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「無粋な事を申すな。夜に美童の部屋でする事といえば一つしかあるまい」
「部屋の中には注連縄が張られているとか。お乱は病なのですか?治癒の祈祷でもされておられるのですか?先日はあの曲直瀬道三殿までお呼び寄せになられたとか。上様らしからぬ事と皆が噂を──」
「美童の柔肌は堪らぬ。儂らしいかどうかは儂が決める事じゃ。乱にうつつを抜かしていると案じておるならいらぬ世話よ!抱き心地が良いのは確かじゃがのう」
「はあ……」
あくまでも好色めいた話しで押し通そうとする主に心底呆れて言葉が出ない。
「危険な事は一切無い!心配は無用じゃ」
分かったのは、教えるつもりが全く無いという事だけである。
これ以上の詮索は無理と断念したが、頭の中で様々な想像が駆け巡った。
「そんな事より大事な知らせが来ている」
万見の妄想は中断された。
「果心が天王寺砦に現れたそうじゃ」
「何と! 」
万見が驚愕したのには二つの理由があった。
雑賀や越後の上杉、摂津石山本願寺や毛利の動きに関する諸国からの知らせに追われ、果心については最近頭の片隅にも無かったからだ。
無論、都での暗殺未遂の黒幕でもあり信長を呪っているというのが事実であれば捨て置く訳にはいかない。
探索は続いているが、屏風を処分した事で何処か一件落着となってしまっている風ではあった。
恐らく乱法師のみが活躍し、見て聞いた事を信長が丸々信じたという、やや面白く無い顛末も、今一熱心になれない理由の一つであったかも知れない。
そもそも果心が生きているという事さえ半信半疑で、故に驚いたのだ。
『お乱の申していた事は真実であったか』
悔しさが込み上げるのを自覚した。
万見は長谷川程分かり易い人間では無いし感情に己を委ねる事も少ない。
とはいえ、床に臥せってばかりの小姓に寵が集まるのは流石に面白くなかった。
しかし感情を排した忍びの知らせでは信じるより他無い。
「私に事の真偽を確かめよ、と? 」
心に一瞬沸いた妬心を隠し、短気な主の指示を促す。
「探る事は二つ。果心が現れたのは真か、妙な事を企んでいないかじゃ」
主の言わんとする事を先読みする迅速な理解力に、髭を撫でにやりと笑う。
「かしこまりました。但し──」
「砦には来なかったと嘘を吐いたら、その儘追及せずとも良い」
「はっ!承知! 」
「そなただけでは荷が重かろう。老獪な男じゃ。日向守が良い」
信長は殆ど思い付きで明智日向守光秀の名前を上げたのだが、それは非常に的確な人選であった。
明智光秀は元幕臣であり、類稀な秀才で文武兼備の武将である。
その知識たるや幅広く有職故実に通じ、最も家中で重宝する男と言っても過言では無い。
恐らく下級武士の身分から己の才のみで世に出たところは松永久秀に良く似ていた。
但し二人の人に与える印象は全く異なり、明智光秀の面は涼しげで知的で品が良く、松永と違って世間で悪く言われる事は少ない。
だが信長は気付いている。
公家のような面差しの下に老獪な一面を隠し持っている事を。
───
「これが奴の血、で間違いないのか」
探し求めていた果心の痕跡が武藤三郎の手により木片として持ち返られた。
小さな木片に微かに赤茶色の掠れた跡が見えるが、本当に果心の血なのか。
六助が手に取りじっと観察する。
「どうじゃ? 」
病み上がり同然の乱法師の顔は紙のように白く、無言で六助の答えを待つ。
「間違いねえ、奴の血や!上手ういった!三郎さん! 」
「やったぞ!やっと奴の尻尾を掴んだ! 」
三郎と藤兵衛が快哉を叫ぶ。
三名は小さな木片に気を取られ乱法師に意識が向いていなかった。
脇息に凭れていた乱法師は酷い頭痛に襲われ、意識が遠のいた。
手指の感覚が失せ、視界が突然真っ暗になる。
『誰か……此処は何処じゃ? 』
肉体という器を失い魂だけがふわふわと浮遊しているような心地がした。
上下左右が掴め無い。
周囲の音も己の声さえ吸い込まれ消失し、一筋の光も無い。
恐ろしい程の無。
そして真に恐ろしいのは、その無の空間で彼の意識だけが有るという点だった。
救いを求め絶叫する。
闇よりも黒く何処までも続く闇は、全ての色も音も光も呑み込み、何も彼に返してはくれない。
この世界で只一つ存在する彼の意識が、無力感に打ちのめされた時、放たれた深奥の記憶が男の形を成し、彼を優しく抱き締めた。
全てを委ね意識が飛散した。
紅く鋭い光の矢が小さな欠片となった彼を弾き飛ばした。
その瞬間、彼は男の姿をした記憶に向かって叫んだ。
上様───
乱──法師ぃ──儂の言う通りに致せ──繋がりは解かせぬ
不快な記憶を呼び覚ます声が追い縋り、彼を捕らえようと縄のように伸びてくる。
くるくると回りながら飛ばされていく中で、漆黒の闇に浮かぶ一つの白い点を見付けた。
意思を圧迫する陰々滅々たる声。
黒い縄から毒蛇に変化し、彼の間近に迫る。
光の点に近付くと、心で強く念じた。
此処から出たい。
ぐんと進む速度が勢いを増し、彼の視界が一気に開け黒から全てが白に変わった。
乱法師様──
若様!
温かい声。
声のする方に駆けて行きたかったが、真っ白で何も見えない。
ふと右手を頬に当てると濡れていた。
徐々に霧が晴れ霞みが失せる。
目の前に見慣れた者達の顔が並んでいた。
「どうかなされましたか? 」
そう問われ、戸惑う瞳が先ず捉えたのは脇息に置かれた己の肘であった。
居た筈の部屋に居て、姿勢も特に変わっていない。
「どう、とは? 」
「何故、涙を? 」
三郎が言い難そうに尋ねる。
軽く指で頬に触れ、湿った指を見て泣いていた事に驚く。
「分からぬ……」
今度こそ本気で泣きたくなった。
ほんの少し前の事が思い出せない。
黒と白。
記憶を探っても、対極にある二つの色がずっと先まで続いているだけ。
「儂は今、この部屋で何をしていた? 」
「何って、えと……これを見ちょられたんじゃないですか」
果心の血痕の付いた木片を差し出して見せる。
途端に再び頭痛と目眩に襲われ床に倒れ臥してしまった。
「若様! 」
「うえさま──うえさま──」
乱法師の意識は再び朦朧とし闇に堕ち掛けていた。
ここのところの記憶が曖昧過ぎる。
自分が誰で何故此処にいるのか、何を話し何をしていたのか。
乱法師の立つ地面がぐずぐずと泥濘、彼を呑み込もうとしてきた。
信長の名を呼んだのは無意識であるが、言霊としての力を持ち、泥濘んだ地面から頑強な鉄の棒が次々と突き出し、沈み掛けた彼を救い上げた。
「上様を呼んでおられる」
「しかし、ご公務でお忙しいのに──」
「何かあれば直ちに知らせろと申されていたではありませぬか! 」
六助と藤兵衛に乱法師を託し、三郎は急いで信長を呼びに行った。
「それにしても突然何故?お目覚めになられて少し回復されたようだったのに」
「これのせいかもしんねえです」
六助は手に持った木片に視線を落とし、ぽつりと呟いた。
───
黄金色の後光の神々しさに思わず手を翳す。
「うえ……さま……」
「乱──」
「上様──」
「乱! 」
という、些かしつこいやり取りの後、弱々しく手を伸ばす乱法師の側に駆け寄ると、彼をひしっと抱き締めた。
部屋に入って来た信長は光輝く軍神のようだった。
意識朦朧としている乱法師から見てという意味である。
彼は今までで一番積極的に自ら身体を寄せた。
窶れて儚げな風情が猛烈に信長の庇護欲を煽り、直ちに唇を奪い押し倒しそうになる。
が、残念ながら二人っきりではない事に思い至り、どうにか堪えた。
当人が怯えて青褪め、しがみついている状態なので、信長の疑問には別の者が答えた。
「果心の血の付いた木片を見て様子がおかしゅうなったんや」
六助が木片を差し出す。
「果心の血? 」
信長には全く理解出来なかった。
僅かな染みが付いた小さな木片如きで、何故こんなに怯えるのか。
『そんなに血が怖いなら戦には出せぬのう』
と、かなり検討違いな事を考えた。
「この木片を使えば術の効果を弱める事が出来るやもしれぬのです」
三郎が即座に説明する。
三人は段々信長の思考回路を理解するようになってきていた。
「乱にはこの木片が化け物か何かに見えているのであろうな」
心底憐れむように乱法師を力強く抱き締める。
「へえ、そう……かも知れん」
信長の思考の在り方に合わせて話すのが正直者の六助には中々辛い。
それと目の前で頬寄せ、今にも唇が重ねそうに密着する主従の濃厚過ぎる光景にも。
「乱、儂が付いておる。怖がらずとも大丈夫じゃ、よしよし」
乱法師を慰めながら頭を撫でてやる。
「上様、私は何と情けない。恥ずかしうて合わせる顔もありませぬ」
顔を合わせるどころか唇を重ねそうな距離感で今更とも言えた。
「ところで、その木片をどう使う? 」
それが何よりも肝心な点だ。
「先ず影針を試してみよう思っちょります」
影針とは針を使った憑物落としの法である。
方法は単純で、人の形の紙に憑物を仕掛けた者の名を記し長短の針で突き刺す。
神と人との融合的存在の力は脅威だが、呪術という点では覚信の元の力に依るところが大きい。
神の荒魂の怒りは乱法師個人へ向けられたものではなく、人類全般の驕りや不甲斐なさに向けられているのだろう。
それに対し乱法師への浅ましい執着は、覚信の下衆な性質から生まれたものと言えた。
「その影針とやらを行えば、忌々しい術が解けるという事か?何時やる? 」
「全て丸う収まるとまでは言えんが、相手が嫌がる事だけは間違いねえです。今すぐ、言いたいところけんど、こうした術は陽が落ちてからの方がええんや」
「上様、お離し下さいませ」
信長の膝の上で大人しくしていた乱法師が突然訴えた。
「どうした? 」
「暫く風呂に入っておりませぬ故、汚れた身体で御膝の上におりますのは心苦しうてなりませぬ」
その発言は、かなり唐突に思えた。
「そなたの匂いならば気にならぬ。寧ろ嗅いでいたいくらいじゃ」
信長が、周囲を赤面させる、やや行き過ぎの愛を囁く。
「私は気になりまする。嫌われてしまうのではないかと。上様と共に入りとうございます 」
頭を信長の肩に預けた儘、ふさりと音を立てそうな睫毛に縁取られた瞳で甘えるように見上げる。
六助が尻をもぞもぞと動かした。
奥手な乱法師にしては不自然とも取れるが、不安が彼を似つかわしくない行動に駆り立てているのだと皆が納得した。
「無論じゃ。儂が背中を流してやろう」
信長は優しい笑みを浮かべ、嬉しそうに寵童の甘えを受け止めた。
「ところで木片をどう使うのじゃ」
うっとりと甘えていたかと思うと、乱法師が突如鋭い質問を六助に投げ掛けた。
「人形の上に置いて針でぶっ刺しちゃります。ようよう奴に一矢報いる事が出来る思うと嬉しゅうてならん」
それを聞いた乱法師の眉が一瞬顰められた事に、誰も気付かなかった。
「ならば、その小さな木片は大事な物であるな。安全な所に置いておかねば安心出来ぬ」
言われてみれば夜になるまで手に持っている訳にもいかぬし、大きさが二分(6mm)程度の小さな物を迂闊に扱えば紛失の恐れがある。
「では何処に置いておくのが良いと思われますか? 」
「上様に御預かり頂くのはどうであろうか。最も安全と思うが」
乱法師は答えを促すように可憐な瞳を信長に向けた。
「うむ、確かにそれが最も安全である」
信長も名案と頷き、六助から受け取った木片を懐紙に包むと小袖の襟元の合わせ目に入れた。
信長の一連の動作に乱法師が真剣な眼差しを注ぐ。
やがて湯殿の支度が整い、二人は部屋を出て行った。
────
「抜ける、抜けない、抜ける……」
暇を持て余し気味の射干は、岩に腰掛け濃い桃色の秋桜で花占いを始めた。
砦から抜けるか抜けないかを占っているのだが、『抜ける』と出たところで叶う訳が無いのだから単なる気晴らしである。
空を見上げれば爽快な秋晴れに小鳥の囀ずりと長閑な眺めで、最前線にいる事を忘れてしまいそうだ。
先日、果心が砦に現れた事を伴家の頭領の太郎左衛門に知らせたが、それ以降の指示は無い。
耳に入って来たのは呆れるような噂だった。
昨夜、俄に砦内が騒々しくなり、何事かと人々の囁きをかき集めてみたところ、どうやら弓削三郎と交合の最中に松永が倒れたというのである。
「あいつは駄目だ。とんだ色呆けの爺さんじゃあないか」
牙を研ぐどころか全部抜かれて歯無しにしか見えない。
言いたい放題呟くと、彼女の意見に賛同するように叢にいた雌の蟷螂が鎌を振り上げた。
「それこそが狙いなのか?腹上死させるつもりとか」
余りにも松永が腑甲斐無い為、美形の三郎の詮索へと逸れていく。
「目の前の本願寺の坊主共の差し金だったら笑っちまうけど」
見晴らしの良い砦の北端にある、お気に入りの腰掛け岩から本願寺の方角を望むと、立て籠る人々の暮らし振りまで窺えそうだ。
実際、飯時になると煙が方々から立ち上るのが良く見えた。
広大な寺内町を形成する本願寺は生活空間丸ごと要塞なのだ。
本願寺を本丸とするなら、周囲を囲む町が二の丸、三の丸となり、土塁や掘で囲まれた立派な城廓の如しと人は云う。
「坊主の奴等は稚児好きだから。坊主……あれ? 」
何かと何かが突然頭の中で繋がったような気がした。
弓削三郎についての微かな記憶。
記憶力を鍛えている彼女が、印象的な美貌を持つ三郎を何処で見たのか中々思い出せないのは何故なのか。
その理由を掴んだと思った。
「そうだ!奴の側に坊主が何人かいたんだ」
白と黒の殺風景な色合いの中に艶やかな花一輪。
だが、それ故にこそ、記憶の中の風景では他の色が見事に霞んでしまっている。
「一緒にいた人間が坊主ってのは厄介だな。皆同じに見えちまう」
しかも女犯が禁じられている為、武士や公家以上に美少年崇拝が強い僧房では、側に見目麗しい稚児が侍るというのは見慣れた光景だった。
一緒にいた筈の僧侶の顔は朧気で、別の記憶と混ざり合って益々混乱してしまう。
「絶対正体を突き止めてやる」
一個の忍びとしての使命感では無く、獣が獲物を追う狩猟本能に突き動かされ、射干の血が燃え滾った。
───
「あ……」
「良い、自分でする」
乱法師の指先をぎゅっと握り締め、脱衣を手伝おうとするのを信長が押し止める。
「そなたこそ自分で脱げるか?儂が手伝ってやろう」
「いいえ……大丈夫でございます」
代わりに乱法師の小袖に伸びてきた好色な手を慌ててかわし、襟元を押さえながら後ろを向いてしまう。
「そなたから共に入りたいと申しておきながら恥ずかしがるのは妙じゃ。ふっふ」
乱法師が項から耳朶まで桃色に染めるのを目で楽しみながら、己の帯を解いていく。
仮御殿の湯殿は都の二条にある別邸程雅やかな工夫はされていないが、蒸し風呂様式で八畳くらいの広さがあった。
脱いだ衣類を信長が檜の床に落としていくのを、小姓の習性で畳もうと身を屈める。
「他の者にやらせれば良い。そなたは病み上がり故、余計な事は致すな」
褌一丁になった信長が嗜めた。
「上様、木片は何処に? 」
乱法師が虚ろな声で問い掛けた。
「此処にあるが、肌身離さずと申しても風呂にまで持って入るのものう。良し!紐で結わえて見える所に吊るしておくか」
悪童のように笑いながら、下帯と腰の間から紙に包んだ木片を取り出して見せる。
可愛い乱法師を救う物と聞けば疑いはしないが、紛失したところで動じる事も無いだろう。
肌身離さずと請け負ったのは、涙目で訴える乱法師を安心させたかったからである。
故に信長個人としては、小さな木片如きで『大袈裟な』と思っている。
とはいえ、木片を見せた途端に安堵の表情を浮かべるのを見て、切ない気持ちと庇護欲が込み上げた。
「ほら、風呂に入るぞ」
重くなり掛けた空気を軽い口調で吹き飛ばし、乱法師を後ろから引き寄せ抱き締める。
彼の帯に手を掛け解くと、あっという間に小袖を脱がせてしまった。
下帯だけにされ動じる乱法師に、湯帷子を手渡す。
(……に…を……して…いる……)
湯帷子を着込んで下帯を外そうとしていたら、声が聞こえた気がしてはっと振り向く。
戸を開けて湯殿に入って行く信長が、彼に話し掛けたようには見えなかった。
胸の内がもやもやして何処か釈然としない。
突然肉体の感覚が薄れ、目の前が暗くなった。
と、感じた直後、湯殿から溢れた白い湯気がもわっと肌に触れ、再び感覚が戻る。
「此処に座れ! 」
言われた通り側に座ると、信長の膝の上に頭が乗るように身体を倒される。
何をするつもりかと思えば、仰向けの彼の髪を櫛で梳かし始めた。
「心地好いか? 」
「畏れ多い……」
此処まで尽くされると、そんな月並みな言葉しか出てこない。
だが確かに心地好い。
髪を梳かれ額に汗が浮き出てくるのを指で撫でられ、久しぶりに味わう信長の温さに包まれ微睡んでしまいそうになる。
「……長湯をするのは、そなたには良くない。そろそろ身体を洗ってやろう……」
信長の声を遠くに感じた時には、全く畏れ多い事に瞼が半分閉じ掛けていたらしい。
口を開くより先に身体が浮き上がり、抱き抱えられて洗い場に移されていた。
「自分で洗い──」
主張は見事に無視され、湯帷子は腰の辺りまで剥かれてしまい、黙れと言わんばかりに項と背中に唇を強く押し付けられる。
全身がかっと赤くなるのが自分でも分かった。
左腕で乱法師の身体を支えながら、右手で背中を楽しそうに擦る。
糠袋で磨いていると汚れがどんどん落ち、白い肌が一層輝きを増してくるようで熱中してしまう。
尻の半分近くまでずり落ちた湯帷子から溢れる、白桃に似た割れ目が信長には眩しく映った。
ぼんやりと乱法師の意識が虚ろになってくる。
何か大事な事を忘れているようなと考えていて、目に止まったのは戸口に吊るされた木片であった。
(……いい…げんに……たせ)
心地好さに浸るのを咎めるような声に、身動ぎする。
外からというより内側から響いたという方が正しかった。
信長の手は背中を磨き終え、いつの間にか首筋から胸へと移っていた。
「あ……」
空耳だろうかと考えていたら、糠袋で胸をくるくると擦られ思わず声を上げてしまう。
「前は自分で…」
細やかな抗議は無視され、平らな胸を腕で隠すようにするのを手首を掴まれ除けられてしまう。
仰向けで洗われているのは何とも気恥ずかしく信長の顔を正視出来ない。
段々と手が下に移動していく。
「上様……もう、これ以上は……」
湯帷子に覆われている下腹部の辺りまで手が進むと、流石に慌てて訴えた。
「確かにこれ以上は刺激が強過ぎるな。そなたの肌が美しくなっていくのが楽しくて、つい──」
と、何やら悪気があるような無いような顔で笑みを返してくる。
止めて欲しいと言いながら信長の手が離れてしまうのを少し残念に思った。
仄かに頬を染めつつ、残りの部分を自分で洗っている間に、戸に吊るした木片を信長が取るのに目が吸い寄せられた。
(の…こめ……うば…て…のみこ…め)
再び頭の中で声が響き、不可思議な事を囁いてきた。
命じられているという意識も無く、声に操られ信長の背に手を伸ばす。
「あ──」
ふらつき前のめりになるのを信長が振り向き、さっと抱き止めた。
途端に今何をしようとしていたのか分からなくなってしまう。
「まだ万全では無いようじゃな。気をつけよ」
支えて貰いながら湯殿を出ると全身を拭かれてしまう。
その間もふわふわと床の感覚が薄らいだりするのを、体力が回復していないだけなのだろうと気にしないよう努めた。
「部屋の中には注連縄が張られているとか。お乱は病なのですか?治癒の祈祷でもされておられるのですか?先日はあの曲直瀬道三殿までお呼び寄せになられたとか。上様らしからぬ事と皆が噂を──」
「美童の柔肌は堪らぬ。儂らしいかどうかは儂が決める事じゃ。乱にうつつを抜かしていると案じておるならいらぬ世話よ!抱き心地が良いのは確かじゃがのう」
「はあ……」
あくまでも好色めいた話しで押し通そうとする主に心底呆れて言葉が出ない。
「危険な事は一切無い!心配は無用じゃ」
分かったのは、教えるつもりが全く無いという事だけである。
これ以上の詮索は無理と断念したが、頭の中で様々な想像が駆け巡った。
「そんな事より大事な知らせが来ている」
万見の妄想は中断された。
「果心が天王寺砦に現れたそうじゃ」
「何と! 」
万見が驚愕したのには二つの理由があった。
雑賀や越後の上杉、摂津石山本願寺や毛利の動きに関する諸国からの知らせに追われ、果心については最近頭の片隅にも無かったからだ。
無論、都での暗殺未遂の黒幕でもあり信長を呪っているというのが事実であれば捨て置く訳にはいかない。
探索は続いているが、屏風を処分した事で何処か一件落着となってしまっている風ではあった。
恐らく乱法師のみが活躍し、見て聞いた事を信長が丸々信じたという、やや面白く無い顛末も、今一熱心になれない理由の一つであったかも知れない。
そもそも果心が生きているという事さえ半信半疑で、故に驚いたのだ。
『お乱の申していた事は真実であったか』
悔しさが込み上げるのを自覚した。
万見は長谷川程分かり易い人間では無いし感情に己を委ねる事も少ない。
とはいえ、床に臥せってばかりの小姓に寵が集まるのは流石に面白くなかった。
しかし感情を排した忍びの知らせでは信じるより他無い。
「私に事の真偽を確かめよ、と? 」
心に一瞬沸いた妬心を隠し、短気な主の指示を促す。
「探る事は二つ。果心が現れたのは真か、妙な事を企んでいないかじゃ」
主の言わんとする事を先読みする迅速な理解力に、髭を撫でにやりと笑う。
「かしこまりました。但し──」
「砦には来なかったと嘘を吐いたら、その儘追及せずとも良い」
「はっ!承知! 」
「そなただけでは荷が重かろう。老獪な男じゃ。日向守が良い」
信長は殆ど思い付きで明智日向守光秀の名前を上げたのだが、それは非常に的確な人選であった。
明智光秀は元幕臣であり、類稀な秀才で文武兼備の武将である。
その知識たるや幅広く有職故実に通じ、最も家中で重宝する男と言っても過言では無い。
恐らく下級武士の身分から己の才のみで世に出たところは松永久秀に良く似ていた。
但し二人の人に与える印象は全く異なり、明智光秀の面は涼しげで知的で品が良く、松永と違って世間で悪く言われる事は少ない。
だが信長は気付いている。
公家のような面差しの下に老獪な一面を隠し持っている事を。
───
「これが奴の血、で間違いないのか」
探し求めていた果心の痕跡が武藤三郎の手により木片として持ち返られた。
小さな木片に微かに赤茶色の掠れた跡が見えるが、本当に果心の血なのか。
六助が手に取りじっと観察する。
「どうじゃ? 」
病み上がり同然の乱法師の顔は紙のように白く、無言で六助の答えを待つ。
「間違いねえ、奴の血や!上手ういった!三郎さん! 」
「やったぞ!やっと奴の尻尾を掴んだ! 」
三郎と藤兵衛が快哉を叫ぶ。
三名は小さな木片に気を取られ乱法師に意識が向いていなかった。
脇息に凭れていた乱法師は酷い頭痛に襲われ、意識が遠のいた。
手指の感覚が失せ、視界が突然真っ暗になる。
『誰か……此処は何処じゃ? 』
肉体という器を失い魂だけがふわふわと浮遊しているような心地がした。
上下左右が掴め無い。
周囲の音も己の声さえ吸い込まれ消失し、一筋の光も無い。
恐ろしい程の無。
そして真に恐ろしいのは、その無の空間で彼の意識だけが有るという点だった。
救いを求め絶叫する。
闇よりも黒く何処までも続く闇は、全ての色も音も光も呑み込み、何も彼に返してはくれない。
この世界で只一つ存在する彼の意識が、無力感に打ちのめされた時、放たれた深奥の記憶が男の形を成し、彼を優しく抱き締めた。
全てを委ね意識が飛散した。
紅く鋭い光の矢が小さな欠片となった彼を弾き飛ばした。
その瞬間、彼は男の姿をした記憶に向かって叫んだ。
上様───
乱──法師ぃ──儂の言う通りに致せ──繋がりは解かせぬ
不快な記憶を呼び覚ます声が追い縋り、彼を捕らえようと縄のように伸びてくる。
くるくると回りながら飛ばされていく中で、漆黒の闇に浮かぶ一つの白い点を見付けた。
意思を圧迫する陰々滅々たる声。
黒い縄から毒蛇に変化し、彼の間近に迫る。
光の点に近付くと、心で強く念じた。
此処から出たい。
ぐんと進む速度が勢いを増し、彼の視界が一気に開け黒から全てが白に変わった。
乱法師様──
若様!
温かい声。
声のする方に駆けて行きたかったが、真っ白で何も見えない。
ふと右手を頬に当てると濡れていた。
徐々に霧が晴れ霞みが失せる。
目の前に見慣れた者達の顔が並んでいた。
「どうかなされましたか? 」
そう問われ、戸惑う瞳が先ず捉えたのは脇息に置かれた己の肘であった。
居た筈の部屋に居て、姿勢も特に変わっていない。
「どう、とは? 」
「何故、涙を? 」
三郎が言い難そうに尋ねる。
軽く指で頬に触れ、湿った指を見て泣いていた事に驚く。
「分からぬ……」
今度こそ本気で泣きたくなった。
ほんの少し前の事が思い出せない。
黒と白。
記憶を探っても、対極にある二つの色がずっと先まで続いているだけ。
「儂は今、この部屋で何をしていた? 」
「何って、えと……これを見ちょられたんじゃないですか」
果心の血痕の付いた木片を差し出して見せる。
途端に再び頭痛と目眩に襲われ床に倒れ臥してしまった。
「若様! 」
「うえさま──うえさま──」
乱法師の意識は再び朦朧とし闇に堕ち掛けていた。
ここのところの記憶が曖昧過ぎる。
自分が誰で何故此処にいるのか、何を話し何をしていたのか。
乱法師の立つ地面がぐずぐずと泥濘、彼を呑み込もうとしてきた。
信長の名を呼んだのは無意識であるが、言霊としての力を持ち、泥濘んだ地面から頑強な鉄の棒が次々と突き出し、沈み掛けた彼を救い上げた。
「上様を呼んでおられる」
「しかし、ご公務でお忙しいのに──」
「何かあれば直ちに知らせろと申されていたではありませぬか! 」
六助と藤兵衛に乱法師を託し、三郎は急いで信長を呼びに行った。
「それにしても突然何故?お目覚めになられて少し回復されたようだったのに」
「これのせいかもしんねえです」
六助は手に持った木片に視線を落とし、ぽつりと呟いた。
───
黄金色の後光の神々しさに思わず手を翳す。
「うえ……さま……」
「乱──」
「上様──」
「乱! 」
という、些かしつこいやり取りの後、弱々しく手を伸ばす乱法師の側に駆け寄ると、彼をひしっと抱き締めた。
部屋に入って来た信長は光輝く軍神のようだった。
意識朦朧としている乱法師から見てという意味である。
彼は今までで一番積極的に自ら身体を寄せた。
窶れて儚げな風情が猛烈に信長の庇護欲を煽り、直ちに唇を奪い押し倒しそうになる。
が、残念ながら二人っきりではない事に思い至り、どうにか堪えた。
当人が怯えて青褪め、しがみついている状態なので、信長の疑問には別の者が答えた。
「果心の血の付いた木片を見て様子がおかしゅうなったんや」
六助が木片を差し出す。
「果心の血? 」
信長には全く理解出来なかった。
僅かな染みが付いた小さな木片如きで、何故こんなに怯えるのか。
『そんなに血が怖いなら戦には出せぬのう』
と、かなり検討違いな事を考えた。
「この木片を使えば術の効果を弱める事が出来るやもしれぬのです」
三郎が即座に説明する。
三人は段々信長の思考回路を理解するようになってきていた。
「乱にはこの木片が化け物か何かに見えているのであろうな」
心底憐れむように乱法師を力強く抱き締める。
「へえ、そう……かも知れん」
信長の思考の在り方に合わせて話すのが正直者の六助には中々辛い。
それと目の前で頬寄せ、今にも唇が重ねそうに密着する主従の濃厚過ぎる光景にも。
「乱、儂が付いておる。怖がらずとも大丈夫じゃ、よしよし」
乱法師を慰めながら頭を撫でてやる。
「上様、私は何と情けない。恥ずかしうて合わせる顔もありませぬ」
顔を合わせるどころか唇を重ねそうな距離感で今更とも言えた。
「ところで、その木片をどう使う? 」
それが何よりも肝心な点だ。
「先ず影針を試してみよう思っちょります」
影針とは針を使った憑物落としの法である。
方法は単純で、人の形の紙に憑物を仕掛けた者の名を記し長短の針で突き刺す。
神と人との融合的存在の力は脅威だが、呪術という点では覚信の元の力に依るところが大きい。
神の荒魂の怒りは乱法師個人へ向けられたものではなく、人類全般の驕りや不甲斐なさに向けられているのだろう。
それに対し乱法師への浅ましい執着は、覚信の下衆な性質から生まれたものと言えた。
「その影針とやらを行えば、忌々しい術が解けるという事か?何時やる? 」
「全て丸う収まるとまでは言えんが、相手が嫌がる事だけは間違いねえです。今すぐ、言いたいところけんど、こうした術は陽が落ちてからの方がええんや」
「上様、お離し下さいませ」
信長の膝の上で大人しくしていた乱法師が突然訴えた。
「どうした? 」
「暫く風呂に入っておりませぬ故、汚れた身体で御膝の上におりますのは心苦しうてなりませぬ」
その発言は、かなり唐突に思えた。
「そなたの匂いならば気にならぬ。寧ろ嗅いでいたいくらいじゃ」
信長が、周囲を赤面させる、やや行き過ぎの愛を囁く。
「私は気になりまする。嫌われてしまうのではないかと。上様と共に入りとうございます 」
頭を信長の肩に預けた儘、ふさりと音を立てそうな睫毛に縁取られた瞳で甘えるように見上げる。
六助が尻をもぞもぞと動かした。
奥手な乱法師にしては不自然とも取れるが、不安が彼を似つかわしくない行動に駆り立てているのだと皆が納得した。
「無論じゃ。儂が背中を流してやろう」
信長は優しい笑みを浮かべ、嬉しそうに寵童の甘えを受け止めた。
「ところで木片をどう使うのじゃ」
うっとりと甘えていたかと思うと、乱法師が突如鋭い質問を六助に投げ掛けた。
「人形の上に置いて針でぶっ刺しちゃります。ようよう奴に一矢報いる事が出来る思うと嬉しゅうてならん」
それを聞いた乱法師の眉が一瞬顰められた事に、誰も気付かなかった。
「ならば、その小さな木片は大事な物であるな。安全な所に置いておかねば安心出来ぬ」
言われてみれば夜になるまで手に持っている訳にもいかぬし、大きさが二分(6mm)程度の小さな物を迂闊に扱えば紛失の恐れがある。
「では何処に置いておくのが良いと思われますか? 」
「上様に御預かり頂くのはどうであろうか。最も安全と思うが」
乱法師は答えを促すように可憐な瞳を信長に向けた。
「うむ、確かにそれが最も安全である」
信長も名案と頷き、六助から受け取った木片を懐紙に包むと小袖の襟元の合わせ目に入れた。
信長の一連の動作に乱法師が真剣な眼差しを注ぐ。
やがて湯殿の支度が整い、二人は部屋を出て行った。
────
「抜ける、抜けない、抜ける……」
暇を持て余し気味の射干は、岩に腰掛け濃い桃色の秋桜で花占いを始めた。
砦から抜けるか抜けないかを占っているのだが、『抜ける』と出たところで叶う訳が無いのだから単なる気晴らしである。
空を見上げれば爽快な秋晴れに小鳥の囀ずりと長閑な眺めで、最前線にいる事を忘れてしまいそうだ。
先日、果心が砦に現れた事を伴家の頭領の太郎左衛門に知らせたが、それ以降の指示は無い。
耳に入って来たのは呆れるような噂だった。
昨夜、俄に砦内が騒々しくなり、何事かと人々の囁きをかき集めてみたところ、どうやら弓削三郎と交合の最中に松永が倒れたというのである。
「あいつは駄目だ。とんだ色呆けの爺さんじゃあないか」
牙を研ぐどころか全部抜かれて歯無しにしか見えない。
言いたい放題呟くと、彼女の意見に賛同するように叢にいた雌の蟷螂が鎌を振り上げた。
「それこそが狙いなのか?腹上死させるつもりとか」
余りにも松永が腑甲斐無い為、美形の三郎の詮索へと逸れていく。
「目の前の本願寺の坊主共の差し金だったら笑っちまうけど」
見晴らしの良い砦の北端にある、お気に入りの腰掛け岩から本願寺の方角を望むと、立て籠る人々の暮らし振りまで窺えそうだ。
実際、飯時になると煙が方々から立ち上るのが良く見えた。
広大な寺内町を形成する本願寺は生活空間丸ごと要塞なのだ。
本願寺を本丸とするなら、周囲を囲む町が二の丸、三の丸となり、土塁や掘で囲まれた立派な城廓の如しと人は云う。
「坊主の奴等は稚児好きだから。坊主……あれ? 」
何かと何かが突然頭の中で繋がったような気がした。
弓削三郎についての微かな記憶。
記憶力を鍛えている彼女が、印象的な美貌を持つ三郎を何処で見たのか中々思い出せないのは何故なのか。
その理由を掴んだと思った。
「そうだ!奴の側に坊主が何人かいたんだ」
白と黒の殺風景な色合いの中に艶やかな花一輪。
だが、それ故にこそ、記憶の中の風景では他の色が見事に霞んでしまっている。
「一緒にいた人間が坊主ってのは厄介だな。皆同じに見えちまう」
しかも女犯が禁じられている為、武士や公家以上に美少年崇拝が強い僧房では、側に見目麗しい稚児が侍るというのは見慣れた光景だった。
一緒にいた筈の僧侶の顔は朧気で、別の記憶と混ざり合って益々混乱してしまう。
「絶対正体を突き止めてやる」
一個の忍びとしての使命感では無く、獣が獲物を追う狩猟本能に突き動かされ、射干の血が燃え滾った。
───
「あ……」
「良い、自分でする」
乱法師の指先をぎゅっと握り締め、脱衣を手伝おうとするのを信長が押し止める。
「そなたこそ自分で脱げるか?儂が手伝ってやろう」
「いいえ……大丈夫でございます」
代わりに乱法師の小袖に伸びてきた好色な手を慌ててかわし、襟元を押さえながら後ろを向いてしまう。
「そなたから共に入りたいと申しておきながら恥ずかしがるのは妙じゃ。ふっふ」
乱法師が項から耳朶まで桃色に染めるのを目で楽しみながら、己の帯を解いていく。
仮御殿の湯殿は都の二条にある別邸程雅やかな工夫はされていないが、蒸し風呂様式で八畳くらいの広さがあった。
脱いだ衣類を信長が檜の床に落としていくのを、小姓の習性で畳もうと身を屈める。
「他の者にやらせれば良い。そなたは病み上がり故、余計な事は致すな」
褌一丁になった信長が嗜めた。
「上様、木片は何処に? 」
乱法師が虚ろな声で問い掛けた。
「此処にあるが、肌身離さずと申しても風呂にまで持って入るのものう。良し!紐で結わえて見える所に吊るしておくか」
悪童のように笑いながら、下帯と腰の間から紙に包んだ木片を取り出して見せる。
可愛い乱法師を救う物と聞けば疑いはしないが、紛失したところで動じる事も無いだろう。
肌身離さずと請け負ったのは、涙目で訴える乱法師を安心させたかったからである。
故に信長個人としては、小さな木片如きで『大袈裟な』と思っている。
とはいえ、木片を見せた途端に安堵の表情を浮かべるのを見て、切ない気持ちと庇護欲が込み上げた。
「ほら、風呂に入るぞ」
重くなり掛けた空気を軽い口調で吹き飛ばし、乱法師を後ろから引き寄せ抱き締める。
彼の帯に手を掛け解くと、あっという間に小袖を脱がせてしまった。
下帯だけにされ動じる乱法師に、湯帷子を手渡す。
(……に…を……して…いる……)
湯帷子を着込んで下帯を外そうとしていたら、声が聞こえた気がしてはっと振り向く。
戸を開けて湯殿に入って行く信長が、彼に話し掛けたようには見えなかった。
胸の内がもやもやして何処か釈然としない。
突然肉体の感覚が薄れ、目の前が暗くなった。
と、感じた直後、湯殿から溢れた白い湯気がもわっと肌に触れ、再び感覚が戻る。
「此処に座れ! 」
言われた通り側に座ると、信長の膝の上に頭が乗るように身体を倒される。
何をするつもりかと思えば、仰向けの彼の髪を櫛で梳かし始めた。
「心地好いか? 」
「畏れ多い……」
此処まで尽くされると、そんな月並みな言葉しか出てこない。
だが確かに心地好い。
髪を梳かれ額に汗が浮き出てくるのを指で撫でられ、久しぶりに味わう信長の温さに包まれ微睡んでしまいそうになる。
「……長湯をするのは、そなたには良くない。そろそろ身体を洗ってやろう……」
信長の声を遠くに感じた時には、全く畏れ多い事に瞼が半分閉じ掛けていたらしい。
口を開くより先に身体が浮き上がり、抱き抱えられて洗い場に移されていた。
「自分で洗い──」
主張は見事に無視され、湯帷子は腰の辺りまで剥かれてしまい、黙れと言わんばかりに項と背中に唇を強く押し付けられる。
全身がかっと赤くなるのが自分でも分かった。
左腕で乱法師の身体を支えながら、右手で背中を楽しそうに擦る。
糠袋で磨いていると汚れがどんどん落ち、白い肌が一層輝きを増してくるようで熱中してしまう。
尻の半分近くまでずり落ちた湯帷子から溢れる、白桃に似た割れ目が信長には眩しく映った。
ぼんやりと乱法師の意識が虚ろになってくる。
何か大事な事を忘れているようなと考えていて、目に止まったのは戸口に吊るされた木片であった。
(……いい…げんに……たせ)
心地好さに浸るのを咎めるような声に、身動ぎする。
外からというより内側から響いたという方が正しかった。
信長の手は背中を磨き終え、いつの間にか首筋から胸へと移っていた。
「あ……」
空耳だろうかと考えていたら、糠袋で胸をくるくると擦られ思わず声を上げてしまう。
「前は自分で…」
細やかな抗議は無視され、平らな胸を腕で隠すようにするのを手首を掴まれ除けられてしまう。
仰向けで洗われているのは何とも気恥ずかしく信長の顔を正視出来ない。
段々と手が下に移動していく。
「上様……もう、これ以上は……」
湯帷子に覆われている下腹部の辺りまで手が進むと、流石に慌てて訴えた。
「確かにこれ以上は刺激が強過ぎるな。そなたの肌が美しくなっていくのが楽しくて、つい──」
と、何やら悪気があるような無いような顔で笑みを返してくる。
止めて欲しいと言いながら信長の手が離れてしまうのを少し残念に思った。
仄かに頬を染めつつ、残りの部分を自分で洗っている間に、戸に吊るした木片を信長が取るのに目が吸い寄せられた。
(の…こめ……うば…て…のみこ…め)
再び頭の中で声が響き、不可思議な事を囁いてきた。
命じられているという意識も無く、声に操られ信長の背に手を伸ばす。
「あ──」
ふらつき前のめりになるのを信長が振り向き、さっと抱き止めた。
途端に今何をしようとしていたのか分からなくなってしまう。
「まだ万全では無いようじゃな。気をつけよ」
支えて貰いながら湯殿を出ると全身を拭かれてしまう。
その間もふわふわと床の感覚が薄らいだりするのを、体力が回復していないだけなのだろうと気にしないよう努めた。
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