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──2──
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「ともかく今日は休め!明日、出仕せよ」
「はい……」
三郎が心配そうな面持ちで二人のやり取りを見守っていた。
──
「乱法師様! 」
六助は日暮れ前に森邸に到着した。
子猿の藤吉郎が赤子のように背にしがみついているのが愛らしい。
「六助、良う参った。先ず上がってゆるりと寛げ」
乱法師は賓客を持て成すように茶や菓子、藤吉郎が喜びそうな果物を持って来させた。
表向きは下男として、暫く滞在して貰う事になっている。
「他の子猿達は大丈夫か? 」
「知り合いの芸人に世話頼んで、望む者がおりゃ貸し出したりする事にしました」
猿曳は辻芸の中では別格で人気もあったし、良く芸を仕込まれた猿は貴重であったので貸し出しの需要もあった。
「それよりも御無事で良かった」
「儂は良く覚えておらぬのじゃ。そちが救ってくれたのであろう? 」
「乱法師様のお身体をお借りしました。やき二日も眠ってらした。こじゃんとお疲れでございましょう」
「話してくれ!どのように果心を退散させたのか。そして、これからどうすれば良いのかを」
六助は三千式の王として君臨する式王子を乱法師の身体に行い降ろした事を話した。
「儂が戦ったのか。全く覚えておらぬ。それにしても結界を破るとは。果心は毒まで使うようじゃな。家臣達の話しじゃと、毒液が掛かった箇所は溶けていたと。恐ろしい……」
その言葉に六助は冷静に頷いた。
「前にも言うたが、ひなごを縄に引っ掛けただけでは結界とは言えん。毒を吐いたのは結界の守りを強うしたら中々破れざったきやろう」
「だが結局破られた。果心の毒に結界は効かぬという事では無いのか? 」
「儂は神ではねえやき果心がどんな武器隠し持っちゅーか、戦わねえうちから全部分かる訳ではねえんや」
「済まぬ。そなたを責めるような事を申してしまった」
乱法師は脇息に凭れ掛り、憂鬱な面持ちで睫毛を伏せ謝った。
「いや、全然!気にしてねえや。それに関しては策はあるんじゃ。結界の張り方には沢山種類があるんです」
「例えば? 」
好奇心丸出しで身を乗り出す。
「結界には関と囲いがございまして、関は術を守る盾。戦う時着る鎧兜みてえなもんやろうか。囲いゆうのは、儂や乱法師様を守るもんで砦みてえなもんや」
「なるほど。果心の毒を防ぐ結界もあるのか? 」
「実際に正面きって戦うた事がないけんど、関なら扉関、剣関、火炎関、不動たてば関、荒神関。囲いなら、岩戸囲い、天神の囲い、矢食い囲い、八幡鎧囲いとか。沢山あって上げきれねえや」
「そんなに!如何にも強そうじゃのう。それだけあれば、また今夜襲って来ても撃退出来そうじゃな」
「…………」
朗らかで無垢な顔を見て、六助は深刻な話題に及ぶのを躊躇わずにはいられなかった。
「そういえば御身体を御借りしちょった時、儂の頭に果心の言葉が響いてきて、そん時、神の力を借っちゅー言うてました。御心当たりはごぜえませんか?」
「うーん。そのような事を言っていたのすら覚えておらぬが、真なら果心は神という事になるのか?八百万と申せば大変な数になるが、蛇神という事になるのだろうか」
神を敵に回すのかと乱法師の顔が不安で曇る。
「分からねえ事が多過ぎるんや。敵の正体が分からいでは勝つ事は出来ん」
「人なのか神なのか。化け物ならば何処から生まれたのか。人ならば名前は何と言う──あっ! 」
「どうしました? 」
「忍びに調べさせていたが中々尻尾が掴めなかった。見た目は異なるが興福寺の僧で嘗て外法にのめり込み破門された者がいたそうじゃ。名は覚信《かくしん》と申すらしい」
「覚信。見た目が違う」
「どうじゃ?そなたの術に役立つか? 」
「へえ、真の名が覚信であれば。ただ真の敵が覚信という男なのか、そいつが使役しちゅー神なのか。神様が怒ってんなら倒すんじゃのうて鎮めた方がええ」
「果心に力を貸している、若しくは憑いている神の名も突き止める必要があるという事か? 」
「へえ、それが出来て始めて同じ土俵に立てるっちゅう感じや」
「思ったよりも厄介じゃな。上様の御命は必ず御守りする。その為に何としても倒さねばならぬ。酒と肴を用意させよう。茶と菓子だけでは味気無かろう」
「いや、酒は遠慮しちょくる。あんまり強うねえもんで。儂に気にせず飲んで下せえ。良う眠れるろう。果心が来ても指一本出させねえ」
自覚が無かった。
曲直瀬道三の見立てがあってさえ、疲れているというのが信じられ無かった。
若い身体は気持ちの強さだけで疲労を誤魔化していただけで、果心の異常な執着だけでも参っているところに、強大な力を持つ式王子の依代となり最早限界が来ていた。
「今宵も果心は来るだろうか? 」
「式王子にやられたばっかしで、実体が来るとは思えねえが」
「何故、夜にばかり襲ってくるのであろう? 」
「妖魔は闇を好むき。闇の方が力を出せるきけんど。神やったら──ひょっとして別の理由があるのかもしんねえ」
「闇を好む神もおるのかも知れぬな」
乱法師はどぶろく酒を杯に注ぎ、口の中で味わってから飲み込んだ。
喉を潤しながら、ゆっくりと下りていく酒が胃に染み渡り、温かさが広がり心地好さを覚えた。
「闇を好む蛇神、か」
───
「もっと広く縄を張った方がええ」
乱法師が使っていた元の寝所は果心の攻撃で無惨な有様となってしまったので、別の部屋に結界を作り今宵は休む事となった。
「真にそなただけで大丈夫か? 」
「皆で不寝番しちょったら一緒に参っちまう。今日は三郎さんは休みよって下せえ」
容易く侵入を許したばかりか、結局乱法師の身にどのような危害が加えられたのか誰にも分からなかった。
乱法師は衣類を身に付けていなかった。
それを思い出すだけで三郎の腸が煮え繰り返る。
『どうすれば御守り出来るのか。六助にばかり任せる訳にはいかぬ。乱法師様はお怒りになられるやも知れぬが、やはりあの手しか──』
「そういえば先日は実体であった。思念や霊魂なら分かるが何処から侵入したのであろうか。しっかりと戸締まりはされていた筈じゃ。門番や警護の者が操られたとしても、閂が開けられた形跡は無かった」
焦燥を抑え込み、六助に現実的な質問を投げ掛けた。
「それについては色々考えちょります。力を持っちょっても限界はあるんじゃき何でも出来る訳じゃねえ。仕掛けが無うても簡単に操れる訳でもねえ。乱法師様を操れんのは仕掛けを仕込んじゅーきだ。それと、どいて先日は実体で来たのかについては……」
「人と同じく、例えば雨の日は濡れるから思念のみとかか? 」
三郎は我ながら馬鹿馬鹿しい推察だと思った
「へえ、実体の方が近くにいる分操り易いし攻撃もし易い。けんど敵に身を曝すがよき傷付き易うもある。呪いのええとこは、っちゅう言い方変じゃけんど、敵の大将を呪いで殺せたら、やったあ思わねえですか? 」
「それは──城に居ながら敵を倒せたら良いに決まっておる」
「やったら何で、そうせんのじゃろう? 」
「あっっ!そういう事か。狙いは──ちっっ!下衆が!! 」
神の力を借りているなどと大言壮語しながら、助平さはそこらの人間の男達と変わらない、いや、それ以上である。
その下劣過ぎる欲望に信長を倒すという大それた野望まで加わったのは、乱法師が信長の寵童だからという、これまた下衆な理由から端を発していた。
そして乱法師に施された仕掛けに依り、思念のみで嬲り呼び寄せようともしたが射干や六助に邪魔され、思ったよりも信長が強敵と知り、益々執着してしまっているというのが現状だった。
『結局、乱法師様を手に入れる事が目的ならば、それを達成すれば果心は大人しくなるのだろうか? 』
支配欲の強い果心の場合、得難い物を手に入れ、強者を出し抜く事も目的の一つなのだろう。
では、もし簡単に手に入ってしまったら。
その考えに思い至り、それが信長の家臣達や乱法師自身に気付かれる事は非常に危険と感じた。
『上様はどうだろうか?乱法師様を贄に差し出されて丸く治まるならと、非情な決断を下されるのだろうか? 』
そう考えると胸が切られたように痛んだ。
幼気な主は自分の気持ちに気付いていないようだが、信長を強く恋慕う様子が明らかに見られる。
蛇神の欲望を満たす贄になれと信長に命じられたら。
乱法師は天下の為と命令を聞くだろうが、その健気な心を思うと余りにも辛い。
愛しいと言ったところで所詮、美形故に一夜の慰みとして抱いただけに過ぎないのか。
否──
美濃にいた頃の三郎なら、間違いなく信長はそう決断すると疑わなかったに違いない。
だが乱法師から聞かされる話しや、邸を訪れた信長の様子からは冷酷非情な印象を全く受けなかった。
『誰よりも乱法師様の御身を案じておられた』
確かにそう見えた。
ならば命懸けで守ろうとしてくれるのではないか。
───
「済まない、六。負担を掛けて。そちの力に頼る他無いばかりに。儂だけ休むのは心苦しいが」
「その為に此処におるのです。儂も結界の中におるき安全や。乱、いえ若様、どうかゆっくりお休みになって下せえ」
結び枕の上に頭を乗せながら暫し六助の姿を眺めていたが、固く張られた結界の中は清浄で眠気を誘い、直に瞼を閉じた。
六助は安らかな寝息を聞き、僅かに緊張を解いた。
どれぐらいの刻が経ったのか。
『人とは全く不便で厄介、面倒で懦弱、愚かな生き物じゃ』
話し相手とていない部屋で気持ちを張り詰め、何時訪れるか分からない敵に備えていれば、眠気に襲われるのも無理は無かった。
キーーーーン
耳鳴りのような微かな音に、はっと落ち掛けていた意識が回復する。
空耳かと疑う程の小さな音が何度も繰り返し頭に響いた。
「果心か? 」
結界を張る六助は部屋の支配者であり、例えるなら四方八方に触手を伸ばし防壁を築いている状態だった。
故に、思念の指先に何かが触れたと感じた。
ぞわっっ
百足や毛虫が指先から這い上がってくるような不快な思念。
「お前が儂の式神を祓った呪術師か。つまらぬ凡庸な見た目じゃのう」
今宵はどうやら実体ではなく、空中に大蛇の姿が白く浮かび上がった。
結界は目には見えないが二重構造で、六助が座している場所の結界を破っても、乱法師が寝ている褥の周りの結界に阻まれるという仕組みになっていた。
六助は結界の外よりも更に遠くまで思念を飛ばし、妖の気配を鋭く察知する事が出来る。
そのせいで果心の放つ毒々しさも同時に感受してしまう。
固く守られている乱法師は、果心の訪れに気付く様子も無くすやすやと心地好さそうな寝息を立てていた。
「聞いちょった通りの気持ち悪い化けもんじゃな。中途半端な見た目じゃのう。人の見た目の事なんかわれに言えんのか!この不細工妖怪が! 」
清涼な川が流れる空気の澄み切った山間の村で育った六助の感想は、何処までも率直なだけに果心の自尊心を容赦無く抉った。
「ぐぐぐおぉー何じゃと?この儂を不細工と申すか?卑しい猿曳が!己、己、己えぇ」
凄まじい怒りがびりびりと結界に伝わってくるが無論びくともしない。
『そがに怒るくらいなら髪型を何とかせえっちゅうんじゃ。まあ、そんぐらいではどうにもなりそうもねえけど』
これ以上怒らせたくも無いので口にはしなかったが六助の考える通りだった。
身体は蛇で顔はのっぺりと嫌らしく滑っと光り男根を彷彿とさせ、溶け崩れたように醜悪な鼻の穴が、怒りを露にすると収縮するのが何とも淫らだ。
眼には人としての邪念を宿し、耳まで裂けた口に赤い唇が付いているのが気味悪く、おまけに牙から唾液を滴らせ、赤黒い舌のちろちろと蠢く様が耐え難い程に猥褻である。
人であった時の名残で艶の無い青白く長い髪が縺れ、顔や身体にべったりと張り付いているのが特に汚らわしいと、六助は不快で堪らなかったのだ。
『いっそ髪の毛は潔う剃っちまった方が蛇っぽうてましやろうに』
『お前の名は六助!くくく、そうであろう? 』
果心の見栄えがどうしたら少しはましになるだろうかと考えていたところ、声が響いた。
「それが、どいた? 」
呪術においては名と髪の毛を手に入れる事は大きな意味を持つ。
名は最も短い『呪』と安倍晴明も語る程、名付ける事は人を支配する行為と同じであったからだ。
身分ある成人男性は幾つもの名を持つが、通常人が呼んで良いのは字《あざな》か官職名である。
一般に知られる信長や家康は諱(忌み名)と呼ばれる実名であり、呼ぶ事は不敬とされ、呼んで良いのは主君か父親等の目上の者のみに限られていた。
名を明かす事は相手に自分を委ねる事になる為、女性は忌避していたようだ。
実名が中々伝わっていないのは、その為なのかも知れない。
果心居士が偽名であると分かり尚更不愉快であった。
どんなに強固な結界を張り巡らしても相手の優位は揺るがない。
此方にばかり手札を出させてくる。
これを支配と呼ばずして何と呼ぼう。
「お前には分かっているのだろう?くく、今の儘では儂に勝てぬという事が……」
「勝てん?なら結界破って見ろ!この前散々な目に合うたき思念だけ飛ばして来たんやろう。臆病者が!われには出来ん事が沢山あるがやろう。何が神や!われのような穢らわしい神がおる訳ねえやろう。強がって出来るように見せゆーだけや!! 」
異形の者の出現と結界という異空間は、調度の類いの位置は変わらずとも日常から逸脱し、鬩ぎ合う二人の間に火花が散る度にゆらりと歪んだ。
「はい……」
三郎が心配そうな面持ちで二人のやり取りを見守っていた。
──
「乱法師様! 」
六助は日暮れ前に森邸に到着した。
子猿の藤吉郎が赤子のように背にしがみついているのが愛らしい。
「六助、良う参った。先ず上がってゆるりと寛げ」
乱法師は賓客を持て成すように茶や菓子、藤吉郎が喜びそうな果物を持って来させた。
表向きは下男として、暫く滞在して貰う事になっている。
「他の子猿達は大丈夫か? 」
「知り合いの芸人に世話頼んで、望む者がおりゃ貸し出したりする事にしました」
猿曳は辻芸の中では別格で人気もあったし、良く芸を仕込まれた猿は貴重であったので貸し出しの需要もあった。
「それよりも御無事で良かった」
「儂は良く覚えておらぬのじゃ。そちが救ってくれたのであろう? 」
「乱法師様のお身体をお借りしました。やき二日も眠ってらした。こじゃんとお疲れでございましょう」
「話してくれ!どのように果心を退散させたのか。そして、これからどうすれば良いのかを」
六助は三千式の王として君臨する式王子を乱法師の身体に行い降ろした事を話した。
「儂が戦ったのか。全く覚えておらぬ。それにしても結界を破るとは。果心は毒まで使うようじゃな。家臣達の話しじゃと、毒液が掛かった箇所は溶けていたと。恐ろしい……」
その言葉に六助は冷静に頷いた。
「前にも言うたが、ひなごを縄に引っ掛けただけでは結界とは言えん。毒を吐いたのは結界の守りを強うしたら中々破れざったきやろう」
「だが結局破られた。果心の毒に結界は効かぬという事では無いのか? 」
「儂は神ではねえやき果心がどんな武器隠し持っちゅーか、戦わねえうちから全部分かる訳ではねえんや」
「済まぬ。そなたを責めるような事を申してしまった」
乱法師は脇息に凭れ掛り、憂鬱な面持ちで睫毛を伏せ謝った。
「いや、全然!気にしてねえや。それに関しては策はあるんじゃ。結界の張り方には沢山種類があるんです」
「例えば? 」
好奇心丸出しで身を乗り出す。
「結界には関と囲いがございまして、関は術を守る盾。戦う時着る鎧兜みてえなもんやろうか。囲いゆうのは、儂や乱法師様を守るもんで砦みてえなもんや」
「なるほど。果心の毒を防ぐ結界もあるのか? 」
「実際に正面きって戦うた事がないけんど、関なら扉関、剣関、火炎関、不動たてば関、荒神関。囲いなら、岩戸囲い、天神の囲い、矢食い囲い、八幡鎧囲いとか。沢山あって上げきれねえや」
「そんなに!如何にも強そうじゃのう。それだけあれば、また今夜襲って来ても撃退出来そうじゃな」
「…………」
朗らかで無垢な顔を見て、六助は深刻な話題に及ぶのを躊躇わずにはいられなかった。
「そういえば御身体を御借りしちょった時、儂の頭に果心の言葉が響いてきて、そん時、神の力を借っちゅー言うてました。御心当たりはごぜえませんか?」
「うーん。そのような事を言っていたのすら覚えておらぬが、真なら果心は神という事になるのか?八百万と申せば大変な数になるが、蛇神という事になるのだろうか」
神を敵に回すのかと乱法師の顔が不安で曇る。
「分からねえ事が多過ぎるんや。敵の正体が分からいでは勝つ事は出来ん」
「人なのか神なのか。化け物ならば何処から生まれたのか。人ならば名前は何と言う──あっ! 」
「どうしました? 」
「忍びに調べさせていたが中々尻尾が掴めなかった。見た目は異なるが興福寺の僧で嘗て外法にのめり込み破門された者がいたそうじゃ。名は覚信《かくしん》と申すらしい」
「覚信。見た目が違う」
「どうじゃ?そなたの術に役立つか? 」
「へえ、真の名が覚信であれば。ただ真の敵が覚信という男なのか、そいつが使役しちゅー神なのか。神様が怒ってんなら倒すんじゃのうて鎮めた方がええ」
「果心に力を貸している、若しくは憑いている神の名も突き止める必要があるという事か? 」
「へえ、それが出来て始めて同じ土俵に立てるっちゅう感じや」
「思ったよりも厄介じゃな。上様の御命は必ず御守りする。その為に何としても倒さねばならぬ。酒と肴を用意させよう。茶と菓子だけでは味気無かろう」
「いや、酒は遠慮しちょくる。あんまり強うねえもんで。儂に気にせず飲んで下せえ。良う眠れるろう。果心が来ても指一本出させねえ」
自覚が無かった。
曲直瀬道三の見立てがあってさえ、疲れているというのが信じられ無かった。
若い身体は気持ちの強さだけで疲労を誤魔化していただけで、果心の異常な執着だけでも参っているところに、強大な力を持つ式王子の依代となり最早限界が来ていた。
「今宵も果心は来るだろうか? 」
「式王子にやられたばっかしで、実体が来るとは思えねえが」
「何故、夜にばかり襲ってくるのであろう? 」
「妖魔は闇を好むき。闇の方が力を出せるきけんど。神やったら──ひょっとして別の理由があるのかもしんねえ」
「闇を好む神もおるのかも知れぬな」
乱法師はどぶろく酒を杯に注ぎ、口の中で味わってから飲み込んだ。
喉を潤しながら、ゆっくりと下りていく酒が胃に染み渡り、温かさが広がり心地好さを覚えた。
「闇を好む蛇神、か」
───
「もっと広く縄を張った方がええ」
乱法師が使っていた元の寝所は果心の攻撃で無惨な有様となってしまったので、別の部屋に結界を作り今宵は休む事となった。
「真にそなただけで大丈夫か? 」
「皆で不寝番しちょったら一緒に参っちまう。今日は三郎さんは休みよって下せえ」
容易く侵入を許したばかりか、結局乱法師の身にどのような危害が加えられたのか誰にも分からなかった。
乱法師は衣類を身に付けていなかった。
それを思い出すだけで三郎の腸が煮え繰り返る。
『どうすれば御守り出来るのか。六助にばかり任せる訳にはいかぬ。乱法師様はお怒りになられるやも知れぬが、やはりあの手しか──』
「そういえば先日は実体であった。思念や霊魂なら分かるが何処から侵入したのであろうか。しっかりと戸締まりはされていた筈じゃ。門番や警護の者が操られたとしても、閂が開けられた形跡は無かった」
焦燥を抑え込み、六助に現実的な質問を投げ掛けた。
「それについては色々考えちょります。力を持っちょっても限界はあるんじゃき何でも出来る訳じゃねえ。仕掛けが無うても簡単に操れる訳でもねえ。乱法師様を操れんのは仕掛けを仕込んじゅーきだ。それと、どいて先日は実体で来たのかについては……」
「人と同じく、例えば雨の日は濡れるから思念のみとかか? 」
三郎は我ながら馬鹿馬鹿しい推察だと思った
「へえ、実体の方が近くにいる分操り易いし攻撃もし易い。けんど敵に身を曝すがよき傷付き易うもある。呪いのええとこは、っちゅう言い方変じゃけんど、敵の大将を呪いで殺せたら、やったあ思わねえですか? 」
「それは──城に居ながら敵を倒せたら良いに決まっておる」
「やったら何で、そうせんのじゃろう? 」
「あっっ!そういう事か。狙いは──ちっっ!下衆が!! 」
神の力を借りているなどと大言壮語しながら、助平さはそこらの人間の男達と変わらない、いや、それ以上である。
その下劣過ぎる欲望に信長を倒すという大それた野望まで加わったのは、乱法師が信長の寵童だからという、これまた下衆な理由から端を発していた。
そして乱法師に施された仕掛けに依り、思念のみで嬲り呼び寄せようともしたが射干や六助に邪魔され、思ったよりも信長が強敵と知り、益々執着してしまっているというのが現状だった。
『結局、乱法師様を手に入れる事が目的ならば、それを達成すれば果心は大人しくなるのだろうか? 』
支配欲の強い果心の場合、得難い物を手に入れ、強者を出し抜く事も目的の一つなのだろう。
では、もし簡単に手に入ってしまったら。
その考えに思い至り、それが信長の家臣達や乱法師自身に気付かれる事は非常に危険と感じた。
『上様はどうだろうか?乱法師様を贄に差し出されて丸く治まるならと、非情な決断を下されるのだろうか? 』
そう考えると胸が切られたように痛んだ。
幼気な主は自分の気持ちに気付いていないようだが、信長を強く恋慕う様子が明らかに見られる。
蛇神の欲望を満たす贄になれと信長に命じられたら。
乱法師は天下の為と命令を聞くだろうが、その健気な心を思うと余りにも辛い。
愛しいと言ったところで所詮、美形故に一夜の慰みとして抱いただけに過ぎないのか。
否──
美濃にいた頃の三郎なら、間違いなく信長はそう決断すると疑わなかったに違いない。
だが乱法師から聞かされる話しや、邸を訪れた信長の様子からは冷酷非情な印象を全く受けなかった。
『誰よりも乱法師様の御身を案じておられた』
確かにそう見えた。
ならば命懸けで守ろうとしてくれるのではないか。
───
「済まない、六。負担を掛けて。そちの力に頼る他無いばかりに。儂だけ休むのは心苦しいが」
「その為に此処におるのです。儂も結界の中におるき安全や。乱、いえ若様、どうかゆっくりお休みになって下せえ」
結び枕の上に頭を乗せながら暫し六助の姿を眺めていたが、固く張られた結界の中は清浄で眠気を誘い、直に瞼を閉じた。
六助は安らかな寝息を聞き、僅かに緊張を解いた。
どれぐらいの刻が経ったのか。
『人とは全く不便で厄介、面倒で懦弱、愚かな生き物じゃ』
話し相手とていない部屋で気持ちを張り詰め、何時訪れるか分からない敵に備えていれば、眠気に襲われるのも無理は無かった。
キーーーーン
耳鳴りのような微かな音に、はっと落ち掛けていた意識が回復する。
空耳かと疑う程の小さな音が何度も繰り返し頭に響いた。
「果心か? 」
結界を張る六助は部屋の支配者であり、例えるなら四方八方に触手を伸ばし防壁を築いている状態だった。
故に、思念の指先に何かが触れたと感じた。
ぞわっっ
百足や毛虫が指先から這い上がってくるような不快な思念。
「お前が儂の式神を祓った呪術師か。つまらぬ凡庸な見た目じゃのう」
今宵はどうやら実体ではなく、空中に大蛇の姿が白く浮かび上がった。
結界は目には見えないが二重構造で、六助が座している場所の結界を破っても、乱法師が寝ている褥の周りの結界に阻まれるという仕組みになっていた。
六助は結界の外よりも更に遠くまで思念を飛ばし、妖の気配を鋭く察知する事が出来る。
そのせいで果心の放つ毒々しさも同時に感受してしまう。
固く守られている乱法師は、果心の訪れに気付く様子も無くすやすやと心地好さそうな寝息を立てていた。
「聞いちょった通りの気持ち悪い化けもんじゃな。中途半端な見た目じゃのう。人の見た目の事なんかわれに言えんのか!この不細工妖怪が! 」
清涼な川が流れる空気の澄み切った山間の村で育った六助の感想は、何処までも率直なだけに果心の自尊心を容赦無く抉った。
「ぐぐぐおぉー何じゃと?この儂を不細工と申すか?卑しい猿曳が!己、己、己えぇ」
凄まじい怒りがびりびりと結界に伝わってくるが無論びくともしない。
『そがに怒るくらいなら髪型を何とかせえっちゅうんじゃ。まあ、そんぐらいではどうにもなりそうもねえけど』
これ以上怒らせたくも無いので口にはしなかったが六助の考える通りだった。
身体は蛇で顔はのっぺりと嫌らしく滑っと光り男根を彷彿とさせ、溶け崩れたように醜悪な鼻の穴が、怒りを露にすると収縮するのが何とも淫らだ。
眼には人としての邪念を宿し、耳まで裂けた口に赤い唇が付いているのが気味悪く、おまけに牙から唾液を滴らせ、赤黒い舌のちろちろと蠢く様が耐え難い程に猥褻である。
人であった時の名残で艶の無い青白く長い髪が縺れ、顔や身体にべったりと張り付いているのが特に汚らわしいと、六助は不快で堪らなかったのだ。
『いっそ髪の毛は潔う剃っちまった方が蛇っぽうてましやろうに』
『お前の名は六助!くくく、そうであろう? 』
果心の見栄えがどうしたら少しはましになるだろうかと考えていたところ、声が響いた。
「それが、どいた? 」
呪術においては名と髪の毛を手に入れる事は大きな意味を持つ。
名は最も短い『呪』と安倍晴明も語る程、名付ける事は人を支配する行為と同じであったからだ。
身分ある成人男性は幾つもの名を持つが、通常人が呼んで良いのは字《あざな》か官職名である。
一般に知られる信長や家康は諱(忌み名)と呼ばれる実名であり、呼ぶ事は不敬とされ、呼んで良いのは主君か父親等の目上の者のみに限られていた。
名を明かす事は相手に自分を委ねる事になる為、女性は忌避していたようだ。
実名が中々伝わっていないのは、その為なのかも知れない。
果心居士が偽名であると分かり尚更不愉快であった。
どんなに強固な結界を張り巡らしても相手の優位は揺るがない。
此方にばかり手札を出させてくる。
これを支配と呼ばずして何と呼ぼう。
「お前には分かっているのだろう?くく、今の儘では儂に勝てぬという事が……」
「勝てん?なら結界破って見ろ!この前散々な目に合うたき思念だけ飛ばして来たんやろう。臆病者が!われには出来ん事が沢山あるがやろう。何が神や!われのような穢らわしい神がおる訳ねえやろう。強がって出来るように見せゆーだけや!! 」
異形の者の出現と結界という異空間は、調度の類いの位置は変わらずとも日常から逸脱し、鬩ぎ合う二人の間に火花が散る度にゆらりと歪んだ。
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藪から犬
歴史・時代
織田信長は、戦国の世における天下統一の先駆者として一般に強くイメージされますが、当然ながら、生まれついてそうであるわけはありません。
守護代・織田大和守家の家来(傍流)である弾正忠家の家督を継承してから、およそ14年間を尾張(現・愛知県西部)の平定に費やしています。そして、そのほとんどが一族間での骨肉の争いであり、一歩踏み外せば死に直結するような、四面楚歌の道のりでした。
織田信長という人間を考えるとき、この彼の青春時代というのは非常に色濃く映ります。
そこで、本作では、天文16年(1547年)~永禄3年(1560年)までの13年間の織田信長の足跡を小説としてじっくりとなぞってみようと思いたった次第です。
毎週の月曜日00:00に次話公開を目指しています。
スローペースの拙稿ではありますが、お付き合いいただければ嬉しいです。
(2022.04.04)
※信長公記を下地としていますが諸出来事の年次比定を含め随所に著者の創作および定説ではない解釈等がありますのでご承知置きください。
※アルファポリスの仕様上、「HOTランキング用ジャンル選択」欄を「男性向け」に設定していますが、区別する意図はとくにありません。
四代目 豊臣秀勝
克全
歴史・時代
アルファポリス第5回歴史時代小説大賞参加作です。
読者賞を狙っていますので、アルファポリスで投票とお気に入り登録してくださると助かります。
史実で三木城合戦前後で夭折した木下与一郎が生き延びた。
秀吉の最年長の甥であり、秀長の嫡男・与一郎が生き延びた豊臣家が辿る歴史はどう言うモノになるのか。
小牧長久手で秀吉は勝てるのか?
朝日姫は徳川家康の嫁ぐのか?
朝鮮征伐は行われるのか?
秀頼は生まれるのか。
秀次が後継者に指名され切腹させられるのか?
【完結】月よりきれい
悠井すみれ
歴史・時代
職人の若者・清吾は、吉原に売られた幼馴染を探している。登楼もせずに見世の内情を探ったことで袋叩きにあった彼は、美貌に加えて慈悲深いと評判の花魁・唐織に助けられる。
清吾の事情を聞いた唐織は、彼女の情人の振りをして吉原に入り込めば良い、と提案する。客の嫉妬を煽って通わせるため、形ばかりの恋人を置くのは唐織にとっても好都合なのだという。
純心な清吾にとっては、唐織の計算高さは遠い世界のもの──その、はずだった。
嘘を重ねる花魁と、幼馴染を探す一途な若者の交流と愛憎。愛よりも真実よりも美しいものとは。
第9回歴史・時代小説大賞参加作品です。楽しんでいただけましたら投票お願いいたします。
表紙画像はぱくたそ(www.pakutaso.com)より。かんたん表紙メーカー(https://sscard.monokakitools.net/covermaker.html)で作成しました。
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
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