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第9章 夜這
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六助は子猿達と同居している京の粟田口近くの小屋で眠っていたが、乱法師の声を聞きつけ突然飛び起きた。
キキキッキキイー
子猿達も主につられて鳴き始める。
遠く離れた京で乱法師の危険を察知出来たのにはからくりがあった。
果心が口癖のように乱法師と繋がっていると言うように、六助もちょっとした繋がりを作っておいたのだ。
土佐物部村に伝わる不思議な祈祷呪術いざなぎ流。
呪詛返しや凶悪な霊と戦う裏の式法を持つ攻めの祈祷法である。
いざなぎ流を習得する為には神道で言うところの神主に当たる太夫に師事するのだが、六助は学んだ事を応用するのが得意だった。
結局それがいけなかったのかも知れない。
更なる高みを目指し、複数の太夫に師事したのを咎められ破門されてしまったのだ。
いざなぎ流においては師匠となる太夫は生涯只一人という決まりがあった。
それで京に逃げて来たという訳だ。
乱法師が都を発つ前、六助は彼に髪の毛を乞うた。
『人の毛髪、神あり、樹に掛け置くに諸鳥近付かず地中に腐らず』と云われ、特に呪術で用いるのに効果的とされていたからだ。
無論、乱法師を呪うのでは無く守る為である。
それは呪詛を守護に転換するという強引な苦肉の策であった。
陰陽道では式神、いざなぎ流では式王子と呼ばれる御幣に神を降ろし使役する方法は余りにも有名だ。
『いざとなったら儂の名を呼んで下せえ』
乱法師にはそう伝えてあった。
側にいれば結界を強化し、反撃する事も出来ただろうが、直ちに駆け付ける事が叶わない故に考えた策。
乱法師自身を式神に見立て使役する。
それでも撃退出来なければ、更なる一手も考えてある。
六助の前には一つの御幣が置かれていた。
目鼻口があり、人の形に見える。
どことなく乱法師に似て愛らしいばかりか、霊符のように『乱法師』と文字が書き込まれ、彼の髪の毛も張り付けてある。
六助は法文を唱え始めた。
「十や二人の小みこが降り遊ぶぅ。注連より内はぁ神のまどころ御ござどころォ注連より外へなるなればぁ寄りのだんぬしだんだんぬしぃ~防ぎ給へや小みこたち、防がせ給へや小みこたちぃ~」
──
「ああ……」
乱法師は膝を付いた状態で喘いだ。
極度の思念による支配に抵抗し続けた結果、体力を消耗し意識朦朧とし始めていた。
『ぐふっふ、早く儂の言う通りに致せ! 』
その儘、褥に突っ伏してしまいそうな程弱っていたが、冷酷な命令は尚も彼を追い詰める。
赤い口がにたりと笑うと耳まで割けて、益々醜悪で奇怪な形相となる。
のっぺりして照り光る肌が一層不気味で、割けた口から覗く上下の牙と牙の間に粘ついた唾液が糸を引き、だらだらと端から垂れているのが例えようも無く穢らわしかった。
「うう……」
何かを訴えようと唇を半開きにして這うような姿態は、本人の狙いではないが実に扇情的で悩ましい。
頬を床に押し付け膝を立て、のろのろと果心の要求に従う。
最早抵抗する気力も残っていない有様だった。
『ぐうぐふふぅ、美しい、何処もかしこも、くくく。儂の乱法師、儂だけの物になるのじゃ』
完全に己の欲望を遂げられると確信していた。
そこで褥の周りを囲んでいた蛇体を一旦解き、更に命じた。
『結界の外に出て儂の元へ参れ! 』
これは驚くべき要求であった。
思念だけで対象を支配下に置く事が出来るなら、最初から一言そう命じれば良かっただけの事。
何故そうしなかったのか。
それは淫欲が異常な程強かったからだ。
我が物にするという究極の目的を忘れ、存分に辱しめてからという穢れた妄執が勝ってしまったのだろう。
合理的な信長から見れば、凡そ何をしたいのか全く理解出来ず実に下劣で歪んだ心の有り様であった。
果心を喜ばせる為だけに取らされた体位から、乱法師は打ち拉がれ俯いた儘立ち上がる。
『良い子じゃ、早く儂の腕の中に参るが良い』
腕なんか無いだろう、と反論さえ出来ずに一歩前に踏み出し顔を上げた。
「………こが………注連より……神のまどころ御ござどころォ注連より外へなるなればぁ……」
途端に唇が微かに震え、ぶつぶつと突然呪文を唱え始めた。
その顔を見た瞬間、果心は後退った。
黒目が消え、完全に白目になっていたからだ。
「ぬしだんだんぬしぃ~防ぎ給へや小みこたち、防がせ給へや小みこたちぃ~」
注連縄で囲まれていた結界は四方に立てた棒が内側に傾ぎ、目に見えて圧されていた。
ところが乱法師が呪文を唱え始めると、徐々に外側に押し返し始めたのだ。
『ぐあーあいつか!ぬお、良い所で邪魔をしおってえ! 』
慌てた果心は蛇体をうねらせ、再び褥の周りを囲もうとする。
だが結界は先程とは打って変わり、瞬く間に強固な盾へと変化していく。
周囲を再び囲んだは良いが、蛇体で締め付けようにも岩のような固さでびくともしない。
『ぐっそおぐそおーおのれぇ』
これから食べようとしていた御馳走を寸出で取り上げられ、怒り狂い罵倒する。
足があれば地団駄も踏んでいた事だろう。
『こんな結界が儂に効くかあーー出て来ぬなら引き摺り出してくれるわ!ぐぐ』
巨大な鎌首を擡げ、透明な壁をぶち破ろうと思い切り前に突き出した。
『がっっぐあ! 』
その途端、いきなり火花がばちばちと爆ぜた。
感電したような衝撃を受け、果心が仰け反る。
乱法師は相変わらず素っ裸で白目を剥いた儘、まだぶつぶつと呪文を唱えていた。
微かに焦げ臭い匂いが部屋に漂う。
『うオォのぉれえええ』
怒髪天衝くばかりの怒り様だが、先程の火花で鼻先をほんの少し火傷した程度である。
人を傷付ける事は何とも思わない癖に、自尊心が強い為、己が傷付けられると子供のような過剰反応を示すのだ。
乱法師は六助に使役され意思を無くした状態で、この部屋に他に誰もいないのが残念なのは、今の果心はどうやら実体であるという点だ。
実体ならば、常人でも現の武器で戦う事が可能で明確に倒したという実感を得やすい。
倒せると思えば、より強い力を発揮出来る。
勿論、相手は妖魔である。
人間でさえ肉体が滅びても霊魂となる場合があるのだから、果心の魂がしつこく祟り続ける可能性は十分あるのだが。
凄まじい怒りの形相から、いきなり果心はにたりと不気味に笑った。
怒っても笑っても、つくづく凶悪な面相である。
大きな赤い口をかっと開けると、そこから何か液体のような物を吹き出した。
ジューージューー
鼻を摘まみたくなる異臭が部屋中に充満する。
液体は結界を造り出す十二のひなごの御幣と注連縄に掛かると、何とそれを溶かし始めた。
鉄をも溶かす猛毒。
『此処までじゃ。手に入れるのに手間が掛かった方が寧ろ愛しさも増すがのう。とうとう、そなたの心も身体も我が物に出来る。くくく、信長の悔しがる顔が目に浮かぶようじゃ』
果心の目が淫らに細められた。
結界が破られれば、乱法師は当に丸裸の丸腰状態となってしまう。
紙製のひなごは千切れ、その残骸が縄に辛うじて引っ掛かっているだけで、縄も徐々に撓《たわ》み始め、とうとうぶつりと切れて床に落ちた。
果心は勝利を確信し、乱法師を絡め取ろうと近付いた。
──
「おおごとや。結界が破られちまう!こうなったら、あの手しかねえ」
京の粟田口近くの小屋にいる六助である。
ウキキキッキキキ
何処まで人間の言葉が分かっているかは不明だが、子猿の藤吉郎が相槌を打った。
乱法師と名が書き込まれた御幣が、串の先で怯えたようにぶるぶる震えている。
法の枕という丸桶に米を入れた物が、いざなぎ流の祭壇としての役割を果たし、召喚する神々の御幣をそこに立てるのである。
六助は、十、九、七、六、五、三と順番に細かく折り目を付けた御幣を乱法師の御幣に重ねた。
次に藁で出来た人形に一緒に抱かせ、法の枕の上に置く。
そこには松の木も植えられていた。
六助は人差し指と中指で刀印を作り、四足生霊の祟りに効果的な九字を切った。
「天、元、行、躰、神、変、神、通、力」
続けて、いざなぎ流の式王子を召喚する法文を唱える。
「降りてましませ神様よーーわんぜいましませ神様よーー」
──
果心は乱法師の身体に蛇体を巻き付けた。
無抵抗の乱法師はだらりと力無く意識を失っているようだったが、果心はそんな彼の身体や顔を執拗に舐め回す。
床に寝かせ上から伸し掛かり、異様な形状に膨れ上がった男根を乱法師に押し付ける。
『ああ、漸く一つになれる……』
無理矢理押し込もうと力を入れた途端、乱法師の瞳が黒に戻り、黄金の光が放たれた。
『うおーー何じゃ! 』
凄まじい力で蛇体を押し退けようとする乱法師の全身に、赤、青、緑の極彩色の曼陀羅が浮かび上がっていた。
瞳孔は金に輝き獲物に狙いを定める獣のように収縮し、果心を射竦める。
虹彩は漆黒、曼陀羅模様は顔面にまで及び、天竺の邪神を彷彿とさせた。
体格見た目は乱法師の儘だが、形相は果心に匹敵する程凶暴に変化し、口から長い舌が垂れ下がり、敵を嘲笑うようにべろんと唇を舐め回す。
人間離れした膂力で果心を跳ね除けた。
縛めから逃れ、すっくと立つと刀印を作り、六助と同じように九字を切る。
「天《てん》・元《げん》・行《ぎょう》・躰《たい》・神《しん》・変《ぺん》・神《じん》・通《つう》・力《りき》」
それが終わると今度は右手を下に向け人差し指で床を差した。
降魔印《ごうまいん》。
魔王が釈迦の修行を妨げようとした時、地面を指すと地の神が出現し、魔王を退けたと伝わる印相である。
誘惑や障害に負けない強い覚悟を表す印でもあった。
凶悪な魔を圧倒する立ち姿は、日本で馴染みある神像に例えるなら差し詰め阿修羅像といったところだろう。
「ううぅおのれ……何者じゃ!許さぬ。許さぬぞお」
対峙しただけで伝わる新手の強い力をひしひしと感じながら、自尊心が強い果心は牙を剥いて威嚇した。
「我に名は無い。故に誰にも支配されぬ。何人も我を倒す事は叶わぬ。名乗るとすれば三千式の王じゃ。招かれ一旦松の木に降り、この少年の身体を依代にしている王じゃ。退け!邪なる者よ! 」
彼の口を借りて発せられた声は、男とも女とも童とも付かぬ不思議な音程であった。
「名無しじゃと?その身体は儂の物じゃ!くくく……儂は神じゃ!神の力を味方に付ける者じゃ。如何に強い式神を放とうとも簡単に倒せると思うな。退くのは貴様の方じゃ!喰らえ! 」
シャーーーー
鎌首を振り上げ、勢い良く猛毒を吐き掛ける。
いくら神が降りていようとも、身体は乱法師なのだから、まともに食らえば只では済まないが、果心にそんな事を気にしている余裕は無かった。
乱法師の両腕が上がり旋回すると、空間に美しい曼陀羅が浮かび上がり盾となる。
右爪先を左足の膝に掛け、祈るように両手を合わせ何事かを呟くと宙高くに舞い上がった。
当に阿修羅の如く手首を外側に曲げ、右足を高く上げた異国の踊り子を思わせる格好で独楽のように旋回し始める。
その儘の形で高速回転しながら、蛇体に勢い良く突っ込んだ。
「ごごっおうぐげーー」
独楽形の凶器と化した乱法師に吹き飛ばされ、壁に激突し悲鳴を上げる。
強い、敵わぬ、分が悪いと怖気付く。
しかし、もう少しというところだったのにという悔しさから、往生際悪く尚も赤い喉奥まで見えるぐらい口を広げ敵対心を剥き出しにする。
それが良く無かった。
くるくると回りながら地上に降り立った乱法師こと式王子の目が閃光の輝きを放ち、全身が炎に包まれたように燃え上がった。
再び飛び上がり背面にくるりと回転すると、恐怖して背を向けた果心の身体に、高所から強烈な踵落としをお見舞いした。
「ぎぎぃやああひーー」
流石に果心は尻尾を巻いて逃げ出した。
やはり実体である事を物語るように襖を開け、宙に浮かび飛んで逃げたのだった。
───
「良し!やった!お戻り下され王子様」
六助は深追いはせずに、招き降ろした式王子を呼び戻した。
仕留める事は叶わなかったが、一先ずは勝利と呼べるだろう。
だが、この戦いがこれだけでは終わらない事、追い詰めながら止めを刺す事が出来ない限界も六助には見えていた。
第一に式王子という強力な存在を、生身の人間に降ろすのは禁じ手であるという事。
側で守護出来ない現状では仕方無かったのだが、長く乱法師を依代とすれば身体が壊れてしまう危険性があった為、直ぐに式王子を呼び戻したのだ。
この方法は二度と使うつもりは無い。
六助は果心を見事退散させながらも憂鬱な面持ちで溜息を吐いた。
太夫になる為に生まれてきたと言っても過言では無い程の霊力を持つ六助である。
攻撃する手は他にいくらでもある。
「けんども……けんども……」
これは一対一の勝負では無いのだ。
乱法師を人質に取られているようなものだから、端から不利なのである。
相手は正攻法では無く、常に卑怯な手しか使わない化け物である。
純朴な六助とは真逆な心の有り様なのだから、次の一手を読む事も難しい。
何よりも乱法師の心を操る程の『繋がり』を断ち切る方法が全く思い付かなかった。
「それが出来んと、乱法師様は……」
膝の上で握り締められた拳の上に涙の雫がぽとぽとと落ちた。
──
乱法師が目覚めたのは翌々日であった。
只一人三郎が側にいるばかりで静かな朝に思えた。
彼が目覚めると三郎は別の家臣に直ぐに何事かを耳打ちし、邸内が突如慌ただしくなった。
「儂は? 」
問いながら、安土に来てから似たような朝を何度も迎えていると思った。
昨日までの記憶が朧で身体が重く、時間が経つごとに少しずつ記憶が甦るのは毎度の事だ。
「果心が来たのは夢では無いのか? 」
「申し訳ございませぬ。何も気付かず。誰も何も出来ず。何が起こったのか。ただ御寝所で倒れておられる御姿を目にした時、息が止まるかと。御無事で良かった!本当に良かった」
三郎は手を握り涙ぐんだ。
結局、不寝番をしていた家臣も術でも掛けられたのか眠りこけ、乱法師は依代となり意思を無くし、何が起こったかを詳しく知る者は誰一人いなかった。
「六助が安土に本日中には着くそうでございます。それと──」
「六助が? 」
乱法師の顔がぱっと明るくなる。
「それよりも、直ぐに朝餉を用意させましょう」
やけに唐突で急いているように思えたが、二日も寝っぱなしだったのだ。
言われてみれば腹が空いていた。
大根の白味噌汁に湯漬け、煮豆腐等。
胃に優しく喉越し良い物ばかりが運ばれた。
食事をしながら、いつ発見したのか、部屋の状況がどのようであったかを聞き噎せそうになる。
家臣達は部屋の中央で丸裸で手を合わせ、足を妙な形で組んだ儘ひっくり返っている乱法師を見て最初──
「凄い寝相だと」
そう思ったらしいが、部屋の惨状を見て果心の襲来に気付き大騒ぎになったらしい。
「丸裸……」
そこは知らなくて良かったし、いっそ死ぬまで忘れていたかった。
「具合は如何がでございますか? 」
「うむ、身体は少し重いが特に問題無い。ははっっくしゅん! 」
言った傍からくしゃみが出た。
まだ夏とはいえ夜は冷えるし、素っ裸で朝まで失神していたのだから当たり前だった。
しかし鼻風邪だけで済んだのは奇跡である。
と、いう事を此処にいる者達は分かっていなかった。
「ただの鼻風邪であろう。大事無い」
「そろそろ身支度を整えられた方が宜しいかと。私も御手伝い致しまする」
「ん?うむ、ああ」
妙に急かす三郎の様子に戸惑う。
「では、これ!お富!乱法師様の御召し物を直ぐに御用意致せ!花を散らした一斤染《いっこんぞめ》(紅花で染めた薄紅色)と山葵色《わさびいろ》(薄い黄緑色)の段々模様の小袖が良い! 」
その上、身に付ける小袖まで勝手に決め侍女に申し付けたので唖然としてしまう。
「三郎、待て。何故じゃ。何があるのじゃ。一体! 」
侍女がぱたぱたと支度の為に走り去ると、堪らず詰め寄った。
「ああ、まだ申し上げておりませなんだか。上様が参られまする」
「何?此処にか?それを先に申せ! 」
聞くや否や立ち上り、庭の井戸に走り大急ぎで顔を洗い始めた。
───
「大変でございます。上様が上様が──」
信長が訪れる事自体が既に大変だが、更に来てしまった以上待たせる訳にもいかないし、待つ性分でも無かった。
「勝手に通るぞ!乱は起きているのじゃな。何処におる? 」
お馴染みのどたどたと荒々しい足音が近いと感じ焦った。
帯をやっと結び終えた所で、袴を身に付けている余裕は無い。
「良いか?開けるぞ! 」
応えの前に襖が開き、慌てて手を付き平伏する。
「もう起き上がっても良いのか? 」
「はっ!わざわざの御運び忝のう存じまする。真に腑甲斐無い有様にて、申し訳ございませぬ」
昨夜の事は途中までしか記憶が無いのが幸いしたが、目の前の現実に対して余程具合が悪くなりそうだった。
「二日も意識が戻らぬと聞き心配した」
顔を上げる事も出来ず恐縮する乱法師の肩に手を置き、温かい言葉を掛ける。
様々な事に無知で揺れ動き易い己と比べ、信長の心中は常に明解で、言葉は自信に満ち溢れ、何と真っ直ぐ心に届くのだろう。
その短い言葉に容易く心動かされ涙ぐんでしまう。
「二日も申し訳ございませぬ」
「謝らずとも良い。やはり名医の見立てが必要と思い、曲直瀬道三《まなせどうざん》を連れて来てやった」
「えっ! 」
驚いて顔を上げると、信長の隣に禿頭で年は七十頃、眉毛は黒々と太く理知的で瞳は穏やかだが、全身から活力を漲らせている老人が座っていた。
犬か猫でも連れて来たように気軽に扱う信長に言葉を失くす。
朝廷に出入りし帝の診察まで行う天下の名医なのだ。
「早速見て貰え! 」
「では先ず脈から。御免」
「あっっ」
呆然としている間に手首を取られよろめき、姫座りで脈を測られてしまう。
「ふむ。次は御胸の音を聞きたいので小袖の前を寛げて頂けますかな」
言われる儘に襟元を緩めると、温かく分厚い手がすっと潜り込み胸の上に直に置かれる。
「次は喉を。口を開けて大きく息を吸い込んで下され」
喉の後は両頬に手を当て、親指で下瞼を引き下げ粘膜まで見る。
「どうじゃ? 」
「大きな病の兆候は今のところ見られまへん」
名医の見立てに一同安堵の息を吐いた。
「しかし疲れておられる。顔色が蒼く唇の色も薄い。下瞼の裏側の色が少し白いのが気になりますなあ」
「色が白いとどうなのじゃ」
信長の眉間に皺が寄り真剣な面持ちで詰め寄る。
「血が少ない時に見られます。女性ならば珍しく無いんどすが男子の場合は、その要因を突き止める事が肝要でございますやろな」
「要因は何と考える? 」
又もや乱法師の庇護者は己だと言わんばかりに信長が問い質す。
「深い御悩みを抱えておられるのではございませぬか?良く寝付けていらっしゃらないようにお見受け致します。そうした状態が続くと食べた物が血肉に成り難いんどす。臓腑が弱り血が少なくなってしまう。先ず良くお休みになる事が肝要でございますが、それを妨げているのが心の病かと」
乱法師の肩に置いた信長の手に力が籠る。
「何を悩んでおる?申せ」
「その……」
この場で言えるぐらいなら悩まない、と信長以外の誰もが思った。
「ああ……上様。病というのは直ぐに良くなるものではありまへんので、血が増えるような物を良く食べる事。後は良う眠れる薬をお出し致します。弱った臓腑に効くものも。出来るだけ無理を成されぬよう心掛ければ、まだお若いんやからじきに回復されるでしょう」
「乱、ともかく今日は休め」
「いえ、見ての通りもう元気でございます。御気遣いは──」
「乱!!」
眉の微かな動きさえ皆が気遣う信長が大声を出したので、部屋中の空気が一瞬で張り詰め、乱法師の肩がびくっと跳ね上がる。
キキキッキキイー
子猿達も主につられて鳴き始める。
遠く離れた京で乱法師の危険を察知出来たのにはからくりがあった。
果心が口癖のように乱法師と繋がっていると言うように、六助もちょっとした繋がりを作っておいたのだ。
土佐物部村に伝わる不思議な祈祷呪術いざなぎ流。
呪詛返しや凶悪な霊と戦う裏の式法を持つ攻めの祈祷法である。
いざなぎ流を習得する為には神道で言うところの神主に当たる太夫に師事するのだが、六助は学んだ事を応用するのが得意だった。
結局それがいけなかったのかも知れない。
更なる高みを目指し、複数の太夫に師事したのを咎められ破門されてしまったのだ。
いざなぎ流においては師匠となる太夫は生涯只一人という決まりがあった。
それで京に逃げて来たという訳だ。
乱法師が都を発つ前、六助は彼に髪の毛を乞うた。
『人の毛髪、神あり、樹に掛け置くに諸鳥近付かず地中に腐らず』と云われ、特に呪術で用いるのに効果的とされていたからだ。
無論、乱法師を呪うのでは無く守る為である。
それは呪詛を守護に転換するという強引な苦肉の策であった。
陰陽道では式神、いざなぎ流では式王子と呼ばれる御幣に神を降ろし使役する方法は余りにも有名だ。
『いざとなったら儂の名を呼んで下せえ』
乱法師にはそう伝えてあった。
側にいれば結界を強化し、反撃する事も出来ただろうが、直ちに駆け付ける事が叶わない故に考えた策。
乱法師自身を式神に見立て使役する。
それでも撃退出来なければ、更なる一手も考えてある。
六助の前には一つの御幣が置かれていた。
目鼻口があり、人の形に見える。
どことなく乱法師に似て愛らしいばかりか、霊符のように『乱法師』と文字が書き込まれ、彼の髪の毛も張り付けてある。
六助は法文を唱え始めた。
「十や二人の小みこが降り遊ぶぅ。注連より内はぁ神のまどころ御ござどころォ注連より外へなるなればぁ寄りのだんぬしだんだんぬしぃ~防ぎ給へや小みこたち、防がせ給へや小みこたちぃ~」
──
「ああ……」
乱法師は膝を付いた状態で喘いだ。
極度の思念による支配に抵抗し続けた結果、体力を消耗し意識朦朧とし始めていた。
『ぐふっふ、早く儂の言う通りに致せ! 』
その儘、褥に突っ伏してしまいそうな程弱っていたが、冷酷な命令は尚も彼を追い詰める。
赤い口がにたりと笑うと耳まで割けて、益々醜悪で奇怪な形相となる。
のっぺりして照り光る肌が一層不気味で、割けた口から覗く上下の牙と牙の間に粘ついた唾液が糸を引き、だらだらと端から垂れているのが例えようも無く穢らわしかった。
「うう……」
何かを訴えようと唇を半開きにして這うような姿態は、本人の狙いではないが実に扇情的で悩ましい。
頬を床に押し付け膝を立て、のろのろと果心の要求に従う。
最早抵抗する気力も残っていない有様だった。
『ぐうぐふふぅ、美しい、何処もかしこも、くくく。儂の乱法師、儂だけの物になるのじゃ』
完全に己の欲望を遂げられると確信していた。
そこで褥の周りを囲んでいた蛇体を一旦解き、更に命じた。
『結界の外に出て儂の元へ参れ! 』
これは驚くべき要求であった。
思念だけで対象を支配下に置く事が出来るなら、最初から一言そう命じれば良かっただけの事。
何故そうしなかったのか。
それは淫欲が異常な程強かったからだ。
我が物にするという究極の目的を忘れ、存分に辱しめてからという穢れた妄執が勝ってしまったのだろう。
合理的な信長から見れば、凡そ何をしたいのか全く理解出来ず実に下劣で歪んだ心の有り様であった。
果心を喜ばせる為だけに取らされた体位から、乱法師は打ち拉がれ俯いた儘立ち上がる。
『良い子じゃ、早く儂の腕の中に参るが良い』
腕なんか無いだろう、と反論さえ出来ずに一歩前に踏み出し顔を上げた。
「………こが………注連より……神のまどころ御ござどころォ注連より外へなるなればぁ……」
途端に唇が微かに震え、ぶつぶつと突然呪文を唱え始めた。
その顔を見た瞬間、果心は後退った。
黒目が消え、完全に白目になっていたからだ。
「ぬしだんだんぬしぃ~防ぎ給へや小みこたち、防がせ給へや小みこたちぃ~」
注連縄で囲まれていた結界は四方に立てた棒が内側に傾ぎ、目に見えて圧されていた。
ところが乱法師が呪文を唱え始めると、徐々に外側に押し返し始めたのだ。
『ぐあーあいつか!ぬお、良い所で邪魔をしおってえ! 』
慌てた果心は蛇体をうねらせ、再び褥の周りを囲もうとする。
だが結界は先程とは打って変わり、瞬く間に強固な盾へと変化していく。
周囲を再び囲んだは良いが、蛇体で締め付けようにも岩のような固さでびくともしない。
『ぐっそおぐそおーおのれぇ』
これから食べようとしていた御馳走を寸出で取り上げられ、怒り狂い罵倒する。
足があれば地団駄も踏んでいた事だろう。
『こんな結界が儂に効くかあーー出て来ぬなら引き摺り出してくれるわ!ぐぐ』
巨大な鎌首を擡げ、透明な壁をぶち破ろうと思い切り前に突き出した。
『がっっぐあ! 』
その途端、いきなり火花がばちばちと爆ぜた。
感電したような衝撃を受け、果心が仰け反る。
乱法師は相変わらず素っ裸で白目を剥いた儘、まだぶつぶつと呪文を唱えていた。
微かに焦げ臭い匂いが部屋に漂う。
『うオォのぉれえええ』
怒髪天衝くばかりの怒り様だが、先程の火花で鼻先をほんの少し火傷した程度である。
人を傷付ける事は何とも思わない癖に、自尊心が強い為、己が傷付けられると子供のような過剰反応を示すのだ。
乱法師は六助に使役され意思を無くした状態で、この部屋に他に誰もいないのが残念なのは、今の果心はどうやら実体であるという点だ。
実体ならば、常人でも現の武器で戦う事が可能で明確に倒したという実感を得やすい。
倒せると思えば、より強い力を発揮出来る。
勿論、相手は妖魔である。
人間でさえ肉体が滅びても霊魂となる場合があるのだから、果心の魂がしつこく祟り続ける可能性は十分あるのだが。
凄まじい怒りの形相から、いきなり果心はにたりと不気味に笑った。
怒っても笑っても、つくづく凶悪な面相である。
大きな赤い口をかっと開けると、そこから何か液体のような物を吹き出した。
ジューージューー
鼻を摘まみたくなる異臭が部屋中に充満する。
液体は結界を造り出す十二のひなごの御幣と注連縄に掛かると、何とそれを溶かし始めた。
鉄をも溶かす猛毒。
『此処までじゃ。手に入れるのに手間が掛かった方が寧ろ愛しさも増すがのう。とうとう、そなたの心も身体も我が物に出来る。くくく、信長の悔しがる顔が目に浮かぶようじゃ』
果心の目が淫らに細められた。
結界が破られれば、乱法師は当に丸裸の丸腰状態となってしまう。
紙製のひなごは千切れ、その残骸が縄に辛うじて引っ掛かっているだけで、縄も徐々に撓《たわ》み始め、とうとうぶつりと切れて床に落ちた。
果心は勝利を確信し、乱法師を絡め取ろうと近付いた。
──
「おおごとや。結界が破られちまう!こうなったら、あの手しかねえ」
京の粟田口近くの小屋にいる六助である。
ウキキキッキキキ
何処まで人間の言葉が分かっているかは不明だが、子猿の藤吉郎が相槌を打った。
乱法師と名が書き込まれた御幣が、串の先で怯えたようにぶるぶる震えている。
法の枕という丸桶に米を入れた物が、いざなぎ流の祭壇としての役割を果たし、召喚する神々の御幣をそこに立てるのである。
六助は、十、九、七、六、五、三と順番に細かく折り目を付けた御幣を乱法師の御幣に重ねた。
次に藁で出来た人形に一緒に抱かせ、法の枕の上に置く。
そこには松の木も植えられていた。
六助は人差し指と中指で刀印を作り、四足生霊の祟りに効果的な九字を切った。
「天、元、行、躰、神、変、神、通、力」
続けて、いざなぎ流の式王子を召喚する法文を唱える。
「降りてましませ神様よーーわんぜいましませ神様よーー」
──
果心は乱法師の身体に蛇体を巻き付けた。
無抵抗の乱法師はだらりと力無く意識を失っているようだったが、果心はそんな彼の身体や顔を執拗に舐め回す。
床に寝かせ上から伸し掛かり、異様な形状に膨れ上がった男根を乱法師に押し付ける。
『ああ、漸く一つになれる……』
無理矢理押し込もうと力を入れた途端、乱法師の瞳が黒に戻り、黄金の光が放たれた。
『うおーー何じゃ! 』
凄まじい力で蛇体を押し退けようとする乱法師の全身に、赤、青、緑の極彩色の曼陀羅が浮かび上がっていた。
瞳孔は金に輝き獲物に狙いを定める獣のように収縮し、果心を射竦める。
虹彩は漆黒、曼陀羅模様は顔面にまで及び、天竺の邪神を彷彿とさせた。
体格見た目は乱法師の儘だが、形相は果心に匹敵する程凶暴に変化し、口から長い舌が垂れ下がり、敵を嘲笑うようにべろんと唇を舐め回す。
人間離れした膂力で果心を跳ね除けた。
縛めから逃れ、すっくと立つと刀印を作り、六助と同じように九字を切る。
「天《てん》・元《げん》・行《ぎょう》・躰《たい》・神《しん》・変《ぺん》・神《じん》・通《つう》・力《りき》」
それが終わると今度は右手を下に向け人差し指で床を差した。
降魔印《ごうまいん》。
魔王が釈迦の修行を妨げようとした時、地面を指すと地の神が出現し、魔王を退けたと伝わる印相である。
誘惑や障害に負けない強い覚悟を表す印でもあった。
凶悪な魔を圧倒する立ち姿は、日本で馴染みある神像に例えるなら差し詰め阿修羅像といったところだろう。
「ううぅおのれ……何者じゃ!許さぬ。許さぬぞお」
対峙しただけで伝わる新手の強い力をひしひしと感じながら、自尊心が強い果心は牙を剥いて威嚇した。
「我に名は無い。故に誰にも支配されぬ。何人も我を倒す事は叶わぬ。名乗るとすれば三千式の王じゃ。招かれ一旦松の木に降り、この少年の身体を依代にしている王じゃ。退け!邪なる者よ! 」
彼の口を借りて発せられた声は、男とも女とも童とも付かぬ不思議な音程であった。
「名無しじゃと?その身体は儂の物じゃ!くくく……儂は神じゃ!神の力を味方に付ける者じゃ。如何に強い式神を放とうとも簡単に倒せると思うな。退くのは貴様の方じゃ!喰らえ! 」
シャーーーー
鎌首を振り上げ、勢い良く猛毒を吐き掛ける。
いくら神が降りていようとも、身体は乱法師なのだから、まともに食らえば只では済まないが、果心にそんな事を気にしている余裕は無かった。
乱法師の両腕が上がり旋回すると、空間に美しい曼陀羅が浮かび上がり盾となる。
右爪先を左足の膝に掛け、祈るように両手を合わせ何事かを呟くと宙高くに舞い上がった。
当に阿修羅の如く手首を外側に曲げ、右足を高く上げた異国の踊り子を思わせる格好で独楽のように旋回し始める。
その儘の形で高速回転しながら、蛇体に勢い良く突っ込んだ。
「ごごっおうぐげーー」
独楽形の凶器と化した乱法師に吹き飛ばされ、壁に激突し悲鳴を上げる。
強い、敵わぬ、分が悪いと怖気付く。
しかし、もう少しというところだったのにという悔しさから、往生際悪く尚も赤い喉奥まで見えるぐらい口を広げ敵対心を剥き出しにする。
それが良く無かった。
くるくると回りながら地上に降り立った乱法師こと式王子の目が閃光の輝きを放ち、全身が炎に包まれたように燃え上がった。
再び飛び上がり背面にくるりと回転すると、恐怖して背を向けた果心の身体に、高所から強烈な踵落としをお見舞いした。
「ぎぎぃやああひーー」
流石に果心は尻尾を巻いて逃げ出した。
やはり実体である事を物語るように襖を開け、宙に浮かび飛んで逃げたのだった。
───
「良し!やった!お戻り下され王子様」
六助は深追いはせずに、招き降ろした式王子を呼び戻した。
仕留める事は叶わなかったが、一先ずは勝利と呼べるだろう。
だが、この戦いがこれだけでは終わらない事、追い詰めながら止めを刺す事が出来ない限界も六助には見えていた。
第一に式王子という強力な存在を、生身の人間に降ろすのは禁じ手であるという事。
側で守護出来ない現状では仕方無かったのだが、長く乱法師を依代とすれば身体が壊れてしまう危険性があった為、直ぐに式王子を呼び戻したのだ。
この方法は二度と使うつもりは無い。
六助は果心を見事退散させながらも憂鬱な面持ちで溜息を吐いた。
太夫になる為に生まれてきたと言っても過言では無い程の霊力を持つ六助である。
攻撃する手は他にいくらでもある。
「けんども……けんども……」
これは一対一の勝負では無いのだ。
乱法師を人質に取られているようなものだから、端から不利なのである。
相手は正攻法では無く、常に卑怯な手しか使わない化け物である。
純朴な六助とは真逆な心の有り様なのだから、次の一手を読む事も難しい。
何よりも乱法師の心を操る程の『繋がり』を断ち切る方法が全く思い付かなかった。
「それが出来んと、乱法師様は……」
膝の上で握り締められた拳の上に涙の雫がぽとぽとと落ちた。
──
乱法師が目覚めたのは翌々日であった。
只一人三郎が側にいるばかりで静かな朝に思えた。
彼が目覚めると三郎は別の家臣に直ぐに何事かを耳打ちし、邸内が突如慌ただしくなった。
「儂は? 」
問いながら、安土に来てから似たような朝を何度も迎えていると思った。
昨日までの記憶が朧で身体が重く、時間が経つごとに少しずつ記憶が甦るのは毎度の事だ。
「果心が来たのは夢では無いのか? 」
「申し訳ございませぬ。何も気付かず。誰も何も出来ず。何が起こったのか。ただ御寝所で倒れておられる御姿を目にした時、息が止まるかと。御無事で良かった!本当に良かった」
三郎は手を握り涙ぐんだ。
結局、不寝番をしていた家臣も術でも掛けられたのか眠りこけ、乱法師は依代となり意思を無くし、何が起こったかを詳しく知る者は誰一人いなかった。
「六助が安土に本日中には着くそうでございます。それと──」
「六助が? 」
乱法師の顔がぱっと明るくなる。
「それよりも、直ぐに朝餉を用意させましょう」
やけに唐突で急いているように思えたが、二日も寝っぱなしだったのだ。
言われてみれば腹が空いていた。
大根の白味噌汁に湯漬け、煮豆腐等。
胃に優しく喉越し良い物ばかりが運ばれた。
食事をしながら、いつ発見したのか、部屋の状況がどのようであったかを聞き噎せそうになる。
家臣達は部屋の中央で丸裸で手を合わせ、足を妙な形で組んだ儘ひっくり返っている乱法師を見て最初──
「凄い寝相だと」
そう思ったらしいが、部屋の惨状を見て果心の襲来に気付き大騒ぎになったらしい。
「丸裸……」
そこは知らなくて良かったし、いっそ死ぬまで忘れていたかった。
「具合は如何がでございますか? 」
「うむ、身体は少し重いが特に問題無い。ははっっくしゅん! 」
言った傍からくしゃみが出た。
まだ夏とはいえ夜は冷えるし、素っ裸で朝まで失神していたのだから当たり前だった。
しかし鼻風邪だけで済んだのは奇跡である。
と、いう事を此処にいる者達は分かっていなかった。
「ただの鼻風邪であろう。大事無い」
「そろそろ身支度を整えられた方が宜しいかと。私も御手伝い致しまする」
「ん?うむ、ああ」
妙に急かす三郎の様子に戸惑う。
「では、これ!お富!乱法師様の御召し物を直ぐに御用意致せ!花を散らした一斤染《いっこんぞめ》(紅花で染めた薄紅色)と山葵色《わさびいろ》(薄い黄緑色)の段々模様の小袖が良い! 」
その上、身に付ける小袖まで勝手に決め侍女に申し付けたので唖然としてしまう。
「三郎、待て。何故じゃ。何があるのじゃ。一体! 」
侍女がぱたぱたと支度の為に走り去ると、堪らず詰め寄った。
「ああ、まだ申し上げておりませなんだか。上様が参られまする」
「何?此処にか?それを先に申せ! 」
聞くや否や立ち上り、庭の井戸に走り大急ぎで顔を洗い始めた。
───
「大変でございます。上様が上様が──」
信長が訪れる事自体が既に大変だが、更に来てしまった以上待たせる訳にもいかないし、待つ性分でも無かった。
「勝手に通るぞ!乱は起きているのじゃな。何処におる? 」
お馴染みのどたどたと荒々しい足音が近いと感じ焦った。
帯をやっと結び終えた所で、袴を身に付けている余裕は無い。
「良いか?開けるぞ! 」
応えの前に襖が開き、慌てて手を付き平伏する。
「もう起き上がっても良いのか? 」
「はっ!わざわざの御運び忝のう存じまする。真に腑甲斐無い有様にて、申し訳ございませぬ」
昨夜の事は途中までしか記憶が無いのが幸いしたが、目の前の現実に対して余程具合が悪くなりそうだった。
「二日も意識が戻らぬと聞き心配した」
顔を上げる事も出来ず恐縮する乱法師の肩に手を置き、温かい言葉を掛ける。
様々な事に無知で揺れ動き易い己と比べ、信長の心中は常に明解で、言葉は自信に満ち溢れ、何と真っ直ぐ心に届くのだろう。
その短い言葉に容易く心動かされ涙ぐんでしまう。
「二日も申し訳ございませぬ」
「謝らずとも良い。やはり名医の見立てが必要と思い、曲直瀬道三《まなせどうざん》を連れて来てやった」
「えっ! 」
驚いて顔を上げると、信長の隣に禿頭で年は七十頃、眉毛は黒々と太く理知的で瞳は穏やかだが、全身から活力を漲らせている老人が座っていた。
犬か猫でも連れて来たように気軽に扱う信長に言葉を失くす。
朝廷に出入りし帝の診察まで行う天下の名医なのだ。
「早速見て貰え! 」
「では先ず脈から。御免」
「あっっ」
呆然としている間に手首を取られよろめき、姫座りで脈を測られてしまう。
「ふむ。次は御胸の音を聞きたいので小袖の前を寛げて頂けますかな」
言われる儘に襟元を緩めると、温かく分厚い手がすっと潜り込み胸の上に直に置かれる。
「次は喉を。口を開けて大きく息を吸い込んで下され」
喉の後は両頬に手を当て、親指で下瞼を引き下げ粘膜まで見る。
「どうじゃ? 」
「大きな病の兆候は今のところ見られまへん」
名医の見立てに一同安堵の息を吐いた。
「しかし疲れておられる。顔色が蒼く唇の色も薄い。下瞼の裏側の色が少し白いのが気になりますなあ」
「色が白いとどうなのじゃ」
信長の眉間に皺が寄り真剣な面持ちで詰め寄る。
「血が少ない時に見られます。女性ならば珍しく無いんどすが男子の場合は、その要因を突き止める事が肝要でございますやろな」
「要因は何と考える? 」
又もや乱法師の庇護者は己だと言わんばかりに信長が問い質す。
「深い御悩みを抱えておられるのではございませぬか?良く寝付けていらっしゃらないようにお見受け致します。そうした状態が続くと食べた物が血肉に成り難いんどす。臓腑が弱り血が少なくなってしまう。先ず良くお休みになる事が肝要でございますが、それを妨げているのが心の病かと」
乱法師の肩に置いた信長の手に力が籠る。
「何を悩んでおる?申せ」
「その……」
この場で言えるぐらいなら悩まない、と信長以外の誰もが思った。
「ああ……上様。病というのは直ぐに良くなるものではありまへんので、血が増えるような物を良く食べる事。後は良う眠れる薬をお出し致します。弱った臓腑に効くものも。出来るだけ無理を成されぬよう心掛ければ、まだお若いんやからじきに回復されるでしょう」
「乱、ともかく今日は休め」
「いえ、見ての通りもう元気でございます。御気遣いは──」
「乱!!」
眉の微かな動きさえ皆が気遣う信長が大声を出したので、部屋中の空気が一瞬で張り詰め、乱法師の肩がびくっと跳ね上がる。
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