森蘭丸外伝─果心居士

春野わか

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 漸くそれらしい神の名が聞けるかと身を乗り出す。
 神の名は建御雷神《たけみかづちのかみ》。
 姿は然程重要で無いのかも知れないと思い始めた。
 何に化身して現れるかなど神の気分次第なのだろう。
 とは思いつつ、建御雷神は白鹿に乗って現れたらしく、益々蛇から遠ざかって行く。

「大物主神とどのような繋がりがあるのじゃ」

「出雲の国譲りのお話しは御存知でございますか? 」

「詳しくは知らぬ」

 伝承に依ると出雲国は大国主神が治めていたが、かの有名な天照大神が、息子が治めるべき国であると主張し譲る事を申し入れた。

 出雲に派遣された神のうちの一人が建御雷神である。
 その際、十掬剣《とつかのつるぎ》を逆さまに立て切先に胡座をかいて座り、大国主神に国譲りを迫ったと云う。
 結局大国主神は、息子の事代主神《ことしろぬしかみ》に判断を委ね、事代主神が承諾したというのが事の顛末であった。

「興味深い話しじゃが、して、大物主神と繋がりがあるという神の名は? 」

 射干の問いに老人は目を丸くした。

「先程申し上げましたように建御雷神でございます」

「だが話しの何処にも大物主神が出てこぬではないか」

 射干はだんだん焦れてきた。

「大国主神は大物主神の別名でございます。三輪山にお祀りしておるのは、大国主神の和魂、つまり大物主神なのです」

「何だってえ? 」

 驚きで素の口調になってしまう。

「御名がいくつもあるのは珍しい事ではございません。大国主神は他にも沢山の名をお持ちで、極めて不敬な葦原醜男《あしはらのしこお》などという呼び名もあるのです」

 因みに葦原醜男《あしはらのしこお》とは、人間界にいる醜い男という意味である。
 名前が一字だけしか違わないだけでなく、三郎から聞いた大物主神の特徴と酷似している。
 大物主神の物は鬼の意味でもあり、鬼は嘗て『しこ』とも読まれていた。

 大国主神も容姿が醜かった。
 それを蔑む者が付けたであろう不名誉な異名。
 やはり果心は三輪山の、と思い掛けたが、山は清浄な空気に包まれ詣でる人々を穏やかに受け入れ、時に奇跡を起こすと云うではないか。

 射干自身も三輪山を間近に見て、その神秘を感じたのだ。

 頭が飽和状態になり、未だ霧の中から抜け出せない。
 出された水を口に含み一先ず心を落ち着かせる。

「神とはまるで人のような感情を持ち、怒り悲しむものであるのじゃな」

 ふと呟いた。

「神々の間にも争いがあり、神と人との間にも争いがあったのでございます。神の怒りに触れ、鎮める為にお祀りする。そのような事を繰り返してきたのでしょうなあ」

 射干の呟きに老人が耳聡く反応する。

「三輪山に繋がりがあり蛇に化身し、人と諍いがあった神はおらぬのか? 」

 最早、回りくどい聞き方に疲れ、求める特徴を上げて率直に問うてみた。
 やはり老人は訝しげに眉を潜めた。

「吉野山は御存知でおられますか? 」

 内心では妙な質問をすると感じているのは明らかだが、老人の知識は未だ尽きていないらしい。

「吉野山と言えば桜ではないか。そこにも神が祀られておるのか? 」

「かの高名な役行者様が開かれた金峯山寺《きんぷせんじ》があるのでございます。神を鎮めるという話しで思い出しました。大変な法力をお持ちであったとか」

「役行者?ああ、役小角《えんのおづの》の事か」

 役小角は安倍晴明と肩を並べる高名な呪術者で、孔雀明王の呪法を修めたと伝わる人物である。 

「仁井田様の御主君は山の神に対する信仰が殊の外篤いと仰せでした。吉野、大峯から熊野三山までの道は霊地とされて参りましたので、その道を歩かれるのが最も仁井田様の御意向に添うのではと思ったのですが」

 大峯奥駈道とは修験者達の修行道であり、霊地の空気を取り込み険しい道を抜ければ迷いは晴れ、当に霊験あらたかであろう。

「確かに一度は歩いてみたいと思うが、時が無限にある訳ではない。それよりも神じゃ」

 話しを無理矢理元の道筋に戻す。

「役行者様は戒那山で修行されていたそうでございます。呪術に優れ、病気治癒や神を使役する力もあったとか。様々な山を巡り、不滅の真理を会得された偉大な方でございます。ただ──」

「ただ? 」

 話しに引き込まれて力み過ぎた途端、腹が鳴ってしまった。

「これは気付かぬ事で。何か食べる物をお持ち致しましょう」

 身分のある武士らしく固辞しようかと思ったが、食い意地には勝てず握り飯を遠慮無く頂戴する。
 勿論、こんなに話してくれたのだから礼は弾むつもりだ。

「実は類いまれな力をお持ちだったせいで、鬼神達を縛り使役していたという話しが伝わっているのです」

「それは……真ならば凄い力じゃ」

 それが真実であれば、さぞかし神に恨まれる所業であろうと思った。

「その神は……神の名とは? 」

 つい声が震えてしまう。

「鬼神達とございますので数名おられたと思われますが……もっとも忌まわしい言い伝えが残っているのが一言主神様でございます」

 一言主を祀る神社は戒那山(葛城山)の麓にあると云う。
 悪事《まがごと》も一言、善事《よごと》も一言で言い放つ神であり、そこから一言の願いであれば聞き届けてくれる神として民の信仰を集めているらしい。

 忌まわしい言い伝えというのは役小角との諍いにあった。

 小角は戒那山で修行をしていた。
 そこで神を使役する程の法力を得た。
 ある時、戒那山と金剛山の間に橋を架けようと思い付き、法力で神々を従わせ働かせたと云う。

 信心深さの欠片も無い射干ですら呆れる所業である。

 その中に一言主神もいたのだが、醜い容姿を恥じて夜しか働かなかった。
 それに怒った小角は一言主神を呪縛し折檻までしたと云う。
 この屈辱に怒った一言主神は、時の帝に役小角が謀反を企んでいると讒言し、小角は流罪となってしまった。

「当然の報いじゃ」

 射干は流石に一言主神が憐れになり呟いた。

「それが役行者様が流罪となっただけでは終わらなかったのでございます」

 何しろ小角は神を使役する程の法力の持ち主である為流刑地に留まらず、富士山まで自由に行き来して過ごしていたらしい。

 数年で赦され都に戻った小角が一言主神を見逃す筈が無かった。
 またもや一言主神を呪縛すると、その儘放置して何処かへ飛び去ったと云う。

 射干は絶句した。

「その後は?一言主神は縛られたまんまなのかい? 」

「さあ、それについては儂にはどうにも……他にも帝のお怒りに触れ、一言主神様は土佐に流罪になったという話しもあり……いや、もう散々な神様でございますなあ」

 と、他人事ならぬ他神事のように言う。
 射干は人という生き物の身勝手さに衝撃を受け、暫し呆然となった。

 何百年もの積もり積もった怨み。
 今も縛られた儘なのか。
 いや、果心と結び付いたのだから抜け出した筈だ。

 一言主こそが果心と結び付いた神と直ぐに結論付けたいが、大事な何かが抜け落ちていると首を捻る。

「あっっ!そういえば一言主神は大物主神と何か繋がりがあるのか? 」

 そこが肝心な点ではないか。

「はい。一言主神様の別名は、事代主神様でございます」

 老人に言われ、はてと首を傾げた。

「国譲りの時にお話しした、大国主神様の御子でございます」

 天照大神に出雲国を譲るか否か、大国主神は息子に選択を委ね、事代主神が譲る事を決めたのだ。

「繋がった──何とか繋がったよ」

 肺に溜め込んだ空気を吐ききり脱力する射干を、老人が不思議そうに見詰める。

「忝ない。そちには真に役に立つ話しを聞かせて貰った。これは礼じゃ」

 三輪山から戒那山までは凡そ八里。
 今から発てば日暮れ前には着けるだろう。
 また近辺の民家で更に詳しい話しを聞くも良し。
 実際に神社を詣で、己の目で何かを掴むも良し。

「戒那山とはどのような文字を書くのであったかのう? 」

 何気無く訊ねると、博学な老人は紙に書いて見せてくれた。
 射干は民家を後にすると、再び馬上の人となった。

 那は美しいという意味を持つ。
 美を戒むるとは何と果心に相応しい山であろうか。
 胸の内には炎がありながら、背筋に言い様のない寒気を覚えた。

──

 嘗て大和の国では戒那山、又は鴨山などと呼ばれていた葛城山は、金剛山地一帯の事を指していた。
 一言主を祀る神社は金剛山の隣に位置する戒那山の東側の麓にあった。(※実は山頂にあったらしいです)

 光を閉じ込める厚い雲が重なり合い、朝からどんよりとした天候である。 
 山に近付くにつれ鼓動が早まる。

 しかし恐れよりも知りたいという欲求が遥かに勝っていた。

「山麓で良かった! 」

 山中で塒《とぐろ》を巻いて寝ているかも知れぬ果心に遭遇する危険を犯したくは無い。
 鈍色の空は一層陰り、黒雲から今にも水滴が落ちてきそうな気配である。
 一言主の神社を散策するのは明日と決めた。

「民家に泊めて貰おう」

 仁井田左門と偽名を告げると村人は快く承諾してくれたので、厄介ついでにまたもや言い伝えに詳しい老人に訊ねた。

「ほおほお、御主君の命で霊地を回っておられる。他にも回られたんですか? 」

「先ず三輪山に登り、正しく神の息吹きを感じたので縁のある此方にもと足を伸ばしてみた次第じゃ。一言主神は事代主神、つまり大物主神の息子と聞いたが真か? 」

「恐らく。そうなんでしょうなあ。下鴨の鴨都味波神社では事代主神様をお祀りしてますし、高鴨神社では事代主神様の弟の阿治須岐託彦根神《あじすきたかひこねかみ》をお祀りしてます。此処から吉野川沿いを東に五里程行くと大国主神様をお祀りしている大名持神社もございます。出雲の国譲りの後、大和の国に御家族で移られたんですやろなあ。有難い事です」

 時間もあるので弟神の祀られる高鴨神社や大名持神社についても尋ねてみたが、一言主神の逸話のような忌まわしい出来事は語られなかった。

 それどころか、大名持神社の傍らの妹山は忌山と呼ばれ木を苅る事はおろか入山さえ禁じられる程の聖地となっている。
 弟神の高鴨神社もまた然りであった。

 やはり果心と結び付いたのは一言主。
 夜、藁床で微睡む射干は、そう確信を抱いた。

 翌朝──
 小雨が降っていたので簑を借りる。

「雨の中行かれるんですか? 」

 案じる村人に礼の金子を渡し外に出た。
 夏であれば心地好いぐらいの霧雨である。

 簑藁の上を水滴が伝い、長閑な稲田が続く道を馬で駆けると風で流れる雨が顔を濡らす。

 この程度の雨なら難儀は無いが、道沿いに生える枯れた曼殊沙華は既に色を失い、痩せ細った老婆のように萎びていて射干を憂鬱にした。

 大きな石造りの鳥居が見えた。
 馬を止め早速くぐる。

 高い杉並木の参道からは東の方角に連なる大和三山まで望め、壮大な景色である。
 天候さえ良ければ清々しい気分を味わえたであろう。

 中々立派な神社だ。
 ふと参道脇に大きな岩が意図的に重ねられているのが目に止まった。

「磐座か何かかなあ。神主に聞いてみよう」

 参道の先には石段があり、数十段昇ると拝殿が見えた。

 雨のせいか参拝する人々の姿は疎らである。

「結構普通の神社だねえ。果心が建てた訳じゃないんだから当たり前か」

 先ず目を惹いたのが、黄金色の葉が繁る大銀杏である。
 注連縄が張られ、それを拝む者もいるところを見ると由緒ある大木なのであろう。
 色味に乏しい境内に華やぎを添える陽光のような黄金色の葉。
 
 神主を探し名乗り、由来を訊ねてみた。

「数百年は遡る古木でございます。手を合わせるのに女人が多いのは、乳銀杏言って、幹に乳房のように見える根が幾つもあるのが分かりますか? 」

 どうやら子を授かり乳の出が良くなるようにと祈っているらしい。

 拝殿前で型通り手を合わせて拝む。
 閉じていた瞼をゆっくり開けると右方向にある何かが視界の隅に入った。

 参道脇にあったのと同じく重ねられた巨大な岩。
 松の木で意図的に隠されているように思えた。
 参拝する人々の多くが興味を示さないであろう苔むした岩である。

「同じような物が参道にもあったが。あれは磐座か? 」

「あれは蜘蛛塚でございます」

「蜘蛛塚とは何じゃ? 」

 神主の答えに若干歯切れの悪さを感じつつ、気付かぬ体で問いを重ねる。

「土蜘蛛とは、身の丈短く手足の長い蜘蛛のような異形であったそうでございます。畏れ多くも帝に従わ無かった為、葛で作った網で捕らえられ次々に殺されたそうでございます」

「土蜘蛛達の骸を祀った塚と言う事か」

 一度話し始めてしまえば神主も口軽くなり、この辺りを葛城と呼ぶのは土蜘蛛を葛で作った網で捕らえたからだと余計な事まで教えてくれた。

「参道にもあった、それも蜘蛛塚か?何故同じ所に埋めぬ」

「怨みの念が出てこれぬようにと頭、胴、脚に切り分け、別々に埋め大岩を上に置いたからでございます」

 射干の瞳に映る境内が一層灰味を増し、黄金色の銀杏の葉だけが鮮やかに浮き上がり、一瞬紅く染まった。

「帝に服従せず誅された謂わば罪人ではないのか?何故、神を祀る境内にあるのじゃ! 」

 怒りを覚え、つい声が高くなる。

「それについては私にも良うは分かりませぬ」

「此処は一言主神を祀る神社であるのだから、縛られた一言主神がその後どうなったか存じておるであろう」

 一言主神の無惨な顛末を置き去りにして、神社が建てられ祀られているのは妙な事だ。

「縛られたという話しは聞いた事はありますが……此方に参られる前に石段の左にあった岩にはお気付きになられましたか? 」

「いや、気付かなかった。蜘蛛塚では無く、別の曰く付きの岩もあるのか? 」

「はい、役行者様が災いを齎す黒蛇を封じたと伝わる岩でございます」

「役小角は一言主神を縛った張本人だろ?しかも何で災いを齎す蛇を封じた岩が一言主の神社にあるんだよ! 」

「一言主神様は役行者様に黒蛇にされ谷底に落とされたという話しも伝わっているのです。考えるに、谷底では無く岩の下に封じ込められたという……それが亀石ではないかと」

「何だってえ! 」

 信じられないというのが正直な所だが、そうであれば合点がいく。

 一言主神を祀る神社に敵対する小角が関係無い黒蛇を封じるなど唐突過ぎる。
 その黒蛇こそが一言主神とすれば筋が通り果心とも繋がる。

「そんな、じゃあ一言主神はずっと岩の下に? 」

「あくまでも言い伝えにございます。今はこうして民の尊崇を集め、一言の願いならば全て聞き届けて下さる神様として慕われ訪れる者は多うございます」

 射干の苛立ちを察し、宥めるように神主は言った。
 それこそが人の浅ましさではないか。

 射干は眉を潜めたが心の声を表には出さぬよう努めた。

 蜘蛛塚、亀石に纏わる忌まわしい伝承から目を背け、己の願いを一言で叶えてくれる神などと都合の良いように捻じ曲げ祀り上げる。

 己が願いを叶えて貰おうと、神のいない空の社に列を成す人々の愚かしさ。

 その間、真の神は醜い虫共の蠢く岩の下で怨みを蓄積させていったのだろう。

 土蜘蛛達は謂わば罪人。
 同じ境内に祀られている事が良く物語っているではないか。
 一言主神も彼等と同類であると。

 地表に出る事を許されない土蜘蛛達と神の怨念は、土に染み込み混じり合い、山中に流れていった。
 そこへ果心が逃げ込んで来た。

 人々に対する怨みを晴らす為の依代として神は果心を選んだ。

 否。
 選んだというより邪念と邪念が結び付いただけ。
 それは必然だったのだろう。
 覚信こそ神が待ち望んだ者だった。
 
 小角には及びもせぬが、呪術に長けた覚信が呪縛された神を解き放つ鍵となった。
 人の世で弾かれ、鬱屈した思いを抱えた果心が神の力を呼び覚ましたのだ。

 髪の先から大粒の滴がぽたぽたと落ちるのをぼんやりと見詰める。
 往きに濡れた睫毛は乾くどころか更にびっしりと水の玉が煌めき、瞬きする度目に滲みた。

「何故、一言主神は斯様に貶められねばならなかったのか。神とは崇められるものでは無いのか? 」

 信心の薄い射干は、神というだけで無条件に敬われる存在そのものに疑問を抱いている。
 手を合わせ祈ったところで彼女の願いが叶った試しはない。

 しかしそれは多くの人々とて同じ事。
 なれど神に縋り、祈る事を止めようとはしない。

「詳しい事は分かりません。只、分かり易く申し上げるなら、己が信じる神以外は全部鬼だと言う事です。葛城の神様を元々お祀りしてたのは葛城氏いう豪族だったそうでございます。葛城氏の傍流の蘇我氏の力が衰え、その祀る神も貶められた、という事ではないでしょうか」

 所詮それとて人の都合であろう。
 争い事にも神の名を掲げ、人々は己の正統性を声高に主張する。
 戦において神は旗頭であり、故に負けた側の神殿は破壊され神性を踏み躙られる。

 土蜘蛛とは真に異形であったのか。
 生活様式の異なる土俗を鬼として、無辜の民を罪人に仕立て上げただけではないのか。
 
 射干は石段を降りる際、神主の言っていた『亀石』なる石を漸く右手に見付ける事が出来た。

 繁みに隠れたそれは、亀のようにも蛙のようにも、はたまた蛇のようにも見える形をしていた。
 何を祈るでも無くそっと手を合わせ神社を後にする。

 求める答えは得られた。
 そう思いたかった。

 なれど釈然としない心を表し、その面は雨空のように陰りを帯びていた。



 

 





 





 

 


 

 


 



 

 



 




 

 





 
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