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「柳生石舟斎は隠居の身、積極的に弾正を助ける動きは見えませぬ」
順慶の情報網は、宗厳の弟で松永の茶飲み友達の松吟庵が天王寺砦に陣中見舞いに訪れたという事実を掴んでいた。
信頼する柳生一族に身限られたら松永の意気が削がれるは明白。
長く松永方の内奥を知る一族である。
「恐らく表向きであろう。隠居の振りをして裏で繋がっている可能性はある。弟の松吟庵は要注意じゃ」
「柳生を叩くおつもりですか? 」
「いや、旗色悪くなれば弾正から離れるであろう。柳生如き踏み潰すなど何時でも出来るが此方に取り込んだ方が良い。真の信頼なぞ笑止。力の前では絆は容易く絶ち切れるものじゃ」
そう言い放った後、順慶の表情が切なげに歪んだ。
数々の裏切りに会いながら、信頼だけに依る策を切り札としているのは誰あろう己自身。
絆とは一体何なのか。
何故、己の命運を預ける程相手を信じられるのか。
紙の上の約束事は常に破られてきたというのに、只の一言が己の心に固い結び目を作っている。
『会いたい……今すぐ、そなたを抱き締め、芳しき肌の香りを嗅ぎ存分に愛でたい。月読……』
愛しい者を思う時、青年武将の心は理屈を越えて激しく揺れ動いた。
───
瞳は虚ろ、薄く開いた桜色の唇は何かを囁いているように見えた。
小袖に着替えているが脇息を枕代わりに凭れながら、その瞳は只一点を見詰めていた。
竹を切って作った素朴な空の花入れ。
そんな乱法師の様子をずっと傍で見ていた三郎は、始めの頃こそ元気付けようと明るい声で話し掛けていた。
ところが心此処にあらずで生返事をしていた主は、終いには無言で花入れにばかり見入っている。
まるで廃人だが、その言わんとする事が痛い程伝わり、三郎は無理に言葉を掛けるのを止めた。
言葉よりも誰よりも、只側にいて欲しいのだろう。
乱法師の瞼が時折重たげに落ち掛かる。
眠る事を拒んでも自然に襲う睡魔には勝てない。
やがて眠りに落ちる。
だが、それも束の間。
夢を恐怖する心が悪夢を作り出し、叫びと共に目覚めてしまうのだろう。
三郎はこれ程無力感に襲われた事は無い。
膝に置かれた手がぎゅっと袴を掴み皺が寄る。
早く果心の真の名を。
こうした状態になる事は分かっていたのに皆が善良であり過ぎる故に、目の前の乱法師の体調を慮り思い切った策を取れなかった。
そんな人の情けさえ、果心は手の平で転がし嘲り利用してきたのではないか。
悔しさと怒りで身体が震えてくる。
乱法師の瞼が上がり瞳が動いた。
視線を追うと襖があった。
やがて足音と共に襖が開かれ、瞳に輝きが宿る。
三郎の耳に届かぬうちに、微かな衣擦れの音を捉えたのは驚嘆に価する。
「乱──」
それ程までに待っていたのか。
素早く側に寄る信長の差し出す腕に自然に身を任せる。
お互いの愛を物語るどちらからとも付かぬ行為。
信長の肩に頬を乗せる。
安心感からか幼子のように無垢な面持ちであった。
「如何した? 」
問い掛ける声も甘い蜜のようで、三郎自身安堵感に包まれながら居心地の悪さを感じた程だ。
まるで二人の世界で果たしてこの場にいて良いのだろうかと。
とはいえ、信長の問いに一言で答えられる状態の乱法師では無い。
精々、唇から吐息を洩らし潤んだ瞳に思いを込めてじっと見詰めるくらいだ。
だが信長は返答を強く求めていた訳では無く、只優しく髪を撫で、ひたすら彼を労る言葉を掛け続けた。
「そなたが側におらぬと物足りぬ。真面目に働き過ぎたせいか、無理をするなと申しても無理をしてしまうのはけしからぬ。儂がこうして参ったからには、そなたが休むまで此処におるぞ」
求めていた信長の声と小袖に焚き染めた伽羅の香りに癒され、瞼がうっとりと細められた。
殊に無防備で愛らしい様子に、信長は三郎の存在をすっかり忘れ頬や額や指に口づける。
髪を撫でているうちに腕の中からすうすうと息遣いが聞こえてきた。
主の前で寝入る事を許されるのは彼だけだ。
其処で、ふと三郎の存在を思い出した。
「乱は暫く元気でおったに、随分と不安気な顔つきで疲れておるようじゃ。何かあったのか? 」
いきなり問い掛けられ三郎が身を固くする。
「はっっ……またもや果心が──」
「果心じゃと? 」
三郎は言い掛けて、ごくりと唾を呑み顔を伏せてしまう。
乱法師を気遣い声音を抑えつつも、先程の甘さから一転、振り向けられた顔は鬼のように変貌していたからだ。
己が責められている訳では無いと承知しつつも、直視したら焼かれそうな凄い眼光である。
「説明致せ」
抑えた怒りと低い声音が恐ろしい。
身体中から発せられる怒気が部屋の空気をびりびりと震わせる。
「その……」
「待て! 」
三郎はたじろぎながら口を開き掛け、また閉じる羽目になった。
信長は乱法師を寝かせると、顎をしゃくり別の部屋へ移った。
三郎の足が恐怖で縺れる。
また隠していたのかと叱られるのは間違い無かろう。
「何故儂に黙っていた? 」
三郎が退行催眠の事を説明した途端、案の定眉を顰める。
「中々お忙しく……」
「乱の事で隠し事致すなと申した筈じゃ」
「申し訳ございませぬ」
言い訳するだけ無駄な労力と即座に謝ってしまう。
「以前に果心の塒を突き止めたと聞いたが、確か三輪山であったな」
「は……」
「二百もおれば十分か? 」
「──?」
問いの意味が分からない。
「兵を貸し与える故、三輪山を攻め、神主等が抵抗するようなら山ごと焼き払え! 」
「え、え……それは!! 」
信長の策に驚愕し、ひっくり返りそうになる。
「何を驚いておる。儂とした事が、奴は乱だけで無く儂の命さえ狙ったのじゃ。当然の処置である」
過激な策に驚く以上に二の句が継げないのは、信長の果心に対する認識に誤りがあるからだ。
「たかが幻術師一人。生捕って鋸挽きにしてくれるわ」
三郎はひたすらおろおろするしか無かった。
只の幻術師ならば良いが神の力を借りているのはどうやら本当なのである。
焼いたぐらいで滅する事は出来ぬであろうし、現の武器で傷付けられる事は射干が証明してみせたが、直ぐに回復し乱法師の体調にまで影響が及ぶだろう。
それに山を焼き払えば怨念は益々増し、神の怒りまで買ってしまいそうである。
とはいえ、信長に神だの呪いだのは通用せず、乱法師の身に起こる災いは幻術に因るものと考えているから困ったものだ。
「そ、その策に依れば此方の被害甚大なるは必定。果心如きに二百も兵は必要ありませぬ。織田家の大事の時なれば一兵の無駄もあってはなりませぬ。あの者は怪しき者。上様の主を思う御気持ち有り難いと存じますが、果心を確実に捕らえる策としては今少し……熟慮の程を……」
三郎は一世一代の勇気を振り絞って訴えた。
陪臣の身で信長に意見するなど首を跳ねられる程の覚悟と言えよう。
「ふむ、貴様、儂に意見するとは中々肝が座っておるな。流石は乱が信を置く家臣じゃ。今の現状を打開する策がそれ以外にあるか? 」
正直言ってそれが無い。
八方塞がりである。
だが、ある事を思い付き、ぱっと顔を上げた。
「はい!やはり幻術師には幻術師。六助には主に掛けられた呪い……いえ、術を解く力がございます。徒に果心を刺激すれば、また妙な術を仕掛けてくるでしょう。真の名さえ突き止めれば倒せると六助が申しておりまする。私が大和に参り、その手掛かり探って参りまする」
「もう待てぬ。捕らえて白状させるか、脅して術を解かせるのが手っ取り早いのではないか? 」
そう言いながらも、救う為の策が乱法師を苦しめる事に成り兼ねないという可能性に決意は揺らいでいた。
「また新たな事実が判明したのでございます。真の名は三輪山にあるのでは無く別の山にあるのではないかと」
「ならば間者を放ち探らせれば良いであろう」
「はっ!確かに上様の仰せ、ごもっともなれど、主に振り掛かる事、大勢の者に知られるのは避けるべきかと。それに極めて荒唐無稽複雑怪奇。この一件に深く関わる者にしか真の名は突き止められぬと考えまする」
信長は心の内では納得しながら、迷いを表すように顎髭を撫でた。
どんなに己自身は強くとも、ままならぬのは愛しい者を人質に取られた時だ。
理解の仕方に多少の問題はあるが、信長にも分かっていた。
此方の守りを突き抜け、直接乱法師を害する事が出来る果心の恐ろしさを。
「だが眠れぬのは哀れじゃ。乱が弱ってしまう」
「主は上様をお待ちしておりました。ずっと瞼を閉じるのを拒んでおりましたが、上様が参られた途端に安堵したようでございます」
言外に信長が側にいれば安眠出来るのだと訴えている。
信長は春の花薫る爽やかな空気で肺が満たされるような幸福感を覚えたが、側にずっといてやる事は出来ない。
但し同衾すれば訪れる恐怖の夜から守ってやれるだろう。
更に肌を重ねれば、乱法師の心は信長の事だけで満たされる筈だ。
とはいえ、それ以上一歩踏み出す事を躊躇う未熟な彼の手を、ゆっくり引いてやりたいという思いもある。
折角近付いたのに、強引に手を引けば、また離れてしまうかもしれない。
「三郎、乱にこれを預ける。枕元に置いてやれ! 」
「あ……これを? 」
愛刀の不動行光。
乱法師が果心に操られて正気を失った時、蟇目矢で憑物払いを行った時も魔除けの威力を発揮した名刀である。
本音では預けるのでは無く与えても良いと考えていた。
『今はまだその時では無い。もっと関係が熟してからじゃ』
つまり己の愛の証として与えたいだけなのだが、立場上、天下の名刀を只の小姓に与える上手い理由を考えなければならない。
随分と綺羅びやかで豪奢な拵の名刀に戸惑いつつ、恭しく頭を下げ両手で受け取る。
「お預かり致しまする」
乱法師が知れば、また感涙に咽ぶだろう。
「話しを聞いて考えた。果心は朝が苦手というなら、乱は朝に休めば良いのでは無いか?割りきれば気も楽になるじゃろう。儂に考えがある」
どのみち夜寝られなければ、本人の意思とは関係無く朝起きられなくなるだろう。
何とも言えず俯く三郎に、続けてある事を提案した。
───
「上様は? 」
目覚めて開口一番、乱法師の一言である。
鼻先に信長の伽羅の残り香が届き、未だ部屋に漂っているのは暫く此処にいたからだろうと胸ときめかせる。
そして直ぐに、折角来てくれたというのに腕の中で眠りこけてしまうとは何たる失態、今すぐ御前に罷り越して謝りたいという色気の無い事を考えてしまう。
「乱法師様、良くお休みになられて疲れは取れましたか?上様は、寝顔を御覧になられて嬉しそうにしておいででした」
生真面目な主の心の動きをすかさず察知し慰める。
「なれど……」
「上様からお預りしておりまする。側に暫く置いておくようにと。これを──」
頬に血を逆上せる初々しい主に不動行光を差し出す。
「これは──何故? 」
案の定、乱法師は兎のように跳ね起きた。
「儂と思い大事にせよと。側におらぬ時も、そなたを守ると、そのように仰せでございました。上様の深い御心にございます」
「斯様に……斯様に……大事な御刀を儂に……うぅ」
朱塗りに金着せの派手な拵の不動行光を胸に抱え、はらはらと涙する。
あれ程怯えていた果心の悪夢を忘れさせ、乱法師の心を鷲掴みにする愛に三郎は感心した。
冷たい雨降る暗く不気味な森に佇んでいた心には、今や満開の桜が咲き乱れていた。
「どうされました? 」
唐突に立ち上がった主に三郎が白々しく問い掛ける。
「申すまでも無い。やはり御返しする!それに眠りこけた事も謝らねば! 」
三郎は溜息が出そうになった。
家臣としての誠はあれど、これ程剥き出しの愛を与えられながら、艶めいた御返しに考えが至らない未熟さに。
「なりませぬ。上様の御命令にございます。良く休み──夜、出仕せよと」
「夜?それは──」
乱法師は満面朱を注ぐ。
鈍い癖にその辺には気が向くのだなと、勘違いさせた儘にしておきたくなった。
「今宵、不寝番せよとの仰せにございます」
残念ながら、ずばり伽を命じられた訳では無いと伝える。
安堵するような残念そうな息を吐く乱法師の様子に、同じ男として信長が憐れに思えてきた。
「左様か。あい分かった」
大人しく腰を下ろすと乱法師は不動行光をうっとりと観賞し始めた。
順慶の情報網は、宗厳の弟で松永の茶飲み友達の松吟庵が天王寺砦に陣中見舞いに訪れたという事実を掴んでいた。
信頼する柳生一族に身限られたら松永の意気が削がれるは明白。
長く松永方の内奥を知る一族である。
「恐らく表向きであろう。隠居の振りをして裏で繋がっている可能性はある。弟の松吟庵は要注意じゃ」
「柳生を叩くおつもりですか? 」
「いや、旗色悪くなれば弾正から離れるであろう。柳生如き踏み潰すなど何時でも出来るが此方に取り込んだ方が良い。真の信頼なぞ笑止。力の前では絆は容易く絶ち切れるものじゃ」
そう言い放った後、順慶の表情が切なげに歪んだ。
数々の裏切りに会いながら、信頼だけに依る策を切り札としているのは誰あろう己自身。
絆とは一体何なのか。
何故、己の命運を預ける程相手を信じられるのか。
紙の上の約束事は常に破られてきたというのに、只の一言が己の心に固い結び目を作っている。
『会いたい……今すぐ、そなたを抱き締め、芳しき肌の香りを嗅ぎ存分に愛でたい。月読……』
愛しい者を思う時、青年武将の心は理屈を越えて激しく揺れ動いた。
───
瞳は虚ろ、薄く開いた桜色の唇は何かを囁いているように見えた。
小袖に着替えているが脇息を枕代わりに凭れながら、その瞳は只一点を見詰めていた。
竹を切って作った素朴な空の花入れ。
そんな乱法師の様子をずっと傍で見ていた三郎は、始めの頃こそ元気付けようと明るい声で話し掛けていた。
ところが心此処にあらずで生返事をしていた主は、終いには無言で花入れにばかり見入っている。
まるで廃人だが、その言わんとする事が痛い程伝わり、三郎は無理に言葉を掛けるのを止めた。
言葉よりも誰よりも、只側にいて欲しいのだろう。
乱法師の瞼が時折重たげに落ち掛かる。
眠る事を拒んでも自然に襲う睡魔には勝てない。
やがて眠りに落ちる。
だが、それも束の間。
夢を恐怖する心が悪夢を作り出し、叫びと共に目覚めてしまうのだろう。
三郎はこれ程無力感に襲われた事は無い。
膝に置かれた手がぎゅっと袴を掴み皺が寄る。
早く果心の真の名を。
こうした状態になる事は分かっていたのに皆が善良であり過ぎる故に、目の前の乱法師の体調を慮り思い切った策を取れなかった。
そんな人の情けさえ、果心は手の平で転がし嘲り利用してきたのではないか。
悔しさと怒りで身体が震えてくる。
乱法師の瞼が上がり瞳が動いた。
視線を追うと襖があった。
やがて足音と共に襖が開かれ、瞳に輝きが宿る。
三郎の耳に届かぬうちに、微かな衣擦れの音を捉えたのは驚嘆に価する。
「乱──」
それ程までに待っていたのか。
素早く側に寄る信長の差し出す腕に自然に身を任せる。
お互いの愛を物語るどちらからとも付かぬ行為。
信長の肩に頬を乗せる。
安心感からか幼子のように無垢な面持ちであった。
「如何した? 」
問い掛ける声も甘い蜜のようで、三郎自身安堵感に包まれながら居心地の悪さを感じた程だ。
まるで二人の世界で果たしてこの場にいて良いのだろうかと。
とはいえ、信長の問いに一言で答えられる状態の乱法師では無い。
精々、唇から吐息を洩らし潤んだ瞳に思いを込めてじっと見詰めるくらいだ。
だが信長は返答を強く求めていた訳では無く、只優しく髪を撫で、ひたすら彼を労る言葉を掛け続けた。
「そなたが側におらぬと物足りぬ。真面目に働き過ぎたせいか、無理をするなと申しても無理をしてしまうのはけしからぬ。儂がこうして参ったからには、そなたが休むまで此処におるぞ」
求めていた信長の声と小袖に焚き染めた伽羅の香りに癒され、瞼がうっとりと細められた。
殊に無防備で愛らしい様子に、信長は三郎の存在をすっかり忘れ頬や額や指に口づける。
髪を撫でているうちに腕の中からすうすうと息遣いが聞こえてきた。
主の前で寝入る事を許されるのは彼だけだ。
其処で、ふと三郎の存在を思い出した。
「乱は暫く元気でおったに、随分と不安気な顔つきで疲れておるようじゃ。何かあったのか? 」
いきなり問い掛けられ三郎が身を固くする。
「はっっ……またもや果心が──」
「果心じゃと? 」
三郎は言い掛けて、ごくりと唾を呑み顔を伏せてしまう。
乱法師を気遣い声音を抑えつつも、先程の甘さから一転、振り向けられた顔は鬼のように変貌していたからだ。
己が責められている訳では無いと承知しつつも、直視したら焼かれそうな凄い眼光である。
「説明致せ」
抑えた怒りと低い声音が恐ろしい。
身体中から発せられる怒気が部屋の空気をびりびりと震わせる。
「その……」
「待て! 」
三郎はたじろぎながら口を開き掛け、また閉じる羽目になった。
信長は乱法師を寝かせると、顎をしゃくり別の部屋へ移った。
三郎の足が恐怖で縺れる。
また隠していたのかと叱られるのは間違い無かろう。
「何故儂に黙っていた? 」
三郎が退行催眠の事を説明した途端、案の定眉を顰める。
「中々お忙しく……」
「乱の事で隠し事致すなと申した筈じゃ」
「申し訳ございませぬ」
言い訳するだけ無駄な労力と即座に謝ってしまう。
「以前に果心の塒を突き止めたと聞いたが、確か三輪山であったな」
「は……」
「二百もおれば十分か? 」
「──?」
問いの意味が分からない。
「兵を貸し与える故、三輪山を攻め、神主等が抵抗するようなら山ごと焼き払え! 」
「え、え……それは!! 」
信長の策に驚愕し、ひっくり返りそうになる。
「何を驚いておる。儂とした事が、奴は乱だけで無く儂の命さえ狙ったのじゃ。当然の処置である」
過激な策に驚く以上に二の句が継げないのは、信長の果心に対する認識に誤りがあるからだ。
「たかが幻術師一人。生捕って鋸挽きにしてくれるわ」
三郎はひたすらおろおろするしか無かった。
只の幻術師ならば良いが神の力を借りているのはどうやら本当なのである。
焼いたぐらいで滅する事は出来ぬであろうし、現の武器で傷付けられる事は射干が証明してみせたが、直ぐに回復し乱法師の体調にまで影響が及ぶだろう。
それに山を焼き払えば怨念は益々増し、神の怒りまで買ってしまいそうである。
とはいえ、信長に神だの呪いだのは通用せず、乱法師の身に起こる災いは幻術に因るものと考えているから困ったものだ。
「そ、その策に依れば此方の被害甚大なるは必定。果心如きに二百も兵は必要ありませぬ。織田家の大事の時なれば一兵の無駄もあってはなりませぬ。あの者は怪しき者。上様の主を思う御気持ち有り難いと存じますが、果心を確実に捕らえる策としては今少し……熟慮の程を……」
三郎は一世一代の勇気を振り絞って訴えた。
陪臣の身で信長に意見するなど首を跳ねられる程の覚悟と言えよう。
「ふむ、貴様、儂に意見するとは中々肝が座っておるな。流石は乱が信を置く家臣じゃ。今の現状を打開する策がそれ以外にあるか? 」
正直言ってそれが無い。
八方塞がりである。
だが、ある事を思い付き、ぱっと顔を上げた。
「はい!やはり幻術師には幻術師。六助には主に掛けられた呪い……いえ、術を解く力がございます。徒に果心を刺激すれば、また妙な術を仕掛けてくるでしょう。真の名さえ突き止めれば倒せると六助が申しておりまする。私が大和に参り、その手掛かり探って参りまする」
「もう待てぬ。捕らえて白状させるか、脅して術を解かせるのが手っ取り早いのではないか? 」
そう言いながらも、救う為の策が乱法師を苦しめる事に成り兼ねないという可能性に決意は揺らいでいた。
「また新たな事実が判明したのでございます。真の名は三輪山にあるのでは無く別の山にあるのではないかと」
「ならば間者を放ち探らせれば良いであろう」
「はっ!確かに上様の仰せ、ごもっともなれど、主に振り掛かる事、大勢の者に知られるのは避けるべきかと。それに極めて荒唐無稽複雑怪奇。この一件に深く関わる者にしか真の名は突き止められぬと考えまする」
信長は心の内では納得しながら、迷いを表すように顎髭を撫でた。
どんなに己自身は強くとも、ままならぬのは愛しい者を人質に取られた時だ。
理解の仕方に多少の問題はあるが、信長にも分かっていた。
此方の守りを突き抜け、直接乱法師を害する事が出来る果心の恐ろしさを。
「だが眠れぬのは哀れじゃ。乱が弱ってしまう」
「主は上様をお待ちしておりました。ずっと瞼を閉じるのを拒んでおりましたが、上様が参られた途端に安堵したようでございます」
言外に信長が側にいれば安眠出来るのだと訴えている。
信長は春の花薫る爽やかな空気で肺が満たされるような幸福感を覚えたが、側にずっといてやる事は出来ない。
但し同衾すれば訪れる恐怖の夜から守ってやれるだろう。
更に肌を重ねれば、乱法師の心は信長の事だけで満たされる筈だ。
とはいえ、それ以上一歩踏み出す事を躊躇う未熟な彼の手を、ゆっくり引いてやりたいという思いもある。
折角近付いたのに、強引に手を引けば、また離れてしまうかもしれない。
「三郎、乱にこれを預ける。枕元に置いてやれ! 」
「あ……これを? 」
愛刀の不動行光。
乱法師が果心に操られて正気を失った時、蟇目矢で憑物払いを行った時も魔除けの威力を発揮した名刀である。
本音では預けるのでは無く与えても良いと考えていた。
『今はまだその時では無い。もっと関係が熟してからじゃ』
つまり己の愛の証として与えたいだけなのだが、立場上、天下の名刀を只の小姓に与える上手い理由を考えなければならない。
随分と綺羅びやかで豪奢な拵の名刀に戸惑いつつ、恭しく頭を下げ両手で受け取る。
「お預かり致しまする」
乱法師が知れば、また感涙に咽ぶだろう。
「話しを聞いて考えた。果心は朝が苦手というなら、乱は朝に休めば良いのでは無いか?割りきれば気も楽になるじゃろう。儂に考えがある」
どのみち夜寝られなければ、本人の意思とは関係無く朝起きられなくなるだろう。
何とも言えず俯く三郎に、続けてある事を提案した。
───
「上様は? 」
目覚めて開口一番、乱法師の一言である。
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そして直ぐに、折角来てくれたというのに腕の中で眠りこけてしまうとは何たる失態、今すぐ御前に罷り越して謝りたいという色気の無い事を考えてしまう。
「乱法師様、良くお休みになられて疲れは取れましたか?上様は、寝顔を御覧になられて嬉しそうにしておいででした」
生真面目な主の心の動きをすかさず察知し慰める。
「なれど……」
「上様からお預りしておりまする。側に暫く置いておくようにと。これを──」
頬に血を逆上せる初々しい主に不動行光を差し出す。
「これは──何故? 」
案の定、乱法師は兎のように跳ね起きた。
「儂と思い大事にせよと。側におらぬ時も、そなたを守ると、そのように仰せでございました。上様の深い御心にございます」
「斯様に……斯様に……大事な御刀を儂に……うぅ」
朱塗りに金着せの派手な拵の不動行光を胸に抱え、はらはらと涙する。
あれ程怯えていた果心の悪夢を忘れさせ、乱法師の心を鷲掴みにする愛に三郎は感心した。
冷たい雨降る暗く不気味な森に佇んでいた心には、今や満開の桜が咲き乱れていた。
「どうされました? 」
唐突に立ち上がった主に三郎が白々しく問い掛ける。
「申すまでも無い。やはり御返しする!それに眠りこけた事も謝らねば! 」
三郎は溜息が出そうになった。
家臣としての誠はあれど、これ程剥き出しの愛を与えられながら、艶めいた御返しに考えが至らない未熟さに。
「なりませぬ。上様の御命令にございます。良く休み──夜、出仕せよと」
「夜?それは──」
乱法師は満面朱を注ぐ。
鈍い癖にその辺には気が向くのだなと、勘違いさせた儘にしておきたくなった。
「今宵、不寝番せよとの仰せにございます」
残念ながら、ずばり伽を命じられた訳では無いと伝える。
安堵するような残念そうな息を吐く乱法師の様子に、同じ男として信長が憐れに思えてきた。
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「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
高校サッカー部員の抑え切れない欲望
藤咲レン
BL
主人公となるユウスケがキャプテンを務める強豪校サッカー部で起こった男同士の変態行為。部員同士のエロ行為にはコーチが関わっており、そのコーチの目的は・・・。(ユニフェチ要素が盛り沢山の話になっています。生々しい表現も出ていますので苦手な方はご注意ください。)
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