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──2──
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「案ずるな。出来る限りそなたの側にいよう」
日の本一強い武将が側にいてくれるのだから、その胸の中で存分に甘え一つ残らず不安を払拭したくなる。
良くも悪くも影針のおかげか、彼は本来の意思を取り戻していた。
「何故、胸にこのような傷が? 」
全く記憶に無い傷が出来ていたのだから気にするのは極めて普通の反応だ。
「寝ている間に何処かにぶつけたのであろう。気を付けよ。ははは! 」
しかし信長は豪快に誤魔化した。
「なれど……傷の事だけでは無く他にも。起きている間の記憶さえ曖昧で、己が己で無いような……」
俯き加減で心中を吐露する彼の幼気な姿に胸が鷲掴まれ、思わずぎゅっと抱き締める。
「身体を治す事を先ず考えよ。望む物を持って来てやろう」
安土に来て以来、己の今までの在り方考え方を否定するような出来事ばかりが続き、未熟な心を揺らしていた。
「私如きを斯様に御気遣い下さり忝のう存じまする。これ以上御迷惑を掛けるのは心苦しく、小姓の任をどうか解いて下さりませ。どうか──」
「たわけた事を!小姓を辞めてどうしようというのか」
「養生の為に金山に戻りとう存じまする」
「ならぬ!! 」
信長の怒気を孕んだ声が一際強まり、乱法師の身体がびくっと縮こまる。
「──曲直瀬道三がおるのじゃ。都や堺も近い。必要な物も人も直ぐに手に入る。それに儂もおる。儂の目の届かぬ所にそなたをやるなど……」
しかし激情は一瞬で収まり、声音も表情も直ぐに優しさを取り戻す。
側から離れたくない。
そう思うのは彼とて同じ。
考えに考え抜いて出した結論だというのに。
「……承知致しました」
否と強く主に申し渡されれば小姓の身として従う他は無い。
それにしても解せないのは、信長が武藤三郎や六助、伊集院藤兵衛と随分親密に言葉を交わしている点についてである。
乱法師を見舞ううちに自然と彼等と馴染むようになったのかと最初のうちは思っていたのだが、細切れに耳に入る語句を拾えば、どうやら六助とは果心の事について良く話しているように思えた。
信長と六助とでは性格も身分も立場も違い過ぎる。
手が自ずと動き、そっと傷の位置に触れた。
「六助とどのようなお話をされているのですか?ひょっとして果心の事では? 」
「果心が天王寺砦に現れたという知らせが届いた故、万見と日向守を遣わした。本日中には戻ってくるであろう。奴は必ず捕らえる。案ずるな」
それ以上の問いを封じる為か強く言い切った。
やはり納得がいかない。
思いを上手く伝えようと言葉を溜めているうちに、襖の外から信長に声が掛けられた。
「また来る。何も心配せずとも良い」
答えを与えてくれない儘、信長は行ってしまった。
襖の閉まる音は二つの意味で彼の心を沈ませた。
肝心の事を隠しているのではという疑惑。
それと最も頼りにしている人物が部屋から消えてしまった寂しさである。
見た目に依らず頑固な彼が、この儘大人しく引き下がる訳が無かった。
──
「認めたのか」
「はい、存外あっさりと──」
摂津の天王寺砦より戻った万見と明智光秀は、安土の土を踏むや直ちに信長の前に罷り越した。
「果心はやはり生きていた、という事になりましょう」
「うむ──」
信長は頷いて見せたが、無論疾うに承知している事である。
乱法師の元に度々現れては己を罵倒しているのだから。
厳密に言うなら声だけで、乱法師の身体を借りてであるのでややこしい。
一体どのような術を使っているのかと深く考えたところで、こればかりは信長にも解けぬ種である。
故に今は天下人織田信長として、果心の行方を追及するよりも松永久秀の胸中を目の前の二人から聞くのを優先させる事にした。
「弾正(松永)は食えぬ男には違いありませぬが、謀叛を企んでいるとは思えませぬ」
万見は、何故と問われるのを覚悟の上で意見を述べた。
「何故、そう思った」
「先ず砦内は整然とし、武器や兵糧、土塁等の備えは万全で抜かり無く、兵達は良く鍛練し、士気は高いと感じました」
謀叛を起こすならば天王寺砦では無く、居城の信貴山城に立て籠るだろう。
そうなれば、どうせ捨てる砦、もう少し手抜かりがあっても良さそうだと言いたいのだ。
「今、肝心なのは、松永を砦に置いておくべきかという点じゃ。それについてはどうじゃ? 」
「果心が砦に現れたのを黙っていた事も素直に頭を垂れて詫びておりました。今のところ、これ以上の追及は難しいかと。」
光秀が冷静に答えた。
但し発言に曖昧な含みを持たせてはいる。
謀反の可能性はあるが、追及材料が無い、と。
「日向守殿の申されようでは弾正殿に企み無しという風には伝わりませぬ。故に果心の事を黙っていた罰として砦から退かせては如何でございましょうか?上様への忠心真である事証明出来ましょう」
万見はあくまでも松永を砦から退かせる案を信長に勧めた。
「いや、これ以上責めるような事をすれば叛心を煽るような気が致します。それに企みあれば、信貴山城に籠城される方が厄介」
「ふうむ──」
信長は思案する時の癖で顎髭を撫でながら唸った。
「実は、上様の間者が砦に潜んでいる事気付かれてしまいました」
はっと万見が光秀に顔を向ける。
「それは確かか? 」
「申し訳ございませぬ。私が果心の事を尋ねる際に蛇の姿で現れたのであろうと口にしてしまったのでございます」
万見が青褪め項垂れる。
「その儘置いておける故、却って好都合じゃ」
「ですが……」
「今のところ弾正は野心を否定しておる。故に間者が誰か知れた所でどうにも出来ぬ。今までよりも此方に知らせを送り易くなる。但しその中身が正しいとは限らぬがな。その代わり弾正の行動を縛れる。仮に叛旗を翻した場合、逸早く知る事が出来よう」
「但し行動を起こす前に間者は斬られるのでは? 」
「大した事では無い。砦よりの知らせは良く良く注意せねばなるまいがのう。偽の情報を与えるに決まっておる。真に謀反を考えておるならばな──」
「間者に知らせますか? 」
「いや、知られていると分かれば探りが甘くなる。誰かという事は気取られぬ方が良いが、必ず突き止めるに違いない。弾正も知らぬ振りを通すであろう」
「間者からの知らせが信用出来なくなりまする」
「それは重要では無い。弾正は一筋縄ではいかぬ男。間者からの連絡が途絶えれば怪しいと見る事が出来る。事を起こす時には必ず信貴山城に戻る筈じゃ。やはり弾正は天王寺砦に置いておくべきじゃな」
「万が一間者が反間(二重スパイ)に転じていても斬られていた場合でも、此方に動きが知れますな」
「そういう事じゃ」
───
「只今戻りました。おお、起きておられたのですね」
「うむ、寝てばかりでは身体が鈍る。ふう、何か果心について分かったか? 」
乱法師は肩で息をしながら戻って来た武藤三郎に訊ねた。
「はい!果心がいた神社の名は恐らく、大神《おおみわ》神社」
大事な何かを失念しているように思ったが、一先ず問いに答える。
「でかした!其処が住み処と分かれば恐れる事は無い。真の名が分からずとも踏み込めば良いだけじゃ! 」
「大神神社は多くの者の尊崇を集めておりまする。多勢で踏み込み血で汚したら真の神罰が下りましょう。それに必ず其処にいるとは限らず、神出鬼没で幻術呪術を操る者相手に並の侍が束で掛かったとて倒せるかどうか」
そう言いながら、乱法師の額の汗にふと気付き手拭いを差し出す。
「そうじゃな。敵は手強い。やはり真の名を突き止め、六助の力を借りる他無いか」
乱法師は意気消沈し、手拭いを受け取る代わりに木刀を三郎に預け溜息を吐いた。
「乱法師様あーー何を!何を!! 」
そこで三郎は漸く違和感の正体に気付き、声を張り上げ立ち上がった。
「何じゃ!一体! 」
「何をしておいでなのですか! 」
鷹揚として鈍いところのある乱法師は、きょとんとした顔で三郎を見上げるばかりだ。
少し間を置いてから『これ』が先程まで振っていた木刀であると気付き、言わんとする事を察し潤んだ瞳を揺らして訴えた。
「素振りをしていたのじゃが……駄目なのか? 」
三郎は一瞬で毒気を抜かれ、その場にへたり込み、主を甘く見ていた事を著しく反省した。
そんな可憐な瞳で見詰めたとて無邪気なのは半分だけなのだ。
後の半分は脅しに違いない。
「上様に叱られてしまいます。庭を散策する程度ならばいざ知らず素振りなど。御身体には果心の襲来により強い御負担が掛かっているのです」
駄目と承知で真っ当な意見を述べてみた。
「最近の記憶を辿ってみたのじゃ。確か不寝番をしたのが最後であった。その後から皆が儂を殊更病人のように扱うようになった。以前よりも身体が重く、頭がぼんやりとしていて色々な事を忘れ易いようには思う。だが──」
褥に縛り付けられている間、必死に整理した流れを、三郎に確認するよう訥々と語り始めた。
「お休みになられている時間が長いからでしょう。出来るだけ御負担が掛からぬように必要の無い事を御耳に入れぬようにしているだけ。どうか上様のお心遣いを無になさいますな。誰よりも案じておられます。それに誰よりも早い回復を望んでおられる。今は素直に御寵愛に甘えられれば宜しいのでは? 」
「儂は先程素振りを百回はしたぞ」
望む答えが引き出せず、膨れっ面で己の力を示そうとする。
「無茶な事を。上様のお耳に入らば何と申されるか」
「疲れてなどおらぬ!まだ後百回に槍の稽古、何なら野駆けもしてみせようか? 」
「お止め下さい。私達が怒られてしまいまする」
「上様は今おられぬ!何を隠しておる!気付かぬと思うたか!正直に……」
どん!
今まで溜まっていた鬱憤を吐き出すうちに頬は紅潮して目には悔し涙が滲み、強く足で床を踏み鳴らした。
そして頭に血が上り過ぎて、がくりと膝を付いてしまう。
「まだ寝ておられないと。素振りは流石に無理でしょうが、少し歩くなどして気を紛らわすくらいは道三殿も御許し下さいましょう」
「上様は何処まで御存知なのじゃ」
「え、その、ええと……」
三郎と乱法師とでは時の進み方が異なる為、何処まで隠すべきであったかと咄嗟に判断出来ず狼狽えた。
「御存知なのじゃな!果心が儂の元を訪れていた事を!何故?何時から?何があった?何処まで御存知なのじゃ!! 」
乱法師の目がぎらりと光る。
直感に通じる嗅覚で不審な匂いを一度嗅ぎ付けるや、無垢であるが故に相手の誤魔化しを許さない。
可憐さを厄介な武器に変え、粘り強い頑固さで白状させられるのは時間の問題と思われた。
「それについては後程。それよりも大神神社の事をお伝えしたいのですが。何よりも今一番大事なのは果心を倒す事。そうではありませぬか? 」
これは我ながら上手い切り返しと自身を褒めたくなった。
「誤魔化されぬぞ!大神神社の話しの後で必ず隠している事を洗いざらい吐いて貰うからな」
流石に頑固な乱法師も、果心を倒す決め手となる真の名に関わるとなれば、そちらを優先させる気になったようだ。
「大神神社とは──」
三郎は大和の国にある大神神社の由来について語り始めた。
「聞いた事はある。祀られているのが蛇神だったとは。ならば当に果心で間違い無いのではないか? 」
「その神の名、何だと思われますか? 」
「分からぬ。早く申せ! 」
三郎はふうっと一息吐いてから言った。
「大物主神《おおものぬしかみ》にございます」
「──知らん。但し、聞いた事はあるような気がする」
と、神の名など似たり寄ったりなのを良いことに弁解してみる。
「古の書物によれば様々な言い伝えがあるのですが、例えば大国主神《おおくにぬしかみ》の国造りを手伝ったとか。人の娘との恋の話しなど。最も気になるのが、崇神天皇の御代の頃───」
三郎の語るところによれば、これまた相当古に遡る為、耳慣れない帝の御代に疫病が蔓延した。
悩む帝の夢に現れた大物主神が「我を意富多多泥古《おおたたねこ》をして祀れば疫病は収まる」と告げたと云う。
「そこで大神神社のある三輪山で祭祀を行い、疫病が収まったそうでございます」
「待て!意富多多泥古とは何者じゃ」
「活玉依毘売《いくたまよりひめ》の曾孫にございます」
「活玉依毘売とは? 」
矢継ぎ早に問い掛けた。
「大物主神の恋物語にある、人の娘の名にございます。つまり──」
「意富多多泥古は大物主神の曾孫でもあると言う事か」
話しが漸く繋がった。
「そもそも何故疫病を蔓延させたのか」
正義感の強い彼の口から洩れたのは心に靄靄とわだかまる神に対する不満であった。
「恐らく人間共の愚かさを戒め、神に対する崇敬の念を──」
「その為に赤子や幼子まで疫病で死なねばならぬのか?愚かさとは何じゃ!人は神を敬わねば罰を受け滅びねばならぬのか!まるで崇められる為だけに人々を苦しめたようにしか思えぬ」
「古の言い伝えにて、神と人との軋轢の詳しい経緯は分かりませぬ。妻とされる女子の名前や馴初めも多々あり、どれが真なのか。確かな事は三輪山に祀られているのは大物主神で蛇神であるという事だけ」
乱法師は、このような言い伝えについて信長ならばどのような意見を持つのだろうかと考えてみた。
日の本一強い武将が側にいてくれるのだから、その胸の中で存分に甘え一つ残らず不安を払拭したくなる。
良くも悪くも影針のおかげか、彼は本来の意思を取り戻していた。
「何故、胸にこのような傷が? 」
全く記憶に無い傷が出来ていたのだから気にするのは極めて普通の反応だ。
「寝ている間に何処かにぶつけたのであろう。気を付けよ。ははは! 」
しかし信長は豪快に誤魔化した。
「なれど……傷の事だけでは無く他にも。起きている間の記憶さえ曖昧で、己が己で無いような……」
俯き加減で心中を吐露する彼の幼気な姿に胸が鷲掴まれ、思わずぎゅっと抱き締める。
「身体を治す事を先ず考えよ。望む物を持って来てやろう」
安土に来て以来、己の今までの在り方考え方を否定するような出来事ばかりが続き、未熟な心を揺らしていた。
「私如きを斯様に御気遣い下さり忝のう存じまする。これ以上御迷惑を掛けるのは心苦しく、小姓の任をどうか解いて下さりませ。どうか──」
「たわけた事を!小姓を辞めてどうしようというのか」
「養生の為に金山に戻りとう存じまする」
「ならぬ!! 」
信長の怒気を孕んだ声が一際強まり、乱法師の身体がびくっと縮こまる。
「──曲直瀬道三がおるのじゃ。都や堺も近い。必要な物も人も直ぐに手に入る。それに儂もおる。儂の目の届かぬ所にそなたをやるなど……」
しかし激情は一瞬で収まり、声音も表情も直ぐに優しさを取り戻す。
側から離れたくない。
そう思うのは彼とて同じ。
考えに考え抜いて出した結論だというのに。
「……承知致しました」
否と強く主に申し渡されれば小姓の身として従う他は無い。
それにしても解せないのは、信長が武藤三郎や六助、伊集院藤兵衛と随分親密に言葉を交わしている点についてである。
乱法師を見舞ううちに自然と彼等と馴染むようになったのかと最初のうちは思っていたのだが、細切れに耳に入る語句を拾えば、どうやら六助とは果心の事について良く話しているように思えた。
信長と六助とでは性格も身分も立場も違い過ぎる。
手が自ずと動き、そっと傷の位置に触れた。
「六助とどのようなお話をされているのですか?ひょっとして果心の事では? 」
「果心が天王寺砦に現れたという知らせが届いた故、万見と日向守を遣わした。本日中には戻ってくるであろう。奴は必ず捕らえる。案ずるな」
それ以上の問いを封じる為か強く言い切った。
やはり納得がいかない。
思いを上手く伝えようと言葉を溜めているうちに、襖の外から信長に声が掛けられた。
「また来る。何も心配せずとも良い」
答えを与えてくれない儘、信長は行ってしまった。
襖の閉まる音は二つの意味で彼の心を沈ませた。
肝心の事を隠しているのではという疑惑。
それと最も頼りにしている人物が部屋から消えてしまった寂しさである。
見た目に依らず頑固な彼が、この儘大人しく引き下がる訳が無かった。
──
「認めたのか」
「はい、存外あっさりと──」
摂津の天王寺砦より戻った万見と明智光秀は、安土の土を踏むや直ちに信長の前に罷り越した。
「果心はやはり生きていた、という事になりましょう」
「うむ──」
信長は頷いて見せたが、無論疾うに承知している事である。
乱法師の元に度々現れては己を罵倒しているのだから。
厳密に言うなら声だけで、乱法師の身体を借りてであるのでややこしい。
一体どのような術を使っているのかと深く考えたところで、こればかりは信長にも解けぬ種である。
故に今は天下人織田信長として、果心の行方を追及するよりも松永久秀の胸中を目の前の二人から聞くのを優先させる事にした。
「弾正(松永)は食えぬ男には違いありませぬが、謀叛を企んでいるとは思えませぬ」
万見は、何故と問われるのを覚悟の上で意見を述べた。
「何故、そう思った」
「先ず砦内は整然とし、武器や兵糧、土塁等の備えは万全で抜かり無く、兵達は良く鍛練し、士気は高いと感じました」
謀叛を起こすならば天王寺砦では無く、居城の信貴山城に立て籠るだろう。
そうなれば、どうせ捨てる砦、もう少し手抜かりがあっても良さそうだと言いたいのだ。
「今、肝心なのは、松永を砦に置いておくべきかという点じゃ。それについてはどうじゃ? 」
「果心が砦に現れたのを黙っていた事も素直に頭を垂れて詫びておりました。今のところ、これ以上の追及は難しいかと。」
光秀が冷静に答えた。
但し発言に曖昧な含みを持たせてはいる。
謀反の可能性はあるが、追及材料が無い、と。
「日向守殿の申されようでは弾正殿に企み無しという風には伝わりませぬ。故に果心の事を黙っていた罰として砦から退かせては如何でございましょうか?上様への忠心真である事証明出来ましょう」
万見はあくまでも松永を砦から退かせる案を信長に勧めた。
「いや、これ以上責めるような事をすれば叛心を煽るような気が致します。それに企みあれば、信貴山城に籠城される方が厄介」
「ふうむ──」
信長は思案する時の癖で顎髭を撫でながら唸った。
「実は、上様の間者が砦に潜んでいる事気付かれてしまいました」
はっと万見が光秀に顔を向ける。
「それは確かか? 」
「申し訳ございませぬ。私が果心の事を尋ねる際に蛇の姿で現れたのであろうと口にしてしまったのでございます」
万見が青褪め項垂れる。
「その儘置いておける故、却って好都合じゃ」
「ですが……」
「今のところ弾正は野心を否定しておる。故に間者が誰か知れた所でどうにも出来ぬ。今までよりも此方に知らせを送り易くなる。但しその中身が正しいとは限らぬがな。その代わり弾正の行動を縛れる。仮に叛旗を翻した場合、逸早く知る事が出来よう」
「但し行動を起こす前に間者は斬られるのでは? 」
「大した事では無い。砦よりの知らせは良く良く注意せねばなるまいがのう。偽の情報を与えるに決まっておる。真に謀反を考えておるならばな──」
「間者に知らせますか? 」
「いや、知られていると分かれば探りが甘くなる。誰かという事は気取られぬ方が良いが、必ず突き止めるに違いない。弾正も知らぬ振りを通すであろう」
「間者からの知らせが信用出来なくなりまする」
「それは重要では無い。弾正は一筋縄ではいかぬ男。間者からの連絡が途絶えれば怪しいと見る事が出来る。事を起こす時には必ず信貴山城に戻る筈じゃ。やはり弾正は天王寺砦に置いておくべきじゃな」
「万が一間者が反間(二重スパイ)に転じていても斬られていた場合でも、此方に動きが知れますな」
「そういう事じゃ」
───
「只今戻りました。おお、起きておられたのですね」
「うむ、寝てばかりでは身体が鈍る。ふう、何か果心について分かったか? 」
乱法師は肩で息をしながら戻って来た武藤三郎に訊ねた。
「はい!果心がいた神社の名は恐らく、大神《おおみわ》神社」
大事な何かを失念しているように思ったが、一先ず問いに答える。
「でかした!其処が住み処と分かれば恐れる事は無い。真の名が分からずとも踏み込めば良いだけじゃ! 」
「大神神社は多くの者の尊崇を集めておりまする。多勢で踏み込み血で汚したら真の神罰が下りましょう。それに必ず其処にいるとは限らず、神出鬼没で幻術呪術を操る者相手に並の侍が束で掛かったとて倒せるかどうか」
そう言いながら、乱法師の額の汗にふと気付き手拭いを差し出す。
「そうじゃな。敵は手強い。やはり真の名を突き止め、六助の力を借りる他無いか」
乱法師は意気消沈し、手拭いを受け取る代わりに木刀を三郎に預け溜息を吐いた。
「乱法師様あーー何を!何を!! 」
そこで三郎は漸く違和感の正体に気付き、声を張り上げ立ち上がった。
「何じゃ!一体! 」
「何をしておいでなのですか! 」
鷹揚として鈍いところのある乱法師は、きょとんとした顔で三郎を見上げるばかりだ。
少し間を置いてから『これ』が先程まで振っていた木刀であると気付き、言わんとする事を察し潤んだ瞳を揺らして訴えた。
「素振りをしていたのじゃが……駄目なのか? 」
三郎は一瞬で毒気を抜かれ、その場にへたり込み、主を甘く見ていた事を著しく反省した。
そんな可憐な瞳で見詰めたとて無邪気なのは半分だけなのだ。
後の半分は脅しに違いない。
「上様に叱られてしまいます。庭を散策する程度ならばいざ知らず素振りなど。御身体には果心の襲来により強い御負担が掛かっているのです」
駄目と承知で真っ当な意見を述べてみた。
「最近の記憶を辿ってみたのじゃ。確か不寝番をしたのが最後であった。その後から皆が儂を殊更病人のように扱うようになった。以前よりも身体が重く、頭がぼんやりとしていて色々な事を忘れ易いようには思う。だが──」
褥に縛り付けられている間、必死に整理した流れを、三郎に確認するよう訥々と語り始めた。
「お休みになられている時間が長いからでしょう。出来るだけ御負担が掛からぬように必要の無い事を御耳に入れぬようにしているだけ。どうか上様のお心遣いを無になさいますな。誰よりも案じておられます。それに誰よりも早い回復を望んでおられる。今は素直に御寵愛に甘えられれば宜しいのでは? 」
「儂は先程素振りを百回はしたぞ」
望む答えが引き出せず、膨れっ面で己の力を示そうとする。
「無茶な事を。上様のお耳に入らば何と申されるか」
「疲れてなどおらぬ!まだ後百回に槍の稽古、何なら野駆けもしてみせようか? 」
「お止め下さい。私達が怒られてしまいまする」
「上様は今おられぬ!何を隠しておる!気付かぬと思うたか!正直に……」
どん!
今まで溜まっていた鬱憤を吐き出すうちに頬は紅潮して目には悔し涙が滲み、強く足で床を踏み鳴らした。
そして頭に血が上り過ぎて、がくりと膝を付いてしまう。
「まだ寝ておられないと。素振りは流石に無理でしょうが、少し歩くなどして気を紛らわすくらいは道三殿も御許し下さいましょう」
「上様は何処まで御存知なのじゃ」
「え、その、ええと……」
三郎と乱法師とでは時の進み方が異なる為、何処まで隠すべきであったかと咄嗟に判断出来ず狼狽えた。
「御存知なのじゃな!果心が儂の元を訪れていた事を!何故?何時から?何があった?何処まで御存知なのじゃ!! 」
乱法師の目がぎらりと光る。
直感に通じる嗅覚で不審な匂いを一度嗅ぎ付けるや、無垢であるが故に相手の誤魔化しを許さない。
可憐さを厄介な武器に変え、粘り強い頑固さで白状させられるのは時間の問題と思われた。
「それについては後程。それよりも大神神社の事をお伝えしたいのですが。何よりも今一番大事なのは果心を倒す事。そうではありませぬか? 」
これは我ながら上手い切り返しと自身を褒めたくなった。
「誤魔化されぬぞ!大神神社の話しの後で必ず隠している事を洗いざらい吐いて貰うからな」
流石に頑固な乱法師も、果心を倒す決め手となる真の名に関わるとなれば、そちらを優先させる気になったようだ。
「大神神社とは──」
三郎は大和の国にある大神神社の由来について語り始めた。
「聞いた事はある。祀られているのが蛇神だったとは。ならば当に果心で間違い無いのではないか? 」
「その神の名、何だと思われますか? 」
「分からぬ。早く申せ! 」
三郎はふうっと一息吐いてから言った。
「大物主神《おおものぬしかみ》にございます」
「──知らん。但し、聞いた事はあるような気がする」
と、神の名など似たり寄ったりなのを良いことに弁解してみる。
「古の書物によれば様々な言い伝えがあるのですが、例えば大国主神《おおくにぬしかみ》の国造りを手伝ったとか。人の娘との恋の話しなど。最も気になるのが、崇神天皇の御代の頃───」
三郎の語るところによれば、これまた相当古に遡る為、耳慣れない帝の御代に疫病が蔓延した。
悩む帝の夢に現れた大物主神が「我を意富多多泥古《おおたたねこ》をして祀れば疫病は収まる」と告げたと云う。
「そこで大神神社のある三輪山で祭祀を行い、疫病が収まったそうでございます」
「待て!意富多多泥古とは何者じゃ」
「活玉依毘売《いくたまよりひめ》の曾孫にございます」
「活玉依毘売とは? 」
矢継ぎ早に問い掛けた。
「大物主神の恋物語にある、人の娘の名にございます。つまり──」
「意富多多泥古は大物主神の曾孫でもあると言う事か」
話しが漸く繋がった。
「そもそも何故疫病を蔓延させたのか」
正義感の強い彼の口から洩れたのは心に靄靄とわだかまる神に対する不満であった。
「恐らく人間共の愚かさを戒め、神に対する崇敬の念を──」
「その為に赤子や幼子まで疫病で死なねばならぬのか?愚かさとは何じゃ!人は神を敬わねば罰を受け滅びねばならぬのか!まるで崇められる為だけに人々を苦しめたようにしか思えぬ」
「古の言い伝えにて、神と人との軋轢の詳しい経緯は分かりませぬ。妻とされる女子の名前や馴初めも多々あり、どれが真なのか。確かな事は三輪山に祀られているのは大物主神で蛇神であるという事だけ」
乱法師は、このような言い伝えについて信長ならばどのような意見を持つのだろうかと考えてみた。
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2021/3/10
しおりを挟んでくださっている皆様へ。
こちらの作品はすごく昔に書いたのをリメイクして連載していたものです。
しかし、古い作品なので……時代背景と言うか……いろいろ突っ込みどころ満載で、修正しながら書いていたのですが、やはり難しかったです(汗)
楽しい作品に仕上げるのが厳しいと判断し、連載を中止させていただくことにしました。
申しわけありません。
新作を書いて更新していきたいと思っていますので、よろしくお願いします。
お詫びに過去に書いた原文のママ載せておきます。
修正していないのと、若かりし頃の作品のため、
甘めに見てくださいm(__)m
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
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