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第17章 肉薄
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「わ……さま……若……ま」
優しい声に含まれる情熱が、乱法師を居るべき世界へと呼び戻した。
ゆらゆらと揺れる淡黄色の炎がぼんやりと瞳に映る。
視界がはっきりしてくると木訥な六助、他に三郎、藤兵衛の顔が彼を囲んでいた。
悍ましい世界からの極端な転換に思考が追い付かない。
「お分かりですか?果心の記憶を探り、今戻って来られたのです。此処は乱法師様の御部屋で上様の御殿におられます」
三郎が分かりきった状況を敢えて説明する。
「そうじゃ……水を……」
現状はそれなりに把握出来ている。
退行催眠中に見た記憶も朧気だが残っていた。
只、憎むべき者の過去を傍観するだけでなく、半ば同化しながら悍ましい行為を生々しく体感した事で心は憔悴しきっていた。
知らなくてはならぬのに知りたくない闇深い心奥。
ごくりと喉を鳴らして冷えた水を飲んだ。
たったそれだけの行為が蝕まれた心を僅かに回復させた。
「何故戻って来た?何を言っていた? 」
「此度は随分入り込んでおられたみてえです。口走る言葉からも沢山の事が分かりやした」
「だが真の名は突き止めておらぬ。そうであろう? 」
現に戻れば催眠中の記憶は曖昧になる。
とはいえ、覚信がどのように神と結び付いたのか、そうした経緯を記憶として持ち帰る事が出来たのは収穫である。
「手加減したつもりはねえ。だども果心みてえな奴の記憶に長く触れ続ければ若様の心を持ってかれちまうかもしんねえ。だから呼び戻した……怒んねえで下せえ」
六助は項垂れた。
「咎めはせぬ。全てはそちの力に掛かっておる。なれど……」
乱法師は言葉を切り溜息を吐いた。
深い、余りにも深い闇の淵に意識を浸し、更に深く潜らねばならぬと考えると正直心が挫けそうになったからだ。
「六、三郎や藤兵衛も。側にいたのであれば何か気付いた事はあるか?儂が見た事から話した方が良いか? 」
「お辛く無ければお話し頂きとうございます」
乱法師は深く息を吸い込んだ後、沈鬱な面持ちで語り始めた。
果心が覚信である事は遠見や影針の効果で知れていたが、改めて興福寺を飛び出した経緯に一同顔を顰めた。
そして何処かの山中に逃げ込み、神の依代となったという顛末。
果心の正体にかなり迫ってきたといえるだろう。
「意外とまともな容姿だったと言う訳ですね。」
「山中というのは三輪山でごぜえましょうか? 」
余り重要で無い他の意見に比べ、六助の疑問は鋭い点を突いていた。
「たまたま覚信の前に現れたというより、その山の主という印象であった。上手く言えぬが」
恐らく覚信にさえ分かっていなかったのだろう。
無論、果心となった今はその山の名を知っているのだろうが──
「三輪山ならば大物主神という事になってしまうが、皆がそうでは無いと感じているのじゃから違う山である可能性は高い」
此度の退行催眠では随分進展があったと語るごとに実感した。
ところが気持ちは奮い立つどころか沈む一方だ。
「お疲れでございましょう。後は我等で考えまする。どうかお休み下さいませ」
三郎が顔色の悪さを気に掛け労る。
此処まで分かったのだから、今すぐにでも先に進みたい。
しかし今日は限界だった。
「うむ……済まぬ……射干の事も……」
三名は、極めて年若い主を苦しめる様々な凶事に改めて胸を痛め、代われるなら己が代わってやりたいと思った。
九月に入ってからは気力を取り戻し、操られているような怪しい素振りは見られなかった。
信長や六助に加え、射干という強敵を警戒しての事だろう。
だが信長は反勢力の包囲網という現の敵の対応に追われ、いざとなれば出陣の可能性さえあった。
射干は食い意地が災いして毒で苦しんでいる。
結局、果心を退けられる者は六助だけとなってしまった。
負けず嫌いな乱法師は、日頃拒んでいるが、今宵は殊勝に三郎が側にいる事を受け入れた。
中々寝付け無いのではと皆が案じたが、余程体力を消耗したのか直ぐに眠りに落ちた。
内緒で朝まで側に臥していようかとも思ったが、信長に気兼ねして三郎は部屋を出た。
──
乱法師は目を閉じた後、三郎の存在を意識しつつ、胸中にほんのり沸いた想いに揺らいでいた。
そっと結び枕の端を握る。
何か物足りない。
信長の顔が浮かんだ。
小姓勤めを再開してからは毎日顔を見ているし、明日もまた会える。
褥の上から解放され、部屋を去った後の侘しさに涙する事も無くなった。
今の方が余程信長と長い時を過ごせている。
なのに何故──
彼が近頃見ているのは昼の顔、公としての信長だ。
確かに寝てばかりいるのは辛かった。
だが部屋を訪れる信長は公の仮面を外し、甘やかな空気を纏い彼の目線で寄り添ってくれた。
今、誰よりも信長を欲していた。
昼も夜も共に過ごしたい。
真の気持ちに素直になれたら少しは軽くなっただろう。
退行催眠の事を信長は知らない。
隠している訳では無いが、多忙故に耳に入れる機会を得られていない。
蟇目矢の時の大袈裟な道具立ても必要無く、危険も少ないと考えていたからというのもある。
此処まで精神が磨り減るとは予想していなかった。
この際、激しい疲労が彼を眠りの淵に落としてくれたのは幸いだった。
───
何もかもが真っ白な世界にいた。
『六助? 』
そう尋ねたのは、退行催眠の時の風景にそっくりだったからだ。
真っ白な世界に溶け込み判然としないが、下へと続く階段が現れた。
殆ど感覚で階段を捉え、そろりと踏み出し足裏に固さを感じつつ用心深く降りていく。
糸を結び付けられ引っ張られているかのようだ。
何歩目かで突然階段が消え失せた。
周囲が闇に転じ真っ逆さまに落ちていく。
奈落は延々と続き、夢の中で意識を失った。
瞼を開けた時には未だ闇の中にあった。
恐怖が再び彼を襲う。
何者かの絡み付く視線を感じた。
独特の閉塞感と圧迫感に息苦しくなる。
手を伸ばし数歩歩けば壁に触れられるのだろう。
しかし部屋の狭さを知ってしまうのは恐ろしく、身動き出来ない。
突然部屋が紅に染まった。
漆黒の炭が火種で爆ぜたような紅の輝きが彼を照らした。
脈拍が早まる。
咄嗟に腕を身体に巻き付けるも、一糸も纏うていなかった。
毒々しい真っ赤な壁に自ずと視線が泳ぎ、恐怖で見開かれる。
『あっ……うああああーー』
壁は肉そのもので不気味に脈打っていた。
びっしりと埋め込まれた血の色の目玉。
千か二千か万か。
乱法師をじっと凝視していたのだ。
淫欲を滾らせ、穴が開く程に乱法師の裸身の上を滑滑と這い回る。
身体を捩り腕や手で隠そうとしても、視線を全て遮る事は出来ない。
ひたすら無言で視姦し続ける。
触れられるよりも残酷な仕打ち。
抗えず逃げられず啜り泣く可憐な獲物をじっくりと嬲る無数の視線が輝きを増した。
『見るのは儂じゃ──そなたではない。見て良いのは儂じゃ。そなたは見てはならぬ』
聞き慣れた陰鬱な声が漸く響いた。
『上様あーー上様あーー』
己の力でどうにもならぬ事態に陥った時、必ず頭に浮かぶ精悍な顔。
彼にとっての神の名を叫ぶ。
『くくく……呼んでも無駄じゃ。此処が何処か分かっておるのか?そなたの心、夢の中じゃ。そもそも此処には信長自身の意思は存在せぬ。そなたと繋がる儂とそなたしか存在出来ぬ、謂わば心の檻じゃ』
呪術や幻術に長けた果心との心理戦において勝ち目は無い。
同じ土俵に立った場合、果心の好む淀んだ世界観が彼を圧倒してしまうのだ。
『うう、上様あ……六……三郎……藤兵衛……射干……』
『射干か、あの女死ぬぞ』
惨い言葉が更に彼を打ち据えた。
『そんな……そんな訳が無い!信じぬ! 』
顔を上げ正面の目玉を睨み付けた。
『嘘では無い。血を吐いて死ぬ』
それに対し声は淡々と、目玉は一斉に嘲り返した。
『う……何時まで……何時まで儂を……いっそ殺せ!』
『これは仕置きじゃ。また悪巧みをしたであろう?おお、可愛いそなたを殺す訳が無い。早く肌に触れたい。味わいたい。何と美味そうな』
どうやら幻影や幻術を用いる時よりも真の精神世界では限りがあり、犯す事までは叶わぬようであった。
但し、それが何の救いになろうか。
果心の邪な欲望の檻に囚われ、一糸纏わぬ姿で数多の視線に晒されているのだから。
『儂をどうする? 』
『何もせぬ。気が済むまで愛しいそなたを眺めていよう』
『殺せ!殺せ!殺せええーー』
辛うじて正気を繋いでいた細い糸が切れた狂気の叫び。
『言った筈じゃ。殺さぬと。折角会いに行っても、つれない態度。罰として一晩中何もせずに、じっと眺めていようと思うてなあ。』
『うあああぁーー出せ!此処から出せえぇぇーーううゥぅ……』
錯乱状態で髪を掻き毟り床に頭を打ち付ける。
『……あ……あ……ひいぃいーー』
憐れな彼を尚も苛むのは、肉の床に敷き詰められた蠢く目玉であった。
思わず蹌踉《よろ》めき尻もちを付くと、肉の床が震え生々しい昂りを伝えてくる。
人肌の感触と生温さに総毛立つ。
僅かな救いを求め天を仰ぐが、そこにも彼を見つめ返す欲情に濡れた目玉が並んでいた。
『何処もかしこも美しい。そなたは儂のものじゃ』
『うああああーー』
──
胎児のように丸まり目を塞ぎ耳を塞ぐ
己の心の中で心を閉ざすという矛盾。
果心が君臨する世界の中に作り上げた小さな聖域に引き籠る。
時の無い歪な世界で、乱法師は心を閉ざす事で己を守り続けるしか無かった。
───
板戸の隙間から射し込む細い光が瞼に当たり、三郎は俯けた顔を上げた。
ほんの少しの間だが意識が虚ろであったらしい。
瞼の上を横切る光は正しく朝を告げていた。
乱法師の様子が少し気になった。
襖の外から声を掛けるが応えは無く、静かに開けて中に入る。
「乱法師様」
屏風の後ろから声を掛けた。
もう一度少し大きな声で呼び掛けてみたが返事は無く、言い知れぬ不安を覚えたので後ろに回り込む。
乱法師は確かに寝ていた。
だが眉根を寄せ膝を胸に付け、胎児を思わせる異様な体勢であった。
「乱法師様!! 」
三郎が身体に触れても瞼は固く閉じられた儘で、唇からは低い呻き声だけが洩れる。
結界が果心の存在を感じ取れば、六助は別の部屋にいても感知する。
昨夜はそうした異常は無かった筈なのに。
三郎は急いで信頼出来る者達を呼びに走った。
───
「若様! 」
六助と藤兵衛も駆け付けたが医師の曲直瀬道三は呼んでいない。
医師が必要という場面で無ければ道三は部外者なのである。
「乱法師様がお目覚めになられぬ。果心の仕業か? 」
三郎が血相変えて六助に詰め寄る。
六助は首を捻った。
信長襲撃後、まだ六助が都に存るうちに乱法師が果心に襲われた時の事。
乱法師の髪の毛を用い危機を察知し彼を救った。
此度、六助は邪気を感じ無かった。
魂を操り悪さをしたとしても妖気の痕跡がある筈だ。
なのに何も無い。
乱法師の様子を具に観察した。
そして気付いた。
退行催眠を行っている時と酷似している事に。
「若様!今、何処におられるのやか? 」
催眠状態にある時と同じく話し掛ける。
「此処から出せ……出たい……はやく……」
瞼の隙間から白目を覗かせ乱法師が答える。
「出られんのじゃか?誰が若様を閉じ込めちゅーんやか? 」
「奴が……儂を見張っておる。怖い怖い」
「やはり!奴の仕業か! 」
三郎が激昂し熱り立つ。
「大丈夫でごぜえます。必ず出られる。出口があるんじゃ。光のある方に進んどーせ」
「目を開けたく無い。何も見たくない。怖い……」
益々身を丸め、目を固く瞑る。
「大丈夫や。今は朝やき」
「朝? 」
その一言を切っ掛けに、外の世界が白光に包まれたのが薄い瞼を通して分かった。
乱法師の瞼が自ずと開かれる。
果心の造り出した悍ましい世界は消え失せ、何処までも続く白い清浄な空間が広がっていた。
「六──」
「儂の声聞いて、ゆっくり階段を昇っとーせ」
六助が指示した直後、目の前に階段が現れた。
よろよろと立ち上がり縺れた足で一段一段昇って行く。
「若様! 」
「乱法師様!良かった」
愛しい者達の顔を認識すると乱法師の瞳から涙が溢れ出した。
何を見たのか何があったのか。
優しく問うても口も聞けぬ有様に、一同の面持ちが暗く陰る。
ともかく出仕出来る状態では無い。
果心の正体に肉薄し、後もう一歩という矢先に、新たな手で攻撃してくる執念に腕を組み沈む。
「上様には申し上げました。ゆっくり休むようにとの御優しい御言葉。御安心下さい。我等が付いておりまする」
瞬きもせず、がたがた震える乱法師の手を三郎が固く握り締める。
傅役の藤兵衛は乱法師の負けん気の強さを知る故に、今まで見た事の無い怯え様に何があったのかと考え込んでしまう。
口に出来ぬ程の恐怖とは如何なるものなのか。
色々と想像を巡らしているうちに怯えが伝染り、ぶるりと身体を震わせた。
「三郎さんは若様に付いていてあげて下せえ」
そう言って六助は藤兵衛と別室に移動し、此度の事を彼なりに分析し語った。
「昨日果心の記憶に深く入り込み過ぎたけえ、普通に夢見るんじゃなくて奴の頭ん中に入っちまったんでねえか」
「単なる悪夢ではなく……か」
「繋がり易うなっちゅーとこに、寝るというのは意識無うなる事やき、するっと奴の中に滑り込んじまったんやないがやろうか」
意識が曖昧になる時に共有が起こり易い。
「それに気付いて若様を苦しめたのか」
「若様が眠りに入り掛けて意識が薄うなった時、己の欲望の儘の悪夢を見せたんでねえか思うちょります」
「だが今まで此処までの事は──」
「今までにも魘されちゅー事はあった。只、そん時はげに無意識で、目覚めても何も覚えて無かった。若様の中に奴の事を探ろうという強い意思が芽生えたき、それに気付いて若様を痛め付けたんやろう」
乱法師の記憶から入る過去にだけでなく、果心の現在にも繋がり易くなってしまったらしい。
退行催眠の癖で自ら歩を進め果心の心中に踏み込もとした為妨害された。
「記憶を探る事は阻めんやろう。過去に起こった事やし入り口は若様の中にあるき。只、何か探ろうとしちゅー事だけはばれちまったなあ」
「若様がお休みになられる度に、奴と深く繋がってしまうということか? 」
睡眠中にまで果心の意識と繋がってしまえば心身に相当の負荷が掛かる。
味わった恐怖は目覚めた後も記憶している為、終いには安眠出来なくなってしまうだろう。
「記憶探るのは暫く止めた方がええかもしんねえ」
此方の策をまた封じられたと肩を落とし呟くように言った。
───
「ゆっくりお休み下さい」
「寝たくない……寝ればまた……閉じ込められる……」
乱法師は眠る事をひたすら拒んだ。
「皆が側に付いておりまする」
三郎が必死に慰める。
「射干は? 」
果心の告げた残酷な予言。
夢の記憶がある事が、この状況では極めて惨い。
乱法師の声は震えていた。
「状態は変わらずですが今のところ何とか」
三郎が言葉尻を濁したのは、素人目に見ても危険な状態であるのは明らかだったからだ。
「射干のところに参る」
「ですが──」
三郎は一瞬迷った。
苦しむ射干を見舞って気が晴れるとは思えぬが、恐怖の体験を一時でも忘れられるのは確かだ。
射干の顔色は青黒かった。
衾の下で胸が上下しているのに目を留めなければ、死体と見紛うばかりの変容振りだ。
打ちのめされ息を呑む主に三郎の心は切り裂かれた。
「済まぬ……わしのせいじゃ……」
乱法師の口から謝罪の言葉が洩れる。
三郎の思考は一瞬だけ別の事に逸れた。
『こら毒盛られたんちゃうんやろうか』という、曲直瀬道三の見立てについてである。
始めこそ食あたりという診断を下していたが、流石に名医の目は誤魔化せないようだ。
三郎が心底守りたい、守るべきは乱法師である。
毒を盛られたという事実は乱法師には絶対に伏せておかなければならない。
───
「いィやあああァぁーーおおーー」
凄まじい気迫と共に突き出された十文字槍は木製の的のど真ん中を見事に貫き粉砕した。
雄叫びに怯えた鳥達が枯れ葉を散らし空に羽ばたく。
久米田に砦を構える筒井順慶は手元に槍を戻すと再び構えた。
諸肌脱いだ若い肉体は細身だが鋼の如く締まり日頃の鍛練を物語る。
一体どれ程打ち込んでいるのか。
深まる秋の風に吹かれても、頬は火照り吹き出る汗が滴り地面まで濡らしていた。
僧形でありながら殺生の為の槍の鍛練に打ち込む。
一見矛盾しているが順慶の槍術が優れているのは意外な事では無い。
槍術で高名なのは興福寺から生まれた宝蔵院流。
興福寺の僧兵である胤栄《いんえい》がその創始者である。
筒井家は元衆徒が武士化して成った為、興福寺とは縁が深い。
興福寺に詣でる時には胤栄にいつも手合わせして貰っていた。
手拭いを差し出しながら家臣が何事かを囁き鍛練は中断された。
「失敗した、やもしれぬじゃと? 」
問いの形を取りながら答えそのものが気に食わない。
未だ息荒く顔が赤い儘の順慶は眦を吊り上げ間者を睨み付けた。
「は……」
「分かるように説明致せ! 」
日頃得度した身として抑え込んでいる血の気の多さが剥き出しになる。
「乱法師は生きておりまする」
「くそっっ!饅頭を食べなかったという事か」
「それが妙なのでございます」
「妙? 」
そこで漸く密談に相応しく声を落とした。
「侍女と思われる女が病に臥せっているらしく、曲直瀬道三殿の治療を受けているらしいのでございます」
「たかが侍女の治療をあの曲直瀬殿が? 」
侍女如きを道三が診ているから噂になっているのだろうと推察した。
「毒味役として饅頭を口にしたという訳か。だとしたら随分用心深いな。童と侮れぬ」
「実はそれだけでは無いのでございます。乱法師は近頃上様の御側で姿を見られるようになったのですが、また具合が悪いと寝込んでしまったようで──」
「饅頭は四つあった。考えてみれば全部平らげる毒味役などいる筈が無い。毒は直ぐには効かぬのであろう? 」
「はい!全く口にしなかったというのは考え難く、此度寝込んだのは毒のせいではないかと」
間者はにやりと笑う余裕を取り戻した。
「暫く何事も無かったというのは解せぬが、毒の効きにくい質なのやもしれぬ。ならば死ぬのも時間の問題じゃな」
深く考えれば辻褄が合わぬ事は多々あるのに、そうであって欲しいと願う余り順慶は成功を確信し大きく頷いた。
杞憂は去った。
ところが一つ種を取り去ると、他にも黒い種子が無いかと探してしまい、芽が出る前に掘り起こしたくなる性分である。
間者を退出させると腹心、嶋左近を呼び付けた。
「柳生は弾正(松永)に味方するつもりと思うか? 」
後に将軍家指南役として名を為した柳生一族は、元は筒井氏の被官であったが、順慶が筒井城を追われた際に松永久秀に与し能力を示した。
伊賀の里に隣接する立地上、伊賀者を多く用い、猫の目のように変化する権力の動きを松永に逸早く齎《もたら》し、その地位向上を助けた。
当時の柳生は、大和においては強者の旗色を窺う弱小の一族であった。
嫡男が戦傷で刀も持てぬ不遇の身となってからは、老齢である事も理由に今は柳生の荘に隠居同然の身である。
その柳生一族を順慶がほっておく訳が無い。
興福寺の宝蔵隠流槍術の使い手である胤栄と柳生石舟斎は親好が深い。
依って胤栄を通じて、此方の陣営に加わるようにと再三誘っているのだ。
優しい声に含まれる情熱が、乱法師を居るべき世界へと呼び戻した。
ゆらゆらと揺れる淡黄色の炎がぼんやりと瞳に映る。
視界がはっきりしてくると木訥な六助、他に三郎、藤兵衛の顔が彼を囲んでいた。
悍ましい世界からの極端な転換に思考が追い付かない。
「お分かりですか?果心の記憶を探り、今戻って来られたのです。此処は乱法師様の御部屋で上様の御殿におられます」
三郎が分かりきった状況を敢えて説明する。
「そうじゃ……水を……」
現状はそれなりに把握出来ている。
退行催眠中に見た記憶も朧気だが残っていた。
只、憎むべき者の過去を傍観するだけでなく、半ば同化しながら悍ましい行為を生々しく体感した事で心は憔悴しきっていた。
知らなくてはならぬのに知りたくない闇深い心奥。
ごくりと喉を鳴らして冷えた水を飲んだ。
たったそれだけの行為が蝕まれた心を僅かに回復させた。
「何故戻って来た?何を言っていた? 」
「此度は随分入り込んでおられたみてえです。口走る言葉からも沢山の事が分かりやした」
「だが真の名は突き止めておらぬ。そうであろう? 」
現に戻れば催眠中の記憶は曖昧になる。
とはいえ、覚信がどのように神と結び付いたのか、そうした経緯を記憶として持ち帰る事が出来たのは収穫である。
「手加減したつもりはねえ。だども果心みてえな奴の記憶に長く触れ続ければ若様の心を持ってかれちまうかもしんねえ。だから呼び戻した……怒んねえで下せえ」
六助は項垂れた。
「咎めはせぬ。全てはそちの力に掛かっておる。なれど……」
乱法師は言葉を切り溜息を吐いた。
深い、余りにも深い闇の淵に意識を浸し、更に深く潜らねばならぬと考えると正直心が挫けそうになったからだ。
「六、三郎や藤兵衛も。側にいたのであれば何か気付いた事はあるか?儂が見た事から話した方が良いか? 」
「お辛く無ければお話し頂きとうございます」
乱法師は深く息を吸い込んだ後、沈鬱な面持ちで語り始めた。
果心が覚信である事は遠見や影針の効果で知れていたが、改めて興福寺を飛び出した経緯に一同顔を顰めた。
そして何処かの山中に逃げ込み、神の依代となったという顛末。
果心の正体にかなり迫ってきたといえるだろう。
「意外とまともな容姿だったと言う訳ですね。」
「山中というのは三輪山でごぜえましょうか? 」
余り重要で無い他の意見に比べ、六助の疑問は鋭い点を突いていた。
「たまたま覚信の前に現れたというより、その山の主という印象であった。上手く言えぬが」
恐らく覚信にさえ分かっていなかったのだろう。
無論、果心となった今はその山の名を知っているのだろうが──
「三輪山ならば大物主神という事になってしまうが、皆がそうでは無いと感じているのじゃから違う山である可能性は高い」
此度の退行催眠では随分進展があったと語るごとに実感した。
ところが気持ちは奮い立つどころか沈む一方だ。
「お疲れでございましょう。後は我等で考えまする。どうかお休み下さいませ」
三郎が顔色の悪さを気に掛け労る。
此処まで分かったのだから、今すぐにでも先に進みたい。
しかし今日は限界だった。
「うむ……済まぬ……射干の事も……」
三名は、極めて年若い主を苦しめる様々な凶事に改めて胸を痛め、代われるなら己が代わってやりたいと思った。
九月に入ってからは気力を取り戻し、操られているような怪しい素振りは見られなかった。
信長や六助に加え、射干という強敵を警戒しての事だろう。
だが信長は反勢力の包囲網という現の敵の対応に追われ、いざとなれば出陣の可能性さえあった。
射干は食い意地が災いして毒で苦しんでいる。
結局、果心を退けられる者は六助だけとなってしまった。
負けず嫌いな乱法師は、日頃拒んでいるが、今宵は殊勝に三郎が側にいる事を受け入れた。
中々寝付け無いのではと皆が案じたが、余程体力を消耗したのか直ぐに眠りに落ちた。
内緒で朝まで側に臥していようかとも思ったが、信長に気兼ねして三郎は部屋を出た。
──
乱法師は目を閉じた後、三郎の存在を意識しつつ、胸中にほんのり沸いた想いに揺らいでいた。
そっと結び枕の端を握る。
何か物足りない。
信長の顔が浮かんだ。
小姓勤めを再開してからは毎日顔を見ているし、明日もまた会える。
褥の上から解放され、部屋を去った後の侘しさに涙する事も無くなった。
今の方が余程信長と長い時を過ごせている。
なのに何故──
彼が近頃見ているのは昼の顔、公としての信長だ。
確かに寝てばかりいるのは辛かった。
だが部屋を訪れる信長は公の仮面を外し、甘やかな空気を纏い彼の目線で寄り添ってくれた。
今、誰よりも信長を欲していた。
昼も夜も共に過ごしたい。
真の気持ちに素直になれたら少しは軽くなっただろう。
退行催眠の事を信長は知らない。
隠している訳では無いが、多忙故に耳に入れる機会を得られていない。
蟇目矢の時の大袈裟な道具立ても必要無く、危険も少ないと考えていたからというのもある。
此処まで精神が磨り減るとは予想していなかった。
この際、激しい疲労が彼を眠りの淵に落としてくれたのは幸いだった。
───
何もかもが真っ白な世界にいた。
『六助? 』
そう尋ねたのは、退行催眠の時の風景にそっくりだったからだ。
真っ白な世界に溶け込み判然としないが、下へと続く階段が現れた。
殆ど感覚で階段を捉え、そろりと踏み出し足裏に固さを感じつつ用心深く降りていく。
糸を結び付けられ引っ張られているかのようだ。
何歩目かで突然階段が消え失せた。
周囲が闇に転じ真っ逆さまに落ちていく。
奈落は延々と続き、夢の中で意識を失った。
瞼を開けた時には未だ闇の中にあった。
恐怖が再び彼を襲う。
何者かの絡み付く視線を感じた。
独特の閉塞感と圧迫感に息苦しくなる。
手を伸ばし数歩歩けば壁に触れられるのだろう。
しかし部屋の狭さを知ってしまうのは恐ろしく、身動き出来ない。
突然部屋が紅に染まった。
漆黒の炭が火種で爆ぜたような紅の輝きが彼を照らした。
脈拍が早まる。
咄嗟に腕を身体に巻き付けるも、一糸も纏うていなかった。
毒々しい真っ赤な壁に自ずと視線が泳ぎ、恐怖で見開かれる。
『あっ……うああああーー』
壁は肉そのもので不気味に脈打っていた。
びっしりと埋め込まれた血の色の目玉。
千か二千か万か。
乱法師をじっと凝視していたのだ。
淫欲を滾らせ、穴が開く程に乱法師の裸身の上を滑滑と這い回る。
身体を捩り腕や手で隠そうとしても、視線を全て遮る事は出来ない。
ひたすら無言で視姦し続ける。
触れられるよりも残酷な仕打ち。
抗えず逃げられず啜り泣く可憐な獲物をじっくりと嬲る無数の視線が輝きを増した。
『見るのは儂じゃ──そなたではない。見て良いのは儂じゃ。そなたは見てはならぬ』
聞き慣れた陰鬱な声が漸く響いた。
『上様あーー上様あーー』
己の力でどうにもならぬ事態に陥った時、必ず頭に浮かぶ精悍な顔。
彼にとっての神の名を叫ぶ。
『くくく……呼んでも無駄じゃ。此処が何処か分かっておるのか?そなたの心、夢の中じゃ。そもそも此処には信長自身の意思は存在せぬ。そなたと繋がる儂とそなたしか存在出来ぬ、謂わば心の檻じゃ』
呪術や幻術に長けた果心との心理戦において勝ち目は無い。
同じ土俵に立った場合、果心の好む淀んだ世界観が彼を圧倒してしまうのだ。
『うう、上様あ……六……三郎……藤兵衛……射干……』
『射干か、あの女死ぬぞ』
惨い言葉が更に彼を打ち据えた。
『そんな……そんな訳が無い!信じぬ! 』
顔を上げ正面の目玉を睨み付けた。
『嘘では無い。血を吐いて死ぬ』
それに対し声は淡々と、目玉は一斉に嘲り返した。
『う……何時まで……何時まで儂を……いっそ殺せ!』
『これは仕置きじゃ。また悪巧みをしたであろう?おお、可愛いそなたを殺す訳が無い。早く肌に触れたい。味わいたい。何と美味そうな』
どうやら幻影や幻術を用いる時よりも真の精神世界では限りがあり、犯す事までは叶わぬようであった。
但し、それが何の救いになろうか。
果心の邪な欲望の檻に囚われ、一糸纏わぬ姿で数多の視線に晒されているのだから。
『儂をどうする? 』
『何もせぬ。気が済むまで愛しいそなたを眺めていよう』
『殺せ!殺せ!殺せええーー』
辛うじて正気を繋いでいた細い糸が切れた狂気の叫び。
『言った筈じゃ。殺さぬと。折角会いに行っても、つれない態度。罰として一晩中何もせずに、じっと眺めていようと思うてなあ。』
『うあああぁーー出せ!此処から出せえぇぇーーううゥぅ……』
錯乱状態で髪を掻き毟り床に頭を打ち付ける。
『……あ……あ……ひいぃいーー』
憐れな彼を尚も苛むのは、肉の床に敷き詰められた蠢く目玉であった。
思わず蹌踉《よろ》めき尻もちを付くと、肉の床が震え生々しい昂りを伝えてくる。
人肌の感触と生温さに総毛立つ。
僅かな救いを求め天を仰ぐが、そこにも彼を見つめ返す欲情に濡れた目玉が並んでいた。
『何処もかしこも美しい。そなたは儂のものじゃ』
『うああああーー』
──
胎児のように丸まり目を塞ぎ耳を塞ぐ
己の心の中で心を閉ざすという矛盾。
果心が君臨する世界の中に作り上げた小さな聖域に引き籠る。
時の無い歪な世界で、乱法師は心を閉ざす事で己を守り続けるしか無かった。
───
板戸の隙間から射し込む細い光が瞼に当たり、三郎は俯けた顔を上げた。
ほんの少しの間だが意識が虚ろであったらしい。
瞼の上を横切る光は正しく朝を告げていた。
乱法師の様子が少し気になった。
襖の外から声を掛けるが応えは無く、静かに開けて中に入る。
「乱法師様」
屏風の後ろから声を掛けた。
もう一度少し大きな声で呼び掛けてみたが返事は無く、言い知れぬ不安を覚えたので後ろに回り込む。
乱法師は確かに寝ていた。
だが眉根を寄せ膝を胸に付け、胎児を思わせる異様な体勢であった。
「乱法師様!! 」
三郎が身体に触れても瞼は固く閉じられた儘で、唇からは低い呻き声だけが洩れる。
結界が果心の存在を感じ取れば、六助は別の部屋にいても感知する。
昨夜はそうした異常は無かった筈なのに。
三郎は急いで信頼出来る者達を呼びに走った。
───
「若様! 」
六助と藤兵衛も駆け付けたが医師の曲直瀬道三は呼んでいない。
医師が必要という場面で無ければ道三は部外者なのである。
「乱法師様がお目覚めになられぬ。果心の仕業か? 」
三郎が血相変えて六助に詰め寄る。
六助は首を捻った。
信長襲撃後、まだ六助が都に存るうちに乱法師が果心に襲われた時の事。
乱法師の髪の毛を用い危機を察知し彼を救った。
此度、六助は邪気を感じ無かった。
魂を操り悪さをしたとしても妖気の痕跡がある筈だ。
なのに何も無い。
乱法師の様子を具に観察した。
そして気付いた。
退行催眠を行っている時と酷似している事に。
「若様!今、何処におられるのやか? 」
催眠状態にある時と同じく話し掛ける。
「此処から出せ……出たい……はやく……」
瞼の隙間から白目を覗かせ乱法師が答える。
「出られんのじゃか?誰が若様を閉じ込めちゅーんやか? 」
「奴が……儂を見張っておる。怖い怖い」
「やはり!奴の仕業か! 」
三郎が激昂し熱り立つ。
「大丈夫でごぜえます。必ず出られる。出口があるんじゃ。光のある方に進んどーせ」
「目を開けたく無い。何も見たくない。怖い……」
益々身を丸め、目を固く瞑る。
「大丈夫や。今は朝やき」
「朝? 」
その一言を切っ掛けに、外の世界が白光に包まれたのが薄い瞼を通して分かった。
乱法師の瞼が自ずと開かれる。
果心の造り出した悍ましい世界は消え失せ、何処までも続く白い清浄な空間が広がっていた。
「六──」
「儂の声聞いて、ゆっくり階段を昇っとーせ」
六助が指示した直後、目の前に階段が現れた。
よろよろと立ち上がり縺れた足で一段一段昇って行く。
「若様! 」
「乱法師様!良かった」
愛しい者達の顔を認識すると乱法師の瞳から涙が溢れ出した。
何を見たのか何があったのか。
優しく問うても口も聞けぬ有様に、一同の面持ちが暗く陰る。
ともかく出仕出来る状態では無い。
果心の正体に肉薄し、後もう一歩という矢先に、新たな手で攻撃してくる執念に腕を組み沈む。
「上様には申し上げました。ゆっくり休むようにとの御優しい御言葉。御安心下さい。我等が付いておりまする」
瞬きもせず、がたがた震える乱法師の手を三郎が固く握り締める。
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「昨日果心の記憶に深く入り込み過ぎたけえ、普通に夢見るんじゃなくて奴の頭ん中に入っちまったんでねえか」
「単なる悪夢ではなく……か」
「繋がり易うなっちゅーとこに、寝るというのは意識無うなる事やき、するっと奴の中に滑り込んじまったんやないがやろうか」
意識が曖昧になる時に共有が起こり易い。
「それに気付いて若様を苦しめたのか」
「若様が眠りに入り掛けて意識が薄うなった時、己の欲望の儘の悪夢を見せたんでねえか思うちょります」
「だが今まで此処までの事は──」
「今までにも魘されちゅー事はあった。只、そん時はげに無意識で、目覚めても何も覚えて無かった。若様の中に奴の事を探ろうという強い意思が芽生えたき、それに気付いて若様を痛め付けたんやろう」
乱法師の記憶から入る過去にだけでなく、果心の現在にも繋がり易くなってしまったらしい。
退行催眠の癖で自ら歩を進め果心の心中に踏み込もとした為妨害された。
「記憶を探る事は阻めんやろう。過去に起こった事やし入り口は若様の中にあるき。只、何か探ろうとしちゅー事だけはばれちまったなあ」
「若様がお休みになられる度に、奴と深く繋がってしまうということか? 」
睡眠中にまで果心の意識と繋がってしまえば心身に相当の負荷が掛かる。
味わった恐怖は目覚めた後も記憶している為、終いには安眠出来なくなってしまうだろう。
「記憶探るのは暫く止めた方がええかもしんねえ」
此方の策をまた封じられたと肩を落とし呟くように言った。
───
「ゆっくりお休み下さい」
「寝たくない……寝ればまた……閉じ込められる……」
乱法師は眠る事をひたすら拒んだ。
「皆が側に付いておりまする」
三郎が必死に慰める。
「射干は? 」
果心の告げた残酷な予言。
夢の記憶がある事が、この状況では極めて惨い。
乱法師の声は震えていた。
「状態は変わらずですが今のところ何とか」
三郎が言葉尻を濁したのは、素人目に見ても危険な状態であるのは明らかだったからだ。
「射干のところに参る」
「ですが──」
三郎は一瞬迷った。
苦しむ射干を見舞って気が晴れるとは思えぬが、恐怖の体験を一時でも忘れられるのは確かだ。
射干の顔色は青黒かった。
衾の下で胸が上下しているのに目を留めなければ、死体と見紛うばかりの変容振りだ。
打ちのめされ息を呑む主に三郎の心は切り裂かれた。
「済まぬ……わしのせいじゃ……」
乱法師の口から謝罪の言葉が洩れる。
三郎の思考は一瞬だけ別の事に逸れた。
『こら毒盛られたんちゃうんやろうか』という、曲直瀬道三の見立てについてである。
始めこそ食あたりという診断を下していたが、流石に名医の目は誤魔化せないようだ。
三郎が心底守りたい、守るべきは乱法師である。
毒を盛られたという事実は乱法師には絶対に伏せておかなければならない。
───
「いィやあああァぁーーおおーー」
凄まじい気迫と共に突き出された十文字槍は木製の的のど真ん中を見事に貫き粉砕した。
雄叫びに怯えた鳥達が枯れ葉を散らし空に羽ばたく。
久米田に砦を構える筒井順慶は手元に槍を戻すと再び構えた。
諸肌脱いだ若い肉体は細身だが鋼の如く締まり日頃の鍛練を物語る。
一体どれ程打ち込んでいるのか。
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僧形でありながら殺生の為の槍の鍛練に打ち込む。
一見矛盾しているが順慶の槍術が優れているのは意外な事では無い。
槍術で高名なのは興福寺から生まれた宝蔵院流。
興福寺の僧兵である胤栄《いんえい》がその創始者である。
筒井家は元衆徒が武士化して成った為、興福寺とは縁が深い。
興福寺に詣でる時には胤栄にいつも手合わせして貰っていた。
手拭いを差し出しながら家臣が何事かを囁き鍛練は中断された。
「失敗した、やもしれぬじゃと? 」
問いの形を取りながら答えそのものが気に食わない。
未だ息荒く顔が赤い儘の順慶は眦を吊り上げ間者を睨み付けた。
「は……」
「分かるように説明致せ! 」
日頃得度した身として抑え込んでいる血の気の多さが剥き出しになる。
「乱法師は生きておりまする」
「くそっっ!饅頭を食べなかったという事か」
「それが妙なのでございます」
「妙? 」
そこで漸く密談に相応しく声を落とした。
「侍女と思われる女が病に臥せっているらしく、曲直瀬道三殿の治療を受けているらしいのでございます」
「たかが侍女の治療をあの曲直瀬殿が? 」
侍女如きを道三が診ているから噂になっているのだろうと推察した。
「毒味役として饅頭を口にしたという訳か。だとしたら随分用心深いな。童と侮れぬ」
「実はそれだけでは無いのでございます。乱法師は近頃上様の御側で姿を見られるようになったのですが、また具合が悪いと寝込んでしまったようで──」
「饅頭は四つあった。考えてみれば全部平らげる毒味役などいる筈が無い。毒は直ぐには効かぬのであろう? 」
「はい!全く口にしなかったというのは考え難く、此度寝込んだのは毒のせいではないかと」
間者はにやりと笑う余裕を取り戻した。
「暫く何事も無かったというのは解せぬが、毒の効きにくい質なのやもしれぬ。ならば死ぬのも時間の問題じゃな」
深く考えれば辻褄が合わぬ事は多々あるのに、そうであって欲しいと願う余り順慶は成功を確信し大きく頷いた。
杞憂は去った。
ところが一つ種を取り去ると、他にも黒い種子が無いかと探してしまい、芽が出る前に掘り起こしたくなる性分である。
間者を退出させると腹心、嶋左近を呼び付けた。
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当時の柳生は、大和においては強者の旗色を窺う弱小の一族であった。
嫡男が戦傷で刀も持てぬ不遇の身となってからは、老齢である事も理由に今は柳生の荘に隠居同然の身である。
その柳生一族を順慶がほっておく訳が無い。
興福寺の宝蔵隠流槍術の使い手である胤栄と柳生石舟斎は親好が深い。
依って胤栄を通じて、此方の陣営に加わるようにと再三誘っているのだ。
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