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第16章 千尋
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八月も末となり、乱法師は小姓勤めを再開していた。
花水木《はなみずき》の葉はまだ緑色だが、紅葉を先取る赤い実が色付き、ムクドリやシジュウカラが啄んでいる。
幼い頃に少し齧ってみたら渋くて苦くて吐き出した事を思い出す。
鳥達にとっては美味らしい。
高熱から回復してからの数日、穏やかな日々が続いていた。
但しそれは当人にとってというだけであり、周りはそうでは無かった。
悪夢に魘され呻くので、その度に皆が気を張り詰めなければならなかったからだ。
「若、部屋にいるかい? 」
以前は妙な所から姿を現していた射干も、信長の御殿では流石に礼儀正しく声を掛けてから襖を開ける。
先程まで六助に依る催眠術をまた試していたところで部屋には二人しかいなかった。
「射干さん……」
彼女の姿を見ただけで六助の顔はみるみる赤くなりそわそわし始める。
かなり分かり易い反応だが、乱法師は鈍い為今一分かっていない。
「邸に行ってみたら何とかってとこから若に届けて欲しいって品を預かったから持って来てやったよ」
「何とか?まあ良い」
射干の説明は殆ど説明になっていなかった。
呆れつつ品を受け取る。
品物は薄紅色の布で包まれていて、三寸(10cm弱)四方程の木箱のようであった。
「確か都の、森家に縁がある……何とかってえ」
結局『何とか』で終わってしまう。
乱法師が布の結び目を解くと中にはやはり木箱があった。
「軽いな」
蓋を開けてみる。
「こりゃあ!旨そうだ! 」
射干の目が綺羅綺羅と輝く。
中には如何にも高級そうな薄皮饅頭が四つ入っていた。
「誰からであろう」
「お見舞いの品といったところでごぜえましょうか」
乱法師は首を傾げた。
床に臥せってばかりなのは衆知の事実であるから、都にまで噂が届いて森家が贔屓にしている店が気を利かせて届けたのだろうか。
有難いような迷惑なような。
いくら信長が口止めしていても、曲直瀬道三は都に居を構える医者である。
自然と伝わってしまったのかも知れないが、病がちと公になり過ぎるのは芳しくない。
兄の耳に入ってしまったら。
家族と交わす文には、諸々の出来事は一切記さず家臣にも口止めしている。
故郷の母や兄の認識では、恙無く小姓勤めをしている事になっているのだ。
食べないのかい、と訊ねる射干の瞳は明らかにねだっていた。
乱法師とて甘い物は好物である。
しかし今は食べる気になれなかった。
「射干と六で食べるが良い。儂は今は良い」
「え!いいのかい? 」
射干は饅頭を鷲掴んだ。
「ぐ…んまうまあい……」
早い──
六助は一口で饅頭を頬張った射干の豪快さに感心した。
「六助も遠慮せず食べよ」
「いや、儂はええ」
六助が遠慮したのは乱法師に対してでは無かった。
「射干さん、儂の分も食べとーせ」
「本当かい?本当にいいのかい? 」
「勿論や!儂みてえなのに食われるより、射干さんみてえなび……美人の口に入る方が饅頭も喜ぶに違いねえ」
潤んだ瞳で射干に見詰められ、六助が顔を真っ赤にして頭を掻く。
饅頭にそんな感情があるのだろうか、と乱法師が考えている内に、二つ目が射干の口の中に消えていた。
「うまああーー」
ゴクリゴクリと喉を鳴らす彼女に六助は生唾を飲み込んだ。
食べ終わった後の射干の恍惚とした至福の表情こそが、六助にとっての甘味だった。
「ああ、食べ終わっちまった」
「残りも食すが良い」
その時、射干には乱法師が仏に思えた。
「こんな旨いもん全部食べちまったら悪いよ。いくら何でも一つは残しておくよ」
四個しかないうちの三個は明らかに食べ過ぎである。
これでも彼女にしては遠慮したのだ。
三個目の饅頭だけはゆっくりと味わうと満足気に息を吐く。
「何て心が広いんだい。若はやっぱり育ちが良いんだねえ」
「遠慮せず、もう一つも食べて良いぞ。そちには色々世話になっておる故」
「若……でも駄目駄目、全部食べちまったら流石にやり過ぎだよ。気が向いた時にお食べよ」
射干は甘い誘惑を退けた。
そして結果として良かったと思う事になる。
───
「いててえ、痛えーーててーー」
一刻も経過せぬうちに射干は酷い腹痛に襲われた。
「食べ過ぎるからじゃろう。早う厠に行って参れ! 」
だが周囲は食べ過ぎと決め付け、深刻に捉えず始めは散々な言い様だった。
「うう……ちが、うう」
顔面蒼白、額に汗滲ませ身体を胎児のように丸めて呻き始めると、漸く只事では無いとおろおろし始めた。
「直ぐに医者を! 」
「曲直瀬道三殿で宜しいですか? 」
三郎が一応確認する。
「手近な医者はそれしかおらぬであろう。早く呼んで参れ! 」
慌てているせいか、畏れ多くも帝の診察まで行った名医をそれ呼ばわりする。
手近なところにいた歴史に残る名医はすっ飛んで来た。
また乱法師か、と勘違いしたからだ。
「道三殿!凄い腹痛で苦しんでいるのです」
道三は乱法師の訴えに戸惑った。
「この女性が──」
『今度は侍女か。常に誰か倒れてるなあ』
輝かしい実績で尊崇を集めてきた道三は、安土に来てからの軽々しい扱われように鬱憤を募らせていた。
随分お手軽に呼びつけてくれるやないかと。
だが、それでも信長が恐ろしかった。
「分かった!分かった!あっちの屏風の後ろに早う運んで下され」
本心は完全には隠せず、うんざりした口調で指示を出す。
「げえげえうげえーー」
凄まじい嘔吐の声に藤兵衛が眉を顰める。
六助の顔は蒼白で、両手を合わせ神仏に祈る体でがたがたと震えている。
「大丈夫だろうか」
「悪いもんでも食べたんやろう。腹は張ってへんさかい出るもんは出てるみたいやし。風邪でも無さそうやし」
乱法師の呟きに屏風の後ろの道三が反応する。
「饅頭を食べておりました」
「古い饅頭ですか? 」
「いえ、今日頂いたばかりでございます」
「ふーむ。まあ、えずいてるちゅう事は悪いもん出してる訳やさかい、出しきれば良うなるやろう。薬飲ませて水飲ませて、ともかく出しきるしかあらへんやろうな」
三郎の胸中に一瞬嫌な考えが過った。
『饅頭の中に何か仕込まれていた? 』
しかし一体誰が乱法師を狙うというのか。
人質として拐うならば分かるが毒殺など全く意味が無い。
ともかく余りにも乱法師周辺で騒動が起こると噂が立つのはまずい。
証拠も狙いも不明の今、徒に騒ぐのは愚かだ。
それにしても射干には悪いが、饅頭を食べたのが乱法師で無くて良かったと胸を撫で下ろした。
───
全く一晩酷い状況だった。
上から吐き下から垂れ流し、翌朝にはどうにか症状は治まった。
信長にも伝えてある。
三郎と藤兵衛の間で、毒が仕込まれていたという可能性について密かに論じられたが、結局目的が不明という点で行き詰まってしまった。
「やはり饅頭であろうか。勧めてしまった儂が悪かったのじゃ。最後の一つをもし食べていたら──」
「何と申されました? 」
三郎が強く反応した。
「儂が勧めたのじゃ。若に悪いからと一つだけ残した」
「一つだけ残っているのですね? 」
「うむ、棚に置いてある」
「では直ぐに処分致しましょう」
一つ残っていた饅頭を割ってみる。
乱法師には敢えて知らせない。
主の心痛の種をこれ以上増やす訳にはいかない。
「鳥にでも食べさせてみるか」
三郎と藤兵衛は御殿の外に出て、花水木に集まる小鳥に与えてみる事にした。
地面に降りたシジュウカラが啄む。
小さな鳥に異変が起きるのはあっという間だった。
痙攣し直ぐに動かなくなる。
嘴から胃の内容物を吐き出していた。
「これは、やはり──」
「古い物を食べたぐらいで、これ程簡単に死に至るとは考え難い」
「だとしても上様では無く若様を?目的が分からなければ敵は絞れぬぞ」
「ともかく怪しい物はこれから徹底的に調べるしか無いでしょう。森家御用達の菓子屋とやらにも確かめてみます」
「一難去らぬうちに大難ばかりが降り掛かるのう」
藤兵衛は救いを求めて天を仰いだ。
「物事が好転する時はきっと参ります」
長雨は明け、柔らかな秋の陽射しが死を悼むように小鳥の骸に降り注いでいた。
───
篝火が風に吹かれ、勢いを増すと松の木がぱちぱちと爆ぜ火の粉が舞い散る。
松明や篝火という照明は、明るさに馴れた現代人から見ればさぞかし心許無く思えるだろう。
辺りを明るく照らすというよりも、より一層明暗を分け、却って闇が際立つ。
風で揺らぐ儚い照明が造り出す幽玄さこそ似つかわしい場面がある。
笛、鼓等の和楽器が奏でられ、篝火に浮かび上がるのは能面に能装束で舞う男の姿。
「わが子にあうむの袖なれや~親子鸚鵡の袖なれや~百万が舞を見給へ~」
世阿弥作、百万。
生き別れた我が子を思う余り狂い、諸国を巡り舞い祈る百万。最後には無事に再会を果たすという母子の物語である。
年増女の悲哀を表す面、曲見《しゃくみ》。
口元には深い皺が刻まれている。
橙色の揺れる炎が能面に陰影を作り、俯けば悲し気に仰向けば嬉しげに見え、命無き物に命を吹き込む。
そして狂女の情念そのもののように時折激しく燃え爆ぜる。
簡素な舞台を囲むのは髭面の厳めしい侍達。
和楽器の音色が夜気に澄み、荘厳な雰囲気が高まっていく。
舞終わると百万役のシテの男は舞台の中央に座り面を外した。
久米田に陣を構える大和守護筒井順慶である。
娯楽の中でも順慶は特に能を愛した。
能の演目で好んだのは百万である。
舞いは神への奉納、勝利の祈願。
順慶が舞終わった後は、家臣達が続き得意の芸を披露し酒を酌み交わして盛り上がる。
時に剽げ、時に華麗に、時に勇壮に。
笛を吹き、鼓太鼓を打ち鳴らし、笙を奏で扇を翻して踊り狂う。
久米田の砦で繰り広げられる狂乱は、殺伐とした陣中における癒しであり士気を高める意味もあった。
───
男達の騒ぐ声は暫く続いたが、闇が深まるにつれ徐々に静けさが戻っていく。
室内に戻った順慶の前に一人の男が座していた。
宴がお開きとなった後も、彼方此方から先程の熱気が燻り笑い声が微かに聞こえてくる。
それと得体の知れぬ鳥獣の声も──
「上手くいったか」
「恐らく。曲直瀬道三殿が呼ばれ、慌てて部屋に入って行ったので間違い無いかと」
「だが死んだという話しは何処からも出ておらぬのであろう? 」
「直ぐに効果が出ては疑われてしまいます故、一旦治まり数日後に死に至るような毒茸を仕込んでございます」
「恐ろしいな。茸か」
「全てに毒を仕込んでおり、渡した饅頭は四つのみ。必ずや本人が口にしているに違いありませぬ」
「確かにのう。主を差し置き数少ない饅頭を食べる意地汚い家臣がおれば別じゃが」
半ば成功を確信し、順慶は笑った。
「上様が何か策を練られている御様子はあるか」
「平蜘蛛を差し出せば許すと説得しておられるそうにございます」
「くそ!並々ならぬ御執着じゃ。それが御本心であるなら、平蜘蛛を差し出せば許しておしまいになるという事では無いか! 」
順慶の声が苛立ちでつい大きくなる。
「平蜘蛛を破壊させよ!月読に申せ!奴の命運を完全に断つにはそれしか無い! 」
僧侶の姿で仁王立ちし、満面朱をそそぎ過激な命令を下した。
それだけでなく何度も地団駄を踏み怒りを床に叩き付ける。
「はっ……ですが月読は完全に弾正(松永)の懐に入り込んでおりまする。危険を犯せば長年仕掛けてきた策が失敗する恐れがあるのではございませぬか? 」
「──」
そこで順慶は絶句した。
日頃神妙な面持ちで経を唱え、目指すは悟りの境地。
少し冷静になると、己は悟りとは程遠い境地を未ださ迷っているのだと思い知らされる。
心の奥に押し込めた松永への恨みは、薄れるどころか年輪の如く生きた分だけ増していく。
その恨みを断つにはどちらかが此の世から失せるしかない。
「月読ならば……どのような命令も必ず……」
そうだ──
(私は今日より名を変え、敵の家臣となりまする。ですが魂は殿の物。必ずや殿の恨み晴らしてごらんにいれます)
あの時、ひたむきな瞳で誓った。
もう三年になる。
もし平蜘蛛を破壊せよと命じれば、己の危険を省みず、その通りにするのだろう。
「ああ……愛しい月読」
不覚にも順慶は頬を濡らした。
最愛の者故に手放した。
この策は、確実に信頼出来る者にしか遂行し得ないものだったからだ。
「短気に任せ月読の努力を無にするところであった。弾正は上杉と本願寺を当てにしているのであろう。その当てが外れぬ限り、奴は平蜘蛛を手放すまい」
「はっ! 」
「月読は元気にしているであろうか? 」
「恐らく」
「我ながら愚問であったな」
自嘲の笑みを浮かべ障子を横に引く。
「これはしたり、今宵は朔であったか」
せめて愛しい者の優姿を想起させる月を眺め追憶に耽ろうと考えたが、其処に彼の求める月は無かった。
花水木《はなみずき》の葉はまだ緑色だが、紅葉を先取る赤い実が色付き、ムクドリやシジュウカラが啄んでいる。
幼い頃に少し齧ってみたら渋くて苦くて吐き出した事を思い出す。
鳥達にとっては美味らしい。
高熱から回復してからの数日、穏やかな日々が続いていた。
但しそれは当人にとってというだけであり、周りはそうでは無かった。
悪夢に魘され呻くので、その度に皆が気を張り詰めなければならなかったからだ。
「若、部屋にいるかい? 」
以前は妙な所から姿を現していた射干も、信長の御殿では流石に礼儀正しく声を掛けてから襖を開ける。
先程まで六助に依る催眠術をまた試していたところで部屋には二人しかいなかった。
「射干さん……」
彼女の姿を見ただけで六助の顔はみるみる赤くなりそわそわし始める。
かなり分かり易い反応だが、乱法師は鈍い為今一分かっていない。
「邸に行ってみたら何とかってとこから若に届けて欲しいって品を預かったから持って来てやったよ」
「何とか?まあ良い」
射干の説明は殆ど説明になっていなかった。
呆れつつ品を受け取る。
品物は薄紅色の布で包まれていて、三寸(10cm弱)四方程の木箱のようであった。
「確か都の、森家に縁がある……何とかってえ」
結局『何とか』で終わってしまう。
乱法師が布の結び目を解くと中にはやはり木箱があった。
「軽いな」
蓋を開けてみる。
「こりゃあ!旨そうだ! 」
射干の目が綺羅綺羅と輝く。
中には如何にも高級そうな薄皮饅頭が四つ入っていた。
「誰からであろう」
「お見舞いの品といったところでごぜえましょうか」
乱法師は首を傾げた。
床に臥せってばかりなのは衆知の事実であるから、都にまで噂が届いて森家が贔屓にしている店が気を利かせて届けたのだろうか。
有難いような迷惑なような。
いくら信長が口止めしていても、曲直瀬道三は都に居を構える医者である。
自然と伝わってしまったのかも知れないが、病がちと公になり過ぎるのは芳しくない。
兄の耳に入ってしまったら。
家族と交わす文には、諸々の出来事は一切記さず家臣にも口止めしている。
故郷の母や兄の認識では、恙無く小姓勤めをしている事になっているのだ。
食べないのかい、と訊ねる射干の瞳は明らかにねだっていた。
乱法師とて甘い物は好物である。
しかし今は食べる気になれなかった。
「射干と六で食べるが良い。儂は今は良い」
「え!いいのかい? 」
射干は饅頭を鷲掴んだ。
「ぐ…んまうまあい……」
早い──
六助は一口で饅頭を頬張った射干の豪快さに感心した。
「六助も遠慮せず食べよ」
「いや、儂はええ」
六助が遠慮したのは乱法師に対してでは無かった。
「射干さん、儂の分も食べとーせ」
「本当かい?本当にいいのかい? 」
「勿論や!儂みてえなのに食われるより、射干さんみてえなび……美人の口に入る方が饅頭も喜ぶに違いねえ」
潤んだ瞳で射干に見詰められ、六助が顔を真っ赤にして頭を掻く。
饅頭にそんな感情があるのだろうか、と乱法師が考えている内に、二つ目が射干の口の中に消えていた。
「うまああーー」
ゴクリゴクリと喉を鳴らす彼女に六助は生唾を飲み込んだ。
食べ終わった後の射干の恍惚とした至福の表情こそが、六助にとっての甘味だった。
「ああ、食べ終わっちまった」
「残りも食すが良い」
その時、射干には乱法師が仏に思えた。
「こんな旨いもん全部食べちまったら悪いよ。いくら何でも一つは残しておくよ」
四個しかないうちの三個は明らかに食べ過ぎである。
これでも彼女にしては遠慮したのだ。
三個目の饅頭だけはゆっくりと味わうと満足気に息を吐く。
「何て心が広いんだい。若はやっぱり育ちが良いんだねえ」
「遠慮せず、もう一つも食べて良いぞ。そちには色々世話になっておる故」
「若……でも駄目駄目、全部食べちまったら流石にやり過ぎだよ。気が向いた時にお食べよ」
射干は甘い誘惑を退けた。
そして結果として良かったと思う事になる。
───
「いててえ、痛えーーててーー」
一刻も経過せぬうちに射干は酷い腹痛に襲われた。
「食べ過ぎるからじゃろう。早う厠に行って参れ! 」
だが周囲は食べ過ぎと決め付け、深刻に捉えず始めは散々な言い様だった。
「うう……ちが、うう」
顔面蒼白、額に汗滲ませ身体を胎児のように丸めて呻き始めると、漸く只事では無いとおろおろし始めた。
「直ぐに医者を! 」
「曲直瀬道三殿で宜しいですか? 」
三郎が一応確認する。
「手近な医者はそれしかおらぬであろう。早く呼んで参れ! 」
慌てているせいか、畏れ多くも帝の診察まで行った名医をそれ呼ばわりする。
手近なところにいた歴史に残る名医はすっ飛んで来た。
また乱法師か、と勘違いしたからだ。
「道三殿!凄い腹痛で苦しんでいるのです」
道三は乱法師の訴えに戸惑った。
「この女性が──」
『今度は侍女か。常に誰か倒れてるなあ』
輝かしい実績で尊崇を集めてきた道三は、安土に来てからの軽々しい扱われように鬱憤を募らせていた。
随分お手軽に呼びつけてくれるやないかと。
だが、それでも信長が恐ろしかった。
「分かった!分かった!あっちの屏風の後ろに早う運んで下され」
本心は完全には隠せず、うんざりした口調で指示を出す。
「げえげえうげえーー」
凄まじい嘔吐の声に藤兵衛が眉を顰める。
六助の顔は蒼白で、両手を合わせ神仏に祈る体でがたがたと震えている。
「大丈夫だろうか」
「悪いもんでも食べたんやろう。腹は張ってへんさかい出るもんは出てるみたいやし。風邪でも無さそうやし」
乱法師の呟きに屏風の後ろの道三が反応する。
「饅頭を食べておりました」
「古い饅頭ですか? 」
「いえ、今日頂いたばかりでございます」
「ふーむ。まあ、えずいてるちゅう事は悪いもん出してる訳やさかい、出しきれば良うなるやろう。薬飲ませて水飲ませて、ともかく出しきるしかあらへんやろうな」
三郎の胸中に一瞬嫌な考えが過った。
『饅頭の中に何か仕込まれていた? 』
しかし一体誰が乱法師を狙うというのか。
人質として拐うならば分かるが毒殺など全く意味が無い。
ともかく余りにも乱法師周辺で騒動が起こると噂が立つのはまずい。
証拠も狙いも不明の今、徒に騒ぐのは愚かだ。
それにしても射干には悪いが、饅頭を食べたのが乱法師で無くて良かったと胸を撫で下ろした。
───
全く一晩酷い状況だった。
上から吐き下から垂れ流し、翌朝にはどうにか症状は治まった。
信長にも伝えてある。
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「やはり饅頭であろうか。勧めてしまった儂が悪かったのじゃ。最後の一つをもし食べていたら──」
「何と申されました? 」
三郎が強く反応した。
「儂が勧めたのじゃ。若に悪いからと一つだけ残した」
「一つだけ残っているのですね? 」
「うむ、棚に置いてある」
「では直ぐに処分致しましょう」
一つ残っていた饅頭を割ってみる。
乱法師には敢えて知らせない。
主の心痛の種をこれ以上増やす訳にはいかない。
「鳥にでも食べさせてみるか」
三郎と藤兵衛は御殿の外に出て、花水木に集まる小鳥に与えてみる事にした。
地面に降りたシジュウカラが啄む。
小さな鳥に異変が起きるのはあっという間だった。
痙攣し直ぐに動かなくなる。
嘴から胃の内容物を吐き出していた。
「これは、やはり──」
「古い物を食べたぐらいで、これ程簡単に死に至るとは考え難い」
「だとしても上様では無く若様を?目的が分からなければ敵は絞れぬぞ」
「ともかく怪しい物はこれから徹底的に調べるしか無いでしょう。森家御用達の菓子屋とやらにも確かめてみます」
「一難去らぬうちに大難ばかりが降り掛かるのう」
藤兵衛は救いを求めて天を仰いだ。
「物事が好転する時はきっと参ります」
長雨は明け、柔らかな秋の陽射しが死を悼むように小鳥の骸に降り注いでいた。
───
篝火が風に吹かれ、勢いを増すと松の木がぱちぱちと爆ぜ火の粉が舞い散る。
松明や篝火という照明は、明るさに馴れた現代人から見ればさぞかし心許無く思えるだろう。
辺りを明るく照らすというよりも、より一層明暗を分け、却って闇が際立つ。
風で揺らぐ儚い照明が造り出す幽玄さこそ似つかわしい場面がある。
笛、鼓等の和楽器が奏でられ、篝火に浮かび上がるのは能面に能装束で舞う男の姿。
「わが子にあうむの袖なれや~親子鸚鵡の袖なれや~百万が舞を見給へ~」
世阿弥作、百万。
生き別れた我が子を思う余り狂い、諸国を巡り舞い祈る百万。最後には無事に再会を果たすという母子の物語である。
年増女の悲哀を表す面、曲見《しゃくみ》。
口元には深い皺が刻まれている。
橙色の揺れる炎が能面に陰影を作り、俯けば悲し気に仰向けば嬉しげに見え、命無き物に命を吹き込む。
そして狂女の情念そのもののように時折激しく燃え爆ぜる。
簡素な舞台を囲むのは髭面の厳めしい侍達。
和楽器の音色が夜気に澄み、荘厳な雰囲気が高まっていく。
舞終わると百万役のシテの男は舞台の中央に座り面を外した。
久米田に陣を構える大和守護筒井順慶である。
娯楽の中でも順慶は特に能を愛した。
能の演目で好んだのは百万である。
舞いは神への奉納、勝利の祈願。
順慶が舞終わった後は、家臣達が続き得意の芸を披露し酒を酌み交わして盛り上がる。
時に剽げ、時に華麗に、時に勇壮に。
笛を吹き、鼓太鼓を打ち鳴らし、笙を奏で扇を翻して踊り狂う。
久米田の砦で繰り広げられる狂乱は、殺伐とした陣中における癒しであり士気を高める意味もあった。
───
男達の騒ぐ声は暫く続いたが、闇が深まるにつれ徐々に静けさが戻っていく。
室内に戻った順慶の前に一人の男が座していた。
宴がお開きとなった後も、彼方此方から先程の熱気が燻り笑い声が微かに聞こえてくる。
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「上手くいったか」
「恐らく。曲直瀬道三殿が呼ばれ、慌てて部屋に入って行ったので間違い無いかと」
「だが死んだという話しは何処からも出ておらぬのであろう? 」
「直ぐに効果が出ては疑われてしまいます故、一旦治まり数日後に死に至るような毒茸を仕込んでございます」
「恐ろしいな。茸か」
「全てに毒を仕込んでおり、渡した饅頭は四つのみ。必ずや本人が口にしているに違いありませぬ」
「確かにのう。主を差し置き数少ない饅頭を食べる意地汚い家臣がおれば別じゃが」
半ば成功を確信し、順慶は笑った。
「上様が何か策を練られている御様子はあるか」
「平蜘蛛を差し出せば許すと説得しておられるそうにございます」
「くそ!並々ならぬ御執着じゃ。それが御本心であるなら、平蜘蛛を差し出せば許しておしまいになるという事では無いか! 」
順慶の声が苛立ちでつい大きくなる。
「平蜘蛛を破壊させよ!月読に申せ!奴の命運を完全に断つにはそれしか無い! 」
僧侶の姿で仁王立ちし、満面朱をそそぎ過激な命令を下した。
それだけでなく何度も地団駄を踏み怒りを床に叩き付ける。
「はっ……ですが月読は完全に弾正(松永)の懐に入り込んでおりまする。危険を犯せば長年仕掛けてきた策が失敗する恐れがあるのではございませぬか? 」
「──」
そこで順慶は絶句した。
日頃神妙な面持ちで経を唱え、目指すは悟りの境地。
少し冷静になると、己は悟りとは程遠い境地を未ださ迷っているのだと思い知らされる。
心の奥に押し込めた松永への恨みは、薄れるどころか年輪の如く生きた分だけ増していく。
その恨みを断つにはどちらかが此の世から失せるしかない。
「月読ならば……どのような命令も必ず……」
そうだ──
(私は今日より名を変え、敵の家臣となりまする。ですが魂は殿の物。必ずや殿の恨み晴らしてごらんにいれます)
あの時、ひたむきな瞳で誓った。
もう三年になる。
もし平蜘蛛を破壊せよと命じれば、己の危険を省みず、その通りにするのだろう。
「ああ……愛しい月読」
不覚にも順慶は頬を濡らした。
最愛の者故に手放した。
この策は、確実に信頼出来る者にしか遂行し得ないものだったからだ。
「短気に任せ月読の努力を無にするところであった。弾正は上杉と本願寺を当てにしているのであろう。その当てが外れぬ限り、奴は平蜘蛛を手放すまい」
「はっ! 」
「月読は元気にしているであろうか? 」
「恐らく」
「我ながら愚問であったな」
自嘲の笑みを浮かべ障子を横に引く。
「これはしたり、今宵は朔であったか」
せめて愛しい者の優姿を想起させる月を眺め追憶に耽ろうと考えたが、其処に彼の求める月は無かった。
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一、日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
二、日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
三、ロシアは樺太を永久に日本へ譲渡する。
四、ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
五、ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
六、ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
そして、1907年7月30日のことである。
忠義の方法
春想亭 桜木春緒
歴史・時代
冬木丈次郎は二十歳。うらなりと評判の頼りないひよっこ与力。ある日、旗本の屋敷で娘が死んだが、屋敷のほうで理由も言わないから調べてくれという訴えがあった。短編。完結済。
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