森蘭丸外伝─果心居士

春野わか

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「大丈夫か。射干」

「ん……若……」

 目が落ち窪んでいるからか窶れて眼窩が異常に迫り出して見えるのか、ともかく酷い形相である。
 頬は痩せこけ、化粧っ気の無い肌には艶も無く、唇はひび割れ色褪せている。
 二十は老けて見える今の顔を鏡で見たら、射干は悲鳴を上げた事だろう。

 とはいえ、今はそんな元気さえ無かった。

 乱法師は水差しを取り、口に水を含ませてやり手拭いを絞り顔を拭いてやる。

「悪いよ……」

「儂が熱を出した時、看病してくれたのじゃから御互い様じゃ。残念ながら付きっきりという訳にはいかぬ故、せめてこれぐらいはさせてくれ」

「うう……饅頭……あたいが意地汚いばっかりに」

「儂の代わりに食べてくれたようなものじゃ。良く確かめもせず勧めてしまい済まなかった」

「止めて!それ以上。うう……何て良い子……」

 夜具に顔を埋めて感涙に咽ぶ。
 ともかく峠は越したようだと一同胸を撫で下ろした。

 乱法師はぽんぽんと子供をあやすように衾の膨らみを優しく叩く。

「儂は勤めに行かねばならぬ。六助や三郎や藤兵衛が側にいる。ゆっくり休め」

 そう慰め部屋を出た。
 此度の事では彼に何ら非がある訳では無いのだが、生真面目故に胸を痛めてしまう。

 呪いという負の要因を抱えているから周囲にまで連鎖してしまうのでは無いか。
 直ぐに己を責め、暗い考えに溺れるのは悪い癖だと信長に指摘された事を思い出す。

『物事には二つの側面があるが光の当たっている方を見るようにすべきじゃ。窮地に陥っても、良いように考えれば転機も訪れる』

 あらゆる苦境を乗り越えてきた信長の言葉には説得力があった。

 出仕して暫くすると信長からお呼びが掛かった。
 それこそ窮地にあるとは思えぬ明るい笑顔で出迎えられる。

「そなたに良いものを見せてやろう」

 相変わらず唐突で、目を白黒させている間に次の言葉が飛んできた。

「先日、面白いものを見せてやると言ったのを忘れたか! 」

 射干の騒動で言われた通りすっかり忘れていた。

「ふふ、これから参るぞ!付いて参れ! 」

 外出の供を許されるのは本当に久しぶりの事だ。

 山麓に建てられた仮御殿から向かうのは、どうやら天守の方角である。
 馬に乗り、ゆったりと坂を登って行く。
 馬に乗るのも久しぶりだ。

「疲れたら遠慮無く申せ」

 細やかな気遣いが心を温かくする。

 騎馬で進んで行くと、城の建築に携わる様々な身分の多くの者達が道を空け一斉に頭を下げる。
 ただ馬に揺られ風に吹かれているのが真に心地好い。

 馬場に着き馬から降りると後に従おうとする他の家臣達を手で制し、乱法師だけを伴い歩いて行く。

 彼を連れて行ったのは鷹舎であった。
 ともかく横に長い。  
 こんなに大きな鷹舎は他に類を見ないだろう。
 近付くと鷹の鳴き声が中から聞こえてきた。
 信長が引き戸を開ける。
 乱法師も付いて入った瞬間、目を見張った。

 先ず目に入ったのは大鷹である。
 頭が黒く、背中から尾羽に掛けてやや青みがかった美しい灰色をしている。

 喉や腹の部分の白色も艶やかで実に毛並みが良い。
 目の上が白く周りは黒色で眼光鋭いが、良く良く視線を合わせると人なつっこく首を傾げる。
 雌の方が雄よりも身体が大きく狩りに使われるのは雌である。

 奥羽の伊達家から遠路遥々献上された選りすぐりの鷹だけの事はあり、乱法師は感嘆の声を上げた。

「凄い!これ程の鷹は見た事がございませぬ」

「あちらには生鷹がおるぞ。餌をあげてみるか? 」

 乱法師の感激振りに満足気に首肯くと、信長は雛を飼育している棟に足を向けた。

 通り過ぎて行く別の棟には、大鷹以外に隼やハイタカ、熊鷹や小型の獲物を狩る雀鷹《つみ》がいた。
 生鷹とは調教中の鷹の事である。

 隅にある棟に鷹匠がいて、信長の姿に気付き頭を下げる。

「今年の狩りに使えそうなのはいるか? 」

 信長が鷹匠と会話をしている間、乱法師はぐるりと棟内を見回し春に産まれたばかりの幼鷹に目を止めた。
 真っ白な毛は触れずとも柔らかさが分かるくらいふわふわとして、タンポポの綿毛のように今にも飛んで行きそうである。
 目の周りの毛は黒く、境が分からぬ程黒々とした円らな瞳が愛らしく、自ずと口元が綻ぶ。

「餌を上げてみよ」

 声にはっと振り向けば信長も微笑んでいた。
 如何にも幼い鷹達の力は中々強く、餌を見せた途端に大きな口を開けてねだって来る。

「何と、愛らしい……」

「ふふ、愛らしいな」

 思わず呟くと、信長は彼の顔をじっと見つめ繰り返した。

「乱は鷹狩りは好きか? 」

「はい! 」
 
「そなたを鷹狩りに連れて行ってやろう。今少し待てば片が付く」

 信長の瞳が熱く濡れて見えた。

 松永の件は信長を追い詰める大きな反乱であるのに、面倒な雑用を抱えているだけといった口振りである。
 必勝の策が既に頭にあるのだろう。 

 乱法師も瞳を潤ませ信長に視線を合わせた。

「ほら、雛が待っているぞ」

 一瞬、二人の間で何かが高まり掛けたのをおどけた口調で逸らす。

 雛に目を移すと、箸で摘まんだ儘になっている餌にピイピイと鳴き声を上げせがんでいた。
 益々力強く食い付く雛達に笑ったり、たじろいだりする乱法師に「愛いのう」と信長は何度も呟きながら熱い視線を注いだ。

 その後、気に入った鷹を腕に止まらせて雄壮な姿を間近で堪能し、和やかな時を過ごした。

 鷹舎を出て陽射しが眩しいと目を細めたのも束の間、直ぐに影が彼を覆った。
 突然手首を引かれたせいで少しよろめき、次の瞬間、身体に温さを感じた。
 信長の腕の中にいる事に気付いた時には唇が重なっていた。

 彼の無防備を鷹のように拐うのはいつもの事で、思考さえ支配されてしまう。

 行為そのものを嫌がれば強いる事も無いのだろうが、結局心の奥深いところでは信長を受け入れてしまっていた。

 背後に固い感触を覚えた。

 行為を受け入れ易いように安定した大木に押し付けられる。
 腕に込められた力は彼を縛めながら、同時に守るように包み込んでいた。

 極めて強引なのに確かに嫌では無い。
 再び陽射しが閉じた瞼を照らした。

 ぼおっと脱力しきった半開きの瞳に、薄笑いを浮かべて視線を注ぐ信長の輪郭が浮かび頬を染め慌てて俯く。

 唇を吸われた後の無防備な彼の表情に信長の愛が加速する。
 荒々しい行為に戸惑いながら、素直に身を任せる無垢な顔立ちの何と可憐な事か。
 雛に餌をやる時の幼気な姿に無性に昂り、愛の行為に耽ってしまった。

 実は熟してきているが、慎重に先に進まなければならない。
 熟しきる少し前が食べ頃である。 
 かりりとした歯応えを味わい、舌で転がす内に甘みが増していく過程を楽しみたい。

 そんな風に思った。

「鷹狩りか──」

 邪な考えを含む呟きに、顔の火照りが引かぬ儘の乱法師は不思議そうに見詰めた。

「城の様子を見に参ろう」

 出仕して間もない頃、信長に付いて数回天主まで供をした事がある。

 黎明や黄昏時は、遠くから望むと茜色から紺碧に移ろう色彩に外郭が巨大な影となって聳え立ち、その威容を示す。
 日照時、近くで見る安土城はまた別の興奮を与えてくれた。

 組まれた足場の上で藁土に瓦を並べる者。
 骨組みにも藁土を塗り、その上に重ねられた漆喰で覆われつつあるが、未だ剥き出しの箇所もある。
 大量の松の木が手斧や鑿《のみ》で整えられ、大鋸《おが》で板が切り出される。

 大勢の人夫達が秋というのに汗みずくで働いていた。
 どのような工程を経て、巨城が完成していくのかと好奇心が掻き立てられる。

 ともかく、あらゆる物が目新しい。

 曲輪は全て野面積で隙間を埋める小石以外は大石が使われている。
 信長の説明によると、人目に付き易い箇所には特別巨大な石を用いているとの事だった。

 戦う為の城では無く魅せる城なのであろう。
 完成時の荘厳華麗さはいかばかりかと溜息が漏れた。

「このような大岩は何処から運んで参ったのでございますか? 」

 出仕したばかりの頃は緊張していて聞けなかった質問を投げ掛けてみた。

「近江中から掻き集めておる。この先も永く残るであろう。儂やそなたが骨となり土に返った先の先までな。もっと凄い石を見せてやろう」

 得意気に言うと天主台の西側、二の丸の方へと誘った。

「大丈夫か?少し休むか」

 ふと後ろを振り返り声を掛ける。
 こうした細やかな気遣いは乱法師に対してだけでは無い。
 近侍するようになってから優しい顔が様々な者に向けられるのを目にしてきた。

「いえ、天主に着いてから殊の外力が湧いて参りました。寧ろ此処で休んだら早う見たいと息が上がってしまいまする」

 乱法師の返答に軽く笑うと黙って歩き出す。

 二の丸側に行くのは初めてだ。
 山頂故に空気が澄んでいるせいか、はたまた彼を案じる信長の優しさに励まされてか足取りは軽い。

 二の丸には信長の居住空間となる御殿を建築中と聞いている。
 主に妻妾が暮らす事になる筈だ。

 ところが視線を先に遣ると、思っていた程作業は進んでいないように見えた。
 定礎が規則正しく埋まり、その上に柱が立てられているので、広さの想像は出来るが完成に向けて急いでいるとは思えなかった。

「彼処に何があると思う? 」

 信長が指差したのは定礎をそれぞれ線で結んだ場合の凡そ中央であった。
 少し離れた場所からでも、中央に窪みがあるのが窺える。
 更に近付くと、それは窪みどころか深く大きな穴であった。

 一瞬、岩になったように動けなくなった。
 しかしそれは心理的なものであったらしく、信長に手を引かれ側まで連れて行かれる。

「あ!これは──」

 とてつもなく深い穴。
 そこには信じられない程大きな岩が埋められていた。

「どうじゃ。見事であろう」

 乱法師の叫びを感嘆と捉え満足気に振り返る。

 昨年の天正四年から始められた築城工事において、特に困難を極めたのは大岩を頂上に引き上げる作業だろう。

 信長公記にも記される、通称『蛇石』。 
 大きさは凡そ五間(約10m)、重さは三万貫(約112トン)あったと云う。

 当時の技術で山頂まで引き上げるのは困難を極めた。
 人海戦術しかない。
 一万人程で三日三晩掛けて行われた。
 その際、重さで綱が切れ、滑った石で150人が圧死したという記録が残っている。

 掘られた穴の縁から巨石の上まで木の橋が渡されていた。

 御殿の作業が進められていないのは、この石と関係があるのだろうか。
 何の為に此処に置かれているのか、何故『蛇石』と呼ばれるのか。
 様々な疑問が沸き起こったが、何故か言葉を発する事が出来なかった。

 無言の乱法師の手を引き橋を渡る。
 石の上で信長は心地好さげに大きく伸びをした。

「この上に立ったのは儂とそなただけじゃ。大層な謂われのある石故、礎として埋めようと考えているのじゃが、完全に土で覆ってしまうのも惜しいとは思わぬか? 」

 話しながら背後の乱法師の方を振り返った。

「乱!!どうした? 」

 驚いて声を上げたのは、乱法師が石の上に半ば倒れ込んでしまっていたからだ。

「ん……ああ……」

 身体を電流が高速で走り抜け震えが止まらず舌が縺れる。

 顔色は普通だが、ともかく只事では無いと二の丸付近で作業中の者に直ちに知らせ、乱法師を担いで石から下ろした。

 その場で竹筒の水を口に含ませてやる。
 瞳は正常だが脱力し茫然自失の体であった。

「話せるか? 」

「う……えさま……」

 辿々しいが、まともな言葉が発せられ、大丈夫と頷いてみせたので胸を撫で下ろした。
 暫くすると回復したので馬で戻る途中、蛇石の由来を信長が話った。

「あの石は琵琶湖の東にある荒神山《こうじんやま》から運ばせたのじゃ。天竺から大日如来が蛇に乗って参られ、荒神山の清らかなるをお気に召して休んでいた時、土地の民が河の氾濫で稲が流れてしまうのに苦しんでいる事を知り、祈り、その後豊かに暮らせるようになったそうじゃ」

「では、荒神山には大日如来様が今もいらっしゃるという事でございますか? 」

「大日如来は結局旅を続けると去ってしまったそうじゃが、供の蛇が代わりに石になり、神となって荒神山を守っているという言い伝えなのじゃ。あの石は蛇が姿を変えたものと言う訳じゃ」

「成る程、確かに蛇を思わせる紋様がございました」

 信心の無い信長が何処までその伝説を信じているかは疑問だが、周囲に対して分かり易く権威を示す道具として安土山に据える事にしたのだろう。

「それにしても、いきなり倒れた故驚いた」

「申し訳ございませぬ。御心配をお掛け致しました。今は寧ろ晴々と身体が軽いぐらいでございます」

 嘘では無く、真に身体に溜まっていた不浄が一気に抜け出たような心持ちである。
 震えて言葉が出なかったのは、大きな何かを産み落とした後のような脱力に因るものだ。

 御殿に戻ってからも暫くその爽快感は続いた。

───

 松永久秀は天守閣最上階に取り付けられている廻縁の高欄に手を付き、茜さす景色を眺めていた。
 見え過ぎて何も見えていないのか。
 全てを見通そうとするが故に視点が定まらないのか。
 今、何を見ようと此処にいるのか、己自身にも分かっていなかった。

 天気の良い昼日中、廻縁からは何れの方角にも絶景を望める。
 東方には大和三山が連なり、西方は小豆島まで見通せる。

 だが今は陽が山間に沈む刻であり、瞳に映るもの全てを哀愁の色で染め上げようとしていた。
 塒に帰る烏の鳴き声さえも何処か物悲しく聞こえてくる。

 深い皺が刻まれた顔に迷いが揺らいでいた。
 ぐっと高欄を強く握り締める。

 どんな正当な理由があろうとも勝算があろうとも、立派な城の天守から先の先まで見通せようとも籠城中の身である。

「殿、片岡城も此処からは良く見えまする。彼方には黒塚砦も!」

 主の弱気を感じ取ってか、左に立つ弓削三郎が話し掛けた。


 
 







 





 




 

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