森蘭丸外伝─果心居士

春野わか

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 兼和は大方の体力を消耗していた為、そこから先を語るのには気力を振り絞る必要があった。

「その者の村に伝わるという悪霊を祓う呪文を唱えると、一陣の風が起こりました。私の目には何も見えず……気付いたら終わっていたのでおじゃります。絵図の変化には気付きましたが悍ましい邪気は消え、その者が私を振り返り、こう申しました。終わりましたと──」

 部屋の中は静まり返っていた。

「その者の名は? 」

 暫くして信長が問うた。

「六助、と申す者におじゃりまする」

 名がはっきりと口にされると同時に乱法師の目が大きく見開かれた。

───

 直ちに六助が二条の邸に連れて来られた。
 乱法師は不安で胸が締め付けられた。

 何があったのか、化け物共が目の前から消え失せたのは六助の力に依るものなのか、早く知りたくて堪らなかった。

 六助は中庭の砂利に蓙を敷いた上に座らされていた。
 寝殿造りの御殿とも言える敷地の中央の建物の前の中庭である。

 裁かれる罪人の面持ちで内心怯えながらも、六助は小屋に置いてきた子猿達の事を案じていた。

 彼の周りには数名の下級侍が控えていたが、流石に縄までは打たれていない。
 建物の立派さに圧倒され、庭や邸の豪華な装飾にきょろきょろと首と目を動かしているうちに、小姓が信長の入室を告げた。

 砂利に立つ下級侍、縁側に控える少し格上の者達、皆が頭を下に擦り付けんばかりに平伏する。

 呆然と口を開けて見ている六助に、「頭を下げい!」と怒声が飛び慌てて頭を下げた。

 本来ならば家臣が審問し、それを信長に伝えて裁決を仰ぐところだが信長は回りくどい事を嫌う。

「貴様が六助か」

 威厳に満ちた声が天から降って来たように感じた。

「……」
 
 六助は答えなかった。
 こんなにも身分の高い人間に直に答えて良いのか躊躇ったからだ。

「直答を許す! 」

「へえ…」

 蚊が鳴くような声である。

 平伏した儘の六助は、信長の側に不安そうな顔で控えている乱法師に全く気付いていない。
 普通に考えれば六助に非は無く、寧ろ乱法師以上に称賛されるべき人物である。
 問題は信長が呪いや怨霊の類いを一切信じないという事だ。

「六助とやら、貴様の口から納得出来る答えを得られると思い此処に呼び出した。兼和から屏風の祈祷を依頼されたというのは真か? 」

 家臣任せにせず自ら全て質問するつもりでいる。

「へえ、何が何だか良う分かんねえけんど、兼和様が血相変えて屏風を持っていらした。それで祓うゆうか式神共を退治して屏風に戻したんや。邪気は弱まったけんど、まだその屏風は危ねえ。みてぐらくくりが済んでねえ」

「訳の分からん事を申すな!無礼者めが! 」

 長谷川秀一が信長の顔色を窺い、きつい口調で叱り付ける。

「待て!みてぐらくくりとは何じゃ! 」

「藁で作った輪に御幣を立てて花べらゆう紙の中に米を投げ入れて悪いもんが集まるように祈るんや。儂が見た時、屏風は真っ白で、悪いもんが全部外に出ちまってたぜよ」

 皆、狐に摘ままれたような顔をしている。

「つまり貴様は出た物を元に戻したという訳じゃな? 」

 意外な事に信長は顎髭を撫で納得したように言った。
 霊や呪いは信じないが、嘗て宣教師ルイス・フロイスが地球儀を献上し、それを見て地球が丸い事を理解した。

 理解する事と、ただ知る事とは違う。
 地球儀を生まれて初めて目にした戦国時代の人間が、異国の者の言葉を素直に受け入れるには、余程柔軟な理解力が求められるだろう。
 信長には岩のような信念があるが頭が固い訳では無く、合理的だが結論に辿り着くのに直感に依るところも大きかった。

 それに彼は己とは異なる考え方、生き方、身分の低い者の言葉にも良く耳を傾けた。

 神を信じない癖に宣教師達を丁重に持て成し、神について話す事さえ好んだ。
 信長は六助の言葉を直感で受け入れた。

「だが貴様は屏風から邪なる物が外に出ていくのを見てはいない。儂はこの屏風を安土でも側に置き度々眺めていたが何も感じず、日によって絵の趣きに違いがあると思う事はあったが、構図まで変わる事は無かった──屏風を六助に見せよ!」

 縁側に侍していた家臣が屏風の絵の側を六助の方に向けた。
 元より六助のした事なのだから驚く筈も無いし、本来の絵を彼はそもそも知らない。

 信長は不思議な心持ちになった。

 嘘は吐いていないと彼の鋭い直感が告げている。
 己の前に引き据えられ、直に問われているのに怯えていない。
 もし何らかの細工を屏風に施した贋作師であれば少しは動じるだろう。

「鬼や亡者の数や身体の向きが変わっておる。色も褪せ全く別物のようじゃ。それに関しては何と説明する! 」

 ほんの少し、六助の身体が震えたように乱法師には見えた。
 罪も無いのにこのような場所に座らされているのが哀れで仕方が無い。

 六助は相変わらず乱法師が其処にいる事に気付いていなかった。

「屏風には怨みが沢山籠ってましたあ。昨晩何で出てきちまったのかは儂にも分かんねえや。ただ都の人達に悪さしたらおおごとやき、村に伝わる呪詛返しの法文を唱えて屏風に戻す事にしたんです。みてぐらっゆうのに本来は集めるがやけんど、屏風を上様が大事にされちゅーきと兼和様の仰せで屏風に戻すように努力したんです。ただ、そっくりその儘戻すのは無理やった。やけんど完全に戻ったとしても、その屏風は側に置いてはいけねえ。その屏風は──」

「無礼者!上様に対して何という口の利きようじゃ!賤しい奴め! 」

 またもや長谷川秀一がしゃしゃり出て叱り飛ばした。

「申し訳、申し訳ござらん……」

 蓙に頭を擦り付ける六助の姿に乱法師の胸が痛んだ。
 成り行きを見守りながら一体いつ、どのような形で助け船を出すべきかと、膝の上で拳を握り締めるばかりの無力さが歯痒かった。

「貴様の申す事は筋が通っておる。ふん、邪な者共が何らかの理由で外に出たが、それを元に戻しただけ。なれど全てでは無い故、絵が変わってしまったと。確かに屏風の拵えは見覚えがあり、全く同じ物を用意し、異なる絵を描き貼り付け贋物を造るのは手間が掛り過ぎる」

 お咎めは無さそうだと乱法師が安堵し掛けた時、言葉が更に続いた。

「だが屏風に描かれた化け物が外に抜け出たなど、それよりも荒唐無稽な話しじゃ。そういえば、この屏風を儂に預けた男は幻術が得意であったな。兼和の目を眩まし、この屏風に術を仕掛け、何かを企んでおるのは貴様では無いのか?それとも誰かの差し金か! 」

 乱法師の顔がさっと青褪める。

「そんな、儂は──」

「上様、この者は一旦牢に入れ、きつく締め上げれば大それた企みを吐くやも知れませぬ」

「うむ。事がはっきりするまで野放しにする訳には行かぬ。引っ立てよ! 」

 無慈悲な命が乱法師の胸に突き刺さった。

 砂利に控えていた侍が、六助の両脇から腕を掴み無理矢理立たせようとする。
 これから何処に連れていかれ何をされるのかと瞳が不安気に彷徨う。

「お待ち下さい。どうかお待ち下さいませ──」

 腸が捩れんばかりの悲痛な叫びと共に、身体が勝手に動いた。
 乱法師は信長の前に飛び出すと、畳に額を擦り付ける。

「乱──」

「乱、乱法師様……」

 信長も六助も無論他の者達も、突然の展開に呆気に取られた。
 六助は今まで乱法師がいる事さえ気付いていなかったし、他の者達は信長の側に控える秘蔵の美しい花としてしか彼を認識していなかった。

 意外な人物の登場に一瞬息遣いさえ止み、場が静まり返る。
 勢い良く飛び出したものの、正直、何の策も無かった。

「何故、そなたが六助を庇う」

 張り詰めた糸が緩んだように、ゆったりと発せられた信長の声音には、少し好奇の色が混じっていた。

「その、些か私の知る者にございますれば……」

 問われてみれば、六助とは都で一回会って僅かに言葉を交わしただけ。
 彼の事を深く知る訳では無い。

 信長は首を傾げた。
 自身は若い頃、良く街に繰り出し悪い場所に出入りもしたが、乱法師は大名家の子弟らしく品行方正で、そうした悪さをするようには見えない。
 一体何処で知り合い、どういう関係なのか。
 と興味を持ったが、自分の身を投げ出してまで庇うのだから、まさか隠れた念者(男色の恋人)ではあるまいなと不愉快な考えが浮かぶが直ぐに打ち消す。

 そこで思い出した。
 一月以上も前の非番の日に、都で面白い猿曳の芸を見たと嬉しそうに語っていた事を。

「六助は前にそなたが話していた猿曳であろう」

 六助は益々気が動転していた。
 乱法師が六助を慕うように、六助も乱法師に惹かれていた。
 それは交わした言葉の数や過ごした時間では計れぬ純粋な思いであり、二人の出会いは邂逅と言えたのかも知れない。

「仰せの通りでございまする。六助は決して謀をするような者ではございませぬ。此度の事は六助の仕業などではございませぬ」

 縋るように訴える、今にも泣き出しそうな潤んだ黒い瞳は何処までも純情可憐で、男としての情を揺さぶりはしたが、説得力は殆んど無かった。

「何故そう思う?何か知っておるのか? 」

 とはいえ信長の表情は目に見えて和らいだ。
 
「そのっ!六助は、ただの猿曳でございます。小屋に子猿を沢山飼っていて、まるで子供のように可愛いがっております。猿に慕われているのです。悪い者では絶対にありませぬ! 」

「ああふふっふ──」

 苦し紛れの弁護に、長谷川秀一が堪らず笑い出した。

「お竹!慎め」

 見兼ねて万見が嗜める。

「くくっ失礼致しました。余りにも幼稚な──いや、お乱殿の可愛いらしさについ……」

 信長は少し困った顔で乱法師を見詰めた。
 長谷川とは別の意味で、つい口元が緩んでしまうのを引き締める。

「確かに。子猿に慕われている者が乱を欺ける程に大それた企みをしているとは思えぬ。だが、その純な心につけ込み、何者かに利用されているのではあるまいか?裏に操る者がいるのではと案じておるのじゃ」

「そっっそれは無えや。絶対に!儂は物部村から出てきて、兼和様の神社で働きながら、たまに都の辻で猿曳やっちゅー、ただの男でございます」

 慌てて六助が大声で弁明する。

「兼和、真か? 」

「はい、吉田神道の流派の末で土佐の物部村という山奥に、いざなぎ流なる信仰がございまして、破門され都に出て来たのを神社で世話しておりまする。ただの朴訥な男と私は見ておりましたが」

 保身第一の兼和だが、嘘を吐く場面では無いので己が巻き込まれない程度に弁護する。

「土佐の物部村か」

「上様、人は見た目だけでは判断出来ませぬ。物部村などという得体の知れぬ村、忍びの里やも知れず。まだ賊も捕まっていないのです。今のところ手掛かりはこの男のみ。賊が捕縛されるまでは牢に入れておくべきかと」

 そう勧める長谷川は、乱法師のせいで流れが変わった事に苛立っていたが、表向きは正論に聞こえた。

「ふうむ。それにしても何故、六助を此処まで庇うのじゃ。そなたにとっては一月程前に、偶々辻芸を見て少し言葉を交わしただけの相手であろう? 」

 信長は長谷川の言葉には答えず、ずっと気になっていた事を問い掛けた。
 今、この場面で六助を弁護すれば、立場が悪くなる事くらい分からない訳では無いだろうに、と。

「六助は善人であると確かにそう感じ──いえ!それよりも実は、実は……私は……六助に命を助けられたのでございます! 」

 嘘は吐いていない。
 十二のひなごの結界が、己と信長の命を救ってくれたのは確かだ。
 その後化け物共を退散させたのも六助の力である。

『そういえば、ひなごの御幣が無い。無くしてしまったのか』

 騒動のどさくさで無くしてしまったらしい。

「何と!命の恩人であれば、そなたが庇うのも無理は無い。」

 六助が隠れた念兄(男色の年上の恋人)という可能性を打ち消す明確な理由に、信長は内心満足し大きく頷く。

「ですが上様、お乱の命の恩人であっても、此度の屏風の件と邸に忍び込みましたる賊の件に深く関わっているのは本人とて認めているではありませぬか。家に返すのは今少しお待ちになられた方が」

 万見が冷静に進言する。

「うむ。乱、そなたの命の恩人であっても屏風の事は奇態である。それに賊の件とも関連があるなら六助が無関係とは言えまい」

「実は疑っている事があるのでございます。先程上様はこの屏風を預けた男は幻術が得意であったと仰せでした。つまりは果心の事でございましょう」

「果心は死んでおる」

「実は死んでいなかったとすれば如何でございましょうか? 」

「何じゃと?心の臓が止まっておった。大勢の者達が屍体を見たのじゃ。間違いは無い」

 荒木忠左衛門に斬られた屍体は仮御殿に運び込まれ、信長自ら検分している。

「はい、それが幻術に依るものではないかと考えておりまする。荒木殿は未だ行方知れず。実は荼毘に付された屍体は果心ではなく荒木殿のものであったのではないかと」

「それは!いくら何でも無茶苦茶な。屍体が無い以上確めようは無いし、そちは六助を庇いたい一心でそのような馬鹿馬鹿しい事を申すのであろう」

 刺を含んだ言葉は長谷川である。

「いや、果心が生きておるという確たる何かを見たのか? 」

「はい。昨夜、果心の声をはっきりと耳にしました。騒動の最中に上様を呪う言葉を耳にしたのでございます」

「それは──真ならば一大事」

 場が少しざわめいた。

「静まれ!死んだと見せ掛け荒木を殺したのならば大罪である。確かに奴なら、やり兼ねぬ。だが呪いや幻術如きで儂を倒そうなど笑止千万!昨夜は幻術と見抜けず動じて騒ぎとなったが、正体が分かれば恐るるに足りぬ」

 此処にいる殆んどの者達が、安土で果心の幻術の凄さを目の当たりにしている。
 良く良く考えれば、屏風は元々果心の持ち物であり、昨夜目にした化け物達が幻影と思えば信長でさえ納得してしまう。

 それに六助の見るからに純朴な顔と果心の不気味な異相を比べれば、どちらがやりそうな事か自ずと答えが導かれるというものだ。

「上様、六助は幻術を見事破ったのです。私が無駄な戦いを強いられている間に、恐らく上様に刃を向ける者が近付いていたのではないかと思うと真にぞっと致します。激しい風は六助が起こした術でございましょう。その風が全ての妖を吹き飛ばしてくれたのであろう?のう、六助」

 乱法師がここぞとばかりに六助に目を向けた。

「へ、へへえ」

 暫く存在を忘れられていた六助は、突然注目が集まり動じて生返事のようになってしまう。

 『少し内容が違うような』とは思ったのだが、細かい事を気にしている場合では無い。

「なる程、幻術使いの造りし品なれば不思議が起きても仕方ありまへんなあ。六助が術を破り、ひょっとして屏風は元の姿に戻っただけやろかと思ってしまいます。元々の絵こそが幻で、今目にしている物こそが真なのではと」

 兼和は常に旗色を窺う男だ。
 乱法師の意見に軍配が上がりそうと見るや、然り気無く六助の弁護に回る。
 兼和の言っている事は半ば当たっており、構図が変わったのは乱法師が太刀で鬼達を倒したせいでもあるが、全体的に色褪せたのは邪気が弱まったからである。

「この屏風は如何致しますか? 」

 万見が信長を窺う。
 家臣達が挙って手放す事を勧めても耳を貸さなかったくらいだ。
 益々面白いと好奇心が騒いで却って秘蔵する事になってしまったら、元の木阿弥である。

 信長は怪訝な顔で万見を見ると大声で言った。

「六助!貴様に任せる。良き方法で処分致せ」

 所謂不吉だからとか、皆が処分を望んでいるからという訳では無い。
 結局は自身でさえ騙されていた。
 そんな自戒の念もある。
 屏風が色褪せたと同時に興味も失せてしまったのだ。

 一晩預かるつもりが、偶々果心が死んだ為手に入ったのは僥倖と喜んだが、当にただ程高い物は無いという結末であった。
 そもそも禍禍しい地獄絵図に魅了されてしまったのは、信長の魂を引き摺り込もうとしていたからなのかも知れない。

「へへえ」

 どうやら自分の疑いは晴れたようだと六助はへたり込んだ。
 それにしても、呪術師である自分がいつの間にか幻術師にされてしまった成り行きには、少々合点がいかなかったのだが。

 乱法師は今度こそ六助の疑いが晴れたのだと胸を撫で下ろし顔を綻ばせた。
 無邪気な美しい笑顔を向けられ、六助は命を懸けて乱法師を守ろうと誓った。







































 


 




















 



 



 
 
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