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雑務の合間に何気無く外に目を遣り乱法師は後悔した。
信長と過ごした心華やぐ時が嘘のように気分が沈み込み、暗い夜の予感に恐れ戦《おのの》く。
本日不寝番である事が何よりの救いであった。
『上様のお側にいれば大丈夫じゃ』
だが自然に浮かんだ考えに罪悪感も覚えた。
信長の身を守る立場にありながら、守られる側にいるようで、小姓としての自覚が足りないと思ったからだ。
信長に対する信仰に似た思いを、絶大な信頼と取るべきか、側にいれば果心に襲われずに済むという切実な理由に因るものかは本人にも分かっていないし、今は多分どちらもなのだろう。
今宵で三度目の不寝番となる。
日々の業務に大分慣れ、他の小姓達より頭一つ抜きん出る逸材として問題無く勤め上げている。
直ぐに休むから身体が弱いのではという陰口も讒言紛いの忠告も、信長が全て握り潰していた。
三度目ともなれば手順も心得、表向きの準備は完璧である。
裏の準備も──
小姓達の私物や必需品を置いておく棚がある。
身形を整える櫛や歯を磨く為の房楊枝、着替えなどは朝の出仕時から用意して来た。
そこに、躊躇いつつも寝衣をそっと潜ませた。
但し特別な何かを期待している訳では無いと自身にいちいち言い聞かせる必要はあった。
あくまでも何かあった時の為の用心であると。
数ヶ月で随分成長したと言えるだろう。
信長の褥の枕元に常備されている丁子油に目が止まり、かっと頬が紅潮する。
そんな初々しい彼の姿を見たら、さぞかし信長の助平心に火が点いただろうが、幸い周りに人はいない。
一先ず寝所の中をぐるりと見渡し不備が無いかを確認すると、次の間に下がり信長の入室を待つ。
サアサアと陰鬱な雨音のみの静けさ。
心細さが増す。
やがて小雨の音を掻き消す力強い足音が近付いて来た。
愛しい者の訪れを待ち望む姫君のように瞳が輝く。
襖が開き乱法師の姿を見るや、開口一番信長は言った。
「今宵はそなたが不寝番か」
「はっ! 」
二度目の夜も同じ言葉を掛けられたが、その時とは口調が些か異なると違和感を覚えた。
今宵は何となく落胆しているように聞こえたのだ。
信長の心が読めず不安になる。
「別の者と直ぐに交代致せ! 」
寝所まで付き従って来た小姓も思いがけない命令に目を見開く。
「何ゆえでございますか?不手際がございましたならば、どうか御許し下さいませ」
乱法師の動揺は更に激しかった。
「寝つきが悪い故、疲れが取れず血が薄くなっているようじゃと道三に言われたではないか。不寝番などやらずとも良い! 」
予想もしていなかった労りの言葉に感激するよりも、寧ろ愕然とする。
「上様、どうか……不寝番を務めさせて下さいませ。どうか……」
他の小姓の手前、己に対する極めて繊細な扱いが居心地が悪かったというのもあるが、六助を休ませるという意味も含めて何が何でも此処に留まる必要があった。
「貴様は下がっておれ! 」
寝所まで供をして来た小姓に信長が命じる。
「何故、駄々を捏ねる。不寝番をしたい理由でもあるのか?体調が良くなったら存分に扱き使ってやる故、無理をするな」
信長の側にいたい。
その一言を言い出せない。
森家の者達皆、不寝番である事を喜んでいた。
彼が邸に戻されたら驚くだろうし、果心の不気味な侵入方法を知ってしまった今日、心安らかに寝られる訳が無い。
安眠出来る場所があるとすれば、それは信長の側である。
「お陰様で近頃は寝付きも良く、今宵は不寝番として御身を御守りすると、あっ──」
手がすっと伸び乱法師の下瞼を親指で引き下げる。
「たわけ!まだ色が薄いではないか。まだ身体は万全では無いのであろう。命令じゃ!下がれ! 」
「そんな、今宵だけは。せめて今宵だけは御側にいとうございます。お願いにございます」
不安定で頼りなげな彼の様子に信長は考えた。
とても重い悩みを抱え人には言えず苦しんでいるのではないか。
言い難い苦しみを吐き出させる為には、強い信頼が大事である。
一晩側に置き優しく語り掛ければ、重い心の扉を開かせる事が出来るのか。
「儂の側にいたいというのは真か? 」
「はい」
「では伽を申し付ける。寝衣に着替えて参れ! 」
「うっ──」
今こそ寝衣を用意して来て良かったと思うべきなのだろうが、其処まで熟してはいなかった。
邸に戻り果心の訪れに怯え一夜を過ごすのか、閨で一晩中信長の濃密な愛撫に身を任せるのか。
乱法師は究極の選択を迫られた。
考え無しで泣き付いた彼は、唐突な要求に衝撃を受けていた。
もう少し成熟していれば、全く唐突な申し出とは言え無かったのだが。
側にはいたい。
俯いた儘悩みに悩んだ。
「閨の御勤めはしたくないので邸に戻らせて頂きます」とは今更言えない状況である。
そうした心情を察する信長には悪戯心もあった。
どう答えるか。
承知したら『してやったり』であるし、初々しい反応を見ているだけでも助平心は満たされた。
「ただ側に寝て儂の話し相手になるだけならばどうじゃ?何もしない。ただ側に寝るだけ」
だが弱っている彼をこれ以上悩ませるのは酷と妥協した。
乱法師は俯いていた顔をおずおずと上げた。
子供っぽさに信長は笑いを噛み殺す。
「上様がそのようにお望みでございましたら……」
信長の望みでは無い。
一晩側に寝かせて朝まで何もしないという絶対の保証は出来かねたが、今のところ約束を違えるつもりは無い。
何よりも嬉しかったのは、乱法師の安堵の表情だった。
互いの妥協点を見出だせたところで、乱法師は屏風の陰でいそいそと寝衣に着替え始めた。
羞恥よりも嬉しさが勝る。
信長は夜具に身を横たえ、心浮き立つ事と深刻な事の双方を考えながら待った。
浮き立つ事とは、寵童を優しく抱き締め添い臥して、幼子のように寝付かせてやる楽しみについて。
深刻な事とは彼が何に怯えているかについてである。
暫し考えを巡らしていたが、寝衣に着替えるだけなのに少し遅い気がして焦れてきた。
其処まで急かなくても良さそうなものだが、つい屏風の後ろを覗いてしまう。
はっと此方を振り向く白い寝衣姿の乱法師は、丁寧に脱いだ着物を畳んでいる最中だった。
そんな清楚な佇まいに愛しさが込み上げ、分かり易く股間に熱い血が集まる。
だが今、その欲望に身を委ねる訳にはいかない。
「早く参れ」
湧き立つ欲望を抑えこんだ信長が、掠れた声で優しく手を取り褥へと誘う。
衾を捲り側に寝かせて先ず髪を撫でてやる。
心地好さそうに目を細めたのが鷹の雛を思わせた。
「さて、何の話しが良いか。合戦の話しか、笑い話しか、それとも──」
暖かな灯りに照らされ熱心に話す信長の精悍な顔をうっとりと眺め、完全に心奪われていた。
「そろそろ寝るか」
腕の中で微笑む乱法師に告げると燭台の火を完全に吹き消す。
暗闇も、信長の体温と鼓動を感じていれば怖くはなかった。
ぴたりと密着し、背後から抱かれる形で臥している。
どくどくという心音が、子宮で聞く子守唄のようで眠りを誘う。
「乱、そなたが愛おしい。初めて抱いた夜から、苦しみも喜びも全て分かち合い、そなたを守りたいと思ってきた。分かるか? 」
暗闇の中、耳元で甘く愛を囁く。
乱法師は無言の儘である。
羞じらっているのか。
暗くて表情が見えない。
その時、乱法師が向きを変えて信長の胸に甘えるように顔を埋めてきた。
これには流石に驚いた。
寝惚けているのでは無く、明らかに意識がある。
抱いた腕に力が籠り、下半身から熱い血が頭頂まで抜ける。
胸の奥が鷲掴まれ、切ない感情が込み上げ甘い何かに変わり全身に広がっていく。
夜具の中で身を擦り寄せる甘えた所作を、誘っていると捉えるのは当然の心理だろう。
漸くその気になったかと乱法師の上に伸し掛かった。
暗くて良く見えないが、胸に顔を埋めた儘の乱法師は華奢で愛らしい。
項から掬うように髪を撫で上げ、顔を左に傾かせると首筋を強く吸う。
抗う様子も無い溜め息、今度は鎖骨の窪みを軽く吸い、寝衣の裾を割り広げ下から捲り上げる。
脛から腿を撫で、尻の近くまで露にしてしまう。
「乱──」
久しぶりに味わう生々しい感触に昂り、荒い息を吐いた。
ところが──
怯えるどころか反応が無い。
声も上げず、身体が冷たい。
「乱! 」
異変に気付いたのは寝衣の襟元から手を差し入れ、肌を優しく愛でていた時だった。
敏感な部分を攻めているのに、ぴくりとも動かず、まるで人形の様。
名を呼べど返事は無く、冷えた身体に最悪の事態を想像し、珍しく焦った。
心臓に手を当て鼓動を確認すると安堵し、次に顔を覗き込む。
暗闇に慣れた目には、瞼を閉じ気を失っているように見えた。
小姓を呼ぼうと身を起こした、その時。
「くっく、くく、くくく……」
目を瞑った儘の乱法師の口から気味の悪い笑い声が洩れた。
動きを止め乱法師の顔を凝視する。
次の瞬間、閉じていた瞼がかっと開き紅い光を放った。
紅く輝く虹彩だけが闇に際立つ。
乱法師はゆらりと立ち上がった。
「儂が分かるか?信長」
乱法師の口から発せられた声は、到底彼のものでは有り得なかった。
こんな真似をする相手は一人しかいない。
「果心、何しに来た!いや、乱に何をした?」
「くく、直ぐに分かって貰えて嬉しいのう。乱法師に何をしたかじゃと?偉そうに!貴様こそ不埒な真似をしていたでは無いか!乱法師は儂のものじゃ。身も心もな……くく」
「世迷言を申すな!何の幻術じゃ!乱を元に戻せ!たわけが! 」
信長の反応は、実は果心を少したじろがせていた。
何故なら、信長を最も驚かせたのは乱法師の異変に対してだけであって、その正体に気付くや、あっという間に冷静さを取り戻してしまったからだ。
世の人々は、神と名乗れば敬い平伏し、人外の妖魔と知れば恐れ戦《おのの》く。
だが信長にとって果心は一介の幻術師に過ぎず、神と名乗った所で気でも狂ったかと益々嘲笑するだけだった。
正体さえ分かれば種と仕掛けを暴くだけ。
「無礼者!貴様が乱を苦しめておるのか! 」
果心当人にさえ、真に己は存在するのかと自信を喪失させる程の圧倒的存在感を示し信長は吼えた。
神などという曖昧で不確かな力では無く、現世に君臨する覇者としての確固たる自信。
手妻で人を驚かせ弱味につけ込み、神と宣い弱者を操る。
真であれ嘘であれ、神であれ何であれ、信長の最も忌み嫌うのは、そうした類いの者達だ。
既存の権威を持ち出せば崇め敬われ、奇跡とやらを起こせば自分に従うだろうという驕慢さが許せない。
果心と対峙してみて、乱法師が何故あれ程辛そうにしていたのか漸く理解出来た。
信長流に解釈すれば、不快な幻術を施し年端もいかぬ者を苦しめていたのだろう、と。
果心は戸惑っていた。
信長と話しをしていると、確実に優位な立場にいた筈が、いつの間にか逆転してしまう。
捻れ曲がった性根では、その理由を解き明かす事は出来なかったが、ともかく信長に対する憎しみは一層増した。
今この場で己が優位に立つ唯一の方法を思い付き、反撃を試みる。
「今、儂は乱法師と一体じゃ。お前よりも余程強い絆で結び付いておる」
「黙れ!早く乱を元に戻せ!くそだわけが!戻さねば──」
顔を歪め、枕元の刀架から愛刀、不動行光を手に取った。
大声で呼べば直ちに家臣達が部屋に駆け付けるだろうが、敢えてそうしない。
「くく、愚かな。乱法師と儂は一体なのじゃ。その刀で儂を斬るか?愛しい乱法師が死ぬるぞ」
確かに策は無い。
単に習性で刀を手にしただけ。
言われてみれば何を一体斬れば良いのか。
不動行光の鞘に手を掛けた儘、果心を睨み据えた。
一睨みで果心のなけなしの優位を覆す程の気迫だが、流石に寵童を人質に取られては為す術は無い。
家臣達を呼ぶ訳にはいかない。
この状況では乱法師が錯乱したと捉え、信長を守る為に家臣達は彼を取り押さえようとするだろう。
果心が妙な動きをすれば、最悪殺されてしまう事も有り得る。
打つ手無し。
暫し考え、不動行光の鞘を払った。
特に深い考えがあった訳では無い。
己の掌にしっかりと吸い付く刀身の重みに、目の前の怪異を退ける力を感じたまでの事。
こうした場合にも経を唱えたりしないのが彼の良いところである。
常に己を信じ、己の力で道を切り開いて来た。
今までも、そして──これからも。
骨の髄まで染み込んでいる武将としての本能の儘に現の武器を構え、両手で柄をしっかりと握り込む。
チャキっという音と共に磨き抜かれた刀身が煌めいた。
「うぅ、上様……上様……」
その途端、乱法師本人の意識が戻り、信長に向けて手を伸ばした。
「しっかり致せ! 」
苦しそうに絞り出した声は明らかに乱法師のものであった。
「儂に逆らうなぁ。乱法師よ。そなたは儂のものじゃあーー信長に身を任せる事など許さぬぅぅ」
しかし直ぐに陰鬱な声に変化してしまう。
同じ顔に異なる声。
一人の人間の中に二つの魂が存在し、肉体の支配権を巡って鬩ぎ合う。
乱法師の顔つきは果心の魂と入れ替わる度に凶悪に歪み、信長を罵倒し呪いの言葉を吐き散らす。
何度かそれを繰り返した後、乱法師はよろよろと信長の方へ歩を進めた。
切なげに眉を寄せる優しい顔は、確かに乱法師のものだ。
「う……えさま……」
朱唇から洩れた声は切なく、心が引き裂かれる苦しみで、瞳から血の涙が流れ落ちた。
「安心致せ!そなたは誰にも渡さぬ!必ず助けてやる!! 」
そう言うと不動行光を上段に構えた。
チャキ──
果心が出てくる様子は無い。
刀身から放たれる清冽な光が、乱法師の虹彩の上を斜めに走った。
今、愛する者を守るにはこの方法しかない。
信長は不動行光を乱法師に振り下ろす寸前、手の内で反転させた。
刀背打ち。
刀の峰で乱法師の左首筋を狙い打つ。
軽い衝撃に見えたが乱法師は膝から崩れ落ちた。
乱法師を依代としていた以上、気絶してしまえば果心は出て来れない筈だ。
側に慌てて駆け寄り、無事を確認すると大声で家臣を呼んだ。
「上様!御無事でございますか!一体何が? 」
寝所に駆け付けた家臣達は、ぐったりと意識の無い乱法師と抜き身の不動行光にぎょっとする。
「曲者じゃ!いや、果心じゃ!近くに潜んでいないか直ちに探せ! 」
信長の下知で家臣達が散り、邸内が緊迫した空気に包まれ騒がしくなった。
側に残った数名の者達が、倒れている乱法師を気遣う様子を見せると、信長は煩そうに手を振り追い払う。
「良い!儂が運ぶ!別の部屋に移す故、夜具を用意致せ! 」
大事な物に手を触れさせたくないと言わんばかりに自ら乱法師の身体を抱き上げた。
やや顔色が悪いが息遣いは正常で、穏やかな寝顔は彼のもので間違い無い。
静かな一室に運び込み、そっと寝かせてやる。
森邸にも使いを走らせたから、直に三郎や藤兵衛、六助も駆け付けて来る筈だ。
邸中にばたばたと足音が響き渡る中、じっと静かに側で乱法師の寝顔を見守り続けた。
───
「乱法師様が倒れた?一体何故? 」
知らせを受けたお馴染みの面々は、予想外の変事に愕然とした。
信長の側にいれば安心。
その迷信が崩れた事に対する衝撃と、主の容態を知り一同の顔が青褪める。
使者を問い詰めても詳細は分からず、ともかく急いで仮御殿に向かうしか無かった。
三名は仮御殿に到着すると、乱法師が寝かされている部屋に直ぐに通された。
信長自ら聞きたい事があるからと知り、畏れ多さで震え上がった。
部屋には褥に横たわる乱法師と信長しかいなかった。
「果心が乱に妙な術を掛け、苦しめていたのを貴様等は知っていたか? 」
淡々と問い掛ける信長は眉を顰め、視線は乱法師の寝顔に向けられた儘だ。
「ご、ご無礼を。私めは傅役の……」
陪臣《ばいしん》の身だが、直接問い掛けられているのだから答えるしかないと藤兵衛が重い口を開く。
「存じておる!前置きは良い!知っていたのか?と聞いておる」
信長の顔が漸く三人の方に向けられた。
更に身が竦んでしまう。
「存じてはおりました。しかし……」
「何故儂に申さぬ? 」
一言一句言葉を選びながら辿々しく話すのに焦れて、高圧的に質問を浴びせ掛ける。
お陰で藤兵衛の頭の中は真っ白になってしまった。
背後に控えている三郎は、緊張しながらも冷静に部屋全体を観察した。
日頃使われていない簡素な部屋。
中々の広さで、畳で言うと十畳から十二畳はあろうかという板敷きである。
最低限の調度品を運び込ませただけなので、特別目を惹く物は見当たら無い。
しかし二つの燭台の灯で照らされる、薄暗い部屋の中で唯一目に止まったのは、乱法師の手を包む信長の大きな手だった。
それに気付いた瞬間、三郎は決心した。
ぶるぶると震え二の句が告げない藤兵衛の代わりに、前に進み出て訴える。
「上様、私は武藤三郎と申しまする。ご無礼とは存じますが、何故申し上げ無かったか。それは!果心が乱法師様に懸想し、不埒にも褥の内を狙い夜な夜な淫らな──」
「果心め!!おのれ! 」
最後まで聞かずとも、その心情は痛い程理解出来た。
「御報告致しませなんだ事御許し下さいませ。余りにも神出鬼没、人とは思えぬ術を用いる為、どうすべきかと悩んでいた次第にございます」
三郎の話しに納得はしたが、それでも何故もっと早く言わないのかと怒りが湧いてくる。
日頃接点の無い三人を責めたところで致し方無いのだが。
「ともかく、そのような事態になった経緯を全部話せ! 」
先ず果心との出会い、歪な欲望、信長に対する敵愾心。
夜に襲来するようになったのは何時からか。
蛇体である事も含めて。
「そんなに前からか。乱め、困った奴じゃ! 」
怒っているような口振りながら、寧ろ悲しそうな顔で乱法師に目を遣り、髪が縺れて額に掛かっているのを指で整えてやる。
「ふん!蛇体とはな。奴の得意な幻術か!蛇の姿で現れるのは差し詰め──淫らな下衆が!! 」
改めて言うが、この時代に相応しい信心深さを信長は持ち合わせていない。
様々な動物が神格化され、同時に悪魔、妖怪と忌み嫌われてきた。
蛇を神、邪なるものとする見方の両方が世界各地にあるが、独特の形状から男根の象徴、何日間も続く性行為の長さから性の象徴と見る向きもある。
信長には男根が這っているようにしか見えなかった。
「それにしても厄介じゃな!乱にしか見えず聞こえずというのは。心を操る、か。薬でも用いて錯乱させておるのか」
六助と乱法師以外は、蛇体に変化してからの果心の声も姿も見た事は無いという事実に改めて思い至り驚く。
信長は自身の目で見た事しか信じないが乱法師の事は信じている。
己にしか聞こえぬ声や姿に怯え、中々言えなかったのだと思えば合点がいく。
「六助!術を解く方法はあるのか? 」
「へ、へえ、色々あるっ言えばあるがよけんど、決め手が無いんや。段々果心の弱味や正体に近付いて来てはおるけんど決め手が無い。けんど絶対突き止めて御救いして見せます」
信長は六助の固い決意を聞き、頷きながら静かに続けた。
「大体の経緯は分かった。だが心配な事が二つある」
三名はそろそろ間近で信長と話しをするという状況に馴れてきていた。
三郎は淡黄色の灯りに照らされる信長の顔を不思議な心境で眺めた。
噂で聞く苛烈さを感じさせない穏やかで静かな佇まい、それと間近で見て知った、鼻梁の秀でた驚く程端正な顔立ち。
心配事とは、我等が考えているのと同じ事なのか。
「乱の身体が心配じゃ。果心を追い詰め退治するまで持つのかが。それに心もじゃ」
信長は苦し気な面持ちで乱法師の手を両手で包んだ。
「出来るだけ果心が近付けんように御守りするしかねえ。此度は外からでのうて若様の内側から攻めた。やっぱり──奴は上様の側に近付くのが怖いんじゃねえかっ思うちょります」
「では魂を操るような真似をしたのは始めてなのか? 」
六助が言う事は確かに当たっていたのかも知れない。
「へえ、儂が知る限り、常に蛇の姿で現れます。それに解せん事が一つ。気い失うてしもうちゅーが、何で若様は果心の魂を弾き出す事が出来たんやろう」
六助の呪術師としての表現に己の認識との擦れを感じ、一瞬信長が目を見開く。
「弾き出された?ああ、つまり術が破れたのは何故か?という意味じゃな」
と、信長流に解釈した。
信長と過ごした心華やぐ時が嘘のように気分が沈み込み、暗い夜の予感に恐れ戦《おのの》く。
本日不寝番である事が何よりの救いであった。
『上様のお側にいれば大丈夫じゃ』
だが自然に浮かんだ考えに罪悪感も覚えた。
信長の身を守る立場にありながら、守られる側にいるようで、小姓としての自覚が足りないと思ったからだ。
信長に対する信仰に似た思いを、絶大な信頼と取るべきか、側にいれば果心に襲われずに済むという切実な理由に因るものかは本人にも分かっていないし、今は多分どちらもなのだろう。
今宵で三度目の不寝番となる。
日々の業務に大分慣れ、他の小姓達より頭一つ抜きん出る逸材として問題無く勤め上げている。
直ぐに休むから身体が弱いのではという陰口も讒言紛いの忠告も、信長が全て握り潰していた。
三度目ともなれば手順も心得、表向きの準備は完璧である。
裏の準備も──
小姓達の私物や必需品を置いておく棚がある。
身形を整える櫛や歯を磨く為の房楊枝、着替えなどは朝の出仕時から用意して来た。
そこに、躊躇いつつも寝衣をそっと潜ませた。
但し特別な何かを期待している訳では無いと自身にいちいち言い聞かせる必要はあった。
あくまでも何かあった時の為の用心であると。
数ヶ月で随分成長したと言えるだろう。
信長の褥の枕元に常備されている丁子油に目が止まり、かっと頬が紅潮する。
そんな初々しい彼の姿を見たら、さぞかし信長の助平心に火が点いただろうが、幸い周りに人はいない。
一先ず寝所の中をぐるりと見渡し不備が無いかを確認すると、次の間に下がり信長の入室を待つ。
サアサアと陰鬱な雨音のみの静けさ。
心細さが増す。
やがて小雨の音を掻き消す力強い足音が近付いて来た。
愛しい者の訪れを待ち望む姫君のように瞳が輝く。
襖が開き乱法師の姿を見るや、開口一番信長は言った。
「今宵はそなたが不寝番か」
「はっ! 」
二度目の夜も同じ言葉を掛けられたが、その時とは口調が些か異なると違和感を覚えた。
今宵は何となく落胆しているように聞こえたのだ。
信長の心が読めず不安になる。
「別の者と直ぐに交代致せ! 」
寝所まで付き従って来た小姓も思いがけない命令に目を見開く。
「何ゆえでございますか?不手際がございましたならば、どうか御許し下さいませ」
乱法師の動揺は更に激しかった。
「寝つきが悪い故、疲れが取れず血が薄くなっているようじゃと道三に言われたではないか。不寝番などやらずとも良い! 」
予想もしていなかった労りの言葉に感激するよりも、寧ろ愕然とする。
「上様、どうか……不寝番を務めさせて下さいませ。どうか……」
他の小姓の手前、己に対する極めて繊細な扱いが居心地が悪かったというのもあるが、六助を休ませるという意味も含めて何が何でも此処に留まる必要があった。
「貴様は下がっておれ! 」
寝所まで供をして来た小姓に信長が命じる。
「何故、駄々を捏ねる。不寝番をしたい理由でもあるのか?体調が良くなったら存分に扱き使ってやる故、無理をするな」
信長の側にいたい。
その一言を言い出せない。
森家の者達皆、不寝番である事を喜んでいた。
彼が邸に戻されたら驚くだろうし、果心の不気味な侵入方法を知ってしまった今日、心安らかに寝られる訳が無い。
安眠出来る場所があるとすれば、それは信長の側である。
「お陰様で近頃は寝付きも良く、今宵は不寝番として御身を御守りすると、あっ──」
手がすっと伸び乱法師の下瞼を親指で引き下げる。
「たわけ!まだ色が薄いではないか。まだ身体は万全では無いのであろう。命令じゃ!下がれ! 」
「そんな、今宵だけは。せめて今宵だけは御側にいとうございます。お願いにございます」
不安定で頼りなげな彼の様子に信長は考えた。
とても重い悩みを抱え人には言えず苦しんでいるのではないか。
言い難い苦しみを吐き出させる為には、強い信頼が大事である。
一晩側に置き優しく語り掛ければ、重い心の扉を開かせる事が出来るのか。
「儂の側にいたいというのは真か? 」
「はい」
「では伽を申し付ける。寝衣に着替えて参れ! 」
「うっ──」
今こそ寝衣を用意して来て良かったと思うべきなのだろうが、其処まで熟してはいなかった。
邸に戻り果心の訪れに怯え一夜を過ごすのか、閨で一晩中信長の濃密な愛撫に身を任せるのか。
乱法師は究極の選択を迫られた。
考え無しで泣き付いた彼は、唐突な要求に衝撃を受けていた。
もう少し成熟していれば、全く唐突な申し出とは言え無かったのだが。
側にはいたい。
俯いた儘悩みに悩んだ。
「閨の御勤めはしたくないので邸に戻らせて頂きます」とは今更言えない状況である。
そうした心情を察する信長には悪戯心もあった。
どう答えるか。
承知したら『してやったり』であるし、初々しい反応を見ているだけでも助平心は満たされた。
「ただ側に寝て儂の話し相手になるだけならばどうじゃ?何もしない。ただ側に寝るだけ」
だが弱っている彼をこれ以上悩ませるのは酷と妥協した。
乱法師は俯いていた顔をおずおずと上げた。
子供っぽさに信長は笑いを噛み殺す。
「上様がそのようにお望みでございましたら……」
信長の望みでは無い。
一晩側に寝かせて朝まで何もしないという絶対の保証は出来かねたが、今のところ約束を違えるつもりは無い。
何よりも嬉しかったのは、乱法師の安堵の表情だった。
互いの妥協点を見出だせたところで、乱法師は屏風の陰でいそいそと寝衣に着替え始めた。
羞恥よりも嬉しさが勝る。
信長は夜具に身を横たえ、心浮き立つ事と深刻な事の双方を考えながら待った。
浮き立つ事とは、寵童を優しく抱き締め添い臥して、幼子のように寝付かせてやる楽しみについて。
深刻な事とは彼が何に怯えているかについてである。
暫し考えを巡らしていたが、寝衣に着替えるだけなのに少し遅い気がして焦れてきた。
其処まで急かなくても良さそうなものだが、つい屏風の後ろを覗いてしまう。
はっと此方を振り向く白い寝衣姿の乱法師は、丁寧に脱いだ着物を畳んでいる最中だった。
そんな清楚な佇まいに愛しさが込み上げ、分かり易く股間に熱い血が集まる。
だが今、その欲望に身を委ねる訳にはいかない。
「早く参れ」
湧き立つ欲望を抑えこんだ信長が、掠れた声で優しく手を取り褥へと誘う。
衾を捲り側に寝かせて先ず髪を撫でてやる。
心地好さそうに目を細めたのが鷹の雛を思わせた。
「さて、何の話しが良いか。合戦の話しか、笑い話しか、それとも──」
暖かな灯りに照らされ熱心に話す信長の精悍な顔をうっとりと眺め、完全に心奪われていた。
「そろそろ寝るか」
腕の中で微笑む乱法師に告げると燭台の火を完全に吹き消す。
暗闇も、信長の体温と鼓動を感じていれば怖くはなかった。
ぴたりと密着し、背後から抱かれる形で臥している。
どくどくという心音が、子宮で聞く子守唄のようで眠りを誘う。
「乱、そなたが愛おしい。初めて抱いた夜から、苦しみも喜びも全て分かち合い、そなたを守りたいと思ってきた。分かるか? 」
暗闇の中、耳元で甘く愛を囁く。
乱法師は無言の儘である。
羞じらっているのか。
暗くて表情が見えない。
その時、乱法師が向きを変えて信長の胸に甘えるように顔を埋めてきた。
これには流石に驚いた。
寝惚けているのでは無く、明らかに意識がある。
抱いた腕に力が籠り、下半身から熱い血が頭頂まで抜ける。
胸の奥が鷲掴まれ、切ない感情が込み上げ甘い何かに変わり全身に広がっていく。
夜具の中で身を擦り寄せる甘えた所作を、誘っていると捉えるのは当然の心理だろう。
漸くその気になったかと乱法師の上に伸し掛かった。
暗くて良く見えないが、胸に顔を埋めた儘の乱法師は華奢で愛らしい。
項から掬うように髪を撫で上げ、顔を左に傾かせると首筋を強く吸う。
抗う様子も無い溜め息、今度は鎖骨の窪みを軽く吸い、寝衣の裾を割り広げ下から捲り上げる。
脛から腿を撫で、尻の近くまで露にしてしまう。
「乱──」
久しぶりに味わう生々しい感触に昂り、荒い息を吐いた。
ところが──
怯えるどころか反応が無い。
声も上げず、身体が冷たい。
「乱! 」
異変に気付いたのは寝衣の襟元から手を差し入れ、肌を優しく愛でていた時だった。
敏感な部分を攻めているのに、ぴくりとも動かず、まるで人形の様。
名を呼べど返事は無く、冷えた身体に最悪の事態を想像し、珍しく焦った。
心臓に手を当て鼓動を確認すると安堵し、次に顔を覗き込む。
暗闇に慣れた目には、瞼を閉じ気を失っているように見えた。
小姓を呼ぼうと身を起こした、その時。
「くっく、くく、くくく……」
目を瞑った儘の乱法師の口から気味の悪い笑い声が洩れた。
動きを止め乱法師の顔を凝視する。
次の瞬間、閉じていた瞼がかっと開き紅い光を放った。
紅く輝く虹彩だけが闇に際立つ。
乱法師はゆらりと立ち上がった。
「儂が分かるか?信長」
乱法師の口から発せられた声は、到底彼のものでは有り得なかった。
こんな真似をする相手は一人しかいない。
「果心、何しに来た!いや、乱に何をした?」
「くく、直ぐに分かって貰えて嬉しいのう。乱法師に何をしたかじゃと?偉そうに!貴様こそ不埒な真似をしていたでは無いか!乱法師は儂のものじゃ。身も心もな……くく」
「世迷言を申すな!何の幻術じゃ!乱を元に戻せ!たわけが! 」
信長の反応は、実は果心を少したじろがせていた。
何故なら、信長を最も驚かせたのは乱法師の異変に対してだけであって、その正体に気付くや、あっという間に冷静さを取り戻してしまったからだ。
世の人々は、神と名乗れば敬い平伏し、人外の妖魔と知れば恐れ戦《おのの》く。
だが信長にとって果心は一介の幻術師に過ぎず、神と名乗った所で気でも狂ったかと益々嘲笑するだけだった。
正体さえ分かれば種と仕掛けを暴くだけ。
「無礼者!貴様が乱を苦しめておるのか! 」
果心当人にさえ、真に己は存在するのかと自信を喪失させる程の圧倒的存在感を示し信長は吼えた。
神などという曖昧で不確かな力では無く、現世に君臨する覇者としての確固たる自信。
手妻で人を驚かせ弱味につけ込み、神と宣い弱者を操る。
真であれ嘘であれ、神であれ何であれ、信長の最も忌み嫌うのは、そうした類いの者達だ。
既存の権威を持ち出せば崇め敬われ、奇跡とやらを起こせば自分に従うだろうという驕慢さが許せない。
果心と対峙してみて、乱法師が何故あれ程辛そうにしていたのか漸く理解出来た。
信長流に解釈すれば、不快な幻術を施し年端もいかぬ者を苦しめていたのだろう、と。
果心は戸惑っていた。
信長と話しをしていると、確実に優位な立場にいた筈が、いつの間にか逆転してしまう。
捻れ曲がった性根では、その理由を解き明かす事は出来なかったが、ともかく信長に対する憎しみは一層増した。
今この場で己が優位に立つ唯一の方法を思い付き、反撃を試みる。
「今、儂は乱法師と一体じゃ。お前よりも余程強い絆で結び付いておる」
「黙れ!早く乱を元に戻せ!くそだわけが!戻さねば──」
顔を歪め、枕元の刀架から愛刀、不動行光を手に取った。
大声で呼べば直ちに家臣達が部屋に駆け付けるだろうが、敢えてそうしない。
「くく、愚かな。乱法師と儂は一体なのじゃ。その刀で儂を斬るか?愛しい乱法師が死ぬるぞ」
確かに策は無い。
単に習性で刀を手にしただけ。
言われてみれば何を一体斬れば良いのか。
不動行光の鞘に手を掛けた儘、果心を睨み据えた。
一睨みで果心のなけなしの優位を覆す程の気迫だが、流石に寵童を人質に取られては為す術は無い。
家臣達を呼ぶ訳にはいかない。
この状況では乱法師が錯乱したと捉え、信長を守る為に家臣達は彼を取り押さえようとするだろう。
果心が妙な動きをすれば、最悪殺されてしまう事も有り得る。
打つ手無し。
暫し考え、不動行光の鞘を払った。
特に深い考えがあった訳では無い。
己の掌にしっかりと吸い付く刀身の重みに、目の前の怪異を退ける力を感じたまでの事。
こうした場合にも経を唱えたりしないのが彼の良いところである。
常に己を信じ、己の力で道を切り開いて来た。
今までも、そして──これからも。
骨の髄まで染み込んでいる武将としての本能の儘に現の武器を構え、両手で柄をしっかりと握り込む。
チャキっという音と共に磨き抜かれた刀身が煌めいた。
「うぅ、上様……上様……」
その途端、乱法師本人の意識が戻り、信長に向けて手を伸ばした。
「しっかり致せ! 」
苦しそうに絞り出した声は明らかに乱法師のものであった。
「儂に逆らうなぁ。乱法師よ。そなたは儂のものじゃあーー信長に身を任せる事など許さぬぅぅ」
しかし直ぐに陰鬱な声に変化してしまう。
同じ顔に異なる声。
一人の人間の中に二つの魂が存在し、肉体の支配権を巡って鬩ぎ合う。
乱法師の顔つきは果心の魂と入れ替わる度に凶悪に歪み、信長を罵倒し呪いの言葉を吐き散らす。
何度かそれを繰り返した後、乱法師はよろよろと信長の方へ歩を進めた。
切なげに眉を寄せる優しい顔は、確かに乱法師のものだ。
「う……えさま……」
朱唇から洩れた声は切なく、心が引き裂かれる苦しみで、瞳から血の涙が流れ落ちた。
「安心致せ!そなたは誰にも渡さぬ!必ず助けてやる!! 」
そう言うと不動行光を上段に構えた。
チャキ──
果心が出てくる様子は無い。
刀身から放たれる清冽な光が、乱法師の虹彩の上を斜めに走った。
今、愛する者を守るにはこの方法しかない。
信長は不動行光を乱法師に振り下ろす寸前、手の内で反転させた。
刀背打ち。
刀の峰で乱法師の左首筋を狙い打つ。
軽い衝撃に見えたが乱法師は膝から崩れ落ちた。
乱法師を依代としていた以上、気絶してしまえば果心は出て来れない筈だ。
側に慌てて駆け寄り、無事を確認すると大声で家臣を呼んだ。
「上様!御無事でございますか!一体何が? 」
寝所に駆け付けた家臣達は、ぐったりと意識の無い乱法師と抜き身の不動行光にぎょっとする。
「曲者じゃ!いや、果心じゃ!近くに潜んでいないか直ちに探せ! 」
信長の下知で家臣達が散り、邸内が緊迫した空気に包まれ騒がしくなった。
側に残った数名の者達が、倒れている乱法師を気遣う様子を見せると、信長は煩そうに手を振り追い払う。
「良い!儂が運ぶ!別の部屋に移す故、夜具を用意致せ! 」
大事な物に手を触れさせたくないと言わんばかりに自ら乱法師の身体を抱き上げた。
やや顔色が悪いが息遣いは正常で、穏やかな寝顔は彼のもので間違い無い。
静かな一室に運び込み、そっと寝かせてやる。
森邸にも使いを走らせたから、直に三郎や藤兵衛、六助も駆け付けて来る筈だ。
邸中にばたばたと足音が響き渡る中、じっと静かに側で乱法師の寝顔を見守り続けた。
───
「乱法師様が倒れた?一体何故? 」
知らせを受けたお馴染みの面々は、予想外の変事に愕然とした。
信長の側にいれば安心。
その迷信が崩れた事に対する衝撃と、主の容態を知り一同の顔が青褪める。
使者を問い詰めても詳細は分からず、ともかく急いで仮御殿に向かうしか無かった。
三名は仮御殿に到着すると、乱法師が寝かされている部屋に直ぐに通された。
信長自ら聞きたい事があるからと知り、畏れ多さで震え上がった。
部屋には褥に横たわる乱法師と信長しかいなかった。
「果心が乱に妙な術を掛け、苦しめていたのを貴様等は知っていたか? 」
淡々と問い掛ける信長は眉を顰め、視線は乱法師の寝顔に向けられた儘だ。
「ご、ご無礼を。私めは傅役の……」
陪臣《ばいしん》の身だが、直接問い掛けられているのだから答えるしかないと藤兵衛が重い口を開く。
「存じておる!前置きは良い!知っていたのか?と聞いておる」
信長の顔が漸く三人の方に向けられた。
更に身が竦んでしまう。
「存じてはおりました。しかし……」
「何故儂に申さぬ? 」
一言一句言葉を選びながら辿々しく話すのに焦れて、高圧的に質問を浴びせ掛ける。
お陰で藤兵衛の頭の中は真っ白になってしまった。
背後に控えている三郎は、緊張しながらも冷静に部屋全体を観察した。
日頃使われていない簡素な部屋。
中々の広さで、畳で言うと十畳から十二畳はあろうかという板敷きである。
最低限の調度品を運び込ませただけなので、特別目を惹く物は見当たら無い。
しかし二つの燭台の灯で照らされる、薄暗い部屋の中で唯一目に止まったのは、乱法師の手を包む信長の大きな手だった。
それに気付いた瞬間、三郎は決心した。
ぶるぶると震え二の句が告げない藤兵衛の代わりに、前に進み出て訴える。
「上様、私は武藤三郎と申しまする。ご無礼とは存じますが、何故申し上げ無かったか。それは!果心が乱法師様に懸想し、不埒にも褥の内を狙い夜な夜な淫らな──」
「果心め!!おのれ! 」
最後まで聞かずとも、その心情は痛い程理解出来た。
「御報告致しませなんだ事御許し下さいませ。余りにも神出鬼没、人とは思えぬ術を用いる為、どうすべきかと悩んでいた次第にございます」
三郎の話しに納得はしたが、それでも何故もっと早く言わないのかと怒りが湧いてくる。
日頃接点の無い三人を責めたところで致し方無いのだが。
「ともかく、そのような事態になった経緯を全部話せ! 」
先ず果心との出会い、歪な欲望、信長に対する敵愾心。
夜に襲来するようになったのは何時からか。
蛇体である事も含めて。
「そんなに前からか。乱め、困った奴じゃ! 」
怒っているような口振りながら、寧ろ悲しそうな顔で乱法師に目を遣り、髪が縺れて額に掛かっているのを指で整えてやる。
「ふん!蛇体とはな。奴の得意な幻術か!蛇の姿で現れるのは差し詰め──淫らな下衆が!! 」
改めて言うが、この時代に相応しい信心深さを信長は持ち合わせていない。
様々な動物が神格化され、同時に悪魔、妖怪と忌み嫌われてきた。
蛇を神、邪なるものとする見方の両方が世界各地にあるが、独特の形状から男根の象徴、何日間も続く性行為の長さから性の象徴と見る向きもある。
信長には男根が這っているようにしか見えなかった。
「それにしても厄介じゃな!乱にしか見えず聞こえずというのは。心を操る、か。薬でも用いて錯乱させておるのか」
六助と乱法師以外は、蛇体に変化してからの果心の声も姿も見た事は無いという事実に改めて思い至り驚く。
信長は自身の目で見た事しか信じないが乱法師の事は信じている。
己にしか聞こえぬ声や姿に怯え、中々言えなかったのだと思えば合点がいく。
「六助!術を解く方法はあるのか? 」
「へ、へえ、色々あるっ言えばあるがよけんど、決め手が無いんや。段々果心の弱味や正体に近付いて来てはおるけんど決め手が無い。けんど絶対突き止めて御救いして見せます」
信長は六助の固い決意を聞き、頷きながら静かに続けた。
「大体の経緯は分かった。だが心配な事が二つある」
三名はそろそろ間近で信長と話しをするという状況に馴れてきていた。
三郎は淡黄色の灯りに照らされる信長の顔を不思議な心境で眺めた。
噂で聞く苛烈さを感じさせない穏やかで静かな佇まい、それと間近で見て知った、鼻梁の秀でた驚く程端正な顔立ち。
心配事とは、我等が考えているのと同じ事なのか。
「乱の身体が心配じゃ。果心を追い詰め退治するまで持つのかが。それに心もじゃ」
信長は苦し気な面持ちで乱法師の手を両手で包んだ。
「出来るだけ果心が近付けんように御守りするしかねえ。此度は外からでのうて若様の内側から攻めた。やっぱり──奴は上様の側に近付くのが怖いんじゃねえかっ思うちょります」
「では魂を操るような真似をしたのは始めてなのか? 」
六助が言う事は確かに当たっていたのかも知れない。
「へえ、儂が知る限り、常に蛇の姿で現れます。それに解せん事が一つ。気い失うてしもうちゅーが、何で若様は果心の魂を弾き出す事が出来たんやろう」
六助の呪術師としての表現に己の認識との擦れを感じ、一瞬信長が目を見開く。
「弾き出された?ああ、つまり術が破れたのは何故か?という意味じゃな」
と、信長流に解釈した。
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