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第19章 破魔
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「死のうは一定、忍び草には何しよぞ、一定語りをこすよの」
湯気で白く霞む湯殿に朗々と歌声が響く。
うっとりと目を細め、何度も繰り返される歌声に耳を傾けていた乱法師の眉が潜められた。
「どうした? 」
信長はそれを見逃さず顔を覗き込む。
乱法師は信長の膝枕で髪を撫でられていた。
湯殿での世話を割り当てられたのだが、いつの間にか主の膝の上に頭を乗せ寛いでいるという奇妙な状況にあった。
「いえ……大した事ではございませぬ」
囁くような声さえ蒸し風呂では殊の外響いた。
「また何か隠しているのではあるまいな」
「真に何も……」
「ならば良い。そろそろ昼の勤めに戻りたいと申しておったが」
茱萸に似た乱法師の唇をなぞり、意味深な眼差しを向ける。
「御蔭様で夜に対する恐れは失せましてございます。御刀を何時までもお借りしているのは心苦しゅう」
「不動行光は暫く持っておれ。そなたが心安らかであれば何よりじゃ。後数日は不寝番致せ。夜になると心細うなるものじゃ。儂の側におれば良い」
気恥ずかしくなる程の労りように、熱さのせいでは無く頬が朱に色付いた。
「真は何時まででも不寝番させたいものじゃ」
上から顔をじっと見詰められ羞恥が極まる。
「上様が御出馬される時には私も御供致しとうございます」
慌てて視線を外し、少年らしいはきはきとした口調で話題を変えた。
「そなたが側におれば心強い限りじゃ。出陣の際には考えておこう」
乱法師が言いたいのは松永討伐軍の事である。
諸国の情勢を鑑みて終始説得に努めているが、松永が今更殊勝に頭を垂れてくるとは思えない。
何れ大軍で城を囲む事になるだろう。
実は信長は、ある情勢の変化を待っていて、己は出陣する必要は無いと考えていた。
故に健気な申し出を受けるつもりは無いし、陣中に伴えば彼の肉体への欲望を抑える事は難しくなる。
まるで幾度も褥を共にしたような甘やかさだが、正確には只の一夜きりである。
信長の返答を聞いて乱法師は嬉しく思い顔を綻ばせた。
そのような可憐な表情を見て、常に彼に対する愛情と欲望を燻らせている信長の炎が燃え盛った。
項の下に手を入れて身体を起こさせると、当然の権利とばかりに唇を啄む。
不寝番の時には堪えていた。
すぐ側に褥があるのだから、本格的な行為に及んでしまう恐れがあるからだ。
折角懐き、寛いだ笑みを見せるようになってきたというのに、無理矢理手折れば蕾は固く閉じ、二度と開いてくれなくなるかも知れない。
分かり易く言えば嫌われたくないのだ。
唇と首筋から快感が下部に伝わり、ぞくりと電流が背筋を走り抜けた。
この儘だと意思を奪われ、信長の思うが儘に全てを委ねてしまいそうであった。
濃厚な愛撫の後、酸欠で意識朦朧とする彼は、今度は洗い場で身体を洗われていた。
ぐったりと信長に凭れ、成すが儘である。
自身で触れても何でもない箇所も人に触れられると心地好いものだ。
凝りを解すように背中を洗われていると不敬な事に眠くなってきてしまう。
六助が、射干の髪を貼り付けた御幣が微かに震えたと言っていた。
その後異変は無く安堵したものの、三日という期限が長く感じられて仕方が無かった。
「前も洗うか? 」
「はい……」
『射干は利口な女子じゃ。危険に自ら近寄る事はすまい。なれど──』
「あっ!」
気付くと帷子の前を開けられ、信長の手が内腿に入り込んでいた。
「前も洗うか?と聞いたら、はいと答えていたぞ」
笑いながら手を更に際どい箇所に進めてくる。
「あぁ……いえ……畏れ多い。自分で!自分で! 」
大慌てで帷子の前を掻き合わせる。
全く油断も隙も無い。
「私が御背中を御流し致しまする」
きりりと顔を引き締め主と家臣の線引きを強く訴える。
信長は可笑しくて仕方が無いという風に笑っていながら背中を向けた。
「射干というくの一は実に肝が座っておる」
低い声が洗い場に響いた。
はっと顔を上げる。
「存じておられたのですか? 」
「こら!隠し事をするなと申したぞ。まあ良い。三郎から全て聞いておる故なあ」
「隠し立てするつもりなど……只、事細かに申し上げるのは御忙しい上様に申し訳無く」
「それが水臭いのじゃ。あの者は実に賢く目端が聞く。必ず何かを掴んで戻ってこよう。そなたの周りには良い者達がおるのう」
親しき者達を信長に褒められ嬉しさで背中を擦る手に力が入る。
「上様は三郎と何時お話しをされたのですか? 」
込み入った話しをする暇が何時あったのか。
「良く寝ていて気付かなかったか?不動行光を抱き締めるそなたの愛らしい寝顔を眺めに行ったついでに三郎と話しをしたのじゃ」
「…………」
「おお、少し力が強いな」
背中を強く擦り過ぎてしまったらしい。
「申し訳ございませぬ」
「今度は柔いな。もう少し強うても良いぞ」
呆れる程の甘さに逆上せ、芯から蕩けて今度は指に力が入らない。
信長は呑気に鼻歌交りで楽しそうだ。
気の利いた返答も出来ない未熟な己が嫌で堪らない。
そして彼に向けられる優しい笑顔に魂の深い部分を抉られ、慕う気持ちは極まり、ずっと側にいたいという我が儘を、畏れ多いと制御してしまう。
これ以上優しくしないで欲しい。
「松永を倒す方法は考えてある。多くの敵に囲まれた時、始めに何処を攻めるか、それと時期じゃ。天候も勝利を左右する」
突然後ろに振り向けられた顔は、大軍を率いる英邁な大将のそれであった。
ところが──
「前も洗って貰おう」
「前も……」
「何か不都合でもあるか」
「いえ……」
背中を洗うのとは勝手が違い過ぎる。
間近で顔を合わせるのも気恥ずかしいが、俯けば『ある物』が目に入ってしまう。
戸惑う彼の気持ちを置き去りに、信長は話し続けた。
「果心は人の邪心に巣食う虫のような物じゃ。だが逆に明確な姿を持たず、人に寄生する事でしか生きられぬ奴の依代を潰せば行き場を失うであろう。天下を平定し、あのような腐った者の行き場を無くしてくれる」
信長が熱く語る間に一箇所を除いて洗い終えてしまった。
「あの……大方洗い終えましてございます」
消え入りそうな声で訴える彼の様子に、抑えようの無い悪戯心が首をもたげた。
「まだ残っておる。男の大事な所がな。こうした方が洗い易いか」
真顔で仁王立ちになる全裸の信長に乱法師はたじろいだ。
凝視しては畏れ多い物が眼前にぶら下がっている。
それよりも何処から何処までが戯れ言なのか判断し難く、生真面目な彼は考えた。
『どの程度の強さで洗うべきか。主命とあれば辞する訳にはいかぬ』
「失礼致しまする」
そうして手にした糠袋で優しく包むように捧げ持ち、迷ったが先端から洗う事にした。
「く──ぬう」
「あ、強過ぎましたか? 」
出来るだけ目を逸らし力を抜いて先端を柔々と擦る。
「いかぬ。戯れが過ぎた。これはいかぬ」
いきなり手首を掴まれ除けられたので、不手際があったのではと礼儀正しく手を付き項垂れてしまう。
「申し訳ございませぬ」
「そなたが悪い訳では無い」
汗と湯で張り付いた白い湯帷子が透けて華奢な肢体が一層艶かしく際立ち、楚々と俯く後れ毛の掛かる細い項が眩しい。
己で股間を手早く洗い上げ、信長は猛る獣性を凄まじい自制心で抑え込んだ。
───
何者も恐れず、どんな苦境でも動じない信長のお陰で、射干の身を案じる乱法師の不安は軽減された。
と言うより、それを忘れる程の緊張を強いられていたというのが正しいかも知れない。
だが今日はそわそわと何をしていても気も漫ろになりがちであった。
期限通りならば、そろそろ戻って来ても良い筈だろうと落ち着かない。
「はあ……」
文机に置かれた、金山にいる家族に定期的に認めている文は型通りの内容になりがちだ。
無骨な兄ならば気に留めないだろうが、母は物足りなく感じているであろう。
細々と弟達や金山での様子が綴られた文からは情愛が溢れているというのに、此方からは喜ばしい報告をしてやれないのが辛い。
嘘八百を書ける程器用な性分でも無い。
取り敢えず生きている。
と、いう事が唯一喜ばしい事であったかも知れない。
諦めて筆を置き床に仰向けに寝転ぶ。
ふと湯殿での信長の裸体が脳裏に甦った。
同性でありながら己とは違う、細身だが鍛えられた逞しい身体。
それと明らかに己とは大きさも形も異なる、あの──
想像を巡らすだけでも罪深いとは思いつつ、考えてみたら父や兄の物でさえ、いや、下々の者達のでさえ繁々と眺めた事は無い事に思い至る。
気になってどうしようも無くなり、三郎に命じた。
「あの書物を持って参れ」
それで通じるのだから大したものだ。
三郎は心得て例の書物を持ってくると、何も聞かず置いて襖を閉め素早く立ち去った。
忍びのようじゃと感心しつつ、手を震わせ書物を開く。
二度目になるが、やはり衝撃的な絵図に緻密な説明文だと低く唸る。
絡み合う男同士の、兄分の股間に目が釘付けになった。
「これじゃ!上様の──」
彼の探していた形状が其所にあった。
しかし念の為と別の頁もめくってみる。
どの絵図でも兄分の方は信長の物と同じ形状をしていた。
「しかし大き過ぎる。これは誇張して描かれておるのか? 」
始めはそう考えたが、漸く普通の状態の物では無いという事に気が付いた。
未熟であっても男子。
幼い頃から生理的な現象にだけは馴染みがあった。
「そうか!そうであったか! 」
謎が解けて嬉しかった。
くく、ふふっふふ
思わず含み笑いをしてしまう。
ふふ、ふふ──あっは
自分では無い。
反射的に天井を見上げるが誰もいない。
素早く視線を移し部屋中を見回すと、いきなり目の前が暗くなった。
「射干……」
温かい感触が瞼を包み、名を呟くと直ぐに目隠しは外された。
「ばあ!驚いたかい?また、うくく、そんな本読んで。あは……勉強熱心だねえ。そろそろ実践してみたらと思うけど」
「何じゃ!何時も何時も!こういう時を狙っておるのか!まともに襖を開けて入って来れぬのか! 」
驚きで混乱し、帰りを待ち望んでいた筈が怒りを露に掴み掛かっていた。
少年とはいえ男の力で押され、射干が蹌踉めく。
「あ──済まぬ」
「やだ、襖は開けて入ったさ。蟻や蚤じゃあるまいし。嫌らしい本に熱中してたから気付かなかっただけだろ?何見てんだろうって上から覗こうとしたら、つい癖で上り過ぎちまったのさ。上様とは進展したのかい? 」
と、屈託無く何時もの調子でずけずけ尋ねてくる。
「いや……儂の事はどうでも良い!そっちはどうだったのじゃ」
余計な事を口走りそうになるのを寸でで止める。
何よりも戻って来てくれた事が嬉しいのだが、今更そんな感動を表すのは恥ずかしい。
「まあ、突き止めたって言えるだろうねえ」
乱法師は射干の様子に少し違和感を覚えた。
声の調子は明るいが無理しているように感じたのだ。
「して、果心の名は? 」
本音では聞きたくなかった。
信長の甘い言葉と射干の帰還の喜びに何時までも浸っていたかった。
果心の名を知れば、底無しの暗い沼に足を踏み入れなければならない。
「皆の前で話すよ。その方がいいだろう?」
乱法師は無言で頷いた。
───
「射干!いつの間に帰ってきたのじゃ」
「射干さん御無事で……ううっうう」
「無事で良かった」
お馴染みの面々が射干を囲む。
「腹が減っているのでは無いか?饅頭でも」
「流石に饅頭には懲りたよ。何だか心配掛けちまって済まないねえ」
皆の間からどっと笑いが起こる。
だが笑いが収まり掛けた時、皆が一様に思った。
果心の真の名は、と。
和んだ空気が僅かに張りつめ、微妙な沈黙が流れる。
「奴の名を突き止めた、と思う。これから話すから皆で判断して欲しいんだけど」
沈黙を破ったのは射干だった。
一同の顔が引き締まる。
ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえた。
───
射干は順を追って話した。
結論から話さなかったのは、皆の判断に委ねたいという思いがあったからだ。
「うーむ」
低く唸ったのは藤兵衛である。
「正しく我等の求めていた特徴を持つ神である事は間違いない」
三郎も感想を述べつつ結論を急がない。
「六助はどう思うんだい? 」
「儂は射干さんに賛成や」
「そうじゃないだろう。やっぱり葛城の神が怪しいと思うかって聞いてるんだよ」
恋に溺れる六助の頼りない返答に射干が焦れる。
「いえ、勿論そう思う。三輪山に関連した神が祀られちょって、しかも人に怨みを持っちゅー。それに蛇、間違いねえっ思おちゅー。やけんど……」
「本人に聞いた訳ではない」
狼狽える六助の言葉に被せ、きっぱりと乱法師が言い放った。
「それは最初から分かってる事だろう?聞いて教えてくれるような奴じゃないって。だけど試してみる価値はあるだろう? 」
「射干、此処まで突き止めてくれた事には感謝しておる。儂とて葛城の神と思うておる。真の名があれば果心に呪いを返し繋がりを断ち切る事が出来る。だが、それは大変な危険を伴うと六助が話していた」
「若様!儂の事はええんや。もう、これ以上奴の好きにはさせらんねえ」
「駄目じゃ。もし違うていた場合、そちは呪いを全て引き受ける事になるのじゃぞ」
「何だって? 」
呪いは失敗すれば己に返ってくる。
呪われた側が返す場合も、また然りである。
呪詛返しを行った本人だけでなく、親族や子々孫々にまで引き継がれていくというのだから迂闊に行える筈が無い。
「じゃあどうすんだよ。山に入って奴に聞いてくるかい?確かめる前に絞め殺されちまうかも知れないけど」
戯れ言めいているが、その危険は充分過ぎるくらい有り得る。
「儂が確かめる」
決意を込めた静かな声音で乱法師が言った。
「乱法師様、お止め下さい」
こうした顔付きの時には碌な事を考えていないと三郎が止めに掛かる。
「大和に行こうというのではない。果心の記憶を探るのじゃ」
「何と!そのせいで御心を病まれたのではありませぬか。折角良うなられて、昼の御勤めに戻れるという矢先に! 」
藤兵衛も三郎に賛同した。
湯気で白く霞む湯殿に朗々と歌声が響く。
うっとりと目を細め、何度も繰り返される歌声に耳を傾けていた乱法師の眉が潜められた。
「どうした? 」
信長はそれを見逃さず顔を覗き込む。
乱法師は信長の膝枕で髪を撫でられていた。
湯殿での世話を割り当てられたのだが、いつの間にか主の膝の上に頭を乗せ寛いでいるという奇妙な状況にあった。
「いえ……大した事ではございませぬ」
囁くような声さえ蒸し風呂では殊の外響いた。
「また何か隠しているのではあるまいな」
「真に何も……」
「ならば良い。そろそろ昼の勤めに戻りたいと申しておったが」
茱萸に似た乱法師の唇をなぞり、意味深な眼差しを向ける。
「御蔭様で夜に対する恐れは失せましてございます。御刀を何時までもお借りしているのは心苦しゅう」
「不動行光は暫く持っておれ。そなたが心安らかであれば何よりじゃ。後数日は不寝番致せ。夜になると心細うなるものじゃ。儂の側におれば良い」
気恥ずかしくなる程の労りように、熱さのせいでは無く頬が朱に色付いた。
「真は何時まででも不寝番させたいものじゃ」
上から顔をじっと見詰められ羞恥が極まる。
「上様が御出馬される時には私も御供致しとうございます」
慌てて視線を外し、少年らしいはきはきとした口調で話題を変えた。
「そなたが側におれば心強い限りじゃ。出陣の際には考えておこう」
乱法師が言いたいのは松永討伐軍の事である。
諸国の情勢を鑑みて終始説得に努めているが、松永が今更殊勝に頭を垂れてくるとは思えない。
何れ大軍で城を囲む事になるだろう。
実は信長は、ある情勢の変化を待っていて、己は出陣する必要は無いと考えていた。
故に健気な申し出を受けるつもりは無いし、陣中に伴えば彼の肉体への欲望を抑える事は難しくなる。
まるで幾度も褥を共にしたような甘やかさだが、正確には只の一夜きりである。
信長の返答を聞いて乱法師は嬉しく思い顔を綻ばせた。
そのような可憐な表情を見て、常に彼に対する愛情と欲望を燻らせている信長の炎が燃え盛った。
項の下に手を入れて身体を起こさせると、当然の権利とばかりに唇を啄む。
不寝番の時には堪えていた。
すぐ側に褥があるのだから、本格的な行為に及んでしまう恐れがあるからだ。
折角懐き、寛いだ笑みを見せるようになってきたというのに、無理矢理手折れば蕾は固く閉じ、二度と開いてくれなくなるかも知れない。
分かり易く言えば嫌われたくないのだ。
唇と首筋から快感が下部に伝わり、ぞくりと電流が背筋を走り抜けた。
この儘だと意思を奪われ、信長の思うが儘に全てを委ねてしまいそうであった。
濃厚な愛撫の後、酸欠で意識朦朧とする彼は、今度は洗い場で身体を洗われていた。
ぐったりと信長に凭れ、成すが儘である。
自身で触れても何でもない箇所も人に触れられると心地好いものだ。
凝りを解すように背中を洗われていると不敬な事に眠くなってきてしまう。
六助が、射干の髪を貼り付けた御幣が微かに震えたと言っていた。
その後異変は無く安堵したものの、三日という期限が長く感じられて仕方が無かった。
「前も洗うか? 」
「はい……」
『射干は利口な女子じゃ。危険に自ら近寄る事はすまい。なれど──』
「あっ!」
気付くと帷子の前を開けられ、信長の手が内腿に入り込んでいた。
「前も洗うか?と聞いたら、はいと答えていたぞ」
笑いながら手を更に際どい箇所に進めてくる。
「あぁ……いえ……畏れ多い。自分で!自分で! 」
大慌てで帷子の前を掻き合わせる。
全く油断も隙も無い。
「私が御背中を御流し致しまする」
きりりと顔を引き締め主と家臣の線引きを強く訴える。
信長は可笑しくて仕方が無いという風に笑っていながら背中を向けた。
「射干というくの一は実に肝が座っておる」
低い声が洗い場に響いた。
はっと顔を上げる。
「存じておられたのですか? 」
「こら!隠し事をするなと申したぞ。まあ良い。三郎から全て聞いておる故なあ」
「隠し立てするつもりなど……只、事細かに申し上げるのは御忙しい上様に申し訳無く」
「それが水臭いのじゃ。あの者は実に賢く目端が聞く。必ず何かを掴んで戻ってこよう。そなたの周りには良い者達がおるのう」
親しき者達を信長に褒められ嬉しさで背中を擦る手に力が入る。
「上様は三郎と何時お話しをされたのですか? 」
込み入った話しをする暇が何時あったのか。
「良く寝ていて気付かなかったか?不動行光を抱き締めるそなたの愛らしい寝顔を眺めに行ったついでに三郎と話しをしたのじゃ」
「…………」
「おお、少し力が強いな」
背中を強く擦り過ぎてしまったらしい。
「申し訳ございませぬ」
「今度は柔いな。もう少し強うても良いぞ」
呆れる程の甘さに逆上せ、芯から蕩けて今度は指に力が入らない。
信長は呑気に鼻歌交りで楽しそうだ。
気の利いた返答も出来ない未熟な己が嫌で堪らない。
そして彼に向けられる優しい笑顔に魂の深い部分を抉られ、慕う気持ちは極まり、ずっと側にいたいという我が儘を、畏れ多いと制御してしまう。
これ以上優しくしないで欲しい。
「松永を倒す方法は考えてある。多くの敵に囲まれた時、始めに何処を攻めるか、それと時期じゃ。天候も勝利を左右する」
突然後ろに振り向けられた顔は、大軍を率いる英邁な大将のそれであった。
ところが──
「前も洗って貰おう」
「前も……」
「何か不都合でもあるか」
「いえ……」
背中を洗うのとは勝手が違い過ぎる。
間近で顔を合わせるのも気恥ずかしいが、俯けば『ある物』が目に入ってしまう。
戸惑う彼の気持ちを置き去りに、信長は話し続けた。
「果心は人の邪心に巣食う虫のような物じゃ。だが逆に明確な姿を持たず、人に寄生する事でしか生きられぬ奴の依代を潰せば行き場を失うであろう。天下を平定し、あのような腐った者の行き場を無くしてくれる」
信長が熱く語る間に一箇所を除いて洗い終えてしまった。
「あの……大方洗い終えましてございます」
消え入りそうな声で訴える彼の様子に、抑えようの無い悪戯心が首をもたげた。
「まだ残っておる。男の大事な所がな。こうした方が洗い易いか」
真顔で仁王立ちになる全裸の信長に乱法師はたじろいだ。
凝視しては畏れ多い物が眼前にぶら下がっている。
それよりも何処から何処までが戯れ言なのか判断し難く、生真面目な彼は考えた。
『どの程度の強さで洗うべきか。主命とあれば辞する訳にはいかぬ』
「失礼致しまする」
そうして手にした糠袋で優しく包むように捧げ持ち、迷ったが先端から洗う事にした。
「く──ぬう」
「あ、強過ぎましたか? 」
出来るだけ目を逸らし力を抜いて先端を柔々と擦る。
「いかぬ。戯れが過ぎた。これはいかぬ」
いきなり手首を掴まれ除けられたので、不手際があったのではと礼儀正しく手を付き項垂れてしまう。
「申し訳ございませぬ」
「そなたが悪い訳では無い」
汗と湯で張り付いた白い湯帷子が透けて華奢な肢体が一層艶かしく際立ち、楚々と俯く後れ毛の掛かる細い項が眩しい。
己で股間を手早く洗い上げ、信長は猛る獣性を凄まじい自制心で抑え込んだ。
───
何者も恐れず、どんな苦境でも動じない信長のお陰で、射干の身を案じる乱法師の不安は軽減された。
と言うより、それを忘れる程の緊張を強いられていたというのが正しいかも知れない。
だが今日はそわそわと何をしていても気も漫ろになりがちであった。
期限通りならば、そろそろ戻って来ても良い筈だろうと落ち着かない。
「はあ……」
文机に置かれた、金山にいる家族に定期的に認めている文は型通りの内容になりがちだ。
無骨な兄ならば気に留めないだろうが、母は物足りなく感じているであろう。
細々と弟達や金山での様子が綴られた文からは情愛が溢れているというのに、此方からは喜ばしい報告をしてやれないのが辛い。
嘘八百を書ける程器用な性分でも無い。
取り敢えず生きている。
と、いう事が唯一喜ばしい事であったかも知れない。
諦めて筆を置き床に仰向けに寝転ぶ。
ふと湯殿での信長の裸体が脳裏に甦った。
同性でありながら己とは違う、細身だが鍛えられた逞しい身体。
それと明らかに己とは大きさも形も異なる、あの──
想像を巡らすだけでも罪深いとは思いつつ、考えてみたら父や兄の物でさえ、いや、下々の者達のでさえ繁々と眺めた事は無い事に思い至る。
気になってどうしようも無くなり、三郎に命じた。
「あの書物を持って参れ」
それで通じるのだから大したものだ。
三郎は心得て例の書物を持ってくると、何も聞かず置いて襖を閉め素早く立ち去った。
忍びのようじゃと感心しつつ、手を震わせ書物を開く。
二度目になるが、やはり衝撃的な絵図に緻密な説明文だと低く唸る。
絡み合う男同士の、兄分の股間に目が釘付けになった。
「これじゃ!上様の──」
彼の探していた形状が其所にあった。
しかし念の為と別の頁もめくってみる。
どの絵図でも兄分の方は信長の物と同じ形状をしていた。
「しかし大き過ぎる。これは誇張して描かれておるのか? 」
始めはそう考えたが、漸く普通の状態の物では無いという事に気が付いた。
未熟であっても男子。
幼い頃から生理的な現象にだけは馴染みがあった。
「そうか!そうであったか! 」
謎が解けて嬉しかった。
くく、ふふっふふ
思わず含み笑いをしてしまう。
ふふ、ふふ──あっは
自分では無い。
反射的に天井を見上げるが誰もいない。
素早く視線を移し部屋中を見回すと、いきなり目の前が暗くなった。
「射干……」
温かい感触が瞼を包み、名を呟くと直ぐに目隠しは外された。
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「何じゃ!何時も何時も!こういう時を狙っておるのか!まともに襖を開けて入って来れぬのか! 」
驚きで混乱し、帰りを待ち望んでいた筈が怒りを露に掴み掛かっていた。
少年とはいえ男の力で押され、射干が蹌踉めく。
「あ──済まぬ」
「やだ、襖は開けて入ったさ。蟻や蚤じゃあるまいし。嫌らしい本に熱中してたから気付かなかっただけだろ?何見てんだろうって上から覗こうとしたら、つい癖で上り過ぎちまったのさ。上様とは進展したのかい? 」
と、屈託無く何時もの調子でずけずけ尋ねてくる。
「いや……儂の事はどうでも良い!そっちはどうだったのじゃ」
余計な事を口走りそうになるのを寸でで止める。
何よりも戻って来てくれた事が嬉しいのだが、今更そんな感動を表すのは恥ずかしい。
「まあ、突き止めたって言えるだろうねえ」
乱法師は射干の様子に少し違和感を覚えた。
声の調子は明るいが無理しているように感じたのだ。
「して、果心の名は? 」
本音では聞きたくなかった。
信長の甘い言葉と射干の帰還の喜びに何時までも浸っていたかった。
果心の名を知れば、底無しの暗い沼に足を踏み入れなければならない。
「皆の前で話すよ。その方がいいだろう?」
乱法師は無言で頷いた。
───
「射干!いつの間に帰ってきたのじゃ」
「射干さん御無事で……ううっうう」
「無事で良かった」
お馴染みの面々が射干を囲む。
「腹が減っているのでは無いか?饅頭でも」
「流石に饅頭には懲りたよ。何だか心配掛けちまって済まないねえ」
皆の間からどっと笑いが起こる。
だが笑いが収まり掛けた時、皆が一様に思った。
果心の真の名は、と。
和んだ空気が僅かに張りつめ、微妙な沈黙が流れる。
「奴の名を突き止めた、と思う。これから話すから皆で判断して欲しいんだけど」
沈黙を破ったのは射干だった。
一同の顔が引き締まる。
ごくり、と唾を飲み込む音が聞こえた。
───
射干は順を追って話した。
結論から話さなかったのは、皆の判断に委ねたいという思いがあったからだ。
「うーむ」
低く唸ったのは藤兵衛である。
「正しく我等の求めていた特徴を持つ神である事は間違いない」
三郎も感想を述べつつ結論を急がない。
「六助はどう思うんだい? 」
「儂は射干さんに賛成や」
「そうじゃないだろう。やっぱり葛城の神が怪しいと思うかって聞いてるんだよ」
恋に溺れる六助の頼りない返答に射干が焦れる。
「いえ、勿論そう思う。三輪山に関連した神が祀られちょって、しかも人に怨みを持っちゅー。それに蛇、間違いねえっ思おちゅー。やけんど……」
「本人に聞いた訳ではない」
狼狽える六助の言葉に被せ、きっぱりと乱法師が言い放った。
「それは最初から分かってる事だろう?聞いて教えてくれるような奴じゃないって。だけど試してみる価値はあるだろう? 」
「射干、此処まで突き止めてくれた事には感謝しておる。儂とて葛城の神と思うておる。真の名があれば果心に呪いを返し繋がりを断ち切る事が出来る。だが、それは大変な危険を伴うと六助が話していた」
「若様!儂の事はええんや。もう、これ以上奴の好きにはさせらんねえ」
「駄目じゃ。もし違うていた場合、そちは呪いを全て引き受ける事になるのじゃぞ」
「何だって? 」
呪いは失敗すれば己に返ってくる。
呪われた側が返す場合も、また然りである。
呪詛返しを行った本人だけでなく、親族や子々孫々にまで引き継がれていくというのだから迂闊に行える筈が無い。
「じゃあどうすんだよ。山に入って奴に聞いてくるかい?確かめる前に絞め殺されちまうかも知れないけど」
戯れ言めいているが、その危険は充分過ぎるくらい有り得る。
「儂が確かめる」
決意を込めた静かな声音で乱法師が言った。
「乱法師様、お止め下さい」
こうした顔付きの時には碌な事を考えていないと三郎が止めに掛かる。
「大和に行こうというのではない。果心の記憶を探るのじゃ」
「何と!そのせいで御心を病まれたのではありませぬか。折角良うなられて、昼の御勤めに戻れるという矢先に! 」
藤兵衛も三郎に賛同した。
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歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。
記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。
これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語
※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
焔の牡丹
水城真以
歴史・時代
「思い出乞ひわずらい」の続きです。先にそちらをお読みになってから閲覧よろしくお願いします。
織田信長の嫡男として、正室・帰蝶の養子となっている奇妙丸。ある日、かねてより伏せていた実母・吉乃が病により世を去ったとの報せが届く。当然嫡男として実母の喪主を務められると思っていた奇妙丸だったが、信長から「喪主は弟の茶筅丸に任せる」との決定を告げられ……。
織田信長 -尾州払暁-
藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
黄金の檻の高貴な囚人
せりもも
歴史・時代
短編集。ナポレオンの息子、ライヒシュタット公フランツを囲む人々の、群像劇。
ナポレオンと、敗戦国オーストリアの皇女マリー・ルイーゼの間に生まれた、少年。彼は、父ナポレオンが没落すると、母の実家であるハプスブルク宮廷に引き取られた。やがて、母とも引き離され、一人、ウィーンに幽閉される。
仇敵ナポレオンの息子(だが彼は、オーストリア皇帝の孫だった)に戸惑う、周囲の人々。父への敵意から、懸命に自我を守ろうとする、幼いフランツ。しかしオーストリアには、敵ばかりではなかった……。
ナポレオンの絶頂期から、ウィーン3月革命までを描く。
※カクヨムさんで完結している「ナポレオン2世 ライヒシュタット公」のスピンオフ短編集です
https://kakuyomu.jp/works/1177354054885142129
※星海社さんの座談会(2023.冬)で取り上げて頂いた作品は、こちらではありません。本編に含まれるミステリのひとつを抽出してまとめたもので、公開はしていません
https://sai-zen-sen.jp/works/extras/sfa037/01/01.html
※断りのない画像は、全て、wikiからのパブリック・ドメイン作品です

信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~
佐倉伸哉
歴史・時代
その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。
父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。
稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。
明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。
◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』『カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/16818093085367901420)』でも同時掲載しています◇
鷹の翼
那月
歴史・時代
時は江戸時代幕末。
新選組を目の敵にする、というほどでもないが日頃から敵対する1つの組織があった。
鷹の翼
これは、幕末を戦い抜いた新選組の史実とは全く関係ない鷹の翼との日々。
鷹の翼の日常。日課となっている嫌がらせ、思い出したかのようにやって来る不定期な新選組の奇襲、アホな理由で勃発する喧嘩騒動、町の騒ぎへの介入、それから恋愛事情。
そんな毎日を見届けた、とある少女のお話。
少女が鷹の翼の門扉を、めっちゃ叩いたその日から日常は一変。
新選組の屯所への侵入は失敗。鷹の翼に曲者疑惑。崩れる家族。鷹の翼崩壊の危機。そして――
複雑な秘密を抱え隠す少女は、鷹の翼で何を見た?
なお、本当に史実とは別次元の話なので容姿、性格、年齢、話の流れ等は完全オリジナルなのでそこはご了承ください。
よろしくお願いします。

帰る旅
七瀬京
歴史・時代
宣教師に「見世物」として飼われていた私は、この国の人たちにとって珍奇な姿をして居る。
それを織田信長という男が気に入り、私は、信長の側で飼われることになった・・・。
荘厳な安土城から世界を見下ろす信長は、その傲岸な態度とは裏腹に、深い孤独を抱えた人物だった・・。
『本能寺』へ至るまでの信長の孤独を、側に仕えた『私』の視点で浮き彫りにする。
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