森蘭丸外伝─果心居士

春野わか

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「あたしは出てても良いけど」

 射干がくすりと笑う。

「そがな……それより若様、熱下がったばっかりで、もうちっくと良うなってからの方がええ思う」

「只寝てれば良いのでは無いのか? 」

「果心の記憶探るんやき、若様が気持ち悪うなるような沢山嫌なもん見ちまったら身体には良うない」

「それこそが狙いである」

「それはそうやけんど、せめてあいた(明日)とか、その次とか」

「近頃、奴の姿を見ておらぬ。それは上様や六、射干まで居てくれるからでは無いのか。ならば今こそ、奴の弱点を探る時であろう? 」

「それは外から攻撃されちょらんってだけで、魂の繋がりは今も解けちょらん。影針や蟇目で一時的に弱めたけんど、結局奴の入口は若様の中にあるんじゃ。なんぼ戸に棒立てたち蹴破る事なんか簡単なんや」

「聞いてて思ったんだけどさ。若が熱出したのって、あたしが奴に小便引っ掛けたからかなあ」

 射干が唐突に話しに割って入った。

「しょ、小便……」

 美女の射干の紅唇から、品の無い言葉が発せられ六助は衝撃を受けた。

「それか、脚開いてぼぼ見せたから熱出ちまったのかも。あはっははは。あいつ、女知らないんだろうねえ」

「ぼぼ……」

 呟いてから意味に気付いた六助の顔は、先程にも増して赤くなる。

『羨ましい。射干さんの見たなんて。果心め許せん』

 改めて別の種類の怒りを覚えた。

「奴が熱を出したから儂も熱を出した」 

 乱法師がぼんやりと呟く。

 幸か不幸か、以前のような具体的恐怖を近頃味わっていないせいか実感がまるで沸かない。
 切ろうとしても切れない糸。
 滑滑と蛇体その儘にしつこく絡み付いてくる。

 深刻なのは、果心という異質な存在に対する嫌悪を乱法師が以前程感じ無くなってきている点だ。

「思ったよりも厄介だね」

 射干は感覚的に危険を察した。 

 当に同化。
 乱法師を己の物にするという目的は、形を変え実現しつつあった。
 結界や信長の力で守れば守る程、内側から腐蝕していく。

「余りのんびりはしてられないねえ」

「果心との絆が強まっている時の方が記憶や考えを探り易い筈じゃが、残念ながら儂自身で無い時の事を全く覚えておらぬ」

「では、本日ちっくとだけ試してみましょうか。寝てばっかりじゃ退屈やろうき」

 反対していた六助も漸く賛同に傾いた。
 射干の意見が大きかったのかも知れない。

 簡単に言えば退行催眠のようなものである。
 浅い睡眠時に向き合う記憶は本人に自覚のあるものばかりでは無い。
 深奥に眠る記憶、或いは前世にまで遡ってしまう場合もあると云う。

 乱法師の場合は別人格、つまり果心の記憶が必ず途中で現れる筈なのだ。

 睡眠状態に入り易いように香を焚く。
 香炉から煙が細く流れ、沈香が部屋中に広がっていく。

 枕に頭を載せながら、煙の流れを目で追った。

「瞼を閉じて下せえ」

 六助の指示で瞼を閉じた。
 五感の一つを塞ぐ事で他の感覚が鋭敏になる。
 漂う薫香を大きく吸い込んだ。
 やがて徐々に微睡み始める。

「今、若様は高い所におる。目の前にある階段をゆっくり下がって行って下せえ」

 この時にはまだ、六助の声と認識していた。
 夢と現の境がだんだん曖昧になるにつれ、彼の周りが白く変化した。

 何とも不思議な心地であった。
 余りにも白過ぎて宙に浮いているようで、先に進む事を躊躇した。

 六助が優しく彼を促す。
 その声だけが神のように絶対的に耳に響いた。

 進むと信長の後ろ姿が見えた。
 安堵して駆け寄ろうとすると、信長の手や唇は熱心に別の小姓を愛でていた。

 それを見た瞬間、胸に鋭い刃物を突き立てられたような痛みが走り涙が零れた。

「上様……」

「若、涙を流してるけど大丈夫かい? 」

 初っ端から涙を流すのを見て、射干が小声で六助に囁く。
 次第に嗚咽が激しくなる。

「何故、涙を? 」

 六助の問いに乱法師は胸の奥に無理矢理しまい込んでいた妬心を語った。

「ありゃりゃ上様お盛んだね」

 早速思わぬ事実が判明し、射干は呆れながらも感心する。
 六助には上流社会の文化というべき男色は理解出来なかったが、邸に戻りたいと突然言い出した理由がこれで分かった。

 此処で止めてしまうのは早いと何とか慰め先に進ませる。

 徐々に手繰られる記憶は、やや混沌としてきたのか通常の時系列とは異なっていた。
 総じて信長に関する事柄であったが、時折幼い時の記憶が混じる。

 人は記憶する上で、過去と関連付ける場合がある為だろう。
 例えば始めて茶室で信長に抱き締められた時、奥深い所では父の可成と混同していたという具合である。

「父上、父上──」

 涙が乾かぬうちに今度は嬉しそうに呟く。
 六歳というほんの幼児期に死に別れているのだから、そんなに明確な思い出があるとは言えないのだが。

 今の所、果心の記憶らしいものは一切語られていない。

「随分遡っちまってるみたいだけど……」

 射干がそう呟いた時──

「う、うう父上ーー」

 今度は顔を歪めて泣き出した。
 下瞼に両手を当てて、まるで幼子のような泣き方である。

 これは問うまでも無く、可成が亡くなった時の記憶に依るものだろう。

「え……えぐ、えんぐ、父うえーー」
 
 涙が新たな悲哀を呼び、嗚咽が泣きを激しく煽る。
 当に幼子の如く、一度泣き始めると鎮まるどころかどんどん激しくなっていくようだった。

「わぁぁんうぉーー」

「駄目だ、こりゃあ」

 射干が呆れて己の額を手で軽く叩いた。

「今日は此処までにしちょきましょう」

 床に仰向けに倒れ、足をばたばたさせて号泣する乱法師を見て六助もそう判断した。

 耳元で数を数えて遡った時を巻き戻す。
 下りた階段を昇る心象風景を辿り、パンっという音で現に戻って来た。

 瞼を開けてまた閉じ、何度も瞬きする。

 六助と射干の顔を目にするも、直ぐに現状を把握出来ず部屋中をきょろきょろと見回した。

「ああ、覚えておらぬ。何か分かったのか? 」

 漸く何をしていたかを思い出した。

「過去に遡る事は出来た。やけんど果心の記憶には当たらざった」

 乱法師が肩を落とす。

「今日のはほんの小手調べやき心配いらねえ。慣れてくると段々深うまで潜れるようになる」

 結局この後は大人しく寝ているしか無くなってしまった。
 射干が話し相手になったり三郎や藤兵衛も来てくれたが、思春期の少年としては物足りず、手持ち無沙汰で仕方が無かった。

 最も待ち望む信長も余程忙しいのか訪れも無く、たまに書物を読み気を紛らわせる。

「果心に操られている時、己の意識を保っていられれば良いのじゃが……うむ、待てよ。それでは余り意味が無いのか」

 皆が余計な気遣いで部屋を出て行ってしまった為、乱法師は今一人でいた。
 時間が長く感じられ、若い心は焦るばかりだ。

 意味が無いと呟いたのは、操られている時の己の行動を把握したいのでは無く果心の心の奥を覗きたいからだ。
 自我を失うからこそ、相手の感情まで己の記憶となって残る。

「やはり果心の記憶を掘り出して貰うしか無いのか」

 一度で成功する訳がないと分かっていても、何故失敗したのかと追及してしまう。
 理屈では一体化していればいる程、記憶として強く残り易いという事になる。

「あんな奴と心を一つにせねばならぬのか」

 心身共に憎むべき敵に委ねるなど恐怖でしか無い。

「そうか。そういう事か」

 意思を奪われまいと、今こうして寛いでいる間でさえ無意識に抵抗しているのだろう。

 知るのが怖い。
 知りたくもない。

 その為に奥深くまで潜らねば果心の記憶に辿り着けないのだ。 

「道理で疲れる訳じゃ……」

 果心こそ病の種。
 気力を奪い、身体を蝕む病魔。

 排除しようと常に戦っているのだから、身体に掛かる負荷は相当なものだ。

 もう木刀を振る事も、信長に従い野駆けをする事も叶わないのか。
 呪いで蝕まれ些細な事で体調を崩してしまうという現状に気付いてしまった。

 熱が下がったと喜んでいる場合では無い事に。 
 無力感に襲われ天井だけを見詰めていたら、いつの間にか瞼を閉じていた。


「乱は──」

「休んで──られるかと」

 人の声ではっと目を覚ます。

「仕方無い──」

 信長の声と気付くや、即座に飛び起き迷わず襖に走った。

「上様ーー」

 唐突に開いた襖から乱法師が姿を現したので、信長は目を丸くした。

「乱、寝ていな──」

 乱法師は信長に抱き付いた。
 自分の行動に驚き、信長も驚いた。

「思いの外元気そうじゃ」

 しかし礼儀正しく堅苦しい彼の思いがけない歓迎を信長は快く受け入れた。
 我に返り慌てて離れようとする乱法師をその儘抱き抱え部屋に入る。

「申し訳──」

「熱が下がって良かった」

 無礼を詫びようとするのを完全に無視して優しい笑顔を向ける。

「中々来てやれなくて済まなかった」

 暫く信長の胸に凭れ嗚咽した。

───

「何度も言う。そなたは役立たずでは無い。必死に戦っておる。弱っているのに周りを気遣い儂に忠誠を尽くしてくれる」

 乱法師の髪を撫でながら更に言葉を続けた。

「多くの者は主の為と言いながら、殆んど己とその家族の為に戦っているだけじゃ。だから主が窮地に陥れば見限る。己の命惜しさでな」

「…………」
 
「真の武士とは?真に強き者とは?追い詰められた時にこそ逃げずに立ち向かえる者では無いのか?死は恐れぬ。だが命は一つしか無い。真に主を思うのなら、いざという時の為に大事に取っておくものじゃ」

 乱法師に言い聞かせるようでありながら、己自身に向けて発しているようにも聞こえた。

「誰にも文句は言わせぬ。そなたのような者に側にいて欲しいと思うのは当然であろう。遠慮無く養生致せ」

「上様……」

「庭を歩いてみるか。今日は天気が良い」

 広々とした庭園に凝縮された自然の美にも心癒されるが、外気と陽射しが彼を元気付けた。
 ゆっくりと信長に付いて歩く。

 他愛ない世間話から各地の戦況まで、信長は詳しく話してくれた。

「天王寺砦は焼き払われていたのですね。何と横暴な」

「まあ、本願寺の手に落ちるよりは良い」

「説得には応じそうでございますか? 」

「戦況次第であろうな」

 そう言いながら信長は金木犀の枝を手折った。
 左手には色鮮やかな数種の花が既に握られている。

「これか?そなたの部屋に立花を置こうと思ってな」

 乱法師の視線に気付き信長が笑う。

 池坊に代表される立花は茶道程では無いが、戦国武将が嗜む芸事として人気があった。

「好みの花はあるか? 」

「あれは?不思議な形をしておりまする」

 乱法師の目が一つの花に吸い寄せられた。

 茎が曲がりくねり、先端に大きな蕾が付いている。
 どんな花を咲かせるのだろうと興味が沸いた。

「夜になると美しい白い花が咲く。只、朝には萎んでしまい何度もは花を咲かせぬ。一夜限りの儚い命故、月下の美人に例えられるらしい。その蕾は今宵辺り花が咲きそうじゃな。薫りも良いぞ」

 結局、生け花には向かないと分かり別の花を選んだ。

「我慢して大人しうしておれ。明日も熱が無ければ勤めは許す。だが余り無理はならぬぞ」

 寂しげに俯く乱法師に続けて言った。

「勤めに戻れたら面白い所に連れて行ってやろう。楽しみにしておれ」
 
 それを聞いて、ぱっと表情が華やいだ。

 信長が生けた立花は野性的で華やか、まるでその人自身のようで、乱法師の一日の無聊を慰めた。
 陽が落ちてから胴服を着込み一人庭に立つ。

 秋も深まり夜は一層冷え込む。

 故郷の美濃では好物の堂上蜂谷柿のそろそろ収穫の時期であると思うと同時に、無性に家族に会いたくなった。

 無論、それは叶わぬ事。 

 郷愁を振り払い庭に下りた目的を思い出し歩き出す。
 昼間見た不思議な蕾が開いていた。
 芳しい薫りを風が運ぶ。

 鼻から一杯吸い込み口から吐くと白い息が広がる。
 純白の花が月下に咲く幻想的な光景に見蕩れ、暫しの間無心になれた。

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