
乱法師達が何を企てようとも、己を倒せる者などいないと果心は慢心していた。
引っ掛かっているのは先日山に射干の気配を感じた事と、近頃乱法師の様子を窺い辛くなっているという点だった。
感情や大まかな動きは今も知る事は出来た。
だが心を覗こうとした罰を与えたせいで昼に休み、夜は信長の側に侍るようになってしまった。
果心の行動が鈍る昼の光景は単純化し、繋がりが強くなる夜は、乱法師に愛を囁く信長の好色な姿ばかりで嫉妬で目が眩んでいた。
「助平な奴めぇぇーー儂の乱法師に触るな! 」
己の事は棚に上げ信長を罵る。
乱法師を抱き寄せる様を思い浮かべるだけで腸が煮え繰り返った。
お陰で意識的に繋がりを弱めて見ないようにする始末で、それでも怒りは収まらず、神の癖に寝不足だった。
弓削三郎の淫蕩な乱れっぷりを期待しつつ、松永の心変わりが無いかと様子見で姿を現した。
弓削三郎の美しい裸身も目の保養となったが、頭の内で乱法師の顔にすげ替え犯す事を想像した。
「待ち遠しい。乱法師ぃ──ぐぐぐ」
───
信長の元に向かう乱法師の足取りは重かった。
退行催眠を行うに当たり、側にいて欲しいという頼みをどう切り出して良いか悩みに悩んだ。
そもそも止められるのでは無いかという心配もある。
足の進みは徐々に遅くなって止まり、つい後ろを振り返る。
廊下が実際よりも長く暗く感じられた。
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悠井すみれ
歴史・時代
職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。
清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。
純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。
嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。
第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。
表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。
猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~
橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
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