森蘭丸外伝─果心居士

春野わか

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第10章 侵食

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「今宵は一先ず安心じゃな」

 伊集院藤兵衛の言葉に反して、武藤三郎は内心穏やかでは無かった。

 乱法師が不寝番の時に果心の訪れは無いというのは迷信じみている。
 
「果心について既に分かっている事と未だ不明な点、奴の弱点。或いは多分そうではないかという推測もあれば一先ず上げて今後の策を練った方が良いでしょう」

 武藤三郎は悲観的な思考を振り払い、気持ちを鼓舞して提案した。
 六助は一晩中果心と対峙しただけでなく、住み処を突き止めるべく意識を飛ばすという荒業を行ったせいで疲労困憊していたが、ぐっすり寝て今は元気を取り戻していた。

 武藤三郎が筆に墨を含ませ、文机の上に置いた紙に順に書き記していく。

「切っ掛けは腕香の男でごぜえましたな」

「ああ、都の腕香──いや、果心があの時、乱法師様に目を奪われ邪な思いを抱き付き纏うようになったのじゃ」

 三郎が神妙な面持ちで答え視線を床に落とす。

「皆さんの記憶がやや朧気やったが、繋ぎ合わせると何とのう分かってきた。辻芸で使うた蛇を殺させ呪いを仕掛けたように思うんや」

 夕餉の膳が六助の前に据えられていた。
 表向き使用人だが客人のように遇されている。

「ふうむ。その呪いを解くのに果心と合体している神の名が必要という事じゃな」

 腕組みしながら藤兵衛が必死に頭を捻る。

「それに関しては、六助が遠見した神社らしき場所を伴家に探らせております」

「場所が分かっても神の名に直ぐ繋がるかが分かんねえ。儂が思うに果心の行動には覚信という坊主と神の特徴が合わさっちゅーように思うんや」

「例えば?  」

「うーん、乱法師様を好きちょか逆上し易いちょか、人間臭えとこは覚信の特徴で、昼は嫌いちょか、山が好きいうのが神の方ちょか。で、やけんど、あくまでも例えで儂にも分かんねえや」

「面倒じゃのう。刀でばっさり二つに斬り捨ててしまいたい」

 藤兵衛が刀を握り振り下ろす仕草をする。

「祭文で鎮めようとして効かなかった。しかし結局住み処は山であった。ならば山の神という事になる。なれど極めて清らかな気配の山故に違和感を覚えた。それは、つまり──」

 三郎が一つ一つの事柄を噛み砕きながら六助の答えを導き出そうとする。

「奴みたいな毒々しいのと全く違うちょった。やき彼処の山の神様と合体しちゅーというのは有り得ん」

「磐座の側で寝ていたと申していたではないか。山の神の友とでも言うのか? 」

「それじゃあ! 」

 藤兵衛の意見に三郎が大声で反応した。

「何じゃあ!驚くではないか! 」

「はは、申し訳ございませぬ。神の友と言うか仲間と言うか、それ!何か良い言葉があったであろう」

「山の神の眷族、でごぜえますな」

「そうじゃ!山には様々な生き物が共に生きている。食う者も食われる者も。考えを異にし姿や性質が違えども、同じ山に住む事は出来る」

「なるほど」

「例の山の神が果心を仲間と見ている。友というような形では無く、其処に住む事を受け入れているというような、どうじゃ? 」

「ええ考えだとは思うけんど、絞り込んだ思うたら広がっちまったみてえな。後は神様にも領域ってあるき、余所から来た全然性質が違う神様がいきなり頂上まで入れるがやろうかって、しっくりいかねえ」

「ううむ一理ある。住み処を大名の城や領地と考えれば、敵の大名が織田の領地に入って来て住むなど有り得んからのう」

 藤兵衛が賛同する。

「やはり神同士の間に何らかの盟約や臣従に近い関係があるという事か」

「上手うは言えねえが果心は寛いだ様子でござったき、盟約という堅苦しい間柄には見えんやった」

「神の側の特徴と思われるのを出来る限り出して書き連ねた方が良いのではないか? 」

 藤兵衛の提案で三郎が筆を取り箇条書きにしていく。

「姿が蛇、理由は分からぬが夜のみ襲来する、他に何かあるでしょうか? 」

 眉間に皺寄せ頭を付き合わせても一向に思い付かず、溜息混じりに早くも筆を置いてしまう。

「女が嫌い、不細工言われると怒る。後は人が嫌いなように思う。嫌いっていうか、怒っちゅーいうか」

「何方のものかの判断は難しいが、女嫌いは元坊主の覚信のものでは無いのか? 」

「神らしい特徴には印を付けておきましょう」

 箇条書きした上に三郎が丸を付けていく。

「不細工と言われて怒るのか、ふふふ、神にしては人間臭いのう。最後の人に対する怒りじゃが、外道と結び付き世を乱すような振る舞いに加担するのであるから、余程深い因縁があるのやも知れぬな」

 一応性別は雄の筈なのに、見目を気にするというのが妙ではあった。

「不細工である事を気にして姿が見えねえ夜に動くがよと儂は思うちょります。覚信は女が嫌いかも知んねえし、女の、その……陰《ほと》は効くがよ思う。人と神が争うっていうのはある事やき、手掛かりにはなりそうでございますな」

「ではこれくらいか?六助の力を借りるのが一番とは承知しているが、何も出来ぬというのも。我々が戦う手段は無いのか?それと実体の場合、どこから邸に入り込んできているのかという点がまだ判明しておらぬ。」

「戦うとしたら刀や槍や弓という事になるけんど、弓には魔を祓う力があるって伝わっちょって、いざなぎ流でも使われてはおる」

「射るのか? 」

「いえ、弦を鳴らすだけやき、皆さんには刀の方がええかも知れんなあ」

「刀ならば斬る事が出来るのか? 」

「刀にも魔を祓う力はあるんじゃけんど、どんな刀でもええという訳じゃねえ。名工が鍛えた古刀やったら傷を負わせ、幽体でも退ける事が出来るかも知れん」

「そのような名刀となると、要は朝廷や将軍家伝来の数百年も前に打たれた刀という事か。手に入れるのは難しそうじゃな」

「あ!槍ならば御屋形様(乱法師の兄、長可)の人間無骨があるではございませぬか! 」

「ただ……突きの鋭さこそ優れているが、そこまで古い品では無かろう。それに此処だけの話し、人間無骨自体をそろそろ祓って貰った方が良い頃ではないか」

 藤兵衛と三郎は納得の面持ちで顔を見合せ重い溜息を吐くが、六助だけは合点がいかずきょとんとしている。

「そういえば神言うても蛇は蛇でございます。幽体みたいに何処からでも入って来れる訳がねえ。それについて乱法師様が海の向こうには空を飛ぶ蛇がおるっていう話しをされちょったなあ」

「空を飛べるなら屋根から忍び込み天井裏から入れるな」

「なれど、そのような隙間はございませぬ。人の胴回りはあろうかという大蛇でございます故。侵入の経路が分かれば塞ぐという対処も出来ますが、執念深い奴ならば別の方法で乱法師様に近付こうとするでしょう」

「うーん。乱法師様が商人や船乗りなら、そがな話しを知っちゅーかも知れんと言うてらした」

 神なのに異国の蛇の特性を当てるのが正しいのか、様々な推測が飛び交い、結局確たる結論には辿り着けなかったが、それでもゆるゆるとは前進しているようではあった。

 だが一番の問題は、此方は正体さえ掴めていないというのに、敵の攻撃は変幻自在で、常に後手後手に回っているという現状から目を背けて議論しているという点だったのかも知れない。

───

「これは全て呂宋《るそん》(現代のフィリピン)から運んだ品か? 」

 信長の住む仮御殿の広間で堺の商人納屋才助が、日本ではまだ珍しい舶来品を披露していた。
 主に廻船業や倉庫の貸付け、貿易を営む商人で、茶人として高名な千利休、今井宗久等も含め、納屋衆と彼等は呼ばれていた。

「壺や織物は明から仕入れた品で、やはり明の方が質が良うございます」

 この時代の表向きの貿易は、ポルトガルやスペインといった南蛮人と日本、明、ヨーロッパとアジアの混血の民の間で行われていた南蛮貿易である。
 表向きというのは、倭寇と呼ばれる海賊がアジアの海域を荒らし回っていたせいで、明朝から度々発布された海禁により日本と明との直接貿易が禁止されていたからだ。
 しかし密輸は行われており、禁令に触れない方法としては、ポルトガル商人が日本の銀で明の生糸を買うという中継貿易などがあった。

「そっちの品は何じゃ? 」

 信長は、目を輝かせ手に取って見てはあれこれと質問を投げ掛ける。
 納屋才助の後ろに控えた浅黒い肌の少年が、求めに応じて品々を前に差し出す。
  始めの紹介では才助の息子で、名を助佐衛門、乱法師と同年齢という事であった。

 暫くすると儀礼的な場面から、やや砕けた雰囲気になった。

 乱法師は本日も艶やかな小袖姿で信長の側に控え、異国の話しに耳を傾けていた。

 柔らかい曲線で左右に若草と白百合(微かに黄味のある白)で色分けされた肩身代わりの小袖。
 虫襖《むしあお》(暗い青緑)に上下の腰の辺りだけ中紅色(黄味の強い赤)の肩衣と袴が秋らしさを醸している。
 若草色に白く萩模様が辻ケ花で染められ、白百合色には五色の糸で鼓や蝶が縫い取られ、鶴も舞う対照的な意匠である。

 信長の寵幸著しい彼だが、主が甘やかす程に彼の側から甘えて見せた事は終ぞ無かった。
 ところが此度、納屋父子の謁見を知り、珍しく自ら願い出た。

「海の向こうについて興味がございますので私からも質問して宜しいでしょうか? 」と。

 信長は利発な小姓の知的探求心と捉え快く承知した。

「おお!乱、そなた聞きたい事があると申していたな。何でも聞いてみるが良い」

 許しが出たので乱法師は早速問い掛けた。

「助佐衛門は儂と変わらぬ年に見えるが船で海の向こうに渡った事はあるのか? 」

 まさか自分に問いが向けられるとは思っていなかった助佐衛門は一瞬目を丸くした。

 本音では飛ぶ蛇の事を真っ先に訊ねたかったのだが、流石に唐突過ぎる。

「へえ、父に付いて二度程。一番遠くが呂宋でございます」

「呂宋の人々は我等と顔立ちも言葉も違うのであろう? 」

 回りくどいが仕方が無い。

「へえ、此方よりも大分暑いんです。それで肌は日に焼けて大体黒いです。言葉は私も何を言っているのか分かりまへんでした」

「伴天連を見ていて思うが、人でさえ住む場所で肌の色や目の色まで違うとなると、さぞかし変わった鳥獣がいるのであろうな」

 若い二人のやり取りを信長は穏やかな目で見詰めながら、面白そうに聞いている。

「へえ、先ず見たのは三寸くらいで目ばかり大きい猿です。目を合わせては駄目や言われました。名前は確か、タウシウス?だったやろか。目を合わせると驚いて涙流して死んでしまうらしいんです。他には兎くらいの小さな鹿も居りました」

「大きいのはどうじゃ」

 助佐衛門の話しは実に興味深かったが、じっくり追究している場合では無い。

「ああ、大きい花も咲いていました。赤くて三尺くらいもあったやろか。他には象です。お乱様は象をご存知でいらっしゃいますか? 」

「ほお、象もいるのか」

 脇息に凭れていた信長も身を起こし会話に加わる。

「絵では見た事があるが、誠にあのように鼻が長いのか?まるで蛇のようじゃ」
 
 普賢菩薩象を描いた宗教画では大抵象に跨がっている。
 首尾良く蛇の話しに持っていけそうだと乱法師の声が微かに震えた。

「へえ、岩のように大きくて足は丸太みたいで、勿論鼻は蛇のように長うおました。大体は普賢菩薩様の絵の通りでございます」

「何時か本物を見てみたいのう。そういえば空を飛ぶ蛇がいると聞いた覚えがあるが、存じているか? 」

 漸く聞きたかった事を口にする。

「飛ぶ蛇?蛇が飛ぶなんて呂宋でも見た事あらしまへん」

 吊り上がった細い目を見開き首を傾げる助佐衛門の返答に落胆し掛けたが、父の才助が口を挟んだ。

「私は蛇が飛ぶのを以前に見た事がございます」

「何じゃ!羽でも生えておるのか? 」

 からかうような口振りで信長が問う。

「森に住む蛇には長い距離を飛べるものもいるらしく、私が見た蛇は木から木へ飛び移っておりました。大きな獲物を丸飲み出来るのは、胸の辺りの骨を左右に開くからだそうでございます。左右に開く訳ですから身体は平たく横に伸びます。薄くなった身体は紙のようで、風の力を受けて飛ぶのだと呂宋人は申しておりました」

「理に叶っておる」

 信長は頷き、大満足の様子だった。

 当の乱法師は表向き平静を装おっていたが、頭の中で全てが繋がると判明した事実に衝撃を受け、白い顔が益々白くなった

「乱!どうした?もう聞きたい事は無いのか? 」

「申し訳ございませぬ。大変面白いお話で、つい熱が入ってしまいました。異国の事を沢山聞けて満足でございます。忝のう存じまする」

 無理に作り笑いを浮かべたが、直ちに森邸まで駆けて、たった今己の知り得た事を伝えたい心境だった。

『形状を変えられるとは……やはり湯殿の窓から侵入したのか』

 湯殿の縦木のみの格子窓。

 肋骨がパキパキと音を立て左右に開く悍ましい光景が脳裏に浮かぶ。
 縦木の隙間を平たく青白い蛇体が擦り抜ける様子を想像して吐き気を覚えた。

『大した事では無い。隙間という隙間を塞げば良いだけじゃ』

 だが彼を悩ませているのは、そういう物理的な事柄では無かった。
 全ての行動を見張られ、ねっとりと一方的に恋情を語り掛けてくる。
 更に形状まで変え、寝所に潜り込もうとしていたという新たな事実に気が遠くなった。

 その執念深さ。
 その凄まじい淫欲。
 特性の全てが粘着質で、振り払おうとすればする程絡み付き絡め取られる。

 果心の事を考えるだけで晴天は曇天に変わり、好物さえも紙か砂を食べているように味気無くなる。
 笑顔が消え気力は失せ、いっそ自ら命を断てば、恐怖から解放され誰にも迷惑を掛けずに済むのかと自暴自棄になる。

 乱法師の心は蛇体に締め付けられ悲鳴を上げ始めていた。

 納屋父子が退出し、献上品の目録や書状の整理等の雑務に追われている間も、今まで味あわされた屈辱や恐怖の夜が甦り、呼吸が時折乱れた。

『早く皆に知らせなければ』

 心の中に止めおくには重く、早く吐き出して誰かに励まして貰い、策を練って気を紛らわしたかった。

「お乱!上様がお呼びじゃ」

 名を呼ばれはっとするが、呼びに来た年上の小姓は白けた表情で面倒臭そうな態度である。
 乱法師が出仕すれば、信長の私的な用事で一日のうちに何度も呼ばれる事は、小姓達の間では格好の噂の種であったからだ。

 たおやかな所作で襖を開けると、私的な用件である事を物語るように信長ただ一人が部屋で待っていた。
 ゆったりと寛いだ風情で、様々な来訪者と謁見する時の威圧感は失せ、生身の人としての姿に言い知れぬ感情が沸き起こる。

 信長が彼を部屋に呼んだ理由は他でも無い。
 心の内を隠す事の下手糞な乱法師を案じての事である。

「呂宋の話しは面白かったか? 」

 何かを隠そうとしている。
 納屋父子に質問してみたいと言ってみたり飛ぶ蛇の話しを聞いた後で明らかに顔色が変わったり、何か意図があったのだと疾うに信長は見抜いていた。

 愛しい者の顔色の変化に気付くのは容易い。

「は、はい!上様のお陰でございます」

 面と向かっては恐縮して本音は引き出せ無いだろうと思った。

「呂宋から象を運ばせたら皆驚くであろうな。そなた、どう思う? 」

「真に良き御考えにございます」

 重い雲が強い風で吹き飛ばされ、ぱっと蕾が開いたように表情が華やぐ。

 信長は乱法師の純な所を愛しているが、乱法師からすれば信長が時折見せる子供のような一面にはいつも驚かされ、親しみを感じずにはいられない。

 暗い淵に落ち掛け、浮上する事は不可能と絶望に打ち拉がれていた心を、あっという間に明るい地上に引き上げてくれる。

「天下平定が成った暁には儂が船で呂宋に赴く事も考えたが、日本に運べば民も象の姿に驚き喜ぶと思ってな」

「はい! 」

 言動や振る舞い全てに彼が理想とする力強い大人の男性像を見て取り、吹き荒れていた寒風が春風に変わり彼の心を暖かくした。

「そういえば、そなたを呼んだのは共に食事をしようと思ったからじゃ。直ぐに膳を運ばせよう」

「えっ? 」

「嫌か? 」

 思わぬ申し出と優しい瞳に見詰められ、一瞬どう答えるべきかと躊躇した。

「畏れ多いというのは無しじゃぞ」

 先手を取られてしまい、それ以外の断る理由を思い付かなかった為、結局夕餉の膳を挟んで向き合う事になった。

 家臣との食事は、この時代良く見られた風景である。
 寧ろ妻や子供達と食事をする方が奇異な事だった。
 武将にとって家臣との食事は、大事な会議と日々の打ち合わせを兼ねていたからである。

 戦国時代は一汁一菜で一日二食とは伝わるが、如何なる身分であっても食卓に並ぶ料理が同じである筈が無い。
 外見は派手好みである信長も、日頃は質実剛健で、祝い膳のように贅沢では無いが精の付く食材が並んだ。

 豆腐、青菜と鱈の味噌汁、鴨肉の塩焼き、椎茸と南瓜の煮物、蒲鉾に糊、漬物。

 おかずが現代と比べ豊富に無かったので、主食の飯を何杯もおかわりして腹を満たしていたが、これまた白米は高級な為上流社会でしか食されていなかった。
 だが敢えて本日の膳で玄米を炊かせたのは、白米よりも栄養価が高いからである。

 信長と向き合って食事をするという緊張感も果心の存在も忘れ、食も会話も弾む。

 天下が平定されたら完全に隠居して大船で色々な国に渡ってみたいという信長の次なる野望が、海賊に向いているからという理由なのには多いに笑った。

 勧め上手な信長の言うが儘にたらふく食べ、白湯を一口含みほっと息を吐く。

「飛ぶ蛇、というのは象よりも珍しいとは思わぬか? 」

 完全に油断していた。 
 湯呑みを取り落としそうになる。

 あわや落とす寸前、信長が彼の手を丸ごと下から包み込んだ。

「あ、申し訳ございませぬ。申し訳ございませぬ。粗相を──」

 蛇の話題を振った途端に顔が青褪め、大層な取り乱しように信長は微かに眉を潜めた。

「慌て者じゃのう、気を付けよ。手は熱く無かったか? 」

 動じている所に優しい言葉を掛けられ、甘い花の香りを嗅ぎ過ぎた時のように逆上せ、くらりと目眩がした。

 思わず俯いてしまうが、まだ信長の手は彼の手を握った儘だ。
 手を引こうとしても然り気無く力を込めて離してくれない。

 もういっそ抗わず腕の中に倒れ込み、火照った顔を埋めてしまいたいと思ったが、彼にそんな真似が出来る訳も無い。
 手を握られた儘無言で見詰められているというのは思いの外気まずいものだ。

「良く食べていた。実に旨そうに。そなたと食べる夕餉は格段に旨く感じた。また共に食事をしたいものじゃ。そなたはどうであったか? 」

 信長が漸く口を開いた。
 多くの人との出会いの中にある僅かな邂逅は、まるで灰色の砂の中に煌めく砂金のようなものだ。
 軽口を装いながら、年端もいかぬ小姓である事など意に介さず、死ぬまで側にいるべき相手と見て、絶対に離すまいと握った手に力を込める。

 並みの者なら疾うに落ちているであろう甘い口説き文句にも、乱法師は何処か薄ぼんやりとして、熱い思いの半分も受け止めきれていない。
 只、近頃漸く信長の情熱に共鳴するように心の琴線が震え、二人きりで過ごす時間を待ち望むようになって来ていた。

「畏れ多くも夕餉を共に出来るなど、身に余る栄誉にございます。気の利いた話しも出来ませなんだが、楽しいと感じて頂けたとは……うう……このような温かい思し召し、楽しい時を過ごさせて頂きました。また共にと仰せ下されば断る理由などございませぬ、うく……ぅぅ……」

 乱法師が格別感激し易い質な訳では無い。
 古参の重臣で強面髭面の柴田勝家ですら、同じ扱いを受けたら号泣した事だろう。

 但し、髭面強面に泣かれて嬉しいかというと微妙な所ではある。

 睫毛を濡らす涙は殊に麗しく、それはそれは甘やかな空気が部屋を満たしていたが、信長は肩に軽く手を置いた儘であった。

 そっと手を伸ばし、慰めるように人差し指で涙を掬うのみ。
 やがて感激の涙が収まると、乱法師は静かに退出した。

────

 久しぶりの雨が振った。

 黄昏時だからなのか暗い鈍色の空で、しくしくと雨が降り憂鬱を誘い、時の感覚さえも狂わせる。






 
 



 

















 







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