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───
夜になるまでの間、射干を見舞った。
相変わらずの顔色で生死の境を彷徨う姿に落胆する。
生き生きとした快活な笑い声が聞きたかった。
その後六助を部屋に呼び、思い詰めた表情で命じた。
「果心の記憶を探る。始めてくれ」
「それは止めた方がええ。此度の事で懲りざったんやか? 」
「儂は千尋の谷に飛び込む覚悟で挑んだのじゃ。射干の苦しむ姿を見て何もせずにはおれぬ」
「若様の御気持ちは分かる。けんど、今やっても阻まれるだけじゃあ。勇ましいけんど、また傷付くに決まっちゅー」
思うようにいかぬ苛立ちで眦を吊り上げながらも反論出来ない。
果心の見せた悪夢は彼の恐怖心を煽り立てた。
今は気持ちが落ち着いているように見えるが、それも束の間、夜になれば同じ心境ではいられなくなるだろう。
真は退行催眠を二度と行いたくないし、怖くて嫌で嫌で仕方が無い。
「寝ちゅー時は抑え込んじゅー気持ちが正直に出てきちまう。恐れちゅー儘じゃ上手ういく訳ねえ。果心は朝が苦手や。そう言い聞かせて、せめて昼間だけでも怖がらんようにならんと、先の記憶には進めん思う」
「朝が苦手……」
「へえ、朝に悪夢を見せる事は出来ん」
暗示を掛けるように同じ言葉を繰り返す。
言われてみれば信長のお陰で休む事が出来たが、目を閉じるのを恐れていては退行催眠は無理である。
諦める他無かった。
───
昼から完全なる夜へ、夜から朝へと移ろう色合いは真に美しい。
明るい淡黄色から陽が西に傾くにつれ橙色の濃度が増し、やがて紫がかった紺色へと変化していく。
白から黒の間にある無数の色が空を染め上げ、黒色に近付くにつれ人々は夜の訪れを実感するのだ。
そんな曖昧な色彩を、彼《か》は誰時《たれどき》、黄昏時、又は逢魔が時と言い慣わした。
頬に茜さす時分から乱法師は気も漫ろで、暇潰しにと始めた写経の手が止まりがちになる。
筆を置き掛けては取り直し、外を気にしてはまた認《したた》める。
そろそろ灯りを、と考えるが、夜の訪れに抗おうと手暗がりの儘尚も写経に勤しむ振りをする。
「ふう……」
膨れ上がった恐怖を誤魔化せず、とうとう筆を置き息を吐いた。
初めて果心に会ってから身内に刻み込まれ続けた恐怖は、抗えど強がれど脳裏から消し去る事は出来ない。
その中でも先夜の悪夢はとりわけ彼の胆力を打ち砕いた。
闇に立ち向かおうとする勇気は夜の襲来に挫け、やむを得ず灯りを点す為に腰を上げる。
「乱法師様」
燭台を手にした三郎が顔を覗かせると、ほんの少し恐怖が和らいだ。
「そろそろお仕度を」
「仕度?ああ──」
昼の勤めは免除される代わりに、今宵から不寝番を命じられていたのを忘れていた。
それほど恐怖に囚われていたのだ。
今宵一人で眠りに就けば、信長が齎した薄桃色のときめきさえ真っ黒に塗り潰されてしまうところだったかもしれない。
刈安色(やや緑がかった鮮やかな黄色)と白銅色の片身変わりに水色と銀の流水模様。
流水型に紅と飴色の紅葉が刺繍で散らされた、深まる秋を感じさせながら明るい色合いの小袖に着替える。
山鳩色(黄緑がかった灰色)の地の袴、肩衣。
襟元から覗く薄紫の下着が艶やかさを際立たせる。
せめて衣装だけは華やかに、沈みがちな主を案じる三郎の心配りである。
信長の側に侍るに相応しい衣に着替えれば、気持ちはきりりと締まり、小姓らしい任務を命じられた事の喜びが怯えを退ける。
渡り廊下を進む乱法師の影が日没寸前の西陽で長く長く後ろに伸びていた。
完全に日が没する前に早く信長の元へ。
乱法師の足は自ずと急いた。
「上様は今、湯浴みをされておられる。我等を手伝われよ」
正確に時を刻む時計の無い時代。
卑賎に関わらず、梵鐘等の音や日の傾き具合を目安にしているだけなので、季節によって変動がある不定時法であった。
依って今は秋。
日暮れは春夏よりも当然早い。
だからといって働き者の信長の就寝時刻が大幅に変わる訳では無いのだ。
どうやら出仕が些か早かったようだ。
仕方無く昼の当番の者達の仕事を手伝う事になった。
そうこうしているうちに半刻が経過し、いつの間にか陽が落ちていた。
昼の者達と交代し、いよいよ信長の部屋へと向かう。
「良く休めたか? 」
髷を結っておらず、湯上がりの寛いだ風情で声は常よりも低く感じられた。
燭台に照らされる宵に見る信長の顔は、昼とは異なる憂愁に陰り、気怠げな色気に胸がざわめいた。
たった一言問いを発しただけで、仄暗い部屋に花を咲かせる乱法師の装いに口元を綻ばせ、無言で観賞する。
「申し訳ございませぬ。御前で眠りこけ、それに大事な御刀まで」
御前どころか腕の中であったろうと信長は強く正したくなった。
言外にたっぷりと艶を含んだ信長の一言に比べ、やはり色気に欠ける返答になってしまう。
「儂が腰に差している大事な刀じゃ。常に肌身離さず、離れていても儂が側に付いていると感じるであろう? 」
言葉の意味を分からせようと、ゆっくりと唇を動かす。
視線を逸らす乱法師に対し、信長の視線は彼の上から微動だにしない。
部屋の空気がまた淫らな方向に傾き掛け、乱法師の頬が仄かに赤くなった。
「これから暫く、そなたが不寝番を務めるのじゃから、しっかり警護致せ」
「はっ!」
不寝番をさせる事にしたのは実に妙案と信長は思った。
中々務めが出来ず気落ちする乱法師の心を軽く出来る上に、不寝番を好んでやりたがる家臣はおらぬ故、彼に対する妬みを軽減出来る。
それに同衾まではいかずとも、乱法師と二人っきりで夜を過ごすという助平心を満たせるのだ。
無論、隙あらば手を出す気満々である。
「さあて、そろそろ休むとするか」
わざとらしく信長は大きく伸びをしてみせる。
「お着替えを」
既に用意されている白い寝衣を広げ甲斐甲斐しく着替えを手伝う。
乱法師が動くより前に、信長自ら寝所の襖を大きく開けた。
部屋の奥に設えられた褥が目に飛び込み、そこだけ浮かび上がって見えた。
どうしても初めての夜を思い出してしまう。
動揺をひた隠し、先に進む信長の後に続くが、鼓動が早まるのをはっきりと自覚した。
「さて、折角そなたと二人きりで久し振りに夜を過ごすのであるから、この儘寝てしまうのも勿体ない」
久し振りというのは一体どの夜からであろうか、と再び含んだ言い様で乱法師の心を揺らしに掛かる。
熱の籠った視線を受け止めきれず顔を俯けども、枕元の燭台の灯りが彼を煌々と白く照らしていた。
どうして良いか分からず唇を結び口ごもる姿を見詰める信長の表情を何と言い表すべきか。
若かりし時分であれば、そうした反応を楽しむ余裕などなく荒々しく押し倒していただろう。
これも年の功かと苦笑する。
「儂が寝るまで話し相手を致せ。寝た後も側に控えている事を許す」
信長の視線を避けたところ、褥が目に入ってしまい、益々動じる彼から気のきいた返答は期待出来ないので、無難な案で手を打つ事にした。
話し相手と言っても専ら乱法師が聞き役で、信長が語るのに笑ったり相槌を打ったりという風である。
信長は褥に横たわり片肘を付き、乱法師は行儀良く座った状態である。
ずっと手を握られていた。
「まだ話していたいが続きは明日に致そう」
「では、灯りを」
己が動く為の燭台以外全て吹き消してしまうと殊の外暗く感じられた。
それでも手は握られた儘だ。
たった一つ残された灯火が襖の近くで揺れ、互いの姿をぼんやりと照らすのみ。
薄闇の中で彼を見詰める鋭い眼差しと目が合い、咄嗟に手を引いてしまう。
それを、ぐっと力強く引き戻された。
「此処におれ」
低く囁いた後、瞼を閉じた。
お陰で果心の事は一切考えずに済んだのだが、信長の行為は安らぎでは無く別の緊張を彼に与えた。
───
「曲直瀬殿、少しは良くなっているのでしょうか? 」
「見ての通りどす。薬と水や重湯だけは何とか喉に流し込んでますけどなあ」
乱法師が不寝番を務めた翌朝、三郎と六助と藤兵衛は射干の部屋にいた。
容態が急変してから数日が経過したが極端に悪くなっているようには見えない。
というより、これ以上悪くなったら、その先にあるのは死のみである。
寝たきりで栄養を取れない事が、彼女を更に弱らせているようにも思えた。
「何か手立ては?これ以上の処置は無いのですか? 」
東西南北に名を知られた医聖に匙を投げられたら終わりだ。
六助は射干を見舞う度に涙ぐみ鼻を啜る。
彼なりに毎日病魔退散の祈祷を行っているが、妖による仕業では無いようで全く効果が見られない。
「只の食あたりであらへん事は確かやろうなあ。病で倒れるような玉でもなさそうやし」
道三は、元気な時の彼女の無礼な言動の数々を思い出す。
「儂はやっぱし、これは質の悪い毒──」
「め……し……」
「はあ?何でっしゃろか?なんか言うたか? 」
道三が毒と言い掛けたのを、慌てて阻止しようと口を開き掛けていた三郎と藤兵衛は顔を見合わせた。
「いえ、まだ何も申しては──」
「め……し」
「──? 」
今度は道三以外の三人の耳にも届いた。
弱々しく掠れた声。
一斉に声のする方を向いて驚愕した。
能面にある老女小町を思わせる頬骨が目立つ土気色の顔。
その中で瞳だけが爛々と強い光を帯び、餓鬼のように痩せこけた手を伸ばし何かを訴えている。
鬼気迫る射干の姿に一同ごくりと唾を飲み込んだ。
かさついてひび割れた唇が微かに震える。
「め……し……」
「射干──」
「何じゃ!何と言っている」
「飯て聞こえるが……」
最後の言葉は道三である。
「は、ら……へった……」
其処で漸く言わんとする事が伝わった。
「粥じゃ!粥を早く! 」
予期せぬ目覚めに喜ぶよりも慌てふためく。
粥が運ばれてくると射干は始めこそ少しずつ啜っていたが、段々がつがつと飲むように食べ始めた。
「あ、ああ!いきなり、そないなあかん。ゆっくり食べな! 」
胃が空っぽに近い状態での早食いは危険である。
しかし並の成人男性を凌駕する食いっぷりの彼女の耳に、道三の忠告が届く訳がない。
六助は漸く彼女の復活を実感し、一心不乱に食べ続ける射干をうっとりと眺める。
三郎は何か大事な事を失念していると考え、直ぐに思い出した。
即座に立ち上がり乱法師の元へと急ぐ。
応えが無いので静かに襖を開けて入る。
不寝番の翌日の為、乱法師は眠っていた。
その安らかな寝顔を見た瞬間興奮が鎮まる。
代わって三郎の胸に温かさがじんわりと広がり、例えようの無い幸福感に包まれた。
乱法師は胸に不動行光を抱き締め実に心地好さげに寝息を立てていた。
一刻も早く射干の事を伝えたいと走ってきたが、主の目覚めを待つ事にし、そっと衾を掛け直してから部屋を出た。
恐らく目覚めたら、何故起こしてくれなかったのかと詰られる事だろう。
三郎の顔に久しぶりの、心よりの笑みが広がった。
夜になるまでの間、射干を見舞った。
相変わらずの顔色で生死の境を彷徨う姿に落胆する。
生き生きとした快活な笑い声が聞きたかった。
その後六助を部屋に呼び、思い詰めた表情で命じた。
「果心の記憶を探る。始めてくれ」
「それは止めた方がええ。此度の事で懲りざったんやか? 」
「儂は千尋の谷に飛び込む覚悟で挑んだのじゃ。射干の苦しむ姿を見て何もせずにはおれぬ」
「若様の御気持ちは分かる。けんど、今やっても阻まれるだけじゃあ。勇ましいけんど、また傷付くに決まっちゅー」
思うようにいかぬ苛立ちで眦を吊り上げながらも反論出来ない。
果心の見せた悪夢は彼の恐怖心を煽り立てた。
今は気持ちが落ち着いているように見えるが、それも束の間、夜になれば同じ心境ではいられなくなるだろう。
真は退行催眠を二度と行いたくないし、怖くて嫌で嫌で仕方が無い。
「寝ちゅー時は抑え込んじゅー気持ちが正直に出てきちまう。恐れちゅー儘じゃ上手ういく訳ねえ。果心は朝が苦手や。そう言い聞かせて、せめて昼間だけでも怖がらんようにならんと、先の記憶には進めん思う」
「朝が苦手……」
「へえ、朝に悪夢を見せる事は出来ん」
暗示を掛けるように同じ言葉を繰り返す。
言われてみれば信長のお陰で休む事が出来たが、目を閉じるのを恐れていては退行催眠は無理である。
諦める他無かった。
───
昼から完全なる夜へ、夜から朝へと移ろう色合いは真に美しい。
明るい淡黄色から陽が西に傾くにつれ橙色の濃度が増し、やがて紫がかった紺色へと変化していく。
白から黒の間にある無数の色が空を染め上げ、黒色に近付くにつれ人々は夜の訪れを実感するのだ。
そんな曖昧な色彩を、彼《か》は誰時《たれどき》、黄昏時、又は逢魔が時と言い慣わした。
頬に茜さす時分から乱法師は気も漫ろで、暇潰しにと始めた写経の手が止まりがちになる。
筆を置き掛けては取り直し、外を気にしてはまた認《したた》める。
そろそろ灯りを、と考えるが、夜の訪れに抗おうと手暗がりの儘尚も写経に勤しむ振りをする。
「ふう……」
膨れ上がった恐怖を誤魔化せず、とうとう筆を置き息を吐いた。
初めて果心に会ってから身内に刻み込まれ続けた恐怖は、抗えど強がれど脳裏から消し去る事は出来ない。
その中でも先夜の悪夢はとりわけ彼の胆力を打ち砕いた。
闇に立ち向かおうとする勇気は夜の襲来に挫け、やむを得ず灯りを点す為に腰を上げる。
「乱法師様」
燭台を手にした三郎が顔を覗かせると、ほんの少し恐怖が和らいだ。
「そろそろお仕度を」
「仕度?ああ──」
昼の勤めは免除される代わりに、今宵から不寝番を命じられていたのを忘れていた。
それほど恐怖に囚われていたのだ。
今宵一人で眠りに就けば、信長が齎した薄桃色のときめきさえ真っ黒に塗り潰されてしまうところだったかもしれない。
刈安色(やや緑がかった鮮やかな黄色)と白銅色の片身変わりに水色と銀の流水模様。
流水型に紅と飴色の紅葉が刺繍で散らされた、深まる秋を感じさせながら明るい色合いの小袖に着替える。
山鳩色(黄緑がかった灰色)の地の袴、肩衣。
襟元から覗く薄紫の下着が艶やかさを際立たせる。
せめて衣装だけは華やかに、沈みがちな主を案じる三郎の心配りである。
信長の側に侍るに相応しい衣に着替えれば、気持ちはきりりと締まり、小姓らしい任務を命じられた事の喜びが怯えを退ける。
渡り廊下を進む乱法師の影が日没寸前の西陽で長く長く後ろに伸びていた。
完全に日が没する前に早く信長の元へ。
乱法師の足は自ずと急いた。
「上様は今、湯浴みをされておられる。我等を手伝われよ」
正確に時を刻む時計の無い時代。
卑賎に関わらず、梵鐘等の音や日の傾き具合を目安にしているだけなので、季節によって変動がある不定時法であった。
依って今は秋。
日暮れは春夏よりも当然早い。
だからといって働き者の信長の就寝時刻が大幅に変わる訳では無いのだ。
どうやら出仕が些か早かったようだ。
仕方無く昼の当番の者達の仕事を手伝う事になった。
そうこうしているうちに半刻が経過し、いつの間にか陽が落ちていた。
昼の者達と交代し、いよいよ信長の部屋へと向かう。
「良く休めたか? 」
髷を結っておらず、湯上がりの寛いだ風情で声は常よりも低く感じられた。
燭台に照らされる宵に見る信長の顔は、昼とは異なる憂愁に陰り、気怠げな色気に胸がざわめいた。
たった一言問いを発しただけで、仄暗い部屋に花を咲かせる乱法師の装いに口元を綻ばせ、無言で観賞する。
「申し訳ございませぬ。御前で眠りこけ、それに大事な御刀まで」
御前どころか腕の中であったろうと信長は強く正したくなった。
言外にたっぷりと艶を含んだ信長の一言に比べ、やはり色気に欠ける返答になってしまう。
「儂が腰に差している大事な刀じゃ。常に肌身離さず、離れていても儂が側に付いていると感じるであろう? 」
言葉の意味を分からせようと、ゆっくりと唇を動かす。
視線を逸らす乱法師に対し、信長の視線は彼の上から微動だにしない。
部屋の空気がまた淫らな方向に傾き掛け、乱法師の頬が仄かに赤くなった。
「これから暫く、そなたが不寝番を務めるのじゃから、しっかり警護致せ」
「はっ!」
不寝番をさせる事にしたのは実に妙案と信長は思った。
中々務めが出来ず気落ちする乱法師の心を軽く出来る上に、不寝番を好んでやりたがる家臣はおらぬ故、彼に対する妬みを軽減出来る。
それに同衾まではいかずとも、乱法師と二人っきりで夜を過ごすという助平心を満たせるのだ。
無論、隙あらば手を出す気満々である。
「さあて、そろそろ休むとするか」
わざとらしく信長は大きく伸びをしてみせる。
「お着替えを」
既に用意されている白い寝衣を広げ甲斐甲斐しく着替えを手伝う。
乱法師が動くより前に、信長自ら寝所の襖を大きく開けた。
部屋の奥に設えられた褥が目に飛び込み、そこだけ浮かび上がって見えた。
どうしても初めての夜を思い出してしまう。
動揺をひた隠し、先に進む信長の後に続くが、鼓動が早まるのをはっきりと自覚した。
「さて、折角そなたと二人きりで久し振りに夜を過ごすのであるから、この儘寝てしまうのも勿体ない」
久し振りというのは一体どの夜からであろうか、と再び含んだ言い様で乱法師の心を揺らしに掛かる。
熱の籠った視線を受け止めきれず顔を俯けども、枕元の燭台の灯りが彼を煌々と白く照らしていた。
どうして良いか分からず唇を結び口ごもる姿を見詰める信長の表情を何と言い表すべきか。
若かりし時分であれば、そうした反応を楽しむ余裕などなく荒々しく押し倒していただろう。
これも年の功かと苦笑する。
「儂が寝るまで話し相手を致せ。寝た後も側に控えている事を許す」
信長の視線を避けたところ、褥が目に入ってしまい、益々動じる彼から気のきいた返答は期待出来ないので、無難な案で手を打つ事にした。
話し相手と言っても専ら乱法師が聞き役で、信長が語るのに笑ったり相槌を打ったりという風である。
信長は褥に横たわり片肘を付き、乱法師は行儀良く座った状態である。
ずっと手を握られていた。
「まだ話していたいが続きは明日に致そう」
「では、灯りを」
己が動く為の燭台以外全て吹き消してしまうと殊の外暗く感じられた。
それでも手は握られた儘だ。
たった一つ残された灯火が襖の近くで揺れ、互いの姿をぼんやりと照らすのみ。
薄闇の中で彼を見詰める鋭い眼差しと目が合い、咄嗟に手を引いてしまう。
それを、ぐっと力強く引き戻された。
「此処におれ」
低く囁いた後、瞼を閉じた。
お陰で果心の事は一切考えずに済んだのだが、信長の行為は安らぎでは無く別の緊張を彼に与えた。
───
「曲直瀬殿、少しは良くなっているのでしょうか? 」
「見ての通りどす。薬と水や重湯だけは何とか喉に流し込んでますけどなあ」
乱法師が不寝番を務めた翌朝、三郎と六助と藤兵衛は射干の部屋にいた。
容態が急変してから数日が経過したが極端に悪くなっているようには見えない。
というより、これ以上悪くなったら、その先にあるのは死のみである。
寝たきりで栄養を取れない事が、彼女を更に弱らせているようにも思えた。
「何か手立ては?これ以上の処置は無いのですか? 」
東西南北に名を知られた医聖に匙を投げられたら終わりだ。
六助は射干を見舞う度に涙ぐみ鼻を啜る。
彼なりに毎日病魔退散の祈祷を行っているが、妖による仕業では無いようで全く効果が見られない。
「只の食あたりであらへん事は確かやろうなあ。病で倒れるような玉でもなさそうやし」
道三は、元気な時の彼女の無礼な言動の数々を思い出す。
「儂はやっぱし、これは質の悪い毒──」
「め……し……」
「はあ?何でっしゃろか?なんか言うたか? 」
道三が毒と言い掛けたのを、慌てて阻止しようと口を開き掛けていた三郎と藤兵衛は顔を見合わせた。
「いえ、まだ何も申しては──」
「め……し」
「──? 」
今度は道三以外の三人の耳にも届いた。
弱々しく掠れた声。
一斉に声のする方を向いて驚愕した。
能面にある老女小町を思わせる頬骨が目立つ土気色の顔。
その中で瞳だけが爛々と強い光を帯び、餓鬼のように痩せこけた手を伸ばし何かを訴えている。
鬼気迫る射干の姿に一同ごくりと唾を飲み込んだ。
かさついてひび割れた唇が微かに震える。
「め……し……」
「射干──」
「何じゃ!何と言っている」
「飯て聞こえるが……」
最後の言葉は道三である。
「は、ら……へった……」
其処で漸く言わんとする事が伝わった。
「粥じゃ!粥を早く! 」
予期せぬ目覚めに喜ぶよりも慌てふためく。
粥が運ばれてくると射干は始めこそ少しずつ啜っていたが、段々がつがつと飲むように食べ始めた。
「あ、ああ!いきなり、そないなあかん。ゆっくり食べな! 」
胃が空っぽに近い状態での早食いは危険である。
しかし並の成人男性を凌駕する食いっぷりの彼女の耳に、道三の忠告が届く訳がない。
六助は漸く彼女の復活を実感し、一心不乱に食べ続ける射干をうっとりと眺める。
三郎は何か大事な事を失念していると考え、直ぐに思い出した。
即座に立ち上がり乱法師の元へと急ぐ。
応えが無いので静かに襖を開けて入る。
不寝番の翌日の為、乱法師は眠っていた。
その安らかな寝顔を見た瞬間興奮が鎮まる。
代わって三郎の胸に温かさがじんわりと広がり、例えようの無い幸福感に包まれた。
乱法師は胸に不動行光を抱き締め実に心地好さげに寝息を立てていた。
一刻も早く射干の事を伝えたいと走ってきたが、主の目覚めを待つ事にし、そっと衾を掛け直してから部屋を出た。
恐らく目覚めたら、何故起こしてくれなかったのかと詰られる事だろう。
三郎の顔に久しぶりの、心よりの笑みが広がった。
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