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第15章 帰巣
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パカッ─パカッ─パカッ─
軽快な蹄の音に、街道を行く人々の内、ある者は目を丸くし、ある者は目を奪われた。
そのうちの多くは男達だった。
馬上で揺れるたわわな果実のような乳房。
馬を駆る度にぶるぶると震える官能的な白い太股。
風に靡く射干玉《ぬばたま》の髪。
麗しの顔《かんばせ》。
だが感嘆の溜息を吐き息を大きく吸い込んだ男達は、皆一様に咳き込んだ。
「げほほ、臭い」
颯爽と駆け抜ける美女からは、あろうことか肥溜めの匂いが漂ってきたからだ。
言わずとしれた美女、射干は京を目指し東高野街道を馬で疾駆していた。
果心との死闘の末、まんまと逃れた彼女は暗い山中で暫しさ迷い土だらけになった。
夜明けまでは長く、命を守る為に着衣に己の尿を掛け果心避けとしたのだ。
暁光で空が白み漸く京に通じる東高野街道に辿り着いた。
綺麗好きな彼女には辛い道中だが、朝陽に照らされ此処まで来れば、流石に果心も追っては来れまいと思った途端腹が鳴った。
「こんな形《なり》じゃ物も売ってくれないか。はあ……」
と、罰当りにも道に立つ地蔵や仏へのお供え物を掠め取り腹の足しにする。
「奴等よりは早く着けるか」
奴等とは松永軍の事である。
単身馬で駆ける彼女に利があるが、信貴山までより安土の方が距離がある。
ともかく早く安土に松永謀反を知らせねばと、馬を継いで急いだ。
───
金木犀の甘い花の香り、庭に植えられた木々に成る愛らしい秋の実。
鮮緑褪せる事で紅や黄に色付き始めた葉が冷たい風に吹かれ、カサカサと音を立てる。
乱法師は何気無く首筋に手を当て、額にも触れてみた。
肌が汗ばんでいる。
熱があるようだとは思ったが、彼の性格上言える訳が無い。
何しろ家中の者達の反対を押し切って出仕したのだから。
目覚めると六助に、昨夜は随分魘されていたと教えられ、悪い夢の内容を覚えているかと問われたが一切記憶はなかった。
周囲が案じる程に、体調の悪さを感じ無かったというのも出仕を強行した理由である。
風邪の症状はあるものの、果心による忌まわしい呪いの重圧感は消えていた。
「何のこれしき! 」
いちいち疲れただの具合が悪いだのと言っていられない。
気怠さとぞくぞくする寒気を気合いを入れて誤魔化す。
「お乱!お乱はおるか?上様がお呼びじゃ」
毎度の御召に折角入れた気合いが抜けそうになるが、顔を引き締め信長の元に向かう。
二人だけで過ごせる時間は非常に少ない。
多忙な信長は乱法師の事を気遣い、わざわざ私的な時間を設けてくれているのだ。
そう──彼と過ごすのは殆ど私的理由からである。
「今日も出仕したと聞き安堵した、が大事無いか? 」
襖を閉めた途端に自ら近付き、彼の肩を抱き奥に誘う。
「お蔭様で……勤めにも……あ、慣れ…」
言葉が途切れがちになるのは、信長の唇と指がひっきりなしに彼の敏感な部分に触れてくるからである。
普通の主従では有り得ない密着振りだ。
「なら良いが、そなたの部屋はその儘にしてある故早く戻って参れ。その方が良いに決まっておる」
信長は内心、彼が森邸から出仕しているのが気に入らない。
出来るだけ近くに置いておき、あわよくば、という助平心があるからだ。
「邸に戻りましたら、その、色々とございまして。中々……」
「また隠し事ではあるまいな」
信長の口調が厳しくなる。
「そなたの事を常に案じ、昼も夜も側に置いておきたいという儂の気持ちが分からぬか! 」
「私とて!常にお側にいたいと思うておりまする。なれど、それを御許し下さらぬのは上様ではございませぬか。せめて昼は無理をしてでもお役に立ちたいと……夜は……他にいるのでございましょう? 」
悲しみと共に怒りが込み上げ反発した。
「何を申しておる」
乱法師は感情に任せ不満を吐露した事を突然後悔した。
一度口にした事を取り消しは出来ぬ。
「あ──」
慌てて妬心を取り繕おうと顔を伏せるのを、細い顎を掴まれ強引に視線を合わされてしまう。
「何を臍を曲げておる」
己の気持ちを冷静に分析し、言葉を継ぐ事が初心な彼に出来る訳が無い。
代わりに瞳から涙が一筋流れて頬を伝った。
「格別なる思し召しは他の者にお与え下さいませ。夜を共に過ごしたいと思われる者が他におられるのに……御殿に部屋を賜るのは却って辛うございます」
辛いという語句が何よりも彼の心情を良く表していた。
「誰かに何か言われたのか? 」
流石に察した。
別の小姓を閨で愛でた事を耳にしてしまったのだと。
乱法師は唇を噛み締め頬に血を上らせ押し黙っている。
焼き餅を焼いているのが生々しく、森邸に戻りたいと言い出したのも先日余所々しい素振りだったのも、そうした訳だったのかと思うと胸がじんと熱くなる。
熱は罪悪感を軽く押し流し下半身の一部に急激に集まり始めた。
「愚かな……儂がそなた以外の者を愛でる筈が無いでは無いか」
声が掠れ、乱法師の肌や髪に触れる手や唇の粘度が増していく。
そして不義理を言い繕うという段階を悠々と飛び越え、無かった事にしてしまったのだから流石は天下人である。
単純な乱法師は信長の言葉が素直に嬉しく、つい身を寄せてしまう。
恋しい主の言葉を信じたいように信じてしまうのだ。
頑なだった心の結び目が解かれると同時に、萎れた花のようにくたりと和らいで成すが儘。
こうなっては男色の指南書で得た筈の覚悟は脆くも吹き飛び、頭の中は真っ白である。
そんな彼の震えを感じながら、信長は嫌と言わせぬ為に強引に事を進めていく。
「上様、森家から急ぎの用向きで、しかも内密の使者が参っております」
案の定邪魔が入ったと信長が舌打ちする。
「森家?分かった!次の間に連れて参れ! 」
「森家? 」
乱法師はあられもない己の姿を忘れ考え込むが、信長の視線が向くと慌てて着物を掻き合わせた。
顔が紅葉のように染まるのを見て、心地好い罪悪感で信長は満たされる。
悪い事をしたという真摯なものではなく、良からぬ悪戯をしたという満足感なのだから困ったものだ。
「森家からというのが気になるな」
生真面目な彼をこれ以上苛めるのは可哀想と思い、然り気無く乱れを直すのを手伝ってやりながら、威厳のある声音で淫靡に傾いた空気を戻してやる。
羞恥は収まったが今度は胸騒ぎがした。
───
森家からの使者というのは何と三郎だった。
「申し訳ございませぬ。私如き身分の者が──」
「今更じゃ!とっとと申せ! 」
「先程、摂津の天王寺砦より伴家のくの一が駆け戻り、恐ろしい事を告げたのでございます。松永弾正謀反と! 」
「何じゃと! 」
それを聞いた乱法師の鼓動は急激に早まった。
「その者は? 」
「それが……追っ手を振り切り山中を抜け、街道を駆けに駆け力尽き気を失っておりまする。今、邸に」
これは半分ぐらい美しく語られていた。
実際のところは先ず臭かった。
仕方が無いので風呂に入れ、腹が減ったというので飯を食わせたら力尽きて寝てしまったのである。
「上様!一旦邸に戻り、その者から話しを聞き出し連れて参りまする」
「うむ! 」
近頃発揮する機会の無かった俊敏さできびきびと動き、乱法師は直ちに森邸に戻った。
信長に良い所を見せたい一心で早足駆け足となった為、着いた頃には身体が燃え頭がぼうっとしていた。
「射干!射干は何処じゃ? 」
主の帰宅に藤兵衛と六助が出迎える。
「まだ寝ておりますが、此方に」
豪快な女でも女は女、侍女に様子を見に行かせる。
暫くして射干は大欠伸と共に起きて来た。
「あ!若、久しぶり!元気そうじゃないか。良かった! 」
と、乱法師を見るなり色っぽい声で迫りぎゅっと抱き締め、彼の顔を豊満な胸に押し付けた。
「はな……せ」
声が動揺で掠れる。
「相変わらず初心だねえ。まるで、あたしが襲ってるみたいじゃないか。ところで、その後上様には抱かれたのかい? 」
「いい加減に致せ! 」
それこそ先刻信長に抱かれ掛けた事を思い出し、顔から火を吹き出しそうな乱法師を後ろに庇いながら、三郎も真っ赤になって声を荒げた。
何を言っても悪者になりそうだと射干は呆れ顔で首を振る。
「ところで射干、天王寺砦で何があったかを聞くのが先決じゃ」
そこは年の功、冷静に藤兵衛が話しを本題に戻す。
射干は白湯を口に含んだ後、己が体験した事を話し始めた。
松永謀反については予想の範疇だったが、果心と手を組み射干を殺すよう仕向けたという話しには一同驚愕した。
「一体どんな手を使って逃げたのじゃ? 」
実体で現れた事も興味深いが、これだけ手を焼いている果心を退けた方法に興味津々で男達は身を乗り出す。
「突然神があたしに囁いたんだよ。奴の弱点は──」
それを聞いた男達は静まり返った。
「だから今度から若の寝所に女の──」
「そんな事が許される訳なかろーー」
言わんとする事を察知し、三郎が乱法師の耳に入れまいと大声で打ち消す。
「庭に犬ころみたいに撒いとくとか」
「それは、ちと嫌じゃ」
乱法師が心底嫌そうな顔をする。
「あああ、我が儘なんだよ。第一さあ、背に腹は変えられないっていう緊迫感が足り無いんじゃないのかい?あれは嫌じゃ。これは臭いだのって。命が惜しけりゃ何でもやるもんさ」
「そちの申す事もっともである。が、嫌なものは嫌じゃ」
乱法師はきっぱりと拒絶した。
「若様は儂がお守りする。今まで通りでええ。もしいかん時は仕方ねえ。射干さんの力借るしかないけんど……」
沈黙を破り、六助が顔を赤らめながら改めて頼もしさを示す。
「それはそうと此度は何故奴が実体で現れたかじゃ」
肝心な点を指摘したのは、またもや藤兵衛である。
「奴の力は無限じゃないって事や。乱法師様には蛇の呪いで繋がり作ったけんど、射干さんとは繋がっちょらん。やき、遠隔は無理で実体で攻撃して来たんやないかと」
「成る程」
そう言いながら乱法師は頭痛で眉を顰めた。
「もっと聞きたい事はあるが、上様にそちの口から伝えるべきである。御殿に急がねば」
「合点! 」
「何だか若の顔赤いんじゃないのかい?熱でもあるんじゃ」
勢い良く立ち上がった途端、目眩がした。
「大事無い。急ごう」
張り詰めた顔つきで乱法師は足を早めた。
───
「弾正は貴様が砦にいた時は特に怪しい言動は無かったのじゃな」
「は!寝所に忍び込んだ際にも隠居したいと申しておりました。それは此方にわざと聞かせる為のものであったやも知れませぬが」
菖蒲色に萩や菊を白抜きした辻ケ花染めの小袖に芥子色の横糸と御召茶色の縦糸で織られた帯を締め、自慢の太股を封印している射干は、何処ぞの武家の奥方のようであった。
「松永は雑賀を制する為に上様より御命令があり、これから貝塚に向かうと軍勢を進めたのでございます」
「それは嘘じゃ。そのような指示は与えておらぬ」
「夜更けに砦を出発致しましたので、途中どちらに向かっているか中々把握出来ませなんだが、追っ手を振り切った場所は大和に近い竜田山に間違いございませぬ。山中を暫しさ迷いましたが、抜けてから京への道を見付ける事が出来ました故」
漬物石を乗せたように頭が重く、乱法師の耳には信長と射干の声が近付いたり遠退いたりしていた。
「弾正は果心の誘いに乗ったのだと申していたな。貴様も果心の事を知っているという訳か」
この場合の知っているというのは、乱法師に対する忌まわしい呪いや執着全般の事である。
「はい、それは以前から」
「貴様は果心の猛攻を躱し弾正の裏切りを知らせた。大した女じゃ!奴との戦い方を知るは貴重である。これからは六助と共に乱を守れ! 」
「ははっ! 」
信長は射干の報告に熱中し、乱法師の存在を忘れていた。
声を掛けようと彼の方を向き異変に漸く気付いた。
「乱! 」
射干も動いたが信長の方が素早かった。
側に寄り身体に触れた途端、安堵したのか信長の腕の中に崩折れる。
身体は衣を通して伝わる程に熱を持ち、面は酒に酔ったかのように赤かった。
意識は半ば朦朧として息遣いも荒い。
御殿内の彼の部屋に信長自身の手で運び込まれた。
曲直瀬道三は、近頃乱法師も元気で六助の場合は外傷なので、そろそろ御役御免だろうと油断していた。
安土の築城に伴い城下町には商人達が集い、京や堺とはまた違う賑わいを楽しむ為、町をそぞろ歩いていた。
様々な品を手に取り選んでいたところ、ばらばらと侍数人に囲まれ腕を引かれ、あっという間に信長の御殿に連れ戻されてしまう。
『はあ……またか……』
待ち構えていた信長の厳めしい顔に、どん底まで落ちた気分を笑顔に変え、溜息を強引に呑み込む。
軽快な蹄の音に、街道を行く人々の内、ある者は目を丸くし、ある者は目を奪われた。
そのうちの多くは男達だった。
馬上で揺れるたわわな果実のような乳房。
馬を駆る度にぶるぶると震える官能的な白い太股。
風に靡く射干玉《ぬばたま》の髪。
麗しの顔《かんばせ》。
だが感嘆の溜息を吐き息を大きく吸い込んだ男達は、皆一様に咳き込んだ。
「げほほ、臭い」
颯爽と駆け抜ける美女からは、あろうことか肥溜めの匂いが漂ってきたからだ。
言わずとしれた美女、射干は京を目指し東高野街道を馬で疾駆していた。
果心との死闘の末、まんまと逃れた彼女は暗い山中で暫しさ迷い土だらけになった。
夜明けまでは長く、命を守る為に着衣に己の尿を掛け果心避けとしたのだ。
暁光で空が白み漸く京に通じる東高野街道に辿り着いた。
綺麗好きな彼女には辛い道中だが、朝陽に照らされ此処まで来れば、流石に果心も追っては来れまいと思った途端腹が鳴った。
「こんな形《なり》じゃ物も売ってくれないか。はあ……」
と、罰当りにも道に立つ地蔵や仏へのお供え物を掠め取り腹の足しにする。
「奴等よりは早く着けるか」
奴等とは松永軍の事である。
単身馬で駆ける彼女に利があるが、信貴山までより安土の方が距離がある。
ともかく早く安土に松永謀反を知らせねばと、馬を継いで急いだ。
───
金木犀の甘い花の香り、庭に植えられた木々に成る愛らしい秋の実。
鮮緑褪せる事で紅や黄に色付き始めた葉が冷たい風に吹かれ、カサカサと音を立てる。
乱法師は何気無く首筋に手を当て、額にも触れてみた。
肌が汗ばんでいる。
熱があるようだとは思ったが、彼の性格上言える訳が無い。
何しろ家中の者達の反対を押し切って出仕したのだから。
目覚めると六助に、昨夜は随分魘されていたと教えられ、悪い夢の内容を覚えているかと問われたが一切記憶はなかった。
周囲が案じる程に、体調の悪さを感じ無かったというのも出仕を強行した理由である。
風邪の症状はあるものの、果心による忌まわしい呪いの重圧感は消えていた。
「何のこれしき! 」
いちいち疲れただの具合が悪いだのと言っていられない。
気怠さとぞくぞくする寒気を気合いを入れて誤魔化す。
「お乱!お乱はおるか?上様がお呼びじゃ」
毎度の御召に折角入れた気合いが抜けそうになるが、顔を引き締め信長の元に向かう。
二人だけで過ごせる時間は非常に少ない。
多忙な信長は乱法師の事を気遣い、わざわざ私的な時間を設けてくれているのだ。
そう──彼と過ごすのは殆ど私的理由からである。
「今日も出仕したと聞き安堵した、が大事無いか? 」
襖を閉めた途端に自ら近付き、彼の肩を抱き奥に誘う。
「お蔭様で……勤めにも……あ、慣れ…」
言葉が途切れがちになるのは、信長の唇と指がひっきりなしに彼の敏感な部分に触れてくるからである。
普通の主従では有り得ない密着振りだ。
「なら良いが、そなたの部屋はその儘にしてある故早く戻って参れ。その方が良いに決まっておる」
信長は内心、彼が森邸から出仕しているのが気に入らない。
出来るだけ近くに置いておき、あわよくば、という助平心があるからだ。
「邸に戻りましたら、その、色々とございまして。中々……」
「また隠し事ではあるまいな」
信長の口調が厳しくなる。
「そなたの事を常に案じ、昼も夜も側に置いておきたいという儂の気持ちが分からぬか! 」
「私とて!常にお側にいたいと思うておりまする。なれど、それを御許し下さらぬのは上様ではございませぬか。せめて昼は無理をしてでもお役に立ちたいと……夜は……他にいるのでございましょう? 」
悲しみと共に怒りが込み上げ反発した。
「何を申しておる」
乱法師は感情に任せ不満を吐露した事を突然後悔した。
一度口にした事を取り消しは出来ぬ。
「あ──」
慌てて妬心を取り繕おうと顔を伏せるのを、細い顎を掴まれ強引に視線を合わされてしまう。
「何を臍を曲げておる」
己の気持ちを冷静に分析し、言葉を継ぐ事が初心な彼に出来る訳が無い。
代わりに瞳から涙が一筋流れて頬を伝った。
「格別なる思し召しは他の者にお与え下さいませ。夜を共に過ごしたいと思われる者が他におられるのに……御殿に部屋を賜るのは却って辛うございます」
辛いという語句が何よりも彼の心情を良く表していた。
「誰かに何か言われたのか? 」
流石に察した。
別の小姓を閨で愛でた事を耳にしてしまったのだと。
乱法師は唇を噛み締め頬に血を上らせ押し黙っている。
焼き餅を焼いているのが生々しく、森邸に戻りたいと言い出したのも先日余所々しい素振りだったのも、そうした訳だったのかと思うと胸がじんと熱くなる。
熱は罪悪感を軽く押し流し下半身の一部に急激に集まり始めた。
「愚かな……儂がそなた以外の者を愛でる筈が無いでは無いか」
声が掠れ、乱法師の肌や髪に触れる手や唇の粘度が増していく。
そして不義理を言い繕うという段階を悠々と飛び越え、無かった事にしてしまったのだから流石は天下人である。
単純な乱法師は信長の言葉が素直に嬉しく、つい身を寄せてしまう。
恋しい主の言葉を信じたいように信じてしまうのだ。
頑なだった心の結び目が解かれると同時に、萎れた花のようにくたりと和らいで成すが儘。
こうなっては男色の指南書で得た筈の覚悟は脆くも吹き飛び、頭の中は真っ白である。
そんな彼の震えを感じながら、信長は嫌と言わせぬ為に強引に事を進めていく。
「上様、森家から急ぎの用向きで、しかも内密の使者が参っております」
案の定邪魔が入ったと信長が舌打ちする。
「森家?分かった!次の間に連れて参れ! 」
「森家? 」
乱法師はあられもない己の姿を忘れ考え込むが、信長の視線が向くと慌てて着物を掻き合わせた。
顔が紅葉のように染まるのを見て、心地好い罪悪感で信長は満たされる。
悪い事をしたという真摯なものではなく、良からぬ悪戯をしたという満足感なのだから困ったものだ。
「森家からというのが気になるな」
生真面目な彼をこれ以上苛めるのは可哀想と思い、然り気無く乱れを直すのを手伝ってやりながら、威厳のある声音で淫靡に傾いた空気を戻してやる。
羞恥は収まったが今度は胸騒ぎがした。
───
森家からの使者というのは何と三郎だった。
「申し訳ございませぬ。私如き身分の者が──」
「今更じゃ!とっとと申せ! 」
「先程、摂津の天王寺砦より伴家のくの一が駆け戻り、恐ろしい事を告げたのでございます。松永弾正謀反と! 」
「何じゃと! 」
それを聞いた乱法師の鼓動は急激に早まった。
「その者は? 」
「それが……追っ手を振り切り山中を抜け、街道を駆けに駆け力尽き気を失っておりまする。今、邸に」
これは半分ぐらい美しく語られていた。
実際のところは先ず臭かった。
仕方が無いので風呂に入れ、腹が減ったというので飯を食わせたら力尽きて寝てしまったのである。
「上様!一旦邸に戻り、その者から話しを聞き出し連れて参りまする」
「うむ! 」
近頃発揮する機会の無かった俊敏さできびきびと動き、乱法師は直ちに森邸に戻った。
信長に良い所を見せたい一心で早足駆け足となった為、着いた頃には身体が燃え頭がぼうっとしていた。
「射干!射干は何処じゃ? 」
主の帰宅に藤兵衛と六助が出迎える。
「まだ寝ておりますが、此方に」
豪快な女でも女は女、侍女に様子を見に行かせる。
暫くして射干は大欠伸と共に起きて来た。
「あ!若、久しぶり!元気そうじゃないか。良かった! 」
と、乱法師を見るなり色っぽい声で迫りぎゅっと抱き締め、彼の顔を豊満な胸に押し付けた。
「はな……せ」
声が動揺で掠れる。
「相変わらず初心だねえ。まるで、あたしが襲ってるみたいじゃないか。ところで、その後上様には抱かれたのかい? 」
「いい加減に致せ! 」
それこそ先刻信長に抱かれ掛けた事を思い出し、顔から火を吹き出しそうな乱法師を後ろに庇いながら、三郎も真っ赤になって声を荒げた。
何を言っても悪者になりそうだと射干は呆れ顔で首を振る。
「ところで射干、天王寺砦で何があったかを聞くのが先決じゃ」
そこは年の功、冷静に藤兵衛が話しを本題に戻す。
射干は白湯を口に含んだ後、己が体験した事を話し始めた。
松永謀反については予想の範疇だったが、果心と手を組み射干を殺すよう仕向けたという話しには一同驚愕した。
「一体どんな手を使って逃げたのじゃ? 」
実体で現れた事も興味深いが、これだけ手を焼いている果心を退けた方法に興味津々で男達は身を乗り出す。
「突然神があたしに囁いたんだよ。奴の弱点は──」
それを聞いた男達は静まり返った。
「だから今度から若の寝所に女の──」
「そんな事が許される訳なかろーー」
言わんとする事を察知し、三郎が乱法師の耳に入れまいと大声で打ち消す。
「庭に犬ころみたいに撒いとくとか」
「それは、ちと嫌じゃ」
乱法師が心底嫌そうな顔をする。
「あああ、我が儘なんだよ。第一さあ、背に腹は変えられないっていう緊迫感が足り無いんじゃないのかい?あれは嫌じゃ。これは臭いだのって。命が惜しけりゃ何でもやるもんさ」
「そちの申す事もっともである。が、嫌なものは嫌じゃ」
乱法師はきっぱりと拒絶した。
「若様は儂がお守りする。今まで通りでええ。もしいかん時は仕方ねえ。射干さんの力借るしかないけんど……」
沈黙を破り、六助が顔を赤らめながら改めて頼もしさを示す。
「それはそうと此度は何故奴が実体で現れたかじゃ」
肝心な点を指摘したのは、またもや藤兵衛である。
「奴の力は無限じゃないって事や。乱法師様には蛇の呪いで繋がり作ったけんど、射干さんとは繋がっちょらん。やき、遠隔は無理で実体で攻撃して来たんやないかと」
「成る程」
そう言いながら乱法師は頭痛で眉を顰めた。
「もっと聞きたい事はあるが、上様にそちの口から伝えるべきである。御殿に急がねば」
「合点! 」
「何だか若の顔赤いんじゃないのかい?熱でもあるんじゃ」
勢い良く立ち上がった途端、目眩がした。
「大事無い。急ごう」
張り詰めた顔つきで乱法師は足を早めた。
───
「弾正は貴様が砦にいた時は特に怪しい言動は無かったのじゃな」
「は!寝所に忍び込んだ際にも隠居したいと申しておりました。それは此方にわざと聞かせる為のものであったやも知れませぬが」
菖蒲色に萩や菊を白抜きした辻ケ花染めの小袖に芥子色の横糸と御召茶色の縦糸で織られた帯を締め、自慢の太股を封印している射干は、何処ぞの武家の奥方のようであった。
「松永は雑賀を制する為に上様より御命令があり、これから貝塚に向かうと軍勢を進めたのでございます」
「それは嘘じゃ。そのような指示は与えておらぬ」
「夜更けに砦を出発致しましたので、途中どちらに向かっているか中々把握出来ませなんだが、追っ手を振り切った場所は大和に近い竜田山に間違いございませぬ。山中を暫しさ迷いましたが、抜けてから京への道を見付ける事が出来ました故」
漬物石を乗せたように頭が重く、乱法師の耳には信長と射干の声が近付いたり遠退いたりしていた。
「弾正は果心の誘いに乗ったのだと申していたな。貴様も果心の事を知っているという訳か」
この場合の知っているというのは、乱法師に対する忌まわしい呪いや執着全般の事である。
「はい、それは以前から」
「貴様は果心の猛攻を躱し弾正の裏切りを知らせた。大した女じゃ!奴との戦い方を知るは貴重である。これからは六助と共に乱を守れ! 」
「ははっ! 」
信長は射干の報告に熱中し、乱法師の存在を忘れていた。
声を掛けようと彼の方を向き異変に漸く気付いた。
「乱! 」
射干も動いたが信長の方が素早かった。
側に寄り身体に触れた途端、安堵したのか信長の腕の中に崩折れる。
身体は衣を通して伝わる程に熱を持ち、面は酒に酔ったかのように赤かった。
意識は半ば朦朧として息遣いも荒い。
御殿内の彼の部屋に信長自身の手で運び込まれた。
曲直瀬道三は、近頃乱法師も元気で六助の場合は外傷なので、そろそろ御役御免だろうと油断していた。
安土の築城に伴い城下町には商人達が集い、京や堺とはまた違う賑わいを楽しむ為、町をそぞろ歩いていた。
様々な品を手に取り選んでいたところ、ばらばらと侍数人に囲まれ腕を引かれ、あっという間に信長の御殿に連れ戻されてしまう。
『はあ……またか……』
待ち構えていた信長の厳めしい顔に、どん底まで落ちた気分を笑顔に変え、溜息を強引に呑み込む。
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※お話の内容は全て想像のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※表現不足は重々承知しております。まだまだ勉強してまいりますので温かい目で見ていただけたら幸いです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
では、お楽しみください。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
ヤンデレ美少女転校生と共に体育倉庫に閉じ込められ、大問題になりましたが『結婚しています!』で乗り切った嘘のような本当の話
桜井正宗
青春
――結婚しています!
それは二人だけの秘密。
高校二年の遙と遥は結婚した。
近年法律が変わり、高校生(十六歳)からでも結婚できるようになっていた。だから、問題はなかった。
キッカケは、体育倉庫に閉じ込められた事件から始まった。校長先生に問い詰められ、とっさに誤魔化した。二人は退学の危機を乗り越える為に本当に結婚することにした。
ワケありヤンデレ美少女転校生の『小桜 遥』と”新婚生活”を開始する――。
*結婚要素あり
*ヤンデレ要素あり
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