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第13章 生贄
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ピーヒョロロロ───
上空を旋回する鳶の姿が秋晴れに映え、射干は盥に積んだ洗濯物に目を移し、丁寧に伸ばしながら物干し竿に掛け始めた。
バサバサ──バサッ
凄い羽音と共に目の横を黒い影が走り、ぱっと振り向く。
嘴の先に憐れな蛙を捕らえた鳶が、当に飛び立つところだった。
鳶《とんび》は鷹である。
飛翔する姿は雄壮で身体も大きい。
非常に視力も良い為、上空から獲物を見つけると急降下して捕らえる様は圧巻だ。
なのに何故鷹は吉兆の鳥として尊ばれるのに、鳶は『鳶が鷹を生むという』諺のように凡庸の例えにされてしまうのか。
と、そんなどうでも良い事が頭を巡った。
砦内で得た事を外に知らせるのは主に小荷駄隊、出入りする商人や作業人、無聊を慰める芸人に化けた仲間の忍びを通じてである。
先日信長の家臣二名が砦を訪れた件が気になった。
下々の者達の間では、表向きは砦の様子を検分しに来ただけという話しになっているが。
本来の目的はそれだけでは無いだろうと睨んでいた。
命懸けで知り得た情報が、どういう結果を齎《もたら》すのか知る由もない。
今まで使い捨てにされた忍びを何人見て来た事か。
武士のように称賛される事無く散り、闇の狭間に消えていく運命《さだめ》。
結局、安土からの指令は簡潔に「引き続き見張れ! 」であった。
っ───
はっと射干の野生が何かの気配を察知した。
誰かに見られている。
そう気付いた時には既に長い時間が経過していたのだろうか。
仮にそうだとしても、洗濯した衣類を干しているだけの事。
疚しい事は口から洩らしてはいない。
寧ろ勘が良過ぎるところを見せてしまわなくて良かったのかも知れない。
ある意図を持って見ていたのだとしたら、その者の疑いを強くしてしまう。
故に、寧ろ普通の女として大袈裟にきょろきょろと辺りを見回した。
ふん、小細工したところでお前の正体は分かっている──
その者は、そう呟いた。
───
「ちょうど良い」
本心とは裏腹に、殊更明るい声で乱法師は言った。
「後の二人はどうします? 」
馬鹿正直な六助が心配そうな顔で窺う。
しかしこの場面では純粋とはいかず、どうか無茶な行動を踏み留まって欲しいという本音を隠しての発言だった。
「案ずるな。三人も必要は無い。人が居過ぎては落ち着かぬと申せば強いてとはなるまい」
乱法師の迷いの無さにがくっと音が聞こえそうな程、六助は肩を落とした。
武藤三郎と伊集院藤兵衛を退け、一番の頼みの綱である信長は多忙の為、今日は見舞いに来れないと告げてきた。
当に好都合。
なれど心では泣いていた。
会えない、側にいてはいけないと思えば思う程切なく苦しくなる。
この辛さに比べれば人形では無く、自身の胸を直接針で貫かれたとて痛くないだろう。
この苦おしい気持ちを恋と気付かず、こうした思いが込み上げる度に己を軟弱者と責め立てた。
「では二人だけで? 」
六助は、この場から逃げ出し信長の元に駆け込みたかった。
胸の傷は浅く済んだが果心は間違い無く怒り悶えている事だろう。
呪いは弱まったと感じるが、その分邪な妄執は強さを増しているのではと全身が粟立つ。
乱法師は力強く頷いた。
彼を激しく奮い立たせるのは、果心は信長の命と地位をも脅かしているという事実だ。
これ以上重荷になりたくない。
己の命一つで信長を助けられるなら。
そう考えると恐れるどころか気持ちは却って高揚してくる。
六助の脳裏に喉に短剣を突き立てる乱法師の姿が甦り、逆らう気力が失せ項垂れた。
───
微かな小雨の音のみの静寂に包まれた夜。
長雨で冷やされた湿気を帯びた空気が肌に纏わり付き、六助の気分を一層沈み込ませる。
乱法師は身体を洗い清め、白い寝衣姿で座していた。
前回は乱法師の意識はぼんやりとしていたが此度はかなりはっきりしている。
それが吉と出るか、凶と出るのか。
果心の支配が弱まっている今、自身を強く保っていられれば操り難くなる筈だ。
但し理屈では。
理屈、理性などの対極にあるのが呪いであり、妬み怨みであろう。
どんな反撃を仕掛けてくるか分からない。
「ふ──若様は、げに肝が座っていなさるなあ」
緊張の糸が張り詰め過ぎて却って緩んだのか、六助が笑った。
「死ぬ覚悟は出来ておる。遠慮無く突け! 」
乱法師も連《つら》れて笑みを浮かべながら、胸を拳で叩いて見せた。
六助は泣きたくなった。
今、選択出来る方法は影針しか無いと乱法師は思っている。
それに、隠しても信長や三郎達には必ずばれるし木片は既に粉々で何度も行え無いと承知している。
故に、手加減せず思い切り突けと言っているのだ。
「準備が出来ました」
「では始めよう」
───
「淡輪大和守は雑賀の一揆については既に知っておるのじゃな」
「はっ!織田左兵衛佐様よりの注進状に依るとの事にございます」
万見は上使として遣わされた和泉国から本日戻り、信長の元に参上した。
「戦支度は万全で防備を固めておる次第にございます」
「明智日向守に合流するように伝えよ! 」
「はっ! 」
一つの波が別の波を呼び、大きな波となる。
信長は各地から届けられる戦況を知らせる書状に目を通し対策を練った。
軍事だけでは無く政務や細かい雑事も含めれば寝る間も惜しい程で、非常に多忙を極めていた。
「次は上杉に対する備えじゃが、大将は柴田修理(勝家)、与力として羽柴筑前(秀吉)、丹羽、滝川、稲葉でいく。そう通達せよ! 」
「は!次は祖父江五郎右衛門が領地や家臣について安堵するという朱印状を頂きたいと願い出ておる件については如何致しますか? 」
「領地については問題無い。櫛田三平の事なら従来通り家来で良かろう」
「承知致しました。次は二条の新邸の掘───」
その後も延々と報告は続き、一区切りする頃には外はすっかり暗くなっていた。
一先ず重要且つ緊急で無い用件は明日に回し床に入ろうと思ったが、ふと乱法師の事が気に掛かった。
忙し過ぎて僅かな時間しか取れず会話らしい会話をしていない。
せめて寝顔だけでも見ておこうと彼の部屋に足を運ぶ事にした。
───
六助が天神召喚の法文を唱える。
乱法師は静かに目を閉じ声に耳を傾けているように見えた。
一瞬の静寂の後、六助は乱法師を出来るだけ視界から外し一呼吸すると、畳の上に置かれた人形に向かい鉄針を振り上げた。
ぐぐぐうおおおーー
破れ鐘を被せられたような音響が乱法師の鼓膜を痛め付け、両のこめかみを拳で強く圧迫されたような頭痛を引き起こした。
激痛が全身をぎりぎりと締め上げ、目の前の天地も色も反転する。
胸から広がる苦痛に身を捩り、周囲の音も己の声さえも打ち消す狂気の叫びに封じられる。
どす黒い思念に覆い尽くされた彼は、見えない檻に再び捕らわれ言葉も意識も失った。
予期していた事とはいえ、乱法師の異変をいざ目の前にすると、六助は針を突き立てた儘固まってしまう。
但し動けなかったのはほんの一瞬だった。
遠慮無く突けと言われた事を思い出し、泣く泣くその通りにしようとした瞬間、黒い何かが動いた。
「あっぐうく、ぐご──」
その黒い影は六助に飛び掛ると恐ろしい力で首を締め上げた。
足をばたつかせ相手の両腕を両手で掴み、何とか振りほどこうとするが、びくともしない。
相手の正体を涙で霞む目で必死に捕らえる。
爛々と光る紅い虹彩。
唇からはみ出した、だらりと垂れる卑猥な赤黒い舌。
「か、し──ん」
だが、その名の主は姑息にも乱法師の姿を借りていた。
呼吸を止められた六助の顔は赤黒く染まり、苦しみで舌が突き出る。
最早駄目かと朦朧とし掛けた時、手が緩んだ。
「あ……あ、うう」
「ぐけほ、げほ、ごほ」
締め付けが甘くなった途端、いきなり酸素が肺に取り込まれ激しく咳き込む。
「ろく……いまのうち……儂に…かま…うな……」
そう訴える円らな瞳は、馴染みある乱法師のものだった。
苦しむ姿は見たく無いが、危険な船出をしてしまった以上、向こう岸に辿り着くしか道は無いのだ。
「若様あーー」
六助は潰れた声を喉奥から絞り出すと、人形と木片に針を思い切り突き刺した。
ぐぅおぉォーーおのれ乱法師ぃーー六助を殺せ!
「いやじゃ…絶対に……」
儂に逆らうか──おのれ──
「思い……には……させぬ。儂を殺せ」
意思と意思とが鬩ぎ合う。
強い覚悟を表す眼差しは時折禍禍しい赤光を放ち、唇から洩れる声音が目まぐるしく変化する。
「若様!! 」
乱法師の内で繰り広げられる戦いを肌で感じ、励ますように名を叫んだ。
その途端、瞳は再び清らかさを失い代わって紅く光輝いた。
「ろおくすけぇーー許さぬーー必ず殺してくれる。信長も貴様も! 」
「この化け物が!!ええ加減若様から離れろ」
六助の怒りは頂点に達し、針を何度も人形に突き刺し抉り回す。
こふ──
鮮血が床に飛び散った。
乱法師が口から血を吹いたのだ。
白い寝衣の襟元辺りが赤く染まり、乱法師が六助を見詰めた。
血塗れなのは唇だけで無く胸からも流血していた。
「わ、若様あーー」
顔中鼻水と涙でぐしょぐしょになりながら乱法師を抱き締める。
「何って事……してしもうたんやあ……若様……」
六助はすっかり気が動転し全くの無防備だった。
「ぐぐ、愚か者め!」
心胆寒からしめる不気味な声が耳元で嘲笑った。
咄嗟に突き飛ばすが間に合わ無い。
床に放り出した鉄針を掴んだ乱法師が仰向けに倒れた六助に襲い掛かる。
鉄針は喉や顔辺り目掛けて振り下ろされた。
「ぐあ!あぅうーー」
咄嗟に右手で庇うと、ぐさりと手の平が無惨に貫かれる。
その儘の勢いを借りて六助に馬乗りになると、手の甲から突き出た切っ先で喉元を再び狙う。
虹彩は勝ちを確信して紅く輝き、長い舌が六助の顔を嬲った。
針が刺さった儘ぐいぐいと上から押され、失神寸前の痛みに六助は最早死を覚悟した。
───
信長は小姓一人に燭台を持たせ、乱法師の部屋に向かっていた。
乱法師の部屋は廊下に面した部屋から入って更に奥の奥に位置している。
これは信長の配慮だった。
部屋を訪れる時の供は最小限に、一番最初の部屋に供を置き、その先には一人で進む。
今宵も小姓を置いて襖の引手に指を掛けた。
その時、異様な呻き声と争う声が洩れ聞こえ、襖を両手で素早く左右に開いた。
ターーン
磨かれた敷居の上を滑り、襖は大きな音を立て全開した。
信長は目に飛び込んで来た光景に瞠目した。
だが彼以上に驚いたのは六助と果心の方であった。
「ぐぐ、信長あ──」
信長は考えるよりも先に動いた。
六助に馬乗りになっている乱法師に蹴りを入れる。
その隙に六助が、手に鉄針が刺さった儘何とか体勢を立て直した。
大量に出血する六助の事も気に掛かったが、ゆらりと起きた乱法師の血に塗れた唇と、胸の紅い染みを見て叫び駆け寄った。
「乱!!しっかり致せ!! 」
「信長ああ、また邪魔をするか! 」
しかし愛しい者の心は未だ闇に捕らわれた儘であった。
「黙れ!勝手に人の邸に入り、乱の身体で勝手な事を抜かすな!!直ちに、どちらからも出て行け!この盗っ人が!! 」
彼らしい現実的な怒り様である。
「ぐぐぅーー貴様に天下は取らせん!必ず引き摺り落としてやる。そして乱法師を我が物に──」
「黙れ!!乱の姿を借りずば儂の前に立てぬ小心者めが!蛇の姿で現れるらしいでは無いか、面白い!儂にも見せてみよ!胴体引きちぎってくれるわ! 」
互いに罵り合い、火花を散らして睨み合う。
六助は痛みと出血で朦朧としていたが、気力を振り絞り手に突き刺さった鉄針を引き抜いた。
「う、うう」
血がぼたぼたと音立て床に垂れ落ち血溜りが出来る。
手早く手拭いを巻き付け止血すると、布に滲んだ紅が直ぐに広がっていく。
痛みを堪えながら鉄針を構え法文を唱え始めた。
針には前回同様、鍛冶神である天神を勘請してある。
蛇が忌み嫌う金属を司る天神。
「これ天竺弁財天神王の~打たせ給ふたあ~やる鎌、取る鎌~──身を妨げた悪魔のものを~~はりばりそばかと切ってぇ話すぅ~御切りけんばいにそばかぁ~」
上空を旋回する鳶の姿が秋晴れに映え、射干は盥に積んだ洗濯物に目を移し、丁寧に伸ばしながら物干し竿に掛け始めた。
バサバサ──バサッ
凄い羽音と共に目の横を黒い影が走り、ぱっと振り向く。
嘴の先に憐れな蛙を捕らえた鳶が、当に飛び立つところだった。
鳶《とんび》は鷹である。
飛翔する姿は雄壮で身体も大きい。
非常に視力も良い為、上空から獲物を見つけると急降下して捕らえる様は圧巻だ。
なのに何故鷹は吉兆の鳥として尊ばれるのに、鳶は『鳶が鷹を生むという』諺のように凡庸の例えにされてしまうのか。
と、そんなどうでも良い事が頭を巡った。
砦内で得た事を外に知らせるのは主に小荷駄隊、出入りする商人や作業人、無聊を慰める芸人に化けた仲間の忍びを通じてである。
先日信長の家臣二名が砦を訪れた件が気になった。
下々の者達の間では、表向きは砦の様子を検分しに来ただけという話しになっているが。
本来の目的はそれだけでは無いだろうと睨んでいた。
命懸けで知り得た情報が、どういう結果を齎《もたら》すのか知る由もない。
今まで使い捨てにされた忍びを何人見て来た事か。
武士のように称賛される事無く散り、闇の狭間に消えていく運命《さだめ》。
結局、安土からの指令は簡潔に「引き続き見張れ! 」であった。
っ───
はっと射干の野生が何かの気配を察知した。
誰かに見られている。
そう気付いた時には既に長い時間が経過していたのだろうか。
仮にそうだとしても、洗濯した衣類を干しているだけの事。
疚しい事は口から洩らしてはいない。
寧ろ勘が良過ぎるところを見せてしまわなくて良かったのかも知れない。
ある意図を持って見ていたのだとしたら、その者の疑いを強くしてしまう。
故に、寧ろ普通の女として大袈裟にきょろきょろと辺りを見回した。
ふん、小細工したところでお前の正体は分かっている──
その者は、そう呟いた。
───
「ちょうど良い」
本心とは裏腹に、殊更明るい声で乱法師は言った。
「後の二人はどうします? 」
馬鹿正直な六助が心配そうな顔で窺う。
しかしこの場面では純粋とはいかず、どうか無茶な行動を踏み留まって欲しいという本音を隠しての発言だった。
「案ずるな。三人も必要は無い。人が居過ぎては落ち着かぬと申せば強いてとはなるまい」
乱法師の迷いの無さにがくっと音が聞こえそうな程、六助は肩を落とした。
武藤三郎と伊集院藤兵衛を退け、一番の頼みの綱である信長は多忙の為、今日は見舞いに来れないと告げてきた。
当に好都合。
なれど心では泣いていた。
会えない、側にいてはいけないと思えば思う程切なく苦しくなる。
この辛さに比べれば人形では無く、自身の胸を直接針で貫かれたとて痛くないだろう。
この苦おしい気持ちを恋と気付かず、こうした思いが込み上げる度に己を軟弱者と責め立てた。
「では二人だけで? 」
六助は、この場から逃げ出し信長の元に駆け込みたかった。
胸の傷は浅く済んだが果心は間違い無く怒り悶えている事だろう。
呪いは弱まったと感じるが、その分邪な妄執は強さを増しているのではと全身が粟立つ。
乱法師は力強く頷いた。
彼を激しく奮い立たせるのは、果心は信長の命と地位をも脅かしているという事実だ。
これ以上重荷になりたくない。
己の命一つで信長を助けられるなら。
そう考えると恐れるどころか気持ちは却って高揚してくる。
六助の脳裏に喉に短剣を突き立てる乱法師の姿が甦り、逆らう気力が失せ項垂れた。
───
微かな小雨の音のみの静寂に包まれた夜。
長雨で冷やされた湿気を帯びた空気が肌に纏わり付き、六助の気分を一層沈み込ませる。
乱法師は身体を洗い清め、白い寝衣姿で座していた。
前回は乱法師の意識はぼんやりとしていたが此度はかなりはっきりしている。
それが吉と出るか、凶と出るのか。
果心の支配が弱まっている今、自身を強く保っていられれば操り難くなる筈だ。
但し理屈では。
理屈、理性などの対極にあるのが呪いであり、妬み怨みであろう。
どんな反撃を仕掛けてくるか分からない。
「ふ──若様は、げに肝が座っていなさるなあ」
緊張の糸が張り詰め過ぎて却って緩んだのか、六助が笑った。
「死ぬ覚悟は出来ておる。遠慮無く突け! 」
乱法師も連《つら》れて笑みを浮かべながら、胸を拳で叩いて見せた。
六助は泣きたくなった。
今、選択出来る方法は影針しか無いと乱法師は思っている。
それに、隠しても信長や三郎達には必ずばれるし木片は既に粉々で何度も行え無いと承知している。
故に、手加減せず思い切り突けと言っているのだ。
「準備が出来ました」
「では始めよう」
───
「淡輪大和守は雑賀の一揆については既に知っておるのじゃな」
「はっ!織田左兵衛佐様よりの注進状に依るとの事にございます」
万見は上使として遣わされた和泉国から本日戻り、信長の元に参上した。
「戦支度は万全で防備を固めておる次第にございます」
「明智日向守に合流するように伝えよ! 」
「はっ! 」
一つの波が別の波を呼び、大きな波となる。
信長は各地から届けられる戦況を知らせる書状に目を通し対策を練った。
軍事だけでは無く政務や細かい雑事も含めれば寝る間も惜しい程で、非常に多忙を極めていた。
「次は上杉に対する備えじゃが、大将は柴田修理(勝家)、与力として羽柴筑前(秀吉)、丹羽、滝川、稲葉でいく。そう通達せよ! 」
「は!次は祖父江五郎右衛門が領地や家臣について安堵するという朱印状を頂きたいと願い出ておる件については如何致しますか? 」
「領地については問題無い。櫛田三平の事なら従来通り家来で良かろう」
「承知致しました。次は二条の新邸の掘───」
その後も延々と報告は続き、一区切りする頃には外はすっかり暗くなっていた。
一先ず重要且つ緊急で無い用件は明日に回し床に入ろうと思ったが、ふと乱法師の事が気に掛かった。
忙し過ぎて僅かな時間しか取れず会話らしい会話をしていない。
せめて寝顔だけでも見ておこうと彼の部屋に足を運ぶ事にした。
───
六助が天神召喚の法文を唱える。
乱法師は静かに目を閉じ声に耳を傾けているように見えた。
一瞬の静寂の後、六助は乱法師を出来るだけ視界から外し一呼吸すると、畳の上に置かれた人形に向かい鉄針を振り上げた。
ぐぐぐうおおおーー
破れ鐘を被せられたような音響が乱法師の鼓膜を痛め付け、両のこめかみを拳で強く圧迫されたような頭痛を引き起こした。
激痛が全身をぎりぎりと締め上げ、目の前の天地も色も反転する。
胸から広がる苦痛に身を捩り、周囲の音も己の声さえも打ち消す狂気の叫びに封じられる。
どす黒い思念に覆い尽くされた彼は、見えない檻に再び捕らわれ言葉も意識も失った。
予期していた事とはいえ、乱法師の異変をいざ目の前にすると、六助は針を突き立てた儘固まってしまう。
但し動けなかったのはほんの一瞬だった。
遠慮無く突けと言われた事を思い出し、泣く泣くその通りにしようとした瞬間、黒い何かが動いた。
「あっぐうく、ぐご──」
その黒い影は六助に飛び掛ると恐ろしい力で首を締め上げた。
足をばたつかせ相手の両腕を両手で掴み、何とか振りほどこうとするが、びくともしない。
相手の正体を涙で霞む目で必死に捕らえる。
爛々と光る紅い虹彩。
唇からはみ出した、だらりと垂れる卑猥な赤黒い舌。
「か、し──ん」
だが、その名の主は姑息にも乱法師の姿を借りていた。
呼吸を止められた六助の顔は赤黒く染まり、苦しみで舌が突き出る。
最早駄目かと朦朧とし掛けた時、手が緩んだ。
「あ……あ、うう」
「ぐけほ、げほ、ごほ」
締め付けが甘くなった途端、いきなり酸素が肺に取り込まれ激しく咳き込む。
「ろく……いまのうち……儂に…かま…うな……」
そう訴える円らな瞳は、馴染みある乱法師のものだった。
苦しむ姿は見たく無いが、危険な船出をしてしまった以上、向こう岸に辿り着くしか道は無いのだ。
「若様あーー」
六助は潰れた声を喉奥から絞り出すと、人形と木片に針を思い切り突き刺した。
ぐぅおぉォーーおのれ乱法師ぃーー六助を殺せ!
「いやじゃ…絶対に……」
儂に逆らうか──おのれ──
「思い……には……させぬ。儂を殺せ」
意思と意思とが鬩ぎ合う。
強い覚悟を表す眼差しは時折禍禍しい赤光を放ち、唇から洩れる声音が目まぐるしく変化する。
「若様!! 」
乱法師の内で繰り広げられる戦いを肌で感じ、励ますように名を叫んだ。
その途端、瞳は再び清らかさを失い代わって紅く光輝いた。
「ろおくすけぇーー許さぬーー必ず殺してくれる。信長も貴様も! 」
「この化け物が!!ええ加減若様から離れろ」
六助の怒りは頂点に達し、針を何度も人形に突き刺し抉り回す。
こふ──
鮮血が床に飛び散った。
乱法師が口から血を吹いたのだ。
白い寝衣の襟元辺りが赤く染まり、乱法師が六助を見詰めた。
血塗れなのは唇だけで無く胸からも流血していた。
「わ、若様あーー」
顔中鼻水と涙でぐしょぐしょになりながら乱法師を抱き締める。
「何って事……してしもうたんやあ……若様……」
六助はすっかり気が動転し全くの無防備だった。
「ぐぐ、愚か者め!」
心胆寒からしめる不気味な声が耳元で嘲笑った。
咄嗟に突き飛ばすが間に合わ無い。
床に放り出した鉄針を掴んだ乱法師が仰向けに倒れた六助に襲い掛かる。
鉄針は喉や顔辺り目掛けて振り下ろされた。
「ぐあ!あぅうーー」
咄嗟に右手で庇うと、ぐさりと手の平が無惨に貫かれる。
その儘の勢いを借りて六助に馬乗りになると、手の甲から突き出た切っ先で喉元を再び狙う。
虹彩は勝ちを確信して紅く輝き、長い舌が六助の顔を嬲った。
針が刺さった儘ぐいぐいと上から押され、失神寸前の痛みに六助は最早死を覚悟した。
───
信長は小姓一人に燭台を持たせ、乱法師の部屋に向かっていた。
乱法師の部屋は廊下に面した部屋から入って更に奥の奥に位置している。
これは信長の配慮だった。
部屋を訪れる時の供は最小限に、一番最初の部屋に供を置き、その先には一人で進む。
今宵も小姓を置いて襖の引手に指を掛けた。
その時、異様な呻き声と争う声が洩れ聞こえ、襖を両手で素早く左右に開いた。
ターーン
磨かれた敷居の上を滑り、襖は大きな音を立て全開した。
信長は目に飛び込んで来た光景に瞠目した。
だが彼以上に驚いたのは六助と果心の方であった。
「ぐぐ、信長あ──」
信長は考えるよりも先に動いた。
六助に馬乗りになっている乱法師に蹴りを入れる。
その隙に六助が、手に鉄針が刺さった儘何とか体勢を立て直した。
大量に出血する六助の事も気に掛かったが、ゆらりと起きた乱法師の血に塗れた唇と、胸の紅い染みを見て叫び駆け寄った。
「乱!!しっかり致せ!! 」
「信長ああ、また邪魔をするか! 」
しかし愛しい者の心は未だ闇に捕らわれた儘であった。
「黙れ!勝手に人の邸に入り、乱の身体で勝手な事を抜かすな!!直ちに、どちらからも出て行け!この盗っ人が!! 」
彼らしい現実的な怒り様である。
「ぐぐぅーー貴様に天下は取らせん!必ず引き摺り落としてやる。そして乱法師を我が物に──」
「黙れ!!乱の姿を借りずば儂の前に立てぬ小心者めが!蛇の姿で現れるらしいでは無いか、面白い!儂にも見せてみよ!胴体引きちぎってくれるわ! 」
互いに罵り合い、火花を散らして睨み合う。
六助は痛みと出血で朦朧としていたが、気力を振り絞り手に突き刺さった鉄針を引き抜いた。
「う、うう」
血がぼたぼたと音立て床に垂れ落ち血溜りが出来る。
手早く手拭いを巻き付け止血すると、布に滲んだ紅が直ぐに広がっていく。
痛みを堪えながら鉄針を構え法文を唱え始めた。
針には前回同様、鍛冶神である天神を勘請してある。
蛇が忌み嫌う金属を司る天神。
「これ天竺弁財天神王の~打たせ給ふたあ~やる鎌、取る鎌~──身を妨げた悪魔のものを~~はりばりそばかと切ってぇ話すぅ~御切りけんばいにそばかぁ~」
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こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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