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おどおどと彷徨う瞳が一瞬乱法師の瞳と重なった。
白い顔が華やかな小袖のせいで益々人形染みて美しいと感じた。
家柄と知性、愛すべき素直な人柄に忠誠心まで加わっているのだから当に鬼に金棒だ。
信長で無くとも好色な主なら、昼夜を問わず側から離さず可愛がるに違いない。
お乱を手懐けていれば。
二歳で家督を継ぎ、十代の頃から大和という激戦地で領土を守る為に戦ってきた順慶は、感情を面に出さないのには長けている。
どう答えるのが一番良いか。
「不届き者の果心の行方は勢力を上げて探させております、が、今のところ」
考えた結果かなり無難な答えを選んだ。
「貴様の所には逃げ込んでいないという事じゃな」
「無論でございます。もしそのような事があれば直ぐに引っ捕らえ連れて参りまする」
今までの和やかな雰囲気とはうって変わって、ぴりぴりと鋭い空気に顔が引き攣りそうになる。
「はて、付き合いが長いと聞いていたが──貴様ならば何故奴が大それた事を仕出かしたか存じておるのではないか? 」
その質問は至極当然のように思えるが、実は今更なのである。
都の騒動のすぐ後から果心の行方を探させており、順慶の元にも裏で手を差し向けていた。
「気が向いた時にやってくる旅芸人のように捉えておりました。興福寺の僧であったと聞き及び、私も城を追われて不遇の身であった時に出会いましたもので、多少の憐れは感じましたが、深い付き合いというのであれば、松永弾正殿の方が良く御存知ではないでしょうか? 」
実際上手い言い逃れであったし、事実でもあった。
順慶は自分でも不思議に思った。
いくら心が弱っていた若年の頃とはいえ、得体の知れぬ者を易々と城に招き入れていた事に今更気付いたのだ。
自身を納得させる理由としては、戦術として使えると考えたからだったと記憶しているが、蓋を開けてみれば家臣でさえ無く、戦で用いた事は皆無であった。
興福寺の元僧侶であったという事くらいしか知らず、特に調べてみようと考えた事も無い。
乱法師は順慶の言葉を聞いていて、やはり果心居士という人物を根本から洗い直す必要があると感じた。
「松永弾正久秀!あ奴も果心の事を古くから知っていたようじゃな。ふむ、松永の元に行く事も考えられる」
順慶は矛先を他に向けられて安堵した。
「それはそうと。摂津と先程申しておったが、貴様は松永の動きを探っておるのか」
「うっ……その、摂津は要所にて、弾正殿に限らず、様々な動きを知る為に、と申しましょうか。弾正殿の事だけを探っているのではなく、あくまでも……いえ、つまり、弾正殿は以前にも上様に……」
『それはそうと』の後に続く二度目の問いに、とうとう取り澄ました仮面は崩れた。
「まだ松永と啀み合うておるのか。貴様等が宿敵同士であったという過去を水に流す事は出来ぬのか」
出来ないからこそ讒言したり忍びまで使って探らせているのだ。
とは、口には出せなかった。
「松永の年を考えよ!最早隠居同然で、いつ彼の世に逝ってもおかしくない老人ではないか」
その老人に最前線の砦を守らせているのは上様ではないか、という言葉を呑み込む。
少しだけ松永が哀れに思えた。
死ぬまで牛馬のように働かせるつもりか、と。
「貴様は今や大和守護である。儂の期待を裏切るな。大和全体の事を考えるのじゃ」
「はっ! 」
「何しろ松永と違い、一度も儂を裏切った事が無いのじゃからな」
自分を心底信じている訳では無いのだと言外に感じた。
では何故、まだ青年の順慶を大和守護に任じたのか。
興福寺の力を始めとした、大和で強い地盤を持つ筒井家の支配力を見込んだからであろうか。
松永久秀の謀叛による失脚。
監視役に順慶程の適任者はいない。
宿敵同士を上手く競わせ天秤に掛け、己に対する不満から気を逸らさせる。
甘い蜜と苦い毒を交互に注ぎ込む。
脅されているのは松永だけでは無い。
余計な考えを起こせば直ぐに首をすげ替えてやるぞという事だ。
能力と忠誠を見せなければならない。
果心は信長を怨んでいると感じた。
やはり松永の元に向かうのでは無いか。
互いに惹き合う黒い魂。
嘗て、果心の力で松永を破滅させる事は出来ないかと思案した事がある。
それが別の形で成就しようとしているのかも知れない。
結局、表向き釘を刺されただけに留まり、格別な咎めは無く安土を後にした。
────
「先ずは、この書状をお読み下さいませ」
まだ陽光照り付ける、申の初刻(15時頃)を過ぎた辺りの事である。
通常業務を終え、乱法師は森邸に戻っていた。
先程まで庭で日課の武術の鍛練に勤しんでいたところだった。
休憩を兼ねて縁に腰掛ける。
実戦で欠かせない槍術を主に、敵を組伏せる格闘技、木刀で素振りもしたのですっかり汗だくで、水を頭から被った後、身体を拭いながら書状を手に取る。
開いて目を通すと、そこには驚くべき内容が書かれていた。
『果心居士なる僧侶は興福寺にいた形跡が無い。』
伴家の忍びからであった。
興福寺に長く在籍する僧侶等に聞いて見ても、果心という者の事は知らないという話しであった。
偽名を使っていたのか、それとも興福寺の僧侶であったという事自体が偽りなのか。
この国では極めて異質な容姿で町にも集落にも潜みようは無く、何処にいても目立つ筈なのに、それらしき者の尻尾すら掴め無かったという。
「ううむ」
文字を追うに連れて乱法師の顔は苦痛を堪えるような表情に変わり、口からは呻き声が洩れた。
横長の紙に書かれた文字は、まだまだ続いていた。
震える手で紙を手繰り先を読む。
結局果心居士という人物は見つからず、仕方無く興福寺でもう一度破門された者がいないかと聞いてみたらしい。
しかし破門された者は十年も遡れば相当数いた。
『破門された者の中に怪しい術を使う者がいたか』
そう訊ねてみたという。
『ああ、つまり下法の事やろ?仏法を疎かにして。破門されるやろな。儂は小僧の頃から此処にいるけど、そういう理由で破門されたのが確かいたなあ。名前は、うーん思い出せん。まだ若い僧だったなあ。顔?目の色?そんなん黒に決まっとるやろ。普通の地味な顔やったと思うけど』
乱法師の目の前が真っ暗になった。
「そんな……容姿が全然違うではないか」
「いえ、その者と同一人物とまでは今のところ判然と致しませぬが、取り敢えず名は判明したのでございます」
「名は何と申すのじゃ! 」
「覚信だそうでございます」
覚信《かくしん》と音で聞けば、果心という名前とやけに似ている。
「僧侶の名は似たような名が多い」
西日の方に顔を向け、乱法師は眩しげに目を細めながら呟いた。
中々正体を掴めない苛立ち。
六助という力強い味方を得て、一段優位に立てたと思ったのに。
「果心とは──」
三郎も何か言い掛けたが、苦渋の面持ちで口を噤む。
此の世に存在するのかしないのか、霧の中道に迷い、散々出口を探して何度も同じ所に戻って来てしまうような焦燥感。
何時になったら辿り着けるのか。
「六助は数日の間に此方に参るでしょう」
屏風を封印する為のみてぐらくくりという後始末を済ませてから来ると約束してくれた。
都での騒動以来、寝所には必ず注連縄を張り巡らし、いざなぎ流の魔を防ぐ結界、十二のひなごを掛けて休むようにしている。
防御といえば、それぐらいしか策は無く、女装も今は止めていた。
結界の確かな威力を目の当たりにしたものの、それだけではやはり心許なく、一刻も早く六助に来て欲しかった。
「そういえば桃の実とは何じゃ? 」
「は?桃、を御所望でございますか? 」
三郎の返答はかなりわざとらしかった。
「違う。狐狸妖怪の類いが忌み嫌う物が桃の実であると申していたでは無いか」
「さあ、そのような事を申しましたでしょうか」
「確かに申した。果心が女子を厭うている理由が何なのか。そのような話しをしていた時にじゃ。妖怪が嫌う物は桃の実に関連した何か、じゃと。」
大らか過ぎて鈍いところがあるが、三郎が言いにくそうにしている事は察した。
「儂が藁にも縋りたい心地でいるのは分かっておろう。結界は強い。しかし果心は夜しか襲って来ないとどうして言いきれる。それに果心を倒さぬ限り、ずっと結界の中で暮らさなければならぬのか? 」
「乱法師様……」
「それに儂は今、己の身さえ守りきれておらぬが、果心は上様の御命も狙っておる事を絶対に忘れてはならぬ。執念深い男故、決して諦めぬであろう」
「此方に戻られてから果心の気配は感じられますか?それと上様の御様子は? 」
この時の三郎の問いに、一瞬大事な何かが隠されているように感じたのは気のせいでは無かった。
「そういえば気配自体を感じない。上様はすこぶる御元気でおられる。安土の水が合っておられるのであろう」
「上様は何も護符を持っておられませぬ。都では積極的に上様の御命を狙ったのに何も仕掛けて来ない事が些か不思議でございます。屏風は六助の手で封印され浄められましたが、それぐらいで打つ手が無くなってしまう男でしょうか?それに──」
「それに? 」
楽観的な考えを打ち砕く三郎の言葉には説得力があった。
「安土では屏風を常に側に置き秘蔵されておられましたが、他の方々のように不調を訴えられる事なく御元気でおられました。ですが乱法師様は果心の声に悩まされ、湯殿や寝所ではあわや、という危険な目に合われておられます」
「上様は安土におられる方が御命を狙われにくいという事か」
「はっ!ただ、あくまでも推測でございます。私が申し上げたいのは、その点ではございませぬ。果心の性根は醜く歪んでおりまする。上様を弑し奉り乱法師様を我が物とする。逆に乱法師様を捕らえ支配し、上様を苦しめ害し奉る。そのどちらかが狙いではないでしょうか。ですから、また必ず乱法師様を狙ってくると思われるのです」
理由は分からぬが安土にいる時の信長は攻撃しづらい為、寵愛する乱法師を狙うのではと案じているのだ。
「弱点というか、多少の決まり事があるように思うのです。例えば夜しか襲わないといったような。裏を返せば昼には力を出せないという事になりまする」
三郎の意見は中々鋭いところを突いていたかもしれない。
「なる程、果心の弱点か。ふむ、ところで話しは戻るが、桃の実とは何なのじゃ? 」
「うっ……」
無邪気な瞳に見つめられ、今度こそ誤魔化せないと三郎は観念した。
──
夏も終わりに近い閏七月の下旬とはいえ、陽射しは暑く照り付け、酉の刻頃(17時頃)でも陽が落ちない。
三郎の言葉を少し気にしてか、明るいうちに湯浴みを済ませる事にした。
脱衣場で着物を脱ぎ洗い場に座ると、つい初めて襲われた時以来の癖で窓を最初に見上げてしまう。
空を茜色に染めゆく夕陽を目にするとほっとし、身体を糠袋で洗い始めた。
白くきめ細やかな若い肌が弾く水滴が、差し込む光を反射する。
湯船に浸かると心を支配するのは、やはり果心の事ばかりである。
湯浴みの時が以前は一番寛げたが、今や最も危険な時となってしまっている。
それで近頃は長湯を止めて、早々に上がるようにしていた。
「何故様々な形で現れるのであろう。思念だけの時もあれば式神を操る時もある。湯殿の時は唯一実体であった。いずれにせよ塒があるという事か。霊魂のような存在ならば六助の力に全てを委ねなければならないが、実体があるならば太刀で傷付ける事は出来るのか? 」
脱衣場で身体を拭いている時にも果心の事ばかり考え、ぶつぶつと呟きが洩れる。
白い顔が華やかな小袖のせいで益々人形染みて美しいと感じた。
家柄と知性、愛すべき素直な人柄に忠誠心まで加わっているのだから当に鬼に金棒だ。
信長で無くとも好色な主なら、昼夜を問わず側から離さず可愛がるに違いない。
お乱を手懐けていれば。
二歳で家督を継ぎ、十代の頃から大和という激戦地で領土を守る為に戦ってきた順慶は、感情を面に出さないのには長けている。
どう答えるのが一番良いか。
「不届き者の果心の行方は勢力を上げて探させております、が、今のところ」
考えた結果かなり無難な答えを選んだ。
「貴様の所には逃げ込んでいないという事じゃな」
「無論でございます。もしそのような事があれば直ぐに引っ捕らえ連れて参りまする」
今までの和やかな雰囲気とはうって変わって、ぴりぴりと鋭い空気に顔が引き攣りそうになる。
「はて、付き合いが長いと聞いていたが──貴様ならば何故奴が大それた事を仕出かしたか存じておるのではないか? 」
その質問は至極当然のように思えるが、実は今更なのである。
都の騒動のすぐ後から果心の行方を探させており、順慶の元にも裏で手を差し向けていた。
「気が向いた時にやってくる旅芸人のように捉えておりました。興福寺の僧であったと聞き及び、私も城を追われて不遇の身であった時に出会いましたもので、多少の憐れは感じましたが、深い付き合いというのであれば、松永弾正殿の方が良く御存知ではないでしょうか? 」
実際上手い言い逃れであったし、事実でもあった。
順慶は自分でも不思議に思った。
いくら心が弱っていた若年の頃とはいえ、得体の知れぬ者を易々と城に招き入れていた事に今更気付いたのだ。
自身を納得させる理由としては、戦術として使えると考えたからだったと記憶しているが、蓋を開けてみれば家臣でさえ無く、戦で用いた事は皆無であった。
興福寺の元僧侶であったという事くらいしか知らず、特に調べてみようと考えた事も無い。
乱法師は順慶の言葉を聞いていて、やはり果心居士という人物を根本から洗い直す必要があると感じた。
「松永弾正久秀!あ奴も果心の事を古くから知っていたようじゃな。ふむ、松永の元に行く事も考えられる」
順慶は矛先を他に向けられて安堵した。
「それはそうと。摂津と先程申しておったが、貴様は松永の動きを探っておるのか」
「うっ……その、摂津は要所にて、弾正殿に限らず、様々な動きを知る為に、と申しましょうか。弾正殿の事だけを探っているのではなく、あくまでも……いえ、つまり、弾正殿は以前にも上様に……」
『それはそうと』の後に続く二度目の問いに、とうとう取り澄ました仮面は崩れた。
「まだ松永と啀み合うておるのか。貴様等が宿敵同士であったという過去を水に流す事は出来ぬのか」
出来ないからこそ讒言したり忍びまで使って探らせているのだ。
とは、口には出せなかった。
「松永の年を考えよ!最早隠居同然で、いつ彼の世に逝ってもおかしくない老人ではないか」
その老人に最前線の砦を守らせているのは上様ではないか、という言葉を呑み込む。
少しだけ松永が哀れに思えた。
死ぬまで牛馬のように働かせるつもりか、と。
「貴様は今や大和守護である。儂の期待を裏切るな。大和全体の事を考えるのじゃ」
「はっ! 」
「何しろ松永と違い、一度も儂を裏切った事が無いのじゃからな」
自分を心底信じている訳では無いのだと言外に感じた。
では何故、まだ青年の順慶を大和守護に任じたのか。
興福寺の力を始めとした、大和で強い地盤を持つ筒井家の支配力を見込んだからであろうか。
松永久秀の謀叛による失脚。
監視役に順慶程の適任者はいない。
宿敵同士を上手く競わせ天秤に掛け、己に対する不満から気を逸らさせる。
甘い蜜と苦い毒を交互に注ぎ込む。
脅されているのは松永だけでは無い。
余計な考えを起こせば直ぐに首をすげ替えてやるぞという事だ。
能力と忠誠を見せなければならない。
果心は信長を怨んでいると感じた。
やはり松永の元に向かうのでは無いか。
互いに惹き合う黒い魂。
嘗て、果心の力で松永を破滅させる事は出来ないかと思案した事がある。
それが別の形で成就しようとしているのかも知れない。
結局、表向き釘を刺されただけに留まり、格別な咎めは無く安土を後にした。
────
「先ずは、この書状をお読み下さいませ」
まだ陽光照り付ける、申の初刻(15時頃)を過ぎた辺りの事である。
通常業務を終え、乱法師は森邸に戻っていた。
先程まで庭で日課の武術の鍛練に勤しんでいたところだった。
休憩を兼ねて縁に腰掛ける。
実戦で欠かせない槍術を主に、敵を組伏せる格闘技、木刀で素振りもしたのですっかり汗だくで、水を頭から被った後、身体を拭いながら書状を手に取る。
開いて目を通すと、そこには驚くべき内容が書かれていた。
『果心居士なる僧侶は興福寺にいた形跡が無い。』
伴家の忍びからであった。
興福寺に長く在籍する僧侶等に聞いて見ても、果心という者の事は知らないという話しであった。
偽名を使っていたのか、それとも興福寺の僧侶であったという事自体が偽りなのか。
この国では極めて異質な容姿で町にも集落にも潜みようは無く、何処にいても目立つ筈なのに、それらしき者の尻尾すら掴め無かったという。
「ううむ」
文字を追うに連れて乱法師の顔は苦痛を堪えるような表情に変わり、口からは呻き声が洩れた。
横長の紙に書かれた文字は、まだまだ続いていた。
震える手で紙を手繰り先を読む。
結局果心居士という人物は見つからず、仕方無く興福寺でもう一度破門された者がいないかと聞いてみたらしい。
しかし破門された者は十年も遡れば相当数いた。
『破門された者の中に怪しい術を使う者がいたか』
そう訊ねてみたという。
『ああ、つまり下法の事やろ?仏法を疎かにして。破門されるやろな。儂は小僧の頃から此処にいるけど、そういう理由で破門されたのが確かいたなあ。名前は、うーん思い出せん。まだ若い僧だったなあ。顔?目の色?そんなん黒に決まっとるやろ。普通の地味な顔やったと思うけど』
乱法師の目の前が真っ暗になった。
「そんな……容姿が全然違うではないか」
「いえ、その者と同一人物とまでは今のところ判然と致しませぬが、取り敢えず名は判明したのでございます」
「名は何と申すのじゃ! 」
「覚信だそうでございます」
覚信《かくしん》と音で聞けば、果心という名前とやけに似ている。
「僧侶の名は似たような名が多い」
西日の方に顔を向け、乱法師は眩しげに目を細めながら呟いた。
中々正体を掴めない苛立ち。
六助という力強い味方を得て、一段優位に立てたと思ったのに。
「果心とは──」
三郎も何か言い掛けたが、苦渋の面持ちで口を噤む。
此の世に存在するのかしないのか、霧の中道に迷い、散々出口を探して何度も同じ所に戻って来てしまうような焦燥感。
何時になったら辿り着けるのか。
「六助は数日の間に此方に参るでしょう」
屏風を封印する為のみてぐらくくりという後始末を済ませてから来ると約束してくれた。
都での騒動以来、寝所には必ず注連縄を張り巡らし、いざなぎ流の魔を防ぐ結界、十二のひなごを掛けて休むようにしている。
防御といえば、それぐらいしか策は無く、女装も今は止めていた。
結界の確かな威力を目の当たりにしたものの、それだけではやはり心許なく、一刻も早く六助に来て欲しかった。
「そういえば桃の実とは何じゃ? 」
「は?桃、を御所望でございますか? 」
三郎の返答はかなりわざとらしかった。
「違う。狐狸妖怪の類いが忌み嫌う物が桃の実であると申していたでは無いか」
「さあ、そのような事を申しましたでしょうか」
「確かに申した。果心が女子を厭うている理由が何なのか。そのような話しをしていた時にじゃ。妖怪が嫌う物は桃の実に関連した何か、じゃと。」
大らか過ぎて鈍いところがあるが、三郎が言いにくそうにしている事は察した。
「儂が藁にも縋りたい心地でいるのは分かっておろう。結界は強い。しかし果心は夜しか襲って来ないとどうして言いきれる。それに果心を倒さぬ限り、ずっと結界の中で暮らさなければならぬのか? 」
「乱法師様……」
「それに儂は今、己の身さえ守りきれておらぬが、果心は上様の御命も狙っておる事を絶対に忘れてはならぬ。執念深い男故、決して諦めぬであろう」
「此方に戻られてから果心の気配は感じられますか?それと上様の御様子は? 」
この時の三郎の問いに、一瞬大事な何かが隠されているように感じたのは気のせいでは無かった。
「そういえば気配自体を感じない。上様はすこぶる御元気でおられる。安土の水が合っておられるのであろう」
「上様は何も護符を持っておられませぬ。都では積極的に上様の御命を狙ったのに何も仕掛けて来ない事が些か不思議でございます。屏風は六助の手で封印され浄められましたが、それぐらいで打つ手が無くなってしまう男でしょうか?それに──」
「それに? 」
楽観的な考えを打ち砕く三郎の言葉には説得力があった。
「安土では屏風を常に側に置き秘蔵されておられましたが、他の方々のように不調を訴えられる事なく御元気でおられました。ですが乱法師様は果心の声に悩まされ、湯殿や寝所ではあわや、という危険な目に合われておられます」
「上様は安土におられる方が御命を狙われにくいという事か」
「はっ!ただ、あくまでも推測でございます。私が申し上げたいのは、その点ではございませぬ。果心の性根は醜く歪んでおりまする。上様を弑し奉り乱法師様を我が物とする。逆に乱法師様を捕らえ支配し、上様を苦しめ害し奉る。そのどちらかが狙いではないでしょうか。ですから、また必ず乱法師様を狙ってくると思われるのです」
理由は分からぬが安土にいる時の信長は攻撃しづらい為、寵愛する乱法師を狙うのではと案じているのだ。
「弱点というか、多少の決まり事があるように思うのです。例えば夜しか襲わないといったような。裏を返せば昼には力を出せないという事になりまする」
三郎の意見は中々鋭いところを突いていたかもしれない。
「なる程、果心の弱点か。ふむ、ところで話しは戻るが、桃の実とは何なのじゃ? 」
「うっ……」
無邪気な瞳に見つめられ、今度こそ誤魔化せないと三郎は観念した。
──
夏も終わりに近い閏七月の下旬とはいえ、陽射しは暑く照り付け、酉の刻頃(17時頃)でも陽が落ちない。
三郎の言葉を少し気にしてか、明るいうちに湯浴みを済ませる事にした。
脱衣場で着物を脱ぎ洗い場に座ると、つい初めて襲われた時以来の癖で窓を最初に見上げてしまう。
空を茜色に染めゆく夕陽を目にするとほっとし、身体を糠袋で洗い始めた。
白くきめ細やかな若い肌が弾く水滴が、差し込む光を反射する。
湯船に浸かると心を支配するのは、やはり果心の事ばかりである。
湯浴みの時が以前は一番寛げたが、今や最も危険な時となってしまっている。
それで近頃は長湯を止めて、早々に上がるようにしていた。
「何故様々な形で現れるのであろう。思念だけの時もあれば式神を操る時もある。湯殿の時は唯一実体であった。いずれにせよ塒があるという事か。霊魂のような存在ならば六助の力に全てを委ねなければならないが、実体があるならば太刀で傷付ける事は出来るのか? 」
脱衣場で身体を拭いている時にも果心の事ばかり考え、ぶつぶつと呟きが洩れる。
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