森蘭丸外伝─果心居士

春野わか

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───

 時を告げる梵鐘が六度鳴った。
 かなり肌寒いと感じるのは正午過ぎから降り始めた小雨のせいであろう。
 一日のうちに雨が降る事が徐々に増え、夏に貯まった熱気が洗い流され日に日に涼しくなっていく。

 いよいよ秋霖の頃かと思った。

 そうなると外出が億劫になるが、床から身を起こすのもやっとである現状に思い至り乱法師は溜息を吐いた。

「何時から、こんな風になってしまったのか」

 湯殿で垢を落とした後は具合も良く、書物を読んだり書き物をして過ごした。
 只、たまに起こる目眩や怠さを訴えた途端に三郎や藤兵衛に休むようにと懇願され、信長からは叱り付けられ、その後ずっと枕に頭を載せていなければならなくなってしまった。
 そうしていると身体は楽な代わりに、とても大事な事を忘れているようで、しかも皆が何かを誤魔化しているようで釈然としない。

 山道で霧に包まれた彷徨う旅人のようだ。

 今宵影針を仕掛け、それが大きな反撃となるかも知れないと三郎や藤兵衛は気負い立っている。

 周りの熱の入りように比べ、一番の当事者である彼は嬉しくないような放っておいて欲しいような、他人事のような心境でぼんやりと雨の音を聞いていた。

(らん…し…わしの…もの……きけ…)

 単調な雨音に混じり、頭の中でまた声が響いた。
 今の彼にとって、それは異質なものでは無く、もう一人の自分の心の声に等しく良く馴染んだ。
 腑甲斐無い己を叱咤し、教え導いてくれる神の声に思えたのだ。

 灯明が壁に映じる影を見るとも無く見ていると、雨音が子守唄のように微睡みに誘う。
 内側から響かせる声の主と融け合い、意識が堕ちていく。

「──静かに」

「眠っておられるようじゃ」

「上様がお越しになられるのを待った方が良いか」

 襖の開く音と人の声で、夢に落ち掛けていた意識が戻る。
 武藤三郎と伊集院藤兵衛、六助の三人が部屋に入ってきたのだ。
 努めて静かに床を踏み締める足音が近付き、屏風の後ろに設えられた褥を窺う。

 息遣いと気配を側に感じ、咄嗟に寝た振りをした。
 直ぐに気配は遠退き、代わってひそひそと囁く声が聞こえてきた。

 どうして寝た振りをしたのか自分でも分からない儘、潜めた三人の声に意識を集中する。

「──準備は──そがに変わらんき時間は掛からん」

「上様のお越しを待って──」

「特に待てとは言われておらぬのであろう?──お忙しい御身であらせられるから」

「木片は上様のお手元でごぜえます。そん時に聞いてみれば──」

 六助の声に乱法師の肩がぴくっと動いた。
 闇と同じく、静謐の中で無理矢理潜めた声にも、やがて馴れてくるものだ。

 いや、乱法師が寝ていると思い込んでいる三人の声が、何時しか大きくなっていただけなのかもしれない。

 明るい方を背にしていたが、寝返りを打ち其方に顔を向ける。
 すると三人の雑談が突如止んだ。

「上様」

 部屋の空気が変化したのは信長が入って来たからのようだった。
 襖の閉まる音の後、元の静けさに戻る。

「乱は? 」

 良く通るやや高めの声が低く潜められているのは己を気遣っての事と、甘やかな気持ちがふわりと胸に広がった。
 砂糖菓子を口に含んだような笑いが零れ、衾を引き被った儘、赤みが差した両頬に手を当て縮こまる。
 此方に近付いてくる気配を感じ、慌てて寝ている体を装う。

 信長は、彼の寝姿をちらりと確認しただけで直ぐに向こうに行ってしまった。
 緊張した儘、安堵の長い息を吐いたが、そもそも何故こうまでして寝た振りをしてしまうのか。

 自身の行動の意味が分からない。
 いっそ起き上がって皆の話しに加わるべきではと思ったところ──

「木片はございますか? 」

 はっと夜具の中で身が強張る。

「うむ、此処に」

 毛穴からじんわり汗が吹き出した。

 その後暫く会話らしい会話が途切れ、がさがさと音がするのは影針を行う準備をしているからと思われた。
 鼓動が早まる。

 いつの間にか身を起こした彼の虹彩が、紅玉の如く爛々と輝いていた。

「では、木片を」

「うむ」

 信長は首にぶら下げた紐付きの袋を襟元から引っ張り出した。

「──ん? 」

 信長が振り向くと背後に乱法師がぼおっと立っていた。
 寝衣の白さが、光の届かぬ仄暗い闇の中で幽玄な妖しさを醸している。

「休んでおらぬと駄目ではないか」

 信長が駆け寄るとがくっと膝折れ儚げに撓垂れ掛かる。
 手折られた桜の枝のような風情と、白い面に妙に赤い唇が何時にも増して艶っぽい。
 上向いた顎の下から続く細首に青く血管が透け、華奢な鎖骨と抱いた肩の薄さが男心を掻き乱す。

「上様……」

 瞳は潤み唇を震わせ訴える声に全身の血が騒いだ。
 乱法師の白い手が、そっと信長の胸に添えられた。

(……いま…じゃ……奪え……して…飲…込め……)

 信長の眼は乱法師をひたと見詰めた儘動かない。

 木片を収めた小袋近くに置かれた乱法師の指がぴくりと跳ねた。
 信長の大きな手が彼の五本の指を優しく握り締める。

「そなたは何もしなくて良い。休んでおれ。必ず上手くいく」

 穏やかな声音で甘い言葉をたっぷりと耳に注ぎ込まれ、陶然として手足の力が抜けてしまう。

(ばかめ……早く…ばえ…目の前…ある…木片……儂の言う……聞け……)

 彼の視線の先に置かれた燭台の火が、心の迷いを代弁するように揺らめいた。
 信長の首から下げられた小袋を再び凝視する。
 どうしても手に入れたくなり唇を近付けた。

「あ……」

 突然額と頬に触れてきた熱い唇の感触に驚き動きが止まる。

「仕方がない奴じゃ。儂が寝付かせてやろう」

 そう言うや、またも彼の身体を軽々と抱え褥の上に運ぶ。

「上様、私は……」

「果心の事は六助に任せておけばよい。終わるまで儂はそなたの手でも握っていよう」

 瞳が揺れ、彷徨う。
 天井、壁、屏風、香炉から燻る煙、信長の顔。


「上様、木片を」

 六助が声を掛け、信長が首から小袋を外す。
 乱法師には、その動作が酷く緩慢に見えた。
 目で追いながら、つと手を伸ばし掛ける。

 しかし六助は素早く受け取ると向こうに行ってしまった。
 屏風の内側に信長と二人きりになる。

 覗き込まなければ何をしていようとも分からない。
 信長の顔が乱法師の顔に影を落とした。

「ん……」

 先ず軽く触れてから柔らかな弾力を楽しみつつ唇を押し付ける。
 強く吸い上げ、動じて半開きになった乱法師の唇を深く貪る。
 幾度もしている行為であるが、獲物の隙を狙う鷹のような激しさに翻弄されてしまう。

 屏風一枚隔て、斯様に艶美な交わりが繰り広げられているとは露知らず、他の三名が影針行事の準備をしている音や声が聞こえてくる。

「もう……どうか……」

 僅かな隙を突いて出た哀願が、漸く信長の昂りを押し止めた。

「いかぬ、ふっ──つい夢中になってしまった。休めと申しておきながら負担を掛けてしまうところであった。薬はもう飲んだのか? 」

 自嘲気味の信長から目を離せない儘、乱法師は首を振った。

(おのれ。儂の声が─こえぬのかあ──乱─従え──苦しみ─味─せる)

 頭の中で響く声が恐ろしげな事を宣告した。
 それは正しく果心の声以外には有り得ないのだが、以前から続く心話のような不快感と違和感が不思議と沸いてこない。

 命じる声も脅しの言葉も、以前と異なるのは本人の意思を丸々奪い直接行動を左右してくるという点だった。

 あたかも彼に同化しているかのように。
 道三に処方された薬を信長が水で溶き始めた。
 乱法師の意識は屏風の向こう側の様子に鋭い針のように立てられている。

「では、始めます! 」

 六助が開始を告げた。
 意思とは関係無くむくりと起き上がる。
 眼光炯々と屏風の向こうを睨み付ける。

「乱──」

 信長に呼ばれた瞬間、眼光がふと和らいだ。
 振り向くと素早く唇を塞がれ、薬を流し込まれる。
 全意識は信長の熱い舌の動きに再び全て絡め取られてしまった。

─── 

 屏風の向こうでは六助が榊を四方に立て注連縄を張った結界の中で、霞みの印を切っていた。
 結界の中央の畳の上には人型に切られた紙が置かれている。
 『覚信』と名が書かれ、紙の両脇には針というには余りにも頑丈で、杭のような大きさの異なる長さの鉄針が用意されていた。

 六助が行う呪術の中で最もおどろおどろしい設えに見えた。

 弓矢を使う蟇目の法と大きく異なるのは、乱法師を呪う蛇では無く怨霊を使役する術者を攻撃するという点である。
 後手にばかり回らざるを得なかったが、とうとう果心の血痕を手に入れた事で具体的な攻撃に転じようというのだ。

 六助の後ろには蟇目の法の時と同じく弓矢を持った三郎が控えている。
 弓弦を鳴らすだけで妖魔退散に効果があるとされている為だ。

 相手は何百年に一度現れるかという難敵である。
 二重三重の構えがあるに越した事は無い。

 影針行事でも、乱法師を直ちに解放出来るとは考えてはいなかった。

 蛇の呪い、それを使役する術師の覚信だけなら事は単純で六助の敵ではない。
 そこに原始的な神の力が加わっているからこそ難しいのだ。

 あらゆる陰の気が縺れ融合し、無垢な乱法師の魂を侵している。
 せめて少しでも忌まわしい糸の結びを弱めねばならない。
 六助は血痕の付いた木片を人型の紙の中央に据えた。

 針を握り締め構える。
 男針、女針と呼ばれるのは長短に応じてである。

 影針を選んだのは蛇に依る憑物落としには適していると考えたからだ。
 針には鍛冶神である天神を、長い長い祭文を唱え勘請してあった。

 蛇が厭う物が金属という伝説があるが、呪術と鍛冶に意外な程強い関連性があった事を思えば、あながち迷信でも無いだろう。
 鍛冶師や錬金術師は特殊な能力を持つ者として、差し詰め神がかった行いをする呪術師に重ねられてきたというところか。

 故に『鍛冶屋の息子』と言うだけで蛇霊が逃げ出すという言い伝えまであるらしい。

「そもそも行い招じ参らする──これ天竺弁財天神王の打たせ給うた───何の年の病者へ、身を妨げた悪魔のものをはりばりそばかと切って離す、御切りけんばいにそばか──」

 六助は天神を召喚、使役する法文を唱えながら鉄針を振り上げ、木片目掛けて突き刺した。

───

 薬を飲ませる為だけに濃厚な口移しを敢えて選んだ信長は、まだ乱法師の口中を味わっていた。
 漸く起き上がり言葉を交わすまでに回復したと乱法師への愛が溢れ、行為を止める事が出来なかった。
 その上、嫌がるどころか背に回された手が爪を立て情熱を示し、しがみ付いてきていたのだ。
 そんな彼の唇は蜜のように甘く、中々離し難かった。

 ぎり───

「う──」

 だが乱法師の指が、信長の背を恐ろしい強さで抉り、激痛に呻いた。
 
 ぎり──ぎり──

 その力強さよりも、信長はその変貌に驚愕した。
 眉間に深い縦皺の溝が出来、こめかみは青筋立ち歯をぎりぎりと食い縛っている。

 顔色は青緑に変色し、吹き出す脂汗の玉が、だらだらとこめかみを伝い落ちる。
 鼻腔は横に広がり口の横にはくっきりと豊齢線が刻まれ、まるで獰猛な山猿が威嚇しているような形相であった。
 可憐で初々しい顔《かんばせ》の見る影も無く、まるで山姥もかくやという有様に眉を潜める。

「乱!どうした!」

 それでも彼を押し退けたりはせず、背に食い込んだ指を何とか外すと冷静に呼び掛けた。
 なれど血走った目に般若の形相で睨み返される。

 一瞬ぞくりと項の毛が逆立った。

 だが数多の死線を潜り抜け、此の世の地獄という地獄を具《つぶさ》に見てきた男の胆力は並大抵では無かった。
 乱法師の面が憤怒では無く、苦悶の形相である事を見抜くと寧ろ胸を痛め叫んだ。

「誰か、乱が──」

 危急を告げる声の響きに一番手が空いていた藤兵衛が駆け付けた。

「あっ!! 」

 彼が屏風の内側に踏み込んだ時、乱法師は喉を掻き毟っていた。
 強く掻き過ぎて傷付いた肌に血の筋が浮き、鎖骨の窪みに垂れていく。
 それよりも思わず声を上げたのは、白い寝衣の胸元が赤く染まり、椿の花が置かれているように見えたからだ。

 藤兵衛は恐ろしさに吐き気を催したが、気持ちを奮い立たせて叫んだ。

「六助え!止めよ!若様が!! 」

 悲痛な叫びが今、当に果心に見立てた人型の臓物部分を鉄針で抉り回していた六助の念を削いだ。
 手を止め屏風の影の乱法師の状態を窺うと、全てを察した。
 そして直ぐ様三郎に指示を与える。

「三郎さん!弓弦を鳴らしとーせ。早う! 」

 乱法師は息も絶え絶えで汗だくであったが、幾分顔付きは彼らしさを取り戻していた。

「しっかり致せ!乱……」

 引っ切り無しに浮き出る汗を水に浸した布で優しく拭ってやる。
 すると突然目を見開いた乱法師の虹彩がみるみるうちに血の色に染まり、忌まわしい言葉を口走った。

「……分かったか。愚か者共よ……乱法師は渡さぬ……儂を傷付けようとすれば乱法師も血を流すのじゃ!信長よ、己の無力を思い知るが良い。ぐぐぐ──」

「貴様! 」
 
「森乱法師が憑物を射払い申す!神変神通力の加持理! 」

 呪いの言葉に負けじと六助が声高に祈り始めた。

 ビィーン──ビィーン───

 朗々たる祈りの声に三郎が弓弦の音で唱和する。

「我はこれ、万の神のやどりなりーーいかで蛇《おろち》の身入りあるべき──」

 祈りが神に通じたのか乱法師の身体から突如力が抜けるのが信長の腕に伝わった。

 どうやら果心を退散させたようだ。
 一同は言葉を失い、茫然自失の体で身動きする事さえ忘れた。

 到底勝利とは言い難い。
 守るべき者を傷付けてしまった。 
 誰もが悲壮な思いに打ちひしがれていた。

 いや── 
 その中で一人だけ、万丈の気焔を吐く者がいた。
 無論、信長である。

「 おのれ果心!!儂を本気で怒らせたな。貴様の首は必ずこの手で捩じ切ってくれる!! 」

 幻術だろうが呪いだろうが最早どちらでも構わない。
 罪無き愛しい者を、これ程までに苦しめる外道は百度八裂きにしても足りぬ。

 信長は憤怒の形相で歯軋りをすると虚空を睨み、神では無く己自身に固く誓った。
 その姿は、体内から怒気が立ち上り、自身さえ燃やし尽くす紅蓮の炎に包まれているかのように見えた。

 








 
 













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